ナイトメア
 第一話 天使は剣を抜いて 3


 

 大陸の北寄りに位置する街エデルは、ごく最近になってから急激に開発の進んだ田舎町だった。
 計画性もなく家を建て、手当たり次第に新しい道路を作ったせいか、この街には複雑に入り組んだ路地裏が多い。古い廃屋や家に囲まれてしまい、十分な土地が空いているのに石材や木材を運び入れることが出来ず、そのまま放置されているむき出しの大地があるくらいだ。
 リーシャとレギアが『戦闘場所』に選んだのも、エデルの外れにある見捨てられた空き地だった。
 周囲には崩れかけた廃屋の壁が並び、用途の知れない石材がまばらに積まれている。普段は街の人たちも足を踏み入れない、ゴロツキや孤児などの寝場所になっている空間だ。中途半端に敷き詰められた石畳を踏んで、首にかけられた鎖に手を伸ばした細身の青年は、プツリと軽い音を立ててそれを手の中に落とした。
「『虚構の眷族』だな。階級は?」
 ぞっとするほどひやかかな、氷で作られた剣を思わせる声だった。レギアなどは聞き慣れているが、たいていの者は天使のような容貌との差異に度肝を抜かれ、驚愕と恐怖に支配されずにはいられない声音である。
 だが『彼』は淡く微笑すると、片手を胸に添えて優雅に一礼して見せた。
「…………改めまして、お会いできて幸甚至極に存じ上げます。何より貴きお方たちの加護を受ける、『杯』の聖皇国グランデュエルの討伐者の方々。私は虚構の眷族、階級は『準爵位』の騎士。名をリューファリオンと申します」
 朗々とした声が、まるで歌うように人気のない空き地に響き渡った。
 空はすでに夜へと支配権を譲り渡し、遠くにともされ始めた灯火がゆらゆらと揺らめいて、周囲すべての輪郭を曖昧にしていた。その中にあっても、『彼』……リューファリオンの双眸だけは、噴き出したばかりの鮮血のような紅に浮かび上がっていた。
「グランデュエルの討伐者の名は、『盾』の公国ラジステルの緋月の守護者(ひげつのしゅごしゃ)と並んで、我らの中でも何より有名なものですよ。…………すべて刻印の保持者で構成され、私のような主を持たないはぐれ者や、定められた法に従わず、『力』を悪事に用いる保持者を狩る者。絶対の力を持つ、竜の守護三国に認められた刻印の保持者。上位の、我ら虚構の眷族に愛された存在―――――それに出会うことは、すなわち完全なる消滅を意味する。そうでしょう?」
「すいぶんと饒舌だな。覚悟でも決めたのか、『準爵位』の騎士、リューファリオン?」
「いや、むしろそこまで言われると気色悪ぃっての。こっちだって仕事なんだ、覚悟ができたならとっとと消滅して『虚構の界』に帰れ」
 リーシャとレギアの対応はどこまでも冷淡だった。
 聖皇国グランデュエルの討伐者とは、国に雇われ、はぐれの眷族や悪事に手を染めた保持者を狩る者の総称である。ほとんどが『貴族位』以上の眷族と契約を交わし、その絶対的な力を手に入れた刻印の保持者で形成されている。『準爵位』を持つとはいえ、たかが『騎士』階級の眷族では勝つのは難しい。よくて逃亡できるか否か、といったところだった。
 だが、リューファリオンはその場から逃げる素振りも見せず、くすくすと笑いながら片手を宙にかざした。
 それが一瞬で膨張し、ビキビキと何かが引き攣れるような音を立てて変形し始めた。滑らかな肌だった部分に金属の光沢が現れ、骨が突き出して鋭い切っ先へと変じ、服が肘の部分まではじけ飛んで複雑な文様を描く。ほんの数秒の間に、ごく普通の人間の右腕だったそれは、肘から先が柄の部分と同化した大振りの剣になった。
「私は、まだ帰りたくないのです。貴方たちと契約を交わした我が同胞も、きっとあの救いのない界で貴方たちに『呼ばれる』のを待っているでしょう。それでもいい、主を持つ眷族には救いがある。…………望むのは、許されないことだというのですか?」
「知らないな」
 きっぱりと言い切り、リーシャは鎖を指に絡めて腕を一閃した。銀のそれはすぐさま解け、幾重にも重なり合って煌く極細の糸となる。レギアも隣で抜剣し、細かく文字の刻まれた刀身を夜闇に掲げた。
「アンタらにもアンタらの事情があるんだろうけどな、オレらにも事情っつーもんがあんだよ」
 悪いけどな、と短く呟きながら、レギアは自然な動作でリーシャの前に出た。前衛を努めるのは彼の役目なのだ。リューファリオンは静かな表情でそれを聞いていたが、やがて、どこか哀しげな色を滲ませて紅の双眸を伏せた。
 その姿が、一瞬の残像となってそこから掻き消えた。
