ナイトメア
 第二話 最後の十字架 3




 脆い石の床を踏み砕く勢いで跳躍し、レギアは一瞬で間合いを詰めた。
 大剣『シェルダ』の刃が振るわれ、湿り気を帯びた大気が悲鳴を上げる。だが、カイリは夜空色の瞳でまっすぐにレギアを見つめたまま、身じろぎどころか瞬きさえしなかった。
 眉を寄せながらも動きは止めず、レギアの振るった刃が少年に迫る。一瞬の間を挟んでその場に響いたのは、剣が肉を裂く嫌な音ではなかった。
 少年の背後に広がる空間がぐにゃりと歪み、そこから二本の『腕』が突き出されてシェルダを受け止めたのだ。肩より上の存在しない腕が、何もない空間から生えるようにして伸ばされている。佇むカイリの両横から、どこか戯画めいた滑稽さで。
「ごめんね、兄ちゃんたち。でも俺も生活がかかってるんだ。大丈夫、殺したりはしないからさ!」
 低く舌打ちして、レギアはシェルダを一閃しながら飛び離れた。一拍遅れてミシリ…と何かがきしむ音が響く。まるで卵の殻が剥がれ落ちるように、腕が生えている部分の空間が『割れ』始めていた。
 見る間に裂け目を広げていく亀裂に手がかけられ、腕の持ち主がそれをかき分けるようにして姿を現していく。肩から頭部、甲冑のようなものに包まれた胸、そして腹部から足先へと。服越しに光を放ち始めたカイリの二の腕を睨み、リーシャも短く舌打ちの音を響かせた。
「虚構の眷族…………『騎士』か。それも主つきの」
「そ! 俺の相棒だよ、兄ちゃん。名前はアルカイド、っつっても俺はルカって呼んでるけどっ!」
 その声に答えるようにして、空間から出現した『それ』はトンと床の上に降り立った。
 カイリの頭がちょうど腰辺りにくる、レギアでさえ見上げなければならないほどの巨大な影だった。金属のようなもので覆われた腕に、肩当てを思わせる広く張った肩。そこから足元まで伝い落ちる、大きく切れ目の入ったマント。頭部には兜を模したような飾りがつけられ、額には深紅の宝玉が飾られ、胸と足の脛の部分を鈍色の金属が守っている。
 まさに人間で言うところの騎士のいでたちだった。アルカイド、と呼ばれた虚構の眷族は、額の宝玉とよく似た色の瞳を細めてニッと笑った。
「どうも、ご紹介に預かりましたアルカイドっす。よろしくお二人さん………って、あんたらひょっとしてグランデュエルの討伐者?」
 奇妙に軽い調子でへらへらと笑ったアルカイドが、リーシャの左目をまたぐ刻印と、レギアの胸元で光を発し始めたそれを見遣って眉を上げた。
「うっわ、しかもそれって『竜』じゃねえ!? なにそのご大層な守護の証! やっべー、だとしたら俺今ちょっと危機じゃん!? なあカイリ」
「あはは、そうかも」
「そうかも、じゃないっしょ! 俺眷族の中では下の方なの、準爵位を持ってる騎士階級なの! それが『竜』の刻印持ちと戦えってぇの? ひゃーきっつー」
 大仰な動作で天を仰ぎながらも、アルカイドの態度には本当の意味での緊迫感はなかった。カイリを背に庇うように立ち位置を変え、やや長めの褐色の髪をかき上げる。そこから現れた深紅の輝きが、リーシャとレギアを見つめて冷たい笑みを湛えた。
「でもま、主の命令だし、俺には拒否権なんかないし? ウダウダ言っててもしょうがないか…………ってね!」 
 言葉と共に豪腕が横に突き出され、その手のひらの中に柄の長い得物が出現した。長い柄の先だけではなく、十字架を象るようにその根元と刃が交差している、身の丈ほどもあろうかという長大な槍だ。それが何もない空間から滑り出した、と思った瞬間には、アルカイドの姿はリーシャのすぐ前まで迫っていた。
