ナイトメア
 序 悪夢の破壊者たち

 

 細い三日月の光を浴びて、銀色の鎖が煌きながら宙に踊った。
 意志があるもののように空中でしなり、シャラシャラと涼しげな音を響かせた鎖は、一瞬の間を置いて『それ』の首にからみついた。鎖の先端に通された銀の飾りが重石となって、『それ』の太すぎる首へ幾重にも巻きつく。鎖は糸とも見紛うか細いものだったが、『それ』は喉を仰け反らせてひどく耳障りな叫びを上げた。締め上げてくる力の強さ、あるいは巻きついた鎖の鋭利さに耐えかねたように。
「………この雑魚が」
 硝子を擦り合わせたような絶叫を裂いて、通りのいい声が凛と夜気を震わせた。
 その涼しげな声と共に、優美な影が音もなく『それ』の背後に降り立った。さして広くはない路地に風が吹き込み、闇に溶け込む黒い上着をバタバタ…とはためかせる。簡素な部屋着の上にそれを羽織っただけの姿で、現れた人物は艶やかに唇の端を持ち上げて見せた。
「たかが下級の『従騎士』階級風情が、よくもこのおれの貴重な睡眠時間を削ってくれたな? むしろわざとだな? わざとおれが泊まっている街の宿屋で騒ぎを起こしたんだな? 雑魚ごときがいい度胸してるじゃないか、え?」
 響きだけを聞けば何よりも美しい、教会で読み上げられる神父の祈りのような声だった。透明で清澄な音だが高くはなく、声の主が青年であることを教えてくれる。だが、込められている怒りと言っている内容は物騒なことこの上ない。『それ』は激しく頭を振りながら首をかきむしり、食い込んでくる鎖をどうにかして外そうと必死にもがいた。
 その様にゆったりと瞳を細めると、青年は鎖を握った右手をことさらゆっくり掲げて見せた。左目をまたぐように描かれた、刺青のようにも見える黒い刻印が淡く輝く。
「ここはお前らのいる世界じゃないんだよ。主も見つけられないで彷徨うはぐれ者はとっとと帰れ。………虚構の揺り籠、悪夢の生まれ出でる場所へ」
 宣告にも似た声が響いたのと、青年の右手が一息に振り抜かれたのは、ほぼ同時だった。
 たったそれだけの動作で、『それ』の首は体から切り離され、嘘のようにあっけなく宙を舞っていた。太い首を切断した鎖がのたうち、青年の腕の動きに合わせてその手元に戻ってくる。手のひらに収まるほどの短剣をパシリと受け止めて、青年の眼差しが足元に転がった首に注がれた。
 舗装された石畳の上に転がっているのは、胴色の兜を深くかぶり、瞼の目立たない双眸を大きく見張った人間の頭部だった。青年の優に二倍近くはある大きさの、兜と頭皮が一体になった異形の巨顔を、そのまま『人間』と呼ぶことが許されるならば。
 切断面は黒々とした暗がりを見せているだけで、そこから赤い鮮血が吹き上がることはなかった。それは体の部分も同様であり、やはり甲冑の部品と肌が一体化した巨人の体躯は、どこか戯画めいた滑稽さで狭い路地裏に立ち続けている。
 ひややかな瞳でそれを見遣ると、青年は瀟洒な銀の短剣を逆手に持ちかえた。『それ』はまだ死んだわけではない。頭部を完全に消滅させない限り、この世界から消えてなくなることはないのだ。
「じゃあな」
 そっけない声と共に青年が刃を振り下ろそうとした、まさにその瞬間のことだった。
 彫像のように立ち尽くしていた『それ』の体が震え、すさまじい勢いで細身の青年に掴みかかったのは。
 暴走にも似た動きは、最後の力を振り絞った『それ』の断末魔だったのだろう。頭部だけを見下ろし、武器である鎖を手元に引き寄せたままだった青年は、一見ひどく無防備に見えた。もし『それ』に知能があったならば、最期に青年の命を奪えたと確信したかもしれない。だが、それの異様に伸びた爪が青年に届くことはなかった。
 ドッと鈍い音が大気を震わせ、『それ』の厚い胸板から白銀の切っ先が突き抜けた。
「―――――油断大敵じゃねえの? らしくねえぜ」
