ナイトメア
 第三話 静けき真夜中 3



 

「さて、と」
 窓枠に長身をもたれかけさせ、暮れていく空を見るともなしに見つめていたレギアは、短い呟きと共に背後を振り返った。
 とうに相棒の気配は人ごみに紛れ、レギアの鋭い感覚をもってしても捉えられなくなっている。どこへ向かうのかは尋ねなかったが、今までの経験から予想するのはたやすかった。いつものように歌い手や踊り子の真似事をし、仕事が終わるまでの滞在費を稼いでくるつもりなのだろう。人間性はどう考えても欠陥品だが、リーシャの歌や舞いの技量は最上級の一言に尽きる。しばらく生活費には不自由しなくてすみそうだった。
 だが、レギアは嫌そうな表情を隠そうともせずに嘆息し、あの野郎、と低く呟いた。
「オレに全部押しつけるつもりで逃げやがったな。くそ、後でぜってー殴る。っつーか殺す」
 舌打ちと共に短く吐き捨て、レギアは固く閉ざされた扉に紺碧の瞳を向けた。
「出て来い。さっきから人の部屋を覗き見しやがって、胸糞悪ぃんだよ。このボケが」
 その声の余韻が消える前に、林檎の芯を未練たっぷりにかじっていたピュイが顔を上げ、慌てたようにレギアの肩へと飛び乗った。
 次の瞬間、じわりと音もなく空間が滲み、そこに長方形を描くようにして線が走った。裏側からナイフを入れられ、一部を四角く切り取られた絵画、という表現が一番近いかもしれない。視線の先にあったはずの扉に別の景色がかぶさり、涼やかな夜風が吹き込んで、空気が動くはずのない室内でレギアの髪をそよがせた。
 それを押さえもせずに瞳を細めると、切り取られたそこから覗く煉瓦の家々、ゆるやかに曲がりくねった歩道、そして石畳の上に佇む人影にひややかな眼差しを放った。
「何だ、リィの馬鹿に恨みを持ってやがる刺客か? だったらあいつは留守だぜ。いる時にまたきやがれ、そんときゃオレも手伝ってやるから」
「…………いいや」
 冗談とも本気ともつかない言葉を受けて、その人物はゆるく首を傾げてみせた。四角い亀裂の向こうには街並みが広がり、空には煌々と輝く月さえ見えて、まるでそこに縁も厚みもない窓が出現したように見える。
 自然な動作で『シェルダ』の柄に手を伸ばしたレギアに、その人物はゆっくりと唇の端を持ち上げた。
「私は君に用があって来たんだ。お邪魔してもいいかな、レギア・ブライト?」
「帰れ、つっても入り込んでくる気満々だろうが。だったら一々聞くんじゃねえよ、時間の無駄だ」
「これは手厳しいな」
 くすくすとおかしそうに肩を震わせると、その人物は手を胸の前に添えて優雅に一礼した。
 そのままひどく無造作に一歩踏み出し、長方形の切れ目をくぐって室内に入り込んでくる。絵の中から人が抜け出してきたような、何とも表現しがたい違和感のようなものを感じて、レギアは油断なくシェルダを構えながら眉を寄せた。
 レギアの前に立ったのは、ごく平凡な顔立ちをした青年だった。毛先がはらはらと首筋に遊ぶ黒髪に、光の加減では金にも見えるだろう、琥珀に近い薄茶色の瞳。生え際の一房だけを長く伸ばして、そこに鎖を思わせる銀の飾りと、等間隔に通された水晶粒を巻きつけている。
 それが濃紺色の騎士服に落ちかかり、動くたびにシャラリと小さな音を立てて、青年の立ち振る舞いの優美さを際立たせているようだ。
 その中で何よりレギアの目を引いたのは、騎士服の上腕部分と胸元に銀糸で縫い取られている、盾と交差する美しい竜の紋章だった。
「………ラジステルの騎士、それも濃紺色の制服ってことは王直轄の護衛部隊か。それがオレに何の用だ? こんな夜更けに不法侵入までしでかして」
