ナイトメア
 第四話 子守唄を、弔いの雨に 2


 


 近く遠く、叩きつけるように降る雨音が聞こえる。
『……なんで』
 土砂降りの冷たい雨。すえた匂いのする薄暗い路地。ひび割れた壁に、雨でも洗い流せないほどにこびりついた黒い染み。懐かしく、慕わしく、いとおしく、呪わしい、ゴミとガラクタと罪人の楽園。
『なんでだよっ……なんで!』
 体を折ってうずくまったまま、ろくな舗装のされていない地面に拳を打ちつけた。何度も何度も、小さな手の皮が破れて血の雫が跳ねるまで。痛みが麻痺しかけた脳に届くまで。
『なんで、あんたがっ!!』
 ぐっしょりと濡れた服が重い。がむしゃらに走った足が熱い。叫び続けた喉が張り裂けそうに痛い。雨はすさまじい勢いで体温を奪っていくが、それに冷たさを感じる余裕などなかった。
 ただ、頬を何度も伝っていく雨ではない雫と、ずきずきと痛みを訴えてくる足と、爪の食い込む手のひらだけに温度を感じ、その熱に言いようのない怒りを覚えた。自分だけがまだ生きている、という事実を突きつけられるようで、全身を包む痛みや熱さえうとましかった。
『なんであんたがっ……なんで、たかがガキ一人のために死ぬんだよっ!!』
 叫びに返る声はない。わかりきっていたことだというのに、喪失を再確認させる静寂が辛かった。血まみれの拳を振り上げ、力の加減などできないままに振り下ろす。雫が飛び散り、傷だらけの頬に赤い染みを作った。
『答えろよ……っ、何で黙ってるんだよ!! 答えろよ! ……――――っ!!』


「………おい、リィ。知り合いか?」
 その死体、と言って顎をしゃくってみせる相棒に、リーシャは一瞬の自失からすばやく立ち直った。薄く紫がかった銀の双眸を細め、街並みに被さっていた遠い情景と、胸を掻きむしるような過去の残滓を追い払う。何度か瞬き、ゆっくりと背後のレギアを振り返った時には、その面差しから痛みの表情は完全に拭い去られていた。
「知り合いってほどでもない。昨日の夜、少しばかり酒場で話しただけだ。……もっとも、『敵』の方はそうは見なさなかったらしいがな」
「つまり、オレたちの巻き添えで殺されちまったと?」
「そう考えた方が自然だろ。ご丁寧な宣戦布告、ってところか」
 お互いにしか聞こえない程度に声を低め、二人はごくかすかに眉を寄せた。
 粗末な麻布の上に寝かされた遺体は、どこまでも空ろな双眸で泣き崩れる空を見上げ、血まみれの口から無言の怨嗟を紡いでいる。喉と胸に何かを突き刺したような痕があり、右腕と左足が根元から引きちぎられ、脇腹がばっくりと裂けて内臓がはみ出しているという、か弱い女性が見たら失神しかねない状態だ。捲り上げていた布を静に戻すと、リーシャは形の良い唇に冷たい笑みを浮かべてみせた。
「もちろん、ウィグドが個人的に恨みを買っていた、って線も捨てきれないけどな。だがそうだとすると、ここまであからさまに『虚構の眷族』の気配が残っているのはおかしいだろ」
「なるほど。だとすると、そのレイスバーグとやらは相当の変態だっつーことだな。普通、見せつけるためだけに無関係の人間を殺すか? しかもこんなひでー方法で」
「猟奇殺人が趣味なのかもしれないな。どっちにしろ、腹立だしい話だ」
 リーシャの微笑がひややかに凄みを増す。底冷えのする笑みを横目で見下ろし、レギアは周囲に男たち気づかれないよう、片方の眉を上げることで驚きを示した。
「めずらしい話だな。他人が死んでも眉一つ動かさねぇクソ冷血非道なお前が」
「別に悼んでいるわけじゃないさ。ただ、ウィグドはおれにとって不快な人間じゃなかったし、金儲けに貢献もしてくれた。その人間をこうやって殺したんだ。おとしまえはつけさせてもらわないと、な」
