ナイトメア
 第三話 静けき真夜中 1


 


 季節は夏から秋へと移り変わる時分だったが、吹きつけてくる風は乾いていてひどく涼しい。
 夕方ともなれば肌寒さを覚えるほどで、夏用の薄着に上着を重ねている人の姿も目立った。宿屋の窓辺にもたれかかり、夕暮れ時の光と心地よい風に髪をなぶらせながら、リーシャは整然と並ぶ家々に不機嫌そうな瞳を向けていた。
 田舎町のエデルやその他の小国とは比べ物にならないほど、美しく整えられた街並みだった。道はまっすぐではなく、あえてゆるやかな弧を描くように作られ、その両端に煉瓦作りの家がゆったりとした間隔で並んでいる。街の美化も徹底されているのか、石畳で舗装された道にはゴミ一つ落ちていない。いたる所に街路樹が植えられ、その合間を縫うように優美な意匠の燭台が立ち、無機質ではない暖かさを演出しているように見えた。
 平和を絵に描いたような光景だったが、リーシャはそれを親の仇でも見るような目で睨みつけ、嫌そうな動作で室内に眼差しを戻した。
「………で、おれたちにこれからどうしろって? グランデュエルの聖皇省のシザーのクソは」
「オレが知るかよ。アイツの指令なんざ、いつも『どこそこに行け、あとは現地で調べろ、以上』だろうが」
「ああそうだな、お前に聞いたおれが馬鹿だったな。せめて人間並みの知能を持った生命体に聞くんだった、悪かったな」
「お前はオレと殺し合いがしたいんだな? つーか、苛立ってるからってオレに当たるんじゃねえよ」
 相棒に負けず劣らず不機嫌に返して、レギアは寄りかかっていた壁から長身を起こした。
 至宝たる『杯』、『盾』、『剣』を司る竜の守護三国のうち、『盾』の公国と呼ばれるラジステル。二人が宿を取っているのは、そのラジステルの北に位置する地方都市だった。
 観光に来たわけでも、自分たちの意思で足を踏み入れたわけでもなく、討伐者としての任務のためだ。だが、二日ほど前にディナリスに続く山道でカイリという少年に襲われ、彼を守護する虚構の眷族と戦闘になった身としては、できることなら『盾』の公国には近づきたくなかった。カイリに「グランデュエルの討伐者を捕らえて欲しい」と依頼したのは、十中八九ラジステルに関わっている虚構の眷族だからだ。
「本っ当に冗談じゃないな。絶対に特別手当を要求してやる。っていうかあの年齢詐欺オヤジ、今度会ったら裸に剥いてグランデュエルの礼拝堂の十字架に逆さに吊るしてやる」
「やめとけって、シザーのヤツを守護してんのは『公爵』だぜ? 何で嫌がらせて命がけの戦闘に突入しなきゃなんねえんだよ、ありえねー」
「黙れ、そしていきなり窓から飛び下りたくなる衝動にかられて速やかに死ね。……………で、どうでもいいが、お前はいつまでここにいるつもりなんだ、ピュイ?」
 相棒の青年に冷たく吐き捨ててから、リーシャは思い出したように秀麗な眉を寄せ、窓の下に置かれた小さな卓上に視線を落とした。
 木作りの卓に座り込み、真っ赤な林檎を一心不乱にかじっているのは、雪のように白い毛並みを持つ小さなねずみだった。リーシャの声に反応したのか、丸い瞳で二人を見上げて、ピィと可愛らしい鳴き声を立てる。
 ただのねずみではない証拠に、その丸みを帯びた背には二枚の翼が広げられ、時折思い出したようにパタパタと動いていた。鳥の翼を薄い金属で象ったような、どこか作り物めいた瀟洒な羽根。ピュイ、と呼ばれたねずみはそれを羽ばたかせて卓上から飛び上がると、リーシャの滑らかな白い頬に擦り寄ってみせた。
「おいピュイ、そんな物騒な人間に甘えてるといつか食われるぞ、お前」
「誰が食うか、こんなナリでも『虚構の眷族』だろうが、こいつは」
 リーシャは指を伸ばしてピュイの羽根をつまむと、無造作にレギアに向かって放り投げた。小さな体はくるくると宙を舞ったが、それでも途中で体勢を立て直し、今度はレギアにじゃれつくようにして周囲を飛び回る。
 正式な名はピューイ・リーリー。『位階なし』と呼ばれる最下位の虚構の眷族で、グランデュエルの聖皇省と二人をつなぐ伝令だった。戦闘能力は皆無に等しいが、言葉や思念、その目で見た光景などを映像として記録し、好きな時に再生できるという力を持つ。聖皇省の長官にして教会の枢機卿である、シザー・ジェルマンの『使い』である。
 それを指でつつきながら、レギアはピュイがもたらした『指令』の内容を思い出して眉を寄せた。


