ナイトメア
 第二話 最後の十字架 1


 

 朝からずっとぐずついていた空は、ほんの数分前に勢いよく大粒の涙を零し始め、あっという間に乾いた大地をぬかるんだ泥へ変えてしまった。
 動くたびに跳ね上がる泥に大きく舌打ちして、リーシャは眼前に立つ大男の腹部に拳を叩き込み、ぐらりと傾いだその体を容赦なく蹴り倒した。そのまま別の男の襟首を掴むと、まるで踊りに誘うように優雅な動作で引き寄せ、体を沈めると同時に全力で投げ飛ばす。背中から地面に叩きつけられて悶絶する男を無視し、背後から襲いかかってきた男を裏拳で昏倒させる。
 一つ一つの動作にかかっている時間は、どんなに多くても一瞬から数秒といったところだった。近くの木にもたれていたレギアが、やる気のない表情でゆっくりと十数える頃には、見るからに人相の悪い男たちは一人残らず地を這っていた。
 叩きつけるような雨に細身の体を晒し、リーシャは氷のような声を唇から押し出した。
「…………この雑魚が。っていうか何だ? お前らはゴミか、それとも糞か? この小汚い頭の中には何が詰まってるんだ、蛆虫でも大量に育んでるのか、え? 一度サクッと死んでみるか?」
 響きだけ聞けば天上の歌声か、という涼やかな美声が、降り続ける雨音を裂いて男たちに向けられた。言っている内容の凶悪さそのままに、すんなりとした細身の青年は男の頭を足蹴にし、泥の中に抉りこむようにして体重をかけている。
 雨にぐっしょりと濡れ、今は淡い銀色のように見える白金の髪をかき上げると、薄く紫がかった銀の双眸が冷たい光をたたえて細められた。
「よりにもよってこのおれに『金を出せ』? 『身包み剥ぐ』? 挙句の果てには『奴隷として売り飛ばす』? い〜い度胸してるじゃないか、お前ら。腹かっさばかれて殺されたいのか? あ?」
 極寒の微笑を浮かべたまま、リーシャは男の頭を無造作に靴裏で踏みにじりつつ、首にかけられた銀の鎖に指を這わせてみせた。その首飾りが、瀟洒な外見からは想像もつかないほど物騒な武器だと知っているレギアは、面倒くさそうに漆黒の髪をかき上げながら木の下を離れる。とたんに桶を引っくり返したような雨に打たれ、まとっている黒の上着と髪が肌に張りついた。
 レギアは嫌そうに眉を寄せると、殺戮に走ろうとしている相棒へ紺碧の瞳を向けた。
「その辺にしとけよ、リィ。仮にもグランデュエルの討伐者が、盗賊とはいえ人間殺しちまったらヤバイだろうが。つーか、お前が暴走すっからオレまで濡れたぞコラ」
「うるさい黙れそのまま死ね。………ったく、何馬鹿なことほざいてるんだ、レギア? こいつらが、人が野宿になった上に雨まで降り出して苛ついてるところに、お約束のように出てきて『殺して下さい』と頼んだんだろうが。人の頼みには答えてやるのが人情ってものだ」
「いらねえよ、そんな嫌すぎる人情。だいたいお前は…………」
 いつものように口論になりかけた会話は、にわかに正気づいて手元のナイフを拾い上げ、レギアの足に切りつけようとした男によって遮られた。