 刹那にも満たない時間をはさんで、金属同士がぶつかり合う音が静寂を震わせた。すさまじい速度で振りぬかれた大剣が、首を狙ったリューファリオンの刃を強く弾いたのだ。それが始まりの合図となって、レギアが飛びのいたリューファリオンに追随して跳躍し、リーシャが横に回りこむようにして大地を蹴った。
「―――――っしゃ、行くか、『シェルダ』!」
 レギアの声に答えるように、手にした大剣『シェルダ』の刀身が黄金色に輝いた。
 旋回した大剣とリューファリオンの右手が噛み合い、次いで二つの人影が飛び離れた。そのまま大地に降り立つ、と思われた小柄な影は、だが不規則な動きでもう一段階跳躍して、片足で着地してみせたレギアに迫る。走る切っ先を首をずらしてかわし、レギアはさらに後ろへと飛び退る。
 それを追って再度地を蹴ったリューファリオンは、次の瞬間禍々しい鮮血色の双眸を見張って、全力で地を蹴りつけながら上体を反らした。
 ヒュンと風を切る音がして、鎖が逃げ遅れた茶色の髪を数本切断した。リューファリオンは間一髪でその攻撃を避けたが、土を擦って体勢を整えたところで、すぐ横に迫った殺気に肌を粟立てる。レギアの振るった『シェルダ』の刀身が、ふわりと舞った燐光の中で眩く煌いた。
「…………っ!!」
 人間ではありえない身のこなしで体を捻るが、その腰から胸の部分にかけて銀糸が巻きつき、強制的な力を持ってリューファリオンの動きを妨げた。それでも何とか横に飛んで、頬を浅く切り裂かれる代わりに致命傷は避ける。そこから鮮やかな緋色が吹き上がることはなく、闇色の蒸気のようなものが音も立てずに散った。
 だが、それさえも討伐者たちが予想していた反応だった。
 銀色の煌きをまとわせながら、ほっそりとした優美な影が宙に舞い、リューファリオンの襟元を掬い上げるようにして大地にたたきつけた。華奢でさえある体躯にふさわしくない膂力で、息を詰めた虚構の眷族の首を締め上げると、手のひらほどの大きさしかない短剣を鋭く突きつける。それはどうみてもただの飾りであり、刃の部分は丸みさえ帯びた優雅な意匠だというのに、リューファリオンは首を浅く切り裂かれて目を見張った。
 鋼並みといっても過言ではない、虚構の眷族の体組織を、である。どちらかといえば小柄な体を押さえつけながら、リーシャは冷めた表情で淡々と呟いた。
「――――――何か言い残すことはあるか、『騎士』リューファリオン」
 冷たすぎるその響きに、リューファリオンは強く唇をかみ締めた。その深紅の双眸に、正視しがたいほどの凄絶な光が閃く。
「…………っ、リィッ!!」
 レギアの叫びに重なるようにして、リーシャの紫がかった銀の瞳が見開かれた。どこにそんな力があったのか、剣へと変じていないほうの左手が唸りを上げて大気を裂き、リーシャの肩を鷲掴みにして弾き飛ばしたのである。
 そのままほぼ水平に宙を飛んで、崩れかけている廃屋の壁に細い体が叩きつけられる。ただでさえ脆くなっていた石の壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が行く筋も走った。
「っつ………!」
 さすがに小さく声を漏らしたリーシャに、狂気に近しい光を宿した紅の視線が向けられた。振り上げられた右手が遠い灯火に揺らめき、剣の形をくっきりと闇に刻みつける。リーシャは肩に食い込む剛力に眉を寄せて、振り下ろされようとする刃を真っ直ぐに見上げた。
「リィッ!!」
 舌打ちの音を響かせながら叫んだレギアは、そこでふいに走り出そうとしていた足を止めた。間に合わない、と悟ったわけではない。慌てる必要がないことを知ったのだ。
 頼りない月明かりの下に、銀の光が大気を裂いて飛ぶ。
「………………あ?」
 呆然としたその声は、右手を掲げたままのリューファリオンの口から漏れた。深紅の瞳が極限まで大きく見張られ、ありえないものを見る表情で愕然とそれを見つめる。
 ズブリ、と音を立てて己の首に深く沈んだ、瀟洒な意匠の銀の短剣を。
「馬鹿が。この程度でおれを倒せるとでも思ったのか? おれを殺したかったら、最初の一撃で首を持っていくべきだったな」
 崩れ落ちた体を容赦なく押しのけ、一瞬で鎖を引き寄せて短剣を突き出して見せた青年は、乱れて落ちかかる白金色の髪をかき上げた。まとっていた上着がわずかに汚れていたが、その表情には痛みも苦痛も滲んでいない。ただ不機嫌そうに顔をしかめて、壁に叩きつけられた背を何度かはたいただけだ。
「あ………か、ハ……ッ」