 ピュイが二人のもとに現れたのは、昨夜遅く、すでに二人が眠りについた頃だった。二人の気配をたどり、『転移』を使って宿屋の一室に侵入してのけたのである。
「何しに来たんだよ、お前………」
 レギアのうんざりした声にも、リーシャの殺意さえこもった視線にも頓着せず、二人の安眠を妨害したピュイは楽しそうに部屋中を飛び回った。散々な扱いを受けているにも関わらず、ピュイはこの二人の討伐者たちに懐いているのだ。
 リーシャの前を横切ろうとして捕獲され、丁寧とは言い難い動作で寝台の上に放り出されても、ねずみの姿をした眷族は嬉しそうにピィピィと鳴くだけだった。億劫そうに前髪をかき上げ、紫がかった銀の瞳を物騒に据わらせると、リーシャは力を込めずに小さな体を足で踏みつけた。
「うるさい馬鹿ねずみ。………っていうかお前、何しに来たんだ? また仕事か? 仕事なのか? うわクソウゼェ、シザーに『超過労働だふざけんな死ね』って言っとけ」
『―――――うるせーガキ共、討伐者がそれくらいの労働でガタガタ言ってんじゃねえ。むしろ働け、疲労で骨と皮になっても働け、でなきゃ給料やんねーぞコラ』
 リーシャに答えたのはピュイの鳴き声ではなく、突如として響いた低い男の声だった。その声が聞こえた瞬間、白皙の美貌が目に見えて引きつり、レギアも心から嫌そうに顔を片手に埋める。
 ピュイの小さな体が光を放ち、その周囲に飛び回る細かな文字列が絡み合って、宿屋の室内に一人の男の姿を浮かび上がらせていた。
『仕事だ、ガキ共。嫌とは言わせねーぞ、お前らに拒否権はねえからな』
 そう言って小さく笑い、男は立体映像とは思えない動きで顎を撫でてみせた。
 背の半ばまで伸ばされた銀髪に、髪よりもややくすんだ同色の瞳。髪は美しい鋼色の光沢を持っていたが、長髪というよりも伸ばしっ放し、と言った方がしっくりくる有様だった。荒削りな面差しは年齢を感じさせず、見苦しくない程度に伸ばされた無精髭とも相まって、男を青年のようにも壮年のようにも見せている。
 名をシザー・ジェルマン。枢機卿の証である黒い僧服に身を包み、くつろいだ様子で机の上に頬杖をついたシザーは、くすんだ色合いの銀の双眸をゆったりと細めた。それをひややかな瞳で一瞥して、リーシャは年齢不詳の上司に儀礼的な笑みを向けた。
「お久しぶりですね、枢機卿猊下。二ヶ月ほど前の『砂漠の真ん中にはぐれの眷族がいるかもしれないから、とりあえず行っとけ』とかいう、クソ意味不明な指令以来でしたっけ? …………っていうかおれの平和のために今すぐ死ね、この破戒坊主が」
『おーおー、ガキが一人前に吼えるじゃねえか。言っただろう、お前らに拒否権はねえんだよ。なあレギア?』
「何でそこにオレに振るのか、オレのまっとうな脳は激しく理解を拒否してんな。で、今度は何の仕事だ? 今度は海底にでも沈んで来いってか?」
 敬意の欠片も含まれていない部下の態度に、シザーはやる気がなさそうに欠伸をかみ殺した。その拍子に肘が当たってしまったのか、机に積み重ねられていた紙の束が大きく傾ぎ、すさまじい音を立てながら床へ崩れ落ちていく。
 映像が忠実に映し出した室内は、小規模の台風が暴れまわったように物が散乱し、書類や無駄紙の束が天井近くまで積み上げられていた。
『別に沈みたいなら沈んできてもいいぜ、俺は止めねーよ。俺が頼みたい仕事は別だがな』
「だったら早く言え。おれは眠いんだよ、お気楽な身分の枢機卿さまとは違って」
 紫銀の瞳が剣呑な光を帯びたが、シザーは飄々とした態度を崩さなかった。
『そうだな。じゃあとりあえず、『盾』の公国ラジステルに行ってもらおうか』
「断る」
 二人の声が見事に重なった。すぐにきつく眉を寄せ、不本意そうな視線を交し合う二人に構わず、シザーはやや癖のある銀髪をもてあそびながら言葉を続ける。
『仕事の内容は行きゃあわかる。まあ、ちょっと油断したら死にかけるかも、ってくらいは簡単な仕事だ。緊張する必要はないが、死ぬ場合は事前に連絡を入れるよーに。こっちも色々と面倒だからな』
「おいレギア。お前ちょっとひとっ飛びしてこいつを殺して来い」
「お前が行け。むしろ刺し違えて来い、オレのために」
『そーかそーか、喜んで引き受けてくれるか。優秀な部下を持って嬉しい限りだな。ということで、次の目的地は『盾』の公国ラジステルだ。行動はお前らの判断に任せるが、何があっても仕事が一段落するまではラジステルを出るな。これが唯一の命令だ。何を持って一段落とするかは各自判断。以上』
 リーシャとレギアの会話をすべて無視し、枢機卿は強引に話をまとめてみせた。そのまま威厳も何もない仕草で一つ伸びをして、反対側に積まれていた書類まで床に突き崩してしまうと、何かを思い出したような表情でにやりと笑う。
『そういや、お前らの寄こしたガキは無事に到着したぜ。転移でいきなり聖皇省のど真ん中にな。中々見込みのありそうなガキだ、いい討伐に仕上げてやるから楽しみにしてな』
「…………ご愁傷様だな、カイリ」
 こめかみを押さえてリーシャが呟けば、レギアも同感だというように深く頷いた。それに喉の奥で低く笑い、シザーは猊下の称号を帯びる枢機卿とは思えないほど荒っぽい態度で、伸ばしっ放しになった長い銀髪をかき上げた。
『じゃあな、ガキ共。健闘を祈る』
 その短い言葉だけを残して、精巧な立体映像は現れた時同様、唐突に消失した。


