ナイトメア
 第三話 静けき真夜中 2


 


 リーシャが宿屋を出て向かったのは、酒場や食堂の並ぶ煩雑な一角だった。
 店内にはすでに明かりが灯され、客を招く娘や主人の声が元気よく響いている。袖を引いてくる腕を適当にあしらいながら、リーシャは同じようなつくりの酒場を一つ一つ覗き込み、『盾の天使』という看板の下げられた店の前で足を止めた。
 店内に視線を向けると、奥まった位置でひっそりと壁にもたれ、弦楽器を爪弾く楽士の姿が見えた。流れてくる旋律は中の上といったところだろう。リーシャは瞳を細めて薄く笑い、慣れた動作で肩までしか高さのない扉を押し開けた。
 ちらほらと向けられた眼差しのすべてが、リーシャの美貌を認めて驚愕に見開かれた。それらを当然のように無視し、そこそこ混みあった店内を縫うようにして進むと、リーシャは楽士がもたれている壁の前で立ち止まった。
「少し、いいか?」
 ちょうど一つの曲が終わったところを見計らって、リーシャは身軽な動作で薄汚れた煉瓦の壁にもたれかかった。リーヴ、と呼ばれる弦楽器を奏でていた楽士が、驚いたように瞳を瞬かせてリーシャを見上げてくる。
「…………俺にかい?」
「他に誰が?」
「いや、それはまあ………」
 楽士は困ったような表情で目じりを下げた。平凡な黒髪に黒い瞳、お世辞にも美男子とは言えない丸みを帯びた顔立ち。それでも、困惑に細められた目にはえもいわれぬ愛嬌があり、すんぐりとした体つきも人に安心感を与える温かさを滲ませていた。年の頃は四十前後といったところか。
 にこりと華やかな微笑を浮かべると、リーシャは男が先ほどまで弾いていた楽器を指差して見せた。
「いい腕だな。リーヴか?」
「………お、わかるのかい、お兄さん? 嬉しいね、こいつはあんまり人には知られてないから」
 男はすぐに警戒を解いたようで、笑いながら手にした弦楽器を持ち上げた。絃が十本だけ張られた金の竪琴だが、一般的なものよりもやや小さい。
 普通の大きさの琴はリュネインと呼ばれ、主に吟遊詩人や宮廷音楽家が好んで使っていた。リーヴはリュネインより使い勝手がいいが、その分安っぽい楽器と思われがちで専門家には好かれないのだ。
「俺だってリュネインが弾けないわけじゃないんだけどね。でもどうしてだか、あの立派な楽器よりもこいつの方が好きなんだよねぇ。やっぱり音色が素朴だよ。こういう酒場で演奏させてもらうだけなら、リュネインよりもリーヴの方がずっといいと思うね、俺は」
「そうだな。リーヴは元々専門家ではない一般大衆向けに作られた楽器だ。その分音色も素朴で、人の感性に訴えかけるものがあるんじゃないか?」
「…………へぇ、お兄さん詳しいね。ひょっとして同業者かい?」
 小さく黒い瞳を見張った男に、リーシャは紫銀の双眸を細めて笑みを作った。
「まあな。――――それで、ものは相談なんだが」
 そこで思わせぶりに言葉を切り、首を傾げながら微笑を深くした。自分の容姿が人に与える印象を知っていて、それをとことん利用しようとする時の表情だ。案の定、魂を奪われたように感嘆の息を吐いた男を見下ろし、リーシャは花びらのような唇を開いた。
「今だけでいい、おれと組まないか?」
「組む? …………おや、お兄さんは歌い手だったのかい、それとも舞い手?」
「どちらでも。だがそうだな……今日は歌い手の方だ、とでも言っておこうか」
 そう言って壁から身を起こすと、リーシャは燭台の明かりに透けて金に輝く髪をはらい、楽士の男に向き直った。今は単なる装飾品として胸元を飾る鎖が、その動きに合わせてシャラシャラと音を立てる。
「見たところ、あんたは誰かと組んでるわけじゃないんだろ? 今だけおれと組まないか? 稼いだ金は半々で。そうしたらいつもの倍以上の稼ぎを約束するが、どうだ?」
 揺るぎない自信に満ちたリーシャの言葉に、男は大げさな仕草で眉を持ち上げた。倍以上の稼ぎ、というのは少し誇張がすぎると思ったのか、男はわずかに疑うような表情を閃かせる。だが、すぐに大らかな動作で笑い声を立てると、そのままぐっと親指を立てて見せた。
「いいよ、乗ろう。どうせ今日はそろそろ店じまいかな、と思っていたところだ」
「よし、契約成立だな。おれはリィだ、あんたは?」
 リーシャ・ラーグナー、という本名を名乗ることはしない。普段なら特に気にもしないが、ここは大陸でも有数の大国ラジステルなのである。『グランデュエルの討伐者』としての彼を知っている者、あるいは『昔の』彼を知っている者がいるかもしれない場所で、うかつに名を名乗る気にはなれなかった。
「リィか。俺はウィグド。ウィグド・ラッシュだ。よろしく、リィ」
「ああ、よろしく、ウィグド」
 にこやかに差し出された手を握りながら、リーシャは内心で会心の笑みを閃かせた。