「その問いに答える前に、一つ、試しても?」
「あ?」
「君が本物であるかどうか」
 青年が静かに呟いたのと同時に、金属同士がぶつかり合う澄んだ音が響き渡った。
 見惚れるほど柔らかな動作で腰の後ろに手を回し、そこから隠し武器の中剣を抜き放った青年が、一瞬で間合いを詰めてレギアに切りかかったのだ。高速で振り上げられたシェルダと中剣が噛み合い、広くもない室内に細かな火花を散らす。
 刃をひねって中剣を跳ね上げ、そのまま横薙ぎに切っ先を一閃させるが、青年は上体を後ろに倒すようにして床に手をつくと、体を一転させてその一撃をかわしてみせた。追いすがって振るわれた大剣を新たに抜いた短剣で受け、青年はうまく衝撃を流しながら横手へ飛ぶ。水晶の通された銀の髪飾りが宙を舞い、青年の動きに合わせて綺麗な音を立てた。
 鈍い音と共に青年の背が壁に当たり、その首筋へシェルダの刃が突きつけられた。すっとレギアの双眸が細められ、柄を握った右手にかすかな力がこもる。男にしては赤い唇を歪めると、青年は平凡な面差しを柔らかな笑みに彩らせた。
「……………さすが。でも勝負は引き分けかな?」
「そういうことにしておいてやらなくもねえぜ。まあ、このまま続けても、てめえより一瞬早く首を掻っ切ってやる自信があるがな」
「それは怖いな。ひとまずは剣を引いてくれないか、私の目的はもう達成されたわけだし」
 レギアの頭を抱き寄せるようにして片腕を伸ばし、背後からその首に短剣を突きつけていた青年は、緊張感の含まれていない表情で穏やかに笑った。
 何のためらいもなく短剣を下げると、首筋に添えられたシェルダに視線を落とし、外してくれないか、と目線で訴えてくる。レギアは興をそがれたように眉を上げ、白金色に輝くシェルダを引いて鞘に収めた。
「さすがだね、レギア・ブライト。やはり君は本物のようだ。いや、私もかなり迷ったんだよ? 君たちがこのラジステルに入った、という報告があったのだけど、嘘か本当かわからなくてね。とりあえずお邪魔させていただいて、実力を見て判断しようと思ったんだ。本物だったようでよかったよ」
「そりゃあよかったな。…………で、オレに何の用があるんだ? まさかオレが『本物』かどうか調べるためだけに、こんな時間にノコノコやって来て斬りかかってきやがったのか?」
「本当に手厳しいね。でも、まあ」
 どこか芝居めいた表情で苦笑すると、青年は短剣を鞘に戻しながら腰を折り、レギアに向かってもう一度礼を取った。
「突然斬りかかったことと、夜分遅くに押しかけてしまった非礼は詫びなくてはならないね。どうか許してほしい、『杯』の聖皇国グランデュエルの討伐者、レギア・ブライト。―――――いや」
 ゆっくりと薄茶色の瞳が持ち上げられ、室内の明かりを反射して金色に煌いた。特筆すべき美貌でも、一目見たら忘れられない印象的な造作でもないが、その瞳に宿る光だけは不思議と鮮烈だった。
「聖皇国の守護者の一人、誉れ高き『十字架の』お方」
 レギアのまとう空気が硬度を増し、紺碧の双眸に冷たい光が閃いた。それを臆することなく受け止めて、青年はレギアに向かって片手を差し伸べてみせる。まるで貴婦人を踊りに誘うような、どこまでも洗練された動作で。
「ラジステル王、わが君レナ・シアリースさまがあなたにお会いしたいとのこと。どうぞ私とご同行願えませんか、十字架の君?」
 ひややかに沈黙するレギアにかわって、いつの間にか服の中にもぐり込んでいたピュイが顔を出し、青年を睨むようにしながらピィ、と鳴き声を上げた。


