ナイトメア
 第一話 天使は剣を抜いて 2


 

 『それ』は並列世界に住まう、人に近しくありながらどこまでも異質なモノだった。
 世界を律する何かによって作られた存在、虚構の眷族(きょこうのけんぞく)。そう呼び始めたのは人間だったのか、それとも『彼ら』自身が揶揄と誇りを持ってそう名乗り始めたのか。その答えは歴史には記されていなかったが、人が国を作り、いくつもの社会を作り始めた頃には、すでに虚構の眷族は人類の天敵にして最も親しき友であった。
「昨日の夜に出たのはただの『従騎士』だったけどな。さっきのあれは………多分、『騎士』階級くらいか? …………うっわ、主なしの騎士かよ、めんどくせー」
「面倒くさいのはおれも同じだ。っていうか、うざっ苦しく転がってないでとっとと起きろ。そして可及的速やかかつ迅速におれの視界から消えろ」
「いや、オレの心の平和のためにお前が消えろ………って、違うっつーのに。一々話をずらすんじゃねえよ、テメェは」
 嫌そうな声で呟き返し、壁沿いに置かれた寝台に行儀悪く寝そべっていたレギアは、腹筋の力だけで身軽に上体を起こした。紺碧の瞳が剣呑に細められるのにも構わず、リーシャは逆側の壁にぴったりとつけられた寝台に腰かけ、細い指先でセレナリオン銀貨をもてあそんでいる。
 鈍く輝く銀貨が全部で八枚。昨夜の騒ぎをおさめた謝礼金として、食事の後に人の良さそうな宿屋の主人が手渡してきたものだ。この辺りの相場から考えるとかなり額だったが、リーシャは満足したわけではないらしい。
「ったく、シケてんな。イオス金貨くらいぱっと出して見せろよ、仮にもいい年した男が」
「すっげー嘘くさい営業用の笑顔で、『私たちは当然のことをしたまでです、どうぞお気遣いなさらないで下さい』とかほざいてたヤツの台詞じゃねえよな」
 そうやって遠慮してみせながらも、ちゃっかりと全額受け取っているのがリーシャの手腕だ。うんざりと呟いた相棒に、守銭奴な上に性根の曲がった美青年は「当然だろ」と簡単にうそぶいた。
「無償の奉仕、なんてアホくさい台詞がまかり通る世の中か? そもそも、働きに見合っただけの報酬が支払われることによって成立している労働社会で、純粋な慈善活動なんかしてたら胡散臭いことこの上ない。あっという間に干上がって死体の出来上がりだ」
「…………なんでだろうな、リィと会話してると、うっかりこの世界ってウツクシイとか思い始められそうだ」
「勝手に思ってろ」
 レギアの方を見もせずに言い捨て、リーシャは手にしていた銀貨を指先で弾き、膝の上に広げた皮袋の中に放り込んだ。その口をきっちりと紐で縛って、上着の内側に突っ込んでしまうと、あとは相棒の存在など忘れたように胸元の短剣を磨きだす。
 レギアは広い肩をそっけなくすくめた。たいていの場合、二人の会話は先ほどのような悪口雑言の応酬へと発展し、すさまじい速度で元々の筋から脱線してしまうのだ。どこかで軌道修正しなければ話し合いもできない。
「で、リィ」
「何だ?」
 仕切りなおしの意味を込めてレギアが呼びかけると、リーシャは手元から目も上げず、それでも素直に返事だけは投げてよこした。レギアもレギアで、無造作に膝の上に頬杖をつきながら言葉を続ける。
「結局、アレをどうすんだ? 『主』なしの虚構の眷族じゃ、そうそう長くはもたねえだろ」
 言外に消滅させるのか、と問いかけてきたレギアに、リーシャは短剣を磨いていた手を止めた。白金色の睫毛に毛ぶる紫銀の瞳が、何かを思案するようにそっと伏せられる。
 虚構の眷族は、この世界とは次元を異にする並列世界で生まれ、そこでしか生きることの出来ない存在だった。だが、一般的に『虚構の界』と呼ばれるそこは、恒常的に磁気嵐が荒れ狂い、空間が生まれ出でたそばから虚空へと吸い出されて消えていく、決して住みやすいとは言い難い世界なのだ。
 だからこそ、虚構の眷族はわずかな次元の裂け目からでもこちらの世界に這い出し、豊かで安定した空間に永住したいと願う。空間の原理そのものが違う世界では、長時間実態を保っていることが困難であるにも関わらず。
 その彼らがこちらの世界に留まり、なおかつ一切の負担を負わずにいられる方法、それが『主』となりうる人間を見つけて契約を結ぶことだった。
「…………階級の低いヤツほど、こっちの世界に来るのは簡単だ。力も弱いから、多分ここの世界との歪みも少ないだろうな。それでも主がいない虚構の眷族はいずれ狂う」
 そうなると面倒だしな、と平坦な声でささやいて、リーシャは短剣を磨いていた布を放り出した。
 実態を保つことが困難になるということは、つまり自我さえも失っていくということだ。狂ってしまった虚構の眷族は、見境なく人間や同族を襲い始め、やがて消滅する瞬間まで殺戮に奔走する。そうなってしまうと、たとえ階級の低い眷族とてかなり厄介だった。
「ま、すっぱり消滅させてやるのが情けってもんだろうな」
「そりゃそうだ。オレたちに主を見つけてやる義務なんざないし。大体、契約できるかどうかは完全に相性の問題だしな」
 方向性が決まったところで、レギアは腰かけていた寝台から降り、椅子に立てかけてあった大剣に手を伸ばした。鞘と柄の部分に十字架を象った文様のある、信じがたいほど巨大な両手剣である。それを軽々と背に負って、同じく立ち上がった相棒の青年を見下ろした。
「んじゃ、いくとするか」
「ああ」
 まるで散歩にいくような気軽さで、二人はそれぞれの上着を手に取り、軽く武器を確かめただけで身を翻した。リーシャの左目部分と、レギアの鎖骨のあたりに描かれた漆黒の刻印が、まるで歓喜に打ち震えるかのように淡く光を放つ。
 刻印の保持者。体のどこかに漆黒の刻印を持つ、人でありながら人を超越した者。
 それは、虚構の眷族との契約の証だった。