「馬鹿じゃないのか。せめてお前にも見せ場をやろうという、おれの涙ぐましいヤサシサだろうが」
「はっ、よく言うぜ。『あの雑魚ぶっ殺す』とか言って、一人でとっとと宿を飛び出していったくせによ」
「お前の鈍足に合わせてたら夜が明ける。お前はおれの寝直す時間を奪うつもりか? ウダウダ言ってる暇があるならもっと機敏に動け、っていうかむしろ死ね」
 青年と軽口を叩きあいながら、まるで気配を感じさせずにその場に現れた男は、気軽にさえ見える動作で『それ』の体から刃を引き抜いた。血のかわりにそこから闇色の蒸気が吹き上がり、ただでさえ暗い夜闇を漆黒の色彩に染め上げる。ぐらりと傾いだ巨体を容赦なく蹴り倒すと、男は武人然とした広い肩をすくめた。
「っつうかお前が死ね、オレの平穏と世界平和のために」
「どっちもおれが嫌いなものだな、それも上位三位を争えるくらい」
 男の言葉に平然と返しつつ、青年は思い直したように短剣を下ろすと、おもむろにその細く長い足を振り上げた。そのまま、ごく自然な動作で靴裏を石畳に振り下ろす。ぐしゃりと嫌な音がして、転がっていた異形の頭部が踏み潰された。
 常人が見たら吐き気をもよおすような光景だったが、二人は眉一つ動かさなかった。
 青年の固い靴の下、踏みつけられたその輪郭がぐにゃりと歪み、端からほどけるようにして闇の中に溶け消え始めた。薄れていくそれは細かな泡というより、精密に記された漆黒の文字のように見える。やがて完全に『それ』が消滅してしまうと、青年はくすりと淡い微笑を浮かべ、短剣を模した銀の飾りに唇を寄せた。
「いつ見てもこいつらの消滅は清々しいな。人間みたいに血溜まりを作ったり、その辺に臓物を撒き散らして環境を汚染したりしないし」
「オレに同意を求めんなよ、この性格破綻者が」
 嫌そうに眉を寄せる男を無視し、青年は手にした極細の鎖を手繰り寄せ、端と端と合わせてくるくるとねじった。しなやかな鎖は簡単に寄り合わさり、何度か繰り返しただけで腕一本分ほどの長さになる。それに短剣の飾りを滑らせると、青年は端同士につけられていた金具を留め、優雅な仕草でそれを首にかけた。
 ほんの数秒の間に、強力で凶悪な武器だったはずの鎖は、短剣の細工をペンダント・トップにしたごく普通の装身具となった。
 それを横目で見遣って、男も手にしていた剣を背に負った鞘に収めた。充分すぎるほど長身である男が、そうやって担がなければならないほどの巨大な剣なのである。
 風が思い出したように吹きすぎ、二人の髪と服の裾を大きく乱した。男も青年と同様、寝るための部屋着に上着をひっかけただけの姿である。その上着が風に翻り、たくましい胸元にくっきりと刻まれた、刺青のような黒い刻印をあらわにした。
「さて、と」
 一つ伸びをすると、青年は片足を軸にして舞うように踵を返して、用はすんだとばかりに路地裏を歩き出した。
「とっとと宿に帰って寝直すか。………ったく、たかが『従騎士』階級ごときのせいで安眠妨害されたんだ、謝礼金はしっかりいただかないと割に合わないな」
「ま、オレたちにとっちゃ『従騎士』ごときだけどな、一般人にとったら充分怖えんだろうよ」
「一般人の基準なんかわからないな」
 歩く速度は緩めずに首だけで見返り、青年は唇の端で薄く笑った。
「おれたちは一般人じゃないんだから」
「まったくだ」
 男もそれに答えて小さく笑う。不遜なその表情を照らすように、細い三日月の光が冷たく落ちかかってきた。そのひんやりとした静寂の中で、青年の凛冽な声音が綺麗に紡がれていく。
 何よりも不敵な、鋭い微笑の気配を滲ませて。
「まあ、だからこそおれたちはこうして生きてられるんだけどな。面倒ごとも、その代価と思えば安いものと言えなくもない。なあ、相棒?」






    



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