ナイトメア
 第一話 天使は剣を抜いて 4


 

「…………あ、れ? リーシャさん、レギアさん?」
 すでに夜も深まり、細い月明かりが街並みに積もり始める時間帯だった。すっかり人気のなくなった食堂で、入り口近くの卓で頬杖をついていたシャリスは、静かに入ってきた人影を見て瞳を瞬かせた。とうに部屋で休んでいると思っていた二人連れが、人目を忍ぶようにして外から戻ってきたのである。
 どこかへ出かけていたのだろうか、と首を傾げる少女に、レギアは小さく唇の端で苦笑して見せた。
「何だ、まだ起きてたのかよ、シャリス」
「もう片づけは終わっててもいい時間だろう? 明日の朝起きられないぞ」
 リーシャもからかうように笑って肩をすくめた。気さくな表情で近づいてきた二人を見上げて、シャリスは背筋を伸ばしながら微笑を浮かべる。
 だが、一瞬だけその空色の瞳に残念そうな光が過ぎった。二人の姿は求めるものではなかった、というように。レギアもリーシャもそれには気づかない振りをして、シャリスの正面に置かれた椅子を指し示した。
「ここ、いいか?」
 シャリスはきょとんと目を見張ったが、すぐに明るく笑って頷きを返した。もう誰もいなくなった食堂で、ぽつんと一人で座っていた自分に気を使ってくれた、とでも思ったのだろう。ちょっと待ってて下さいね、と慌てたように呟いてから、シャリスは金髪のおさげを揺らして厨房へと走っていき、すぐに湯気の立ったティーカップを手にして戻ってきた。
「どうぞ、冷めないうちに」
「おっ、いいのか?」
「いいですよ、あ、もちろんお勘定はいいですから」
 シャリスが急いでそう付け加えると、レギアよりも先にリーシャがカップに手を伸ばした。
「ありがとう、シャリス。ちょうど喉が渇いてたんだ、嬉しいよ」
「…………………無料じゃなけりゃ飲まなかったくせに」
 少女には聞こえないほど低く呟かれた声に、リーシャは笑顔のままで相棒の向こう脛を蹴り飛ばした。ゴッという鈍い音が響き渡ったが、それをカップを受け皿に戻す音で綺麗に相殺してのけ、天使のような美貌の青年はシャリスに微笑みかけた。
「それで、シャリス。こんな時間までどうしたんだ? そろそろ店じまいの時間だろ?」
 このような宿屋は、満室になってしまえばそれ以上客を取る必要はない。そうでなくとも、ここまで夜も更けてから客を入れることはほとんどないと言っていいのだ。もう休んでいてもいい時間だろう、と怪訝そうな顔を作るリーシャに、シャリスは曖昧な微苦笑を浮かべて視線をさまよわせた。
「…………別に、理由があって起きてた、ってわけじゃあないんです。ただ何となく、眠れなかったから」
「そうか」
 何でもないという言葉とは裏腹に、シャリスの表情はどこか寂しげだった。リーシャもそれ以上は追求せず、手元のカップを引き寄せて口に運び始めてしまう。脛を押さえて眉をしかめていた黒髪の青年は、それをチラリと横目で見遣ると、何かを思い出したように軽く手を打ち合わせた。
「っと、そういやシャリス」
「…………はい?」
 カップを両手で握り締めたまま、少女は不思議そうな表情でレギアを見上げた。夜空のような紺碧の瞳を細めて、レギアは卓上に身を乗り出すようにしながら薄く笑う。そのままごく軽い調子で口を開いた。
「うっかり忘れるところだったんけどな。オレら、さっきまでちょっと歓楽街の方に行ってたんだが、その帰り………ちょうどこの大通りの入り口辺りだな、そこで知らない男に呼び止められたんだ」
「はぁ………」
 歓楽街、という言葉を聞いて、シャリスの頬がほのかに赤く染まった。リーシャは無言で眉を跳ね上げたが、レギアはあえてそれを無視して話を続けた。
「で、何かと思ったら、そいつここの泊り客だったんだと。茶色の髪に赤っぽい茶色の目の、人の良さそうな顔した男だったな。知ってるだろ?」
 本当に小さく、シャリスの空色の双眸が見開かれた。
「………え」
「オレらのことは食堂で見かけたらしいんだけどよ。そいつ、故郷の家族から急な連絡が入っちまって、急いで家の方に帰らなきゃならなくなったんだと。だから、せっかく約束したのに夕食が食べられなかった、ごめんってアンタに伝えてくれってさ。………またこの町に来た時は、ぜったいにアンタに会いに来るから、だと」
「………………」
 シャリスはただ瞳を見張って、食い入るようにレギアの言葉を聞いていた。やがて、その顔に安堵とかすかな寂しさが広がっていくのを、二人の青年はそれぞれの表情を浮かべて見守る。レギアは揺るぎない微笑を口元に浮かべ、リーシャは鉄壁の無表情を崩さずに。
 シャリスはしばらくカップの底に残ったお茶を見つめていたが、ややあってゆっくりと視線を持ち上げると、その顔に零れるような笑みを乗せた。
「わざわざありがとうございます、レギアさん。……本当を言うと、荷物持ちなんかをさせたから嫌われちゃったかも、って思って落ち込んでたんです。でも、お家の事情じゃ仕方がないですよね!」
「おう、仕方ねえ仕方ねえ。アイツもすっげー残念そうな顔してたぜ? あれは絶対アンタに気があんな」
「……………っ!!」
 ガシャン、大きなと音を立ててカップが受け皿に戻された。少女の白い肌は真っ赤に染まっていて、そのまんざらでもない様子にレギアは苦笑する。ちらりと相棒を盗み見ると、端正な弧を描く眉を小さく寄せて瞳を据わらせていた。「よく言う」と言わんばかりの眼差しをすっぱりと無視し、レギアは無骨な手を伸ばしてシャリスの金髪を優しく撫でた。
「そのうちひょっこり戻って来るだろうから、待っててやんな。アイツも、美少女に待っててもらえると思えば男冥利に尽きるだろ」
「―――――はい」
 そう言ってくすぐったそうに微笑んだシャリスの顔は、二人が見た中で一番愛らしく、綺麗に映るものだった。