 照明の抑えられた店内に、ふわりと透明な音符が踊る。それだけならば先ほどと変わらない光景だったが、楽士の隣に見慣れない青年が立っているのに気づき、『盾の天使』に集まった客たちは興味を引かれたように視線を向けた。
 酒場の明かりが白金色の髪を金に波立たせ、空気のわずかな動きに合わせてさらさらと輝きを散らしている。まるで天から降り立った天使のような美貌に、女性客の間からは熱い感嘆の溜息が、男性客の間からは嫉妬と押さえ切れない驚きの声が上がった。
 それに営業用の笑みを向けておいて、リーシャは片手を胸の前に添えて優雅に礼をした。何かの余興が始まる予感に、客だけではなく給仕の娘までもが足を止めて手を叩く。
 期待と関心の拍手に答えたのは、ゆるやかに音階を吊り上げたリーヴの音色と、静かに大気を揺らし始めた歌声だった。
「……小鳥は遥けき空をふり仰ぎ
 傷ついた羽根を休めて眠りにつくだろう
 抱きとめる大地はあまりに優しく
 御使いの子守唄はなにより美しい」
 歌声が流れ始めた途端、ざわめいていた客たちは水を打ったように静まり返り、酔っ払った赤ら顔の男たちも騒ぎ立てるのをやめた。何かを喋ろうとする者は隣の客に鋭く制止され、慌てて自らの口を両手で抑える。何が始まったのか、と店の奥から料理人たちが顔を出し、そのまま動くことを忘れたように立ち尽くす。強制的に作り出された静寂の中、ひたすら耳に心地よい歌だけが響いていった。
「野辺に暖かなみひかりが降り注ぎ
 小鳥はやわらかな恵みの中で
 赤い血溜まりに目を閉じながら
 この時ばかりは千切られた羽根のことも忘れる」
 それは高くも低くもない、人が最も綺麗だと感じる響きで綴られる歌だった。
「ああ大いなる主
 いと高き方は
 傷ついた荒野の鳥さえ憐れみたまう
 ならばいと高き父よ
 憐れみたまえ
 さびしさに縋るこの憐れな子らを」
 リーシャは神の存在など信じていない。そうだというのに、教会の巫女姫よりも神父よりも美しく、透明な歌声で賛美歌を奏でてみせる。その理由を知っているのは、相棒であるレギアともう一人の人物だけだった。それは絶望ですらない皮肉と揶揄、そして天へと突きつけた鋭すぎる挑戦だ。
「みどり児へ捧げる誉め歌だけが
 やがて眠りについた小鳥を導くから
 憐れみたまえ
 二度とは舞い上がれない地上の羽根を」
 ゆっくりと最後の一節を口にして、リーシャは始まった時のように音もなく腰を折った。ピン、とリーヴが高い一音を爪弾き、歌が終わったことを周囲へ知らせる。
 人々は呆然とした表情で固まり、脳裏に走った甘美な戦慄に酔いしれているようだったが、やがてすさまじい勢いで立ち上がって歓声を上げた。次々に金貨が投げ込まれ、リーシャと楽士の足元に黄金色の山を作っていく。ウィグドはぎょっとしたように目を見開いた。イオス金貨一枚でかなり上質な宿が取れるのだから、目の前の金貨の山を見て驚くのも無理はないだろう。
 そのまま有名な恋の歌から勇ましい軍歌、優しい子守唄、吟遊詩人が歌う英雄譚などを立て続けに歌い、リーシャはあっという間にイオス金貨とセレナリオン銀貨の山を築いて見せた。
 さすがに疲れた、と理由でリーシャが歌うのをやめた時は、すべての客が椅子を蹴って惜しみない拍手を送ったほどだった。ウィグド自身もリーヴを置いて手を叩きながら、あっさりした表情で賛辞を受け止めている青年を見上げた。
「……………いやぁ、君はすごいな、リィ。ひょっとして宮廷かどこかで訓練を受けた専門の歌い手なのかい?」
「別にそういうわけじゃない。まあ、違うとも言い切れないがな」
 横から差し出されたグラスを受け取り、リーシャは男の方を見もせずにさらりと答えた。あれだけの歌を連続で歌ったにも関わらず、圧倒的な美声は掠れるどころか響きを損なうこともない。次々に差し出されるグラスを豪快に乾してから、リーシャは手にしたイオス金貨を指で弾き、宙を舞うそれをパシリと手で受け止めた。
 稼ぎは半々で、という約束だったが、ウィグドが分けた硬貨は明らかにリーシャの取り分の方が多かった。それに気づいていながら何も言わず、もたれかかっていた煉瓦の壁から背を離すと、リーシャは重くなった懐を確かめて薄く笑った。
「それじゃあ、世話になったな、ウィグド」
「何だ、もう行くのかい? ゆっくりしていけばいいじゃないか」
 酒くらい奢るのに、というウィグドの言葉に、リーシャは軽く手を振ることで謝辞の意を示した。
「それはありがたいが、いい加減眠い。最近寝不足だったからな。宿に帰って寝る」
「…………それはそれは」
 あまりにも美貌の青年に似合わない理由だったためか、ウィグドは小さく吹き出した。それに軽く肩をすくめると、リーシャは白金色の髪を揺らして踵を返す。酒場を後にしようとする青年に、周囲の客からは落胆と引き止める声が上がった。
「リィ」
 おざなりに笑みを向けながらも歩き去ろうとする背に、ウィグドの穏やかな声がかけられた。紫銀の瞳が振り返ったのを認めて、楽士の男は黒い瞳をゆったりと細める。
「また聞かせてくれるか? 君の歌は綺麗で、強くて、そしてとても破壊的だった。うっとりと聞き惚れながらも頭を壊されるかと思ったよ。…………可笑しいと思うかもしれないが、ぜひもう一度聞かせてほしい」
「そうだな」
 奇妙な賛辞の言葉を受けて、リーシャも鋭く瞳を細めて見せた。そのまま視線を戻して歩みを再開し、一時だけ相棒であった男に小さく片手を挙げる。
「機会があればまた。―――――おれは歌い手じゃなく、破壊者だからな」
 最後の台詞はあまりにも小さく響きすぎて、ウィグドには届かずに霧散して消えた。