 淡々とした口調で呟き、リーシャは優雅な動作で遺体の傍から立ち上がった。彼らがウィグドの知人だと思ったのか、周囲に群れた男たちは遠慮するように人垣を広げ、痛ましげな表情で視線を交し合っている。それにちらりと目をやると、リーシャは片手で十字架を象った印を結んだ。簡略化した祈りの動作だ。そのまま一度だけ瞼を閉ざし、美貌の青年は吹きつける霧雨にも構わず息を吸い込んだ。
 約束だったからな、という短いささやきの後、朗々とした旋律が冷たい大気を揺らし始めた。
「……青ざめた月夜のその下に、張り裂けそうな叫びを残して
 さあ歌うがいい、血塗られた赤い御使いよ
 刻みこまれた緋色の、悲しみさえかき消して」
 突然歌いだしたリーシャに、周囲の男たちが驚愕の眼差しを向けた。中には不謹慎な、と顔をしかめた者もいたが、すぐに響いた歌声の美しさに気づき、困惑したように首を傾げる。彼らも、相棒であるレギアも、リーシャがウィグドと最後に交わした約束を知らなかった。機会があればまた歌ってやるという、約束とも呼べないようなそのやり取りを。
「呪いのような愛の、嘆きはもう届かない
 温もりだけを探すには、この世界はあまりにも狭すぎて
 焦がれて伸ばした指先に、ただ死神だけが口づけを贈る
 野に響くのは壊れて消えた、御使いの歌う言葉だけ」
 甘く、切なく、脳に心地よいしびれを残していく歌声だった。誰もが響きの見事さに聞き惚れ、歌っている内容の物騒さ、剣呑さには気づかない。唯一レギアだけが眉を寄せ、類稀な美声の主に嫌そうな目を向けた。それに視線をやることもなく、リーシャは彼なりの祈りを込めて歌声を綴る。このくだらない世界を離れ、静かな場所で眠る魂に安らぎを、と。
「青ざめた月夜のその下に、張り裂けそうな叫びを残して
 さあ歌うがいい、残された蒼い御使いよ
 刻み込まれた緋色の、喜びさえかき消して
 ……くだらない哀惜の、この絶叫さえ振りきって」




 ラジステルは降り止む気配のない霧雨に包まれていたが、はるか西方、シフ山脈の向こうに位置するグランデュエルの空は、快晴とはいかないまでも目に優しい青さを湛えていた。
 薄い雲の切れ間から光が射し、白亜の塔を美しく照らし出す。グランデュエルが誇る王城の構造は独特だ。高い塔が何本もそびえ、橋を思わせる通路がそれをつなぎ、空中に複雑な迷路を描き出しているのである。通路の一本一本は十分に太いが、遠目には今にも崩れ落ちそうな危うさがあって、壁面の眩しい白さ、嵌めこまれた窓の透明感とも相まって硝子細工の城のようだ。
 その王城に作られた東端の塔で、討伐者を統べる枢機卿(すうききょう)シザー・ジェルマンは書類をめくっていた。それも生真面目な表情で、ではなく、右手でやる気がなさそうに頬杖をつき、左手で指で無造作に書類をめくるという不真面目な格好で。
「―――ガキ共はレナ・シアリースと接触したのか。が、まだ事態を完全に飲み込んでるわけじゃあなさそーだな」
 それはシザーのひとり言ではなかった。その証拠に、開け放たれたままの扉にもたれかかった人影が、シザーの言葉を受けて小さく笑い声を立てる。
「まあ、それも時間の問題だろう。リーシャはかなり頭がキレるし、レギアの行動力も中々のもんだ。近いうちに事情を知って、いつも通りの破壊魔っぷりと見せつけてくれるだろうよ」
 そう言ってシザーの座る椅子に近づき、机に手をついて鋭い笑みを過ぎらせたのは、堂々たる長身を白い装束に包んだ青年だった。
 襟や胸元に金糸でふんだんに縫い取りがなされ、絞られていない袖口は悠然と広く、長衣の裾はひきずりそうなほどに長い。豪奢であると同時に清冽さも印象づける、何とも優美で神々しい衣装だ。
 リーシャのような美貌の主に似合いそうな服だが、しっかりした肩幅と上背、鍛え上げられた体躯、そして男性らしく精悍な容姿を持った青年は、その繊細で美しい衣装をごく自然に着こなしていた。光を集めたような黄金の髪が揺れ、青い瞳に彩られた面差しを掠めていく。それを鬱陶しげにかき上げると、青年は興味深そうな眼差しで書類を覗き込んだ。