 ギィンと鋭い金属音を立てて、繰り出された槍の先端が止まった。横から振り抜かれたシェルダが弾いたのだ。細身の青年が舞うように後ろに飛び、レギアがねじ込むようにして眷族の前に立ちふさがる。
 再び突き出された刺突と剣の腹で受け止め、それを押しながら一瞬空いた腹部を狙うが、信じがたいほどの速度で回転した槍の柄が刃を滑らせた。レギアがほんのわずかに体勢を崩し、そこへ唸りを上げたアルカイドの膝が飛ぶ。
「……………っと!?」
 だが、銀の鎖に通された短剣が真っ直ぐに宙を裂き、槍を握るアルカイドの手を浅く掠めた。小さく声を上げて体を捻るアルカイドに、ぐるりと弧を描いて鎖が巻きつこうとする。
 アルカイドは嫌そうに舌打ちすると、槍の根元を両手で地に振り下ろし、生き物のように動く鎖をそこへ縫いとめてのけた。鎖とはいえ、銀に煌くそれは糸ほどの細さしかないのだから、眷族である彼の動体視力はすさまじいとしかいいようがない。
 アルカイドは口元に微笑を閃かせたが、すぐにその鎖がふっと緩み、手ごたえを感じさせなくなったことに気づいて眉を寄せた。
「レギア!」
 それも二人の策の内だったのだ。一瞬で鎖を引く手を緩めつつ、そこから槍を巻き取るように横に飛ぶリーシャに合わせて、とうに間合いから脱していたレギアが跳躍した。アルカイドは得物を押さえられて動けない。さえぎるものを持たない刃は、空気を擦りながら相手の胸に向かって鋭く走った。
 ドッと鈍い音が響き、それに追従するようにして赤い飛沫が散った。
 刃を振り抜こうとした、レギアの脇腹から。
「っ!?」
「ひゃー、やっぱ強いねぇ兄ちゃんたち」
 きゃらきゃらと笑う声が間近で聞こえ、レギアは左手で腹部を押さえながら飛び離れた。手のひらから赤い雫が滴り落ち、ひび割れだらけの床にいくつもの染みを作る。舌打ちと共に見返ったレギアが見たのは、宙へ片手をかざし、そこに何本もの光り輝く針を浮かべたカイリの姿だった。
 しかもそれだけではなく、差し伸べられた少年の腕は肩まで金属で覆われ、淡く漆黒の光を放ち始めていた。アルカイドのものとよく似た、騎士の甲冑を思わせる装甲で。
「…………うげ、『同調』してやがるのかよ。何つー可愛げのないガキ」
「子供のくせにやるじゃないか、よっぽど相性がいいんだな。頭の軽い似たもの同士で」
 リーシャもレギアの隣に着地し、鎖にからめた腕を一閃した。アルカイドの槍で地面に打ちつけられていたそれは、持ち主の意図に忠実に従ってのたうち、柄の先端部分を石畳の上で滑らせる。げ、というアルカイドの声を嘲笑うようにして、銀に煌く鎖はリーシャの手の中にシャラリと舞い戻って見せた。
 それを暢気な表情で見つめたまま、少年は異形と化した腕を見せびらかすように何度か振り、少年らしく闊達な表情で笑った。
「へへん、すごいでしょ、兄ちゃんたち! 子供だからって甘く見ないで欲しいな、こっちだってこれでメシ食ってる身なんだから!」
「どうでもいいけど、アンタたちやっぱり強いねー。『同調』も『召喚』もなしでよくもまぁ……」
 びしりと指を突きつけてみせるカイリの横で、アルカイドが感心したように頷きながら手の傷に舌を這わせた。そこから滲んでいるのは紅の血ではなく、どこまでも深く禍々しい闇色の蒸気だ。
 それを人間のような動作で何度か舐めると、アルカイドは黒く染まることもない口元に笑みを浮かべた。