 完全に視線を向けていなかったにも関わらず、レギアは落ち着いて長い足を閃かせ、一瞬でそのナイフを蹴り上げると、そのままの勢いで男の顔面を横薙ぎに跳ね飛ばした。男の大柄な体はあっけなく宙を舞い、盛大に泥と雨水を跳ね上げて大地に沈む。
「――――――テメェ、人が仮にも庇ってやってるってのに、何だその態度は? 死にたいのか? 熱烈な自殺志願者か?」
 だったら一思いに殺すぞコラ、と奇妙なまでに朗らかに笑い、レギアは背に負った大剣『シェルダ』の柄に手をかけた。何とか怒りの収まったらしいリーシャが、その横で男の背を踏み越えながら肩をすくめる。
「レギア、知ってるか? 世の中には、他人に文句を言う資格を有してないヤツもいるんだよ。同類とか同類とか同類とかな」
「うっげ、冗談じゃねえ。お前と同じ人種に分類されるくらいなら、おれは害虫の眷族になるっつーの」
「そうか、じゃあ今日からお前は害虫だな。ということで、崇高なる人類であるおれの傍に寄らないでもらえるか? ウザイから」
「…………うわやっべ、殺してぇ」
 決して冗談には聞こえない口調で呟くと、レギアは不穏な微笑と共に一歩足を踏み出した。リーシャも「やるのか、害虫?」と大人気なく笑い、細い銀の鎖に手をかける。急激に高まり始めた殺気と緊迫感は、だが命をかけた殺し合いにまで発展することはなかった。
「すっげーっ!! 兄ちゃんと姉ちゃん、アンタたちすっげー強いな!! あんなにいっぱいいたのに秒殺かよっ!」
 ふいに響いた素っ頓狂な声と共に、木の陰から小柄な少年が飛び出してきたのである。
「おー坊主、無事だったか」
「うん、兄ちゃんたち強ぇーなっ。俺普通にもうダメかと思った! ホント、助けてくれてありがとな、かっこいい兄ちゃん、綺麗な姉ちゃん!」
「―――――どこの誰が綺麗な姉ちゃんだって?」
 ひんやりとした声と共に、リーシャは少年の小柄な体をつまみ上げた。浮かべられた微笑と声の冷たさを受けて、少年の顔が笑顔のまま凍りつく。レギアは盛大に溜息を吐くと、相棒の手から引ったくるように少年を救い出し、なるべく遠い位置にその体を下ろしてやった。
「おいコラ、リィ。大人気とかその辺のものを記憶の中から呼び覚ませ、そしてガキを殺気で金縛りにするな」
「……………姉ちゃん、じゃないの? ひょっとして兄ちゃん?」
 綺麗な夜空色の瞳を見開いて、少年は呆然とリーシャの美貌を見上げた。確かにその造作は繊細を極め、一見しただけでは性別がわからないが、よく見ればすらりとした長身も高くはない声も男性のものだ。少年は衝撃を受けたように立ち尽くしていたが、やがて素っ頓狂な声を上げて絶叫した。
「もったいね―――――っ!!」
「殺すか、このガキ」
「まあ落ち着け、人として殺すな。一応盗賊から助けたんだろうが」
 確かに、リーシャが女だったら傾国の美女と言って差しつかえないだろうが、レギアとしてはこんな凶悪な女がいたらただの悪夢である。やれやれと濡れて額に張りつく髪をかき上げて、無造作に親指で木の下を指し示した。
「とりあえず、オレにはいつまでも濡れてる趣味はねえからな。雨宿りすんぞ、雨宿り」