 夜がゆっくりと両腕を広げ、煉瓦作りの家や石畳で舗装された道、明かりの灯され始めた燭台、それらすべてを闇の底へ沈めていく。
 昼間よりもずっと涼しさを増した夜風が吹き、二種類の黒髪を空へ巻き上げた。硬質な輝きを持った漆黒の髪に、柔らかそうでありながら艶のない黒の髪。それを細い手で梳きながら、青年は控えめに明かりの灯った食堂の前で足を止め、背後のレギアを振り返った。
「すいぶんと不機嫌な顔だね、十字架の君?」
「その呼び方をやめろ、わざとらしくて虫唾が走るっつーの。で、何だ? こんなチンケな店にあのラジステル王がいらっしゃりやがるのか?」
「そう、いわゆるお忍びというやつだよ。くれぐれもこの会談のことは内密にね、これもわが君の酔狂だから」
「会談、ねぇ……」
 嘲るようなレギアに声に、青年はそうだよ、と呟いて微笑しただけだった。そのまましっかりと閉ざされた扉に手をかけ、もったいぶった動作でそれを押し開ける。中から目に優しい光が零れたが、食堂にありがりな喧騒が耳を打つことはなかった。
「わが君、レナ・シアリースさま。グランデュエルの十字架の君、レギア・ブライト殿をお連れしました。………入ってもよろしいですか?」
「ああ」
 青年の声に答えたのは、遠くに轟く遠雷にも似た低い声だった。
 レギアは青年を押しのけるようにして扉をまたぐと、敬意も遠慮もない眼差しで店内を眺めやった。自然の木目を装飾として使った飴色の壁に、同じ材質の木から削り出された卓と椅子、そして目に染み入る温かな照明が、客のいない食堂を閑散とした空気から救っている。
 その光がちょうど集まる位置で椅子に腰かけ、にこりともせずに入ってきたレギアを見つめているのは、座っていてもわかる長躯に引き締まった手足を持つ男だった。年の頃は三十代前半から後半の境目、といったところだろうか。レギアはかすかに紺碧の瞳を見開いた。
「あんたがラジステルの王、レナ・シアリースか? …………へぇ、ずいぶん噂とは違うんだな」
「ラジステル王は病弱ゆえ、即位してからもほとんど外へ顔を出さない、という噂か? あれならばただの騙りだ、私には別に、あまり顔を出すわけにはいかない理由があるでな」
 そう言うと、レナ・シアリースは深く腰かけていた椅子から立ち上がり、扉の前で立ち止まっているレギアの前に並んだ。
 レギアはかなり長身の部類に入るが、シアリースはその彼と比べても拳一つ分ほど背が高かった。短く刈り込まれた茶色の髪に、何の感情も浮かんでいないような青灰色の瞳。豪奢な衣装に身を包み、床に引きずるほど長い藍色のマントをまとっていても、その硬い雰囲気は王というよりも武人のそれにに近かった。
 荒削りだが確かに整った面差しを見上げて、レギアは軽く唇の端を歪めてみせた。
「その王様がオレなんかに何の用だ? こちとら最近寝不足で眠いんだよ、用件があんならとっとと終わらせやがれ」
「ちょっとその言い方は無礼じゃないかな、レギア・ブライト」
 自然な足運びでレギアの隣に並びながら、青年がたしなめるような表情で呟いた。だがその手は腰の後ろに回され、金にも見える薄茶の瞳が静かに細められている。
「………よい、ルル。いきなりこんな場所まで呼び出したのは私だ、非はこちらにある」
 シアリースの低い声に、ルル、と呼ばれた青年はあっさりと剣から手を離した。
「御意に、わが君」
 何がおかしいのか、ルルは小さく肩を揺らして笑い声を立てた。胡散臭いものを見るような目でそれを見遣り、レギアは悠然と立っているシアリースに視線を戻した。
 ラジステル王、レナ・シアリース。一年ほど前に即位し、『緋月の守護者』の大幅な人員の増強、懸案されていた『剣』の大帝国ユグレストとの一時休戦協定締結、『杯』の聖皇国グランデュエルに対する同盟を求めての使者派遣など、短い期間で多くの功績を立てた名君である。
 だが、レナ・シアリース本人が公の場に姿を現すことはほとんどなく、式典や国際的な会議でさえも代理人や影武者が出席していた。当然のこととしてそれは列国の非難を招いたが、シアリースは「時が来るまでは」の一点張りで、国民ですらその姿かたちを知らないという有様だった。
 その王が、今こうしてレギアの目の前にいる。偽者である可能性も考慮に入れつつ、レギアは楽しげな微笑を過ぎらせた。それを見ても表情を揺らさず、シアリースは生真面目な動作で浅く頭を下げた。
「突然呼び立てたりしてすまなかった、十字架の」
「…………あー、その呼び方やめてもらえるっすか? オレは今はグランデュエルの討伐者なんで、一応」
 ほんのわずかにだが、レギアは口調を改めて漆黒の髪をかき上げた。シアリースは笑いもせずに視線を外すと、ルルに青みがかった灰色の瞳を向ける。ルルは黒髪を揺らして頷き、レギアの横をすり抜けて食堂の奥へ姿を消したが、すぐにワインの瓶とグラスを抱えて戻ってきた。
「どうぞ、十字架の君」
「…………ホント、いい度胸してんなテメェ」
 レギアは喉の奥で低く笑い、差し出されたグラスと瓶を受け取った。そのままシアリースの横に置かれた椅子を引いて、やはり遠慮の欠片も見られない態度でそこに腰を下ろす。シアリースが再び椅子に座ったのを確認し、レギアはグラスをもてあそびながら薄く笑った。
「で、もう一度聞くぞ? そのラジステル王、レナ・シアリースが、このオレに何の用だ?」
 シアリースもルルからグラスを受け取り、軽い音を立てて注がれる赤い液体を見つめていたが、レギアの言葉を受けてゆるく唇を吊り上げた。
「では単刀直入に言おう、十字架の。私から、一つの依頼を受ける気はないか?」






    


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