「…………それじゃ、ずっとお一人で旅をしてるんですか?」
「うん、そうだね。最近では治安も良くなくて、気ままな旅路につきあってくれるほど酔狂な人もいないんだ」
 驚いたようなシャリスの声に、『彼』はにっこりと笑ってそう答えた。ありふれた茶色の髪が風に揺れ、旅装の外套の上をささらさと滑っていく。平凡ながらも好ましい印象の造作も、笑みに細められた赤茶色の瞳も、つい無条件で気を許してしまいたくなるほど人懐こいものだった。
 シャリスもつられたように頬を緩め、隣を歩く『彼』に花が綻ぶような笑顔を向けた。
「すごいですね…………あっ、だから色々と知ってらっしゃるんですか? 昨日も、『刻印の保持者』について教えてくれましたよね」
「ん、そうかも。でもね、私が知ってることなんてたかが知れてるよ? 刻印の保持者と……虚構の眷族については、ちょっとツテがあって知ってるだけだから。―――――ああ、着いたね」
 最後の部分は視線を正面に転じて、『彼』は穏やかな仕草で首をかしげた。
 周囲はすでに薄暗く、宿屋の正面に面した大通りも、帰途につく人々や早々と店をたたんでいる露天商などであふれている。どこにでもありそうな平和な光景を見つめて、『彼』は手にしていた紙袋をシャリスに差出すと、いたずらっぽい表情で小さく微笑した。
「ここまでで大丈夫かな? まったく、か弱いお嬢さんにこれほど大量の買い物をさせるなんて、ここの主人はなってないね? 私だったら、君みたいな可愛い子に一人で買い物なんて絶対に行かせないのに」
 その言葉を受けて、シャリスは紙袋を受け取りながらぱっと頬を紅潮させた。
「か弱くなんかありませんっ、大丈夫ですから! ………もう、ほんとに、どうもありがとうございましたっ! リュウさんも買い物をしてらしたのに、わざわざ荷物運びなんかさせちゃって………」
「いいんだよ、街で会ったのも何かの縁だから。何より、この宿屋にお世話になってる客としては、一人娘のお役に立てて光栄至極、感激の至りだよ」
 リュウ、と呼ばれた『彼』は、頭を下げてくるシャリスに冗談めかして笑って見せた。食料や調味料の詰まった紙袋を持ち直し、シャリスも鈴が転がるような笑い声を零す。
 それを見つめ返す『彼』の双眸が、束の間夕暮れを映したような紅に煌き、鮮血を思わせる生暖かい禍々しさを湛えた。光の加減などではなく、隠されていた色彩が薄い紗膜を透かして滲んでしまった、というように。だが、『彼』との会話を純粋に楽しんでいたシャリスは、そんなささいな変化に気づくことなく口を開いた。
「それじゃあ、今日の夕食はとびきり美味しくしますから。楽しみにしてて下さいね」
「そうだね、楽しみにしてるよ、シャリス」
 ゆったりと微笑を深くして、『彼』はシャリスのおさげにした金髪を撫でた。シャリスはくすぐったそうに首をすくめると、名残惜しそうに赤茶色の瞳を見上げてから、目線だけで宿屋の扉を振り返る。
 そろそろ夕食の仕込みに入らねばならない時間で、いつまでも立ち話を続けているわけにはいかない。そんなシャリスの様子に気づいたのか、『彼』は優しく目元を和ませて扉を指差した。
「じゃあ厨房のお手伝い、がんばって。いつまでも看板娘を独り占めしてたら、君目当てにここに泊まりに来る男たちに睨まれそうだしね。邪魔者は部屋で適当に部屋でくつろいでるから」
「邪魔者だなんて………っ、もう、からかわないで下さいリュウさん!」