 
 『盾の天使』という看板の下がった酒場を出ると、かなり温度の下がった夜風が吹きつけてきた。乱された細い髪を片手で押さえ、上着の上からそっと懐に触れてみる。 そこに感じる重さは、夕暮れ前と比べると倍近くに跳ね上がっていた。
「………まあまあだな」
 くすりと口元を綻ばせ、リーシャは綺麗に舗装された石畳の道を歩き出した。相棒が待っているはずの宿屋へは足を向けず、当然のような足取りで入り組んだ路地裏に滑り込む。
 さすがに路地裏までは管理が行き届かないのか、適当に積まれた木箱などが道幅を狭くしていたが、美貌の青年は暗がりを見つめて淡く笑っただけだった。やがて目の前の道を煉瓦の壁がふさいでしまい、これ以上奥へは進めなくなったところで、リーシャは片足を軸にくるりと背後を振り返った。
「こんな夜更けにご苦労なことだな? ラジステルの王はずいぶん人使いが荒いと見える」
 嘲るようなリーシャの声に、落ちかかる暗闇がわずかに揺らいだ。
「せっかく人のいないところまで来てやったんだ。礼くらい言ってしかるべきなんじゃないのか? っていうかとっとと出て来い、おれだって暇じゃないんだよ、このグズが」
 ボコリと音を立てて、黒々とした闇が盛り上がった。月明かりさえ届かない地面から、壁から、冗談のような不気味さで落ちかかった影がせり上がってくる。それは腕の形を取り、先端を五本の指に枝分かれさせて、縁に手をかけるようにしながら少しずつ全身像を現し始めた。
 頭部から爪先までをすっぽりと黒い布で覆い、目元だけを外気にさらした小柄な人影。それがずるずると影の中から這い出してくる様は、気の弱い女性が見たら卒倒しかねないほどに気味の悪い光景だったが、リーシャは形の良い眉を寄せただけで低く舌打ちした。
「何てすさまじく悪趣味な『転移』だ。むしろどういう趣味だ? それがお前らの趣向なのか? はっきり言って意味不明だから普通に出て来い、普通に」
 吐き捨てるようなその声には答えず、影をまとった人影はリーシャを取り囲むように展開して見せた。じりじりと高まっていく明確な殺気に、リーシャは鎖を手の中に落としながら微笑を閃かせる。
「まあいい。おれもラジステル側には聞きたいことがあったしな」
 狭い路地裏に響いたのは、どこまでも研ぎ澄まされた刃のような声だった。
「来い。相手になってやる」






    


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