 ゆるやかな朝の風が、白金色と漆黒の髪をそっと巻き上げる。
 さらさら…と心地よい音を立てて滑るそれを後ろに払い、リーシャは薄く紫を帯びた銀色の瞳を細めた。その表情は心なしか不機嫌そうだ。結局、昨夜も寝台にもぐりこめたのは明け方近くになってからで、一昨日から続く寝不足のために前を見つめる双眸が険しい。
 それは隣を歩くレギアも同様だったが、紺碧の瞳は相棒のそれほど不機嫌を露にしているわけではなかった。
「………それにしても、さっきのあれは何だったんだ?」
「あ? 何が」
 小さく漏らされたリーシャの呟きに、レギアは眉を寄せながら傍らを見下ろした。美貌の青年はそれを見返すわけでもなく、前に視線を固定したままで淡々と続ける。
「さっきの怖気の走る与太話だよ。誰が、いつ、どこで、故郷の家族のもとに帰るなんてほざいた? っていうか、故郷の家族に何かあったくらいで帰ってくれるほど人情あふれるヤツラだったら、おれらの苦労と面倒の九割がたは完全消滅するだろうが」
「あー、人間らしい思いやりとか優しさとか、そういうものが一切含有されてねえお前には難しい話だったな。そりゃあ悪かった」
 朝日を眩さに耐えかねたように片手をかざしつつ、レギアは声を荒げもせずにあっさりと返した。リーシャはそれさえも優美な仕草で鼻を鳴らす。ふわりと行き過ぎた風が、今は光を浴びて金色に煌く髪を柔らかく撫でた。
「じゃあ聞くが、シャリスがうっかり直視しただけで視力を失いそうな、いっそ珍妙を極める前衛的な造作をしてたらお前はどうした?」
「何でオレがそんな物体と関わらなきゃなんねえんだよ。視界に入れねえ、っつーか永遠に人生の軌道が交わらねえように生きていくに決まってんだろ」
「そうか、で、人間らしい思いやりとか優しさって何だ?」
 あまりにもいつも通りな軽口を交しあいつつ、紫銀と紺碧の双眸は一度も互いを見なかった。それもいつものことだ。後味の悪い仕事ならばいくらでもあったが、それをいつまでも引きずるようなことは決してない。お互いに馴れ合うこともない。
 ただ、レギアは愛らしい少女が悲しむのを見たくなかっただけで、リーシャはそれさえもどうでもいいだけなのだ。ごく自然に会話が断ち切られると、明るい陽射しをいっぱいに含んだ静寂が落ちかかってきた。
 やがて、田舎町らしいのどかな町並みに飽きたのか、それとも単に歩き続けるのが面倒くさかっただけなのか、リーシャは一つ伸びをして相棒に視線を向けた。
「歩くのに飽きたな、『飛ぶ』か」
「……………どっちが」
「お前が」
 打てば響くように、とはこういうことを言うのだろう。レギアは端整な眉を急角度に跳ね上げた。
「全力で断る。テメーがやれ」
「おれがやらなきゃならない論理的意味がわからないな、お前がやれ」
「……………」
「……………」
 長身の男と細身の青年は、エデルの路地に立ち止まって互いに見つめあった。いや、正確に言えば睨みあった。そこに満ちる大気が密度を増し、合わせられた視線が物理的な圧力を持ち始める。込められているのは『要求』などという可愛らしいものではなく、あまりにも明確で鮮烈な殺気だった。
 いつまでも続くかと思われた一触即発の空気は、意外にも仕方なさそうに嘆息し、まとっていた冷たさを和らげたリーシャによってふわりと緩んだ。そのまま小さく舌打ちすると、不本意だと全身で主張しながらも紫銀の瞳を逸らす。レギアの方が驚くほどの、数年に一度あるかないかという珍しい譲歩だった。
「――――――仕方ないな。こんなサル頭に飛ばせて、どこの秘境とも知れない場所に連れて行かれたら迷惑この上ないし」
「いつの話だよテメェ」
「ほんの数ヶ月前の話だよ、相棒」
 軽やかな動作で肩をすくめると、リーシャは淡麗な美貌に不敵な笑みを湛えてみせた。素直な承諾とは言いいがたかったが、彼にも多少なりとも思うところがあったのだろう。
 もはやレギアに一瞥もくれずに瞼を伏せ、集中するように深い呼吸を始めた青年に、レギアは漆黒の前髪をかき上げながら一歩後ろに下がる。リーシャの白い肌に刻まれた刻印が煌き渡り、朝日の中に夜色の光を散らした。やがて綻んだばかりの花びらを思わせる唇が、ゆるやかな微笑の形につり上がった。
「頼む、『レティ』」
 響いた音はそれだけだった。その短い、だが何よりの信頼と親しみを込めた声に答えるようにして、二人が立っていた位置の『空間』が割れる。脆い硝子が一瞬で砕け散るように。大気そのものがきつく歪んだように。
 それは本当に一刹那のことで、空間が元通りの静謐さを取り戻した時には、そこにいたはずの人影は影も形も見えなくなっていた。
 ただエデルの町並みには、柔らかな風だけが止むことなく吹いていた。






    



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