「でも、それじゃあ俺には勝てないし? アンタらすっげー高位の眷族に守護されちゃってるっしょ? だからこの場合は俺のが強いよ、悪いけどね!」
 心から楽しそうに響いた声に、リーシャとレギアは軽く眉を寄せただけだった。
 虚構の眷族には厳密な階級が存在する。最下級の爵位を持たない『従騎士』に、アルカイドや、先日エデルの街で戦ったリューファリオンのような準爵位の『騎士』、貴族位と呼ばれる『男爵』、『子爵』、『伯爵』、『侯爵』、『公爵』、その『夫人』や『令嬢』たち、そして至高位の『皇族』である。
 階級が低いほどこの世界に渡ってくるのは容易であり、主たる人間が呼び出すのも簡単だ。逆に、貴族位以上の階級を持つ眷族たちは、人間が呼び出したり力を使ったりするのにも多くの制約がついてしまう。階級が低ければ低いほど扱うのが容易く、高いほどにそれが難しくなっていくのである。
「俺じゃあ、アンタらを守ってる方たちほど強い加護をカイリにあげらんないけどー。その分簡単にこっちに来られるし、カイリに力を使わせてあげられるし。アンタたちは大変っしょ? 呼び出すのにも力を使うのにも、一々すさまじい労力と時間が必要でさ!」
「おしゃべりなヤツだな、とりあえず死んどけ」
 リーシャは心から嫌そうに吐き捨てると、薄く紫がかった双眸を隣の相棒に向けた。レギアもそっけなく肩をすくめて見せる。光で作られた針のようなものに貫かれ、決して浅くはない傷口をさらしていたはずの脇腹は、新しい血が一切滲んでこないまでに回復していた。
「おい、リィ」
「ああ」
 それだけのやり取りで意思疎通を完了させ、レギアはシェルダを構えてアルカイドに、リーシャはカイリに向かって眼差しを固定した。後衛と前衛が戦った場合、このような狭い空間では後衛に勝ち目はない。ならばそれぞれが戦う相手を決め、連携を取らせないようにするのは戦闘の定石だった。
「んー、やっぱそうくるか。まあいいや、そっちの綺麗なお兄さん! あんまし俺の主を苛めないでやってよね!!」
「知るか、死ね」
 その簡単な返答が、戦闘再開の合図となった。



 廃墟となった神殿の礼拝堂に、石の破片を舞い上がらせながら二つの風が走った。
 風は絡み合いながら宙を翔け、激しい金属音と共に飛び離れて、同時に着地しながら再び跳躍する。虚構の眷族であるアルカイドはもとより、レギアも人間の筋力限界などとうに超越していた。彼の肉体と周囲の空間、その両方に干渉する圧倒的な力によって、筋肉が限界を肥えて稼動しても体が壊されることはない。
 ぼろぼろになった石畳を踏み割って飛びすさり、レギアは突き出された槍の穂先を首を捻ってかわす。だが、紙一重で避けることができたのは先端の刃のみで、交差した別の切っ先が浅く頬を掠めた。間合いを測らせないのがこの槍の最大の狙いなのだ。
 飛び散る鮮血を拭おうともせず、レギアは片足を振り下ろして体を停止させ、そのまま鋭くアルカイドの懐へと踏み込む。槍はレギアの頬を切り裂いたのと引き換えに、今は完全に宙に泳いでいるはずだった。
 だが、槍の柄の逆先端が唸りを上げて大気を裂き、レギアの左肩をしたたかに打ちつけた。刃のついていない方の先端は、そのまま打撃用に使えるように細工が施されているのだ。簡素なシャツに包まれた肩が弾け、先ほどの比ではない血が噴きあがった。
「あったりっ!!」
 アルカイドは子供のように歓声を上げたが、すぐにその血のような双眸を大きく見張った。