 シャリスは再び頬を赤くしたが、彼女が気兼ねなく仕事に戻れるように、という『彼』の配慮に気づいたのだろう、紙袋を両手で抱えるようにして半身を返した。
「それじゃ、そろそろ行きますね。また後で。………あっ、夕飯は食堂で食べますよね?」
「……………うん、そうだね」
 降りしきる夕陽を頬に浴びながら、『彼』はひどくゆっくりとした動作で頷いた。答えるまでに空いた一瞬の間には気づかず、シャリスは嬉しそうに笑って扉を押し開け、ぺこりと頭を下げる。また後で、と再び口にしてから、おさげを揺らして身軽に扉をくぐった。
「―――………うん。また、後で」
 ささやくような声でそう言ってから、『彼』はふいに脇に添えていた手を持ち上げ、何かに導かれるようにしてそれを伸ばした。
 軽やかに揺れる金色の三つ編み、あるいは簡素な衣服に包まれた細い肩を捕らえ、離れていこうとする少女を押し留めようとするように。
 だが、その手は見えない硝子に阻まれたように途中で止まってしまい、そのまま空しく宙を掴んだ。
 シャリスは店内に入った途端に主人である父に呼ばれ、『彼』を振り返ることなく扉を閉める。中途半端に伸ばされた手は、軽く音を立てて閉ざされた扉に拒まれた。行き場をなくした手で拳を作ると、『彼』は細く息を吐き出し、その手を緩慢な動作で扉に振り下ろした。
 バチンと何かが弾ける音がして、『彼』の拳は扉に到達する前に受け止められ、その周囲に細かな火花を散らした。
「結界…………ああ、そうか。やっぱり」
 ゆるく口元に微笑を湛えて、『彼』は片足を軸にくるりと背後を振り返った。
「やっぱり、貴方たちはそうなんですね?」
 その言葉に答えるように、雑踏の中から二人の人影が歩み出てきた。『彼』が見上げなければならないほどの長身と、それよりは頭一つ分低い細身の影。そのうちのほっそりした人影が、凍った湖を思わせる紫銀の瞳を細め、『彼』に向かってぞんざいに顎をしゃくってみせた。さらりと流れた綺麗な髪が、光の加減で瞳に似た銀色に輝く。
「場所を変えるぞ」
「………ええ」
 当然のように告げられた言葉に、彼は拒絶することなく首を縦に振った。ただ、双眸だけはふいに現れた二人組から離さない。鋭く切りつけるようにして、青年の左目をまたぐようにして描かれた刻印と、男の襟元からかすかにのぞくそれを見つめていた。その両目はすでに鮮やかな紅に染まっている。人間のものではありえない、異形の証である色彩に。
「もしや、とは思ったんですよ。昨日、貴方たちを見てから。でも確証は持てなかった…………甘かったですね、すぐに、ここから離れればよかったのに」
 風に茶色の髪をさらさらと遊ばせて、『彼』は自嘲気味に唇を歪ませた。二人はそれに対して何も言わない。『彼』を両側から牽制するようにして、隙のない足運びで大通りを歩き始めただけだ。それに引かれて足を踏み出しながら、『彼』は一度だけ背後の宿屋を振り返った。そこに求める姿がないのを確認すると、あとは未練を振り切るように頭を振り、すぐ傍を歩く二人組みにうっすらと笑みを向けた。
 先ほどまでの人の良さを感じさせるものとは違う、獰猛な肉食獣にも似た笑顔で。
「ねえ、『杯』の聖皇国(せいおうこく)、グランデュエルの討伐者さん?」






    



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