 喉を押さえてうずくまるリューファリオンを、リーシャの紫銀色の双眸が冷たく見下ろした。左目の部分に描かれた刻印が、今までになく強い光を帯びて輝いている。眩くありながら、その漆黒の色彩を失うことのない闇色の光、とでもいえばいいのだろうか。
 隣に並んだレギアの胸元でも、逆向きに描かれた十字架と交差する竜という、簡素だが美しい刻印が漆黒の光を放っていた。深い色彩の紺碧の双眸をすがめ、レギアは平然とした顔で立っている相棒を見下ろした。
「―――――無事みたいだな、リィ?」
「今、お前の声がものすごく残念そうに響いたのは聞こえなかったことにしてやる。あの程度でおれが死ぬと思うか? まあ、さすがにいい気持ちはしなかったけどな」
「は、だからお前は大人しく後ろの方でチマチマ攻撃してろ、っていつも言ってるだろ? 非力なくせによ」
「お前と比べたら人類皆虚弱体質だ。だいたい前衛のお前がモタモタしてるのが悪い。…………ったく、おれはお前と違って繊細でか弱いんだからな? レティの加護がなければ、さっきので粉砕骨折の挙句にひき肉だ。クソ頑丈なお前は粉骨砕身しておれのために戦ってればいいんだよ、役に立たないヤツだな」
「あ? バッカじゃねえの? お前のために戦うくらいなら、路傍の糞にたかるハエのために戦うっての」
 いつものように軽口を叩きあいながらも、二人の意識は油断なくリューファリオンに向けられていた。うずくまり、喉をきつく押さえている虚構の眷族は、それでもそんな二人のやり取りに薄く笑ったようだった。ごろりと仰向けに体を転がし、は……と掠れた吐息を漏らす。鮮烈な紅の双眸に、紫がかった銀色と夜空のような紺碧が映った。
 ふいに浮かべられた微笑は、不思議と穏やかで静謐だった。
「………さすが、です、ね」
 紅の双眸が揺れ、二つの刻印を眩しげに見上げる。
「やっぱりだめだなぁ………できれば、帰りたくは……なかったのだけれど」
 ほんのかすかに細められたのは、紫銀と紺碧の瞳、どちらだったのか。もはやそれを見ることも叶わず、リューファリオンはゆっくりとその両目を閉ざした。ただ唇にだけは笑みを浮かべたまま、まるで独り言のように小さく呟く。
「契約を交わせたら、どんなに…………ごめんね、シャリス? 夕食、また後で、と。嘘を、ついたね……」
 シュシュウと音を立てて、深く切り裂かれた喉元から黒い蒸気が吹き上がっていた。虚構の眷族の治癒力を持ってすれば、この程度の傷が致命傷になることはない。だが傷口はふさがる気配もなく、固く閉ざされた瞼が持ち上げられることもなかった。
 理由は明快で、リーシャを守護する虚構の眷族の階級が、リューファリオンとは比べものにならないほど高位なのである。その力を受けた武器で傷つけられてしまえば、下位の眷族にそれを癒す術はなかった。
 それをじっと見下ろしていた美貌の青年は、やがて軽く眉をひそめると、リューファリオンのすぐ横に膝をついてかがみ込んだ。
「聞こえるな、リューファリオン? おれたちは、これからお前を消滅させて『虚構の界』に帰す」
「……………」
 見逃してしまいそうなほどかすかに、閉ざされた白い瞼が震えたようだった。リーシャはそれにも構わず、淡々とした口調で言葉を続ける。
「お前らは消滅すると、存在を構成していた粒子に還元されて虚空へ帰るんだろ。それがまた再構成された時には、こっちに来るなりシャリスを口説くなりお前の好きにすればいい。まあ、今回はおれたちが居合わせたのが不幸だったな」
 背後に立つレギアが軽く眉を上げた。だがすぐに表情を改めると、広い肩を一つすくめて口を開いた。
「そうだな、一分後か、それとも百年後になるのかは知らねえが」
「それも運だ、どうなってもおれたちを恨むなよ? ……………ただ、一つだけ忘れるな。虚構の眷族との契約は、人間にも重いものを背負わせる。そっちの都合だけを押しつけると失敗するぞ」
 最後だけは重く、真剣な響きを伴って紡がれた言葉だった。リューファリオンはうっすらと瞼を持ち上げ、白金色の髪に縁取られた稀有な美貌を見上げる。
 ひそやかな風に散った髪は、掲げられた短剣の色を思わせる、ひんやりと冷たい銀のようにも映った。銀色の光をまとった破壊天使。優しい救いではなく、死による浄化をもたらす天の御使い。そんな言葉が脳裏に浮かび、リューファリオンは最後の力を振り絞って微笑した。
 はい、という本当に小さな呟きが奏でられてから、掲げられていた銀色の短剣が振り下ろされ、闇の中に綺麗な軌跡を描いた。






    


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