 レギアは左手を犠牲にしながらも踏み込みをやめず、巨大な剣を右手だけで旋回させると、一転して戻ってきた槍の穂先を払いのけて見せた。長槍と大剣が噛み合い、いくつもの火花と澄んだ音を散らす。
 このまま組み合っては不利だと判断し、レギアはわざと体を引いて相手にたたらを踏ませ、そのままの勢いで背後に跳躍した。
「うっわ、やるぅ! そうこなくっちゃっ!!」
「…………いちいちうっせーよ、舌噛んで死ねっつーの!」
 レギアが蹴りつけて飛びのいていった石畳の上に、それを追いかけるアルカイドの槍が次々に振り下ろされる。ほとんど等間隔に穿たれていく穴は、触れただけでたやすく貫通されてしまう死の爪跡だった。
 常人ならば恐怖しか感じないその光景に、レギアはすさまじい速度で飛びすさりながら薄く笑った。胸元の刻印が熱と光を発し始め、完全にはふさがっていない脇腹の傷と、骨まで見えているような左肩の傷を急速に癒していく。痛覚はとうに意識の外だ。痛いことには痛いが、戦闘に支障がない程度に抑えられ、その超人的な身体能力と集中力をさまたげることはない。
 だからこそレギアは笑みを浮かべた。頬を切り裂くような鋭い風も、ぎりぎりのところを走っていく冷徹な刃も、割り切ってしまえば精神を高揚させてくれる甘美な遊戯なのだ。
 石畳を蹴って背後に大きく跳び、列柱の一つに右手を引っかけると、そこを軸にして体を逆方向に旋回させた。一刹那の差で槍の斬撃が打ち込まれ、嘘のようにあっけなく柱が倒壊する。一つが崩れたことによって均衡を失ったのか、朽ちかけていた天井や他の柱も大きく傾ぎ、音を立てて床に倒れ始めた。
「おいおいおい、お前らの寝床が壊れてんぞ!!」
「俺のせいじゃないしっ! アンタがちょこまかと逃げ回るからだって!!」
 いいからそろそろやられてよ、と明るく叫び、アルカイドは空中で急激に『加速』してレギアに迫った。地面を踏んだわけでも、何かを足がかりにしたわけでもなく、まさに何もない宙を蹴りつけたように速度を増したのだ。見開かれた紺碧の瞳に、金属の篭手に包まれた手の中で一転し、穂先が真っ直ぐに向けられた槍が映る。喉を狙ったそれを、レギアはとっさにシェルダの刀身を垂直に立て、槍の横から伸びた刃に引っかけるようにして受け止めた。
「―――――っ!!」
 だが勢いを殺しきれず、二つの影は重なり合うようにして壁に激突した。大きく音を立てて壁がきしみ、その衝撃に耐え切れなかったように何本もの亀裂が走る。ぎしぎしと腕の筋肉をしならせて、少しずつ喉へ向かって来ようとする死の刃を押し返しながら、レギアは切れた唇の端に小さく笑みを浮かべた。
「やるじゃねえか、盗賊風情が」
「そっちこそやるじゃん、グランデュエルの討伐者」
 その言葉も、口元に閃いた鋭すぎる微笑も、両者の戦意が衰えていないことを明確に語っていた。
 ほとんど同時に槍と大剣が薙ぎ払われ、レギアはそのままシェルダを一閃し、アルカイドは石畳に手をついて体を背後へ跳ね上げた。それを追ってレギアも地面を蹴る。追う者と追われる者を入れかえ、目まぐるしく続いていく戦闘は、舞踏のような優雅さとは無縁な破壊の力の発露だった。
 刃と刃がぶつかり合い、見捨てられた礼拝堂に甲高い音が響く。不規則に奏でられるその剣戟は、さながらかつて神に捧げられていた楽曲のように、途切れることなく水気を帯びた大気を震わせていた。






    


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