 そもそも、二人がこんな山奥で野宿する羽目になったのは、山の中で道を一本間違えたからだった。
 それも二人の方向感覚のせいではなく、旅の商人から買い取った地図に不備があり、新しく通された道が記されてなかったためだ。古い道は大分前に土砂崩れでふさがれてしまっていて、今では通ることが不可能になっている。それを知らずに古い道を行ってしまい、中ほどまで進んだところで後戻りを余儀なくされたのである。
 予定していた街までは到底たどり着けない、ということで、まばらに木が生えたこの辺りを選んで野宿になったのだが、数刻前から叩きつけるように雨が降り出し、リーシャの不機嫌さは悪化の一途をたどっていた。
 そこへ、一人の少年を追って盗賊たちが押しかけてきたのだ。間が悪いとしか言いようがなかった。むろん二人にとってではなく、盗賊たちにとって。
「それで、何でお前は盗賊なんかに追われてたんだ? っていうか妙な者を引き連れて走ってくるなよ、善良な旅人の迷惑も少しは考えろ」
「リィ、論理が無茶苦茶かつ非人道的だということに気づけ、可能な限り早く」
「うるさい、おれはこのガキに質問してるんだ」
「…………ガキじゃねえし。俺にはカイリっていう名前があるんですけどー」
 ぼそりと呟いた少年は、「あ?」というひややかなリーシャの一瞥を喰らい、慌てたようにレギアの背後に回りこんだ。
「すみませんごめんなさい生意気言いました!!」
「そうか、わかればいいんだ、わかれば。素直な子どもは長生きするからな、カイリ? …………で、質問の答えは?」
 柔らかなリーシャの笑みに顔を強張らせつつ、カイリは焦茶色の髪を揺らして首を傾げると、記憶をたどるようにしながら口を開いた。
「………んーと、俺、この先のディナリスから来たんだけど、道の途中であのおっさんたちに絡まれてさー。親のお使いで来てるから、金取られるわけにもいかないし、でも武器なんか持ってないし、必死になって逃げてきたんだ。俺、この辺の道なら大体把握してるしさ、逃げ切れるかなーと思ったんだけど………」
「捕まりそうになったところで、体よく木の下で雨宿りしている二人組みを見つけて、これ幸いと助けを求めたわけか」
「うん! でもよかった、兄ちゃんたち強くて!! あっさり殺されちゃったりしたらやだなー、ってすっげー心配してたんだ」
 レギアの後ろからひょこりと顔を出し、カイリは子供らしく無邪気な笑みを浮かべて見せた。
 ディナリスは、リーシャとレギアがこれから向かおうとしていた街の名である。そこから別の街に行くにはこの山を越えねばならず、通ることができる道も限られている。カイリの説明には何らおかしなところはなかったが、リーシャはふいに形の良い眉を寄せた。つき合いの長いレギアにしかわからないほど、ひどくかすかな動きで。
 だが、カイリは相変わらずにこにこと笑ったまま、レギアの服の裾を軽く引っ張った。
「何だ?」
「兄ちゃんたちさ、今日はどうせ野宿なんだろ? だったら俺いいとこ知ってるよ」
「いいとこ?」
 聞き返したのはリーシャだ。それに元気よく頷いて見せ、カイリは小さな手で道の右手を指し示した。
「うん。だってこんなとこで野宿したらびしょ濡れだろ? 火だっておこせないしさ。あっちの方に、ちょっとぼろぼろだけどちゃんと屋根と壁がついてる場所があるんだ。俺の秘密の場所なんだけど、兄ちゃんたちは命の恩人だから教えてやるよ!」
 得意げに笑う少年の説明によると、そこはかなり昔に見捨てられた神殿の跡地であり、今でも礼拝堂や列柱などがそのまま残っているのだという。供物や装飾品などは持ち去られた後だろうが、一晩を過ごすだけなら外よりもよほど快適だろう。
 カイリは身振り手振りを交えて行き方を告げると、最後に軽く困ったような表情を作って頭を掻いた。
「案内してあげたいんだけどさ、俺、急いで山を越えなきゃなんないんだ。でも、兄ちゃんたちなら迷わないよな! それにすっげー強いし!」
「ああ、このうっすらと残ってる獣道をたどればいいんだろう? これなら迷わないさ、いくらレギアの馬鹿でも」
「そうだな、ここまではっきりしてりゃあ迷わねえだろ。いくらリィのボケでも」
 淡々とした二人のやり取りに、カイリは心から楽しそうに笑い声を立てた。そのまま雨の中にぴょん、と飛び出すと、二人を振り返って大きく手を振る。
「んじゃ、兄ちゃんたちも気をつけて! 俺が帰ってきた時にまだディナリスにいたら、そん時はまた会おうな!」
「…………ああ」
「ん! それじゃあね、兄ちゃん!!」
 そう言ってくるりと身を翻し、カイリは片腕で雨を遮るようにしながら走り出した。時折二人を振り返ると、子供らしく体全体を使って手を振ってくる。おざなりに手を振り返してやっているうちに、焦茶色の髪と夜空色の瞳を持った少年の姿は、降りしきる雨の向こうに消えて見えなくなった。
 ゆっくりと息を吐き出すと、レギアは木の幹にもたれかかりながら相棒を見下ろし、カイリに説明された方角を指差した。
「行くか、リィ?」
「ああ」
 あっさりと頷き、リーシャは首にかけられた銀の鎖と、その先に通されている短剣の飾りに指を滑らせた。なめらかな金属の感触を楽しむように指を這わせ、その唇に小さく笑みを刻む。それは雨宿りの場所を得て喜んでいる、というより、まるでそこで待ち受けている何かに対して挑戦するような、鋭くも不敵な微笑だった。
「面白いじゃないか…………どいつもこいつも」
 リーシャの言葉に答えるように、剣に絡みついた竜を象る刻印が光を放って、雨の薄暗がりに漆黒の輝きを刻みつけた。






    



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