「やべぇ、思い出しただけで怒りが湧き上がってきやがった」
 ぼそりと呟いて嘆息したレギアに、リーシャも舌打ちの音を響かせながらピュイを見遣った。昨夜から帰る様子を見せない使い魔は、相変わらず無邪気な様子で林檎に取りつき、小さな歯で一生懸命にそれをかじっている。
 八つ当たりのようにその頭を指先で弾くと、リーシャは上着を手に取って窓辺から離れた。
「ものっすごく聞きたくねえ上に興味もないが、相棒として一応聞いてやる。どこ行くんだ?」
「すさまじく答える必要性が見つからない問いだが、相棒として一応答えてやる。ラジステルの宿屋は放火したくなるほどに高いからな、仕事が終わるまでの資金稼ぎだ」
 その言葉だけで通じたのか、レギアは興味のなさそうな表情で頷いた。何をするのか、場所はどこなのかといった質問はせず、相棒の方を見もせずにひらひらと手を振る。
「途中で暴走馬車に轢かれて死ぬことを祈る」
「お前が死ね。発作的にグランデュエルに飛んでシザーと刺し違えろ」
 いつも通りの言葉を交し合ってから、リーシャは振り返らずに木作りの扉をくぐった。すでに空は朱金色に染め上げられ、広い廊下を淡い光の底へ沈めていたが、その足取りはわずかにも鈍らない。胸元で揺れる短剣と鎖に指を滑らせると、リーシャは誰もいない空間に向かって呟きを零した。
「………どうでもいいが、お前を『呼ぶ』ような事態にならないといいけどな。なあ、レティ?」
 その言葉に答える声はなかったが、左目をまたぐように描かれた漆黒の刻印が輝き、どこか柔らかな光を夕陽の中に溶かしていった。






    


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