 『杯』の聖皇国グランデュエルの主、教会の最高責任者、神の代理人。多くの呼称を持つ青年の正式な名は、フォール・グランデュエル・ライア・シュトラーゼといった。
 『フォール・グランデュエル』は『グランデュエルの王』という意味であるから、彼個人を示す名はライア・シュトラーゼということになる。その身分にふさわしい威厳を長躯にまとわせ、ライアはシザーの手から一枚の書類を受け取ると、青玉の瞳を細かい文字列へ走らせた。
 だが、多くの国民と信者を心酔させるその威厳は、ライアは再び口を開いた瞬間に一瞬で崩壊した。
「あーっ、くっそ超羨ましいっ! 俺だって面倒くせぇ王様稼業なんかやめて、リーシャやレギアみてぇに各国を飛び回って破壊活動にいそしみた……っ!!」
「やっかましい、テメェ様はとっとと王としての仕事をしやがり遊ばせばいいんだよ、この図体ばかりがでっかくていらっしゃる御クソガキが」
 最後まで言わせず、唸りを上げたシザーの裏拳がライアの顔面にめり込んだ。ぎゃっ、と威厳の欠片もない声を上げて仰け反り、ライアは片手で顔を覆いながらその場にへたり込む。
 普通の臣下が見たら卒倒しそうな光景だったが、シザーは主君であるはずの青年に一瞥もくれず、再びやる気のなさそうな表情で書類をめくり始めた。うぅっと悲痛な呻き声を上げ、ライアは眉を吊り上げながら勢いよく立ち上がった。
「っていうかテメェ!! 仮にも神の代理人である聖皇を殴るなよ、不敬の罪で首刎ねるぞコラッ!!」
「あーあー、何も聞こえねぇな。どっかで御クソガキ様が騒いでるようだが」
「妙な敬語を使うんじゃねぇーっ!!」
 ライアは渾身の力を込めて絶叫したが、黒い僧服姿の枢機卿は小揺るぎもしなかった。
「うっせーんだよボケ聖皇、俺に敬って欲しかったら今すぐ『盾』の公国と『剣』の帝国に乗り込んで王共の首級を挙げてきやがれ。そうすりゃグランデュエルの国民全員で円陣を組んでテメェに向かって集団土下座してやる。ん? ほらどうした、とっとと行って来いよ、俺に敬ってほしーんだろ? え?」
 にやりと唇の端を吊り上げてみせたシザーに、最高権力者であるはずのライアはあっけなく敗北した。せっかく立ち上がったというのに再び沈没し、机の端につかまって精神的な痛手に耐えている。
「………うぅ、俺、シザーと話してると自分の身分に不安と疑問を感じるのは何でだ? いや、何でとか自問する必要すらないほどわかりきったことなんだが」
「心配するな、俺はまったく感じねーよ」
 ぶつぶつと呟く主君にあっさりと返して、シザーは書類をつまみ上げながら長い銀髪を払った。伸びっぱなしの銀の髪が僧服に落ちかかり、かすかな風に揺れて輝きを散らす。
 それに恨めしそうな視線を向けると、ライアは仕切り直しの意味を込めて手を伸ばし、先ほど落としてしまった書類を拾い上げた。
「………で、これがラジステルの高等参事官、レイスバーグとやらが手ぇ出してきた討伐者の一覧か?」
「ああ。あっさりとやられやがったのが数人、そこそこ抵抗したが大怪我負いやがったのが数十人、一応軽症で退けたのが同程度ってところだな。情けねーガキ共が多くて泣けてきやがる」
「笑いながら言う台詞じゃねぇよな、それ」
 しみじみとした呟きを漏らし、ライアは透明感のある青玉の瞳を書類に落とす。
「まあそれも、今回のことが上手くいけば穏便に片づく。そのためにあの二人をラジステルに送り込んだんだしな」
「あいつらが男爵階級と戦って勝つかどうかわからねーが、ま、あれでも『竜』の刻印持ちだ。死ぬにしても相撃ちくらいには持っていくだろ」
「…………刻印の保持者の戦いも面倒くせぇよな。高位のヤツに守護されればされるほど、呼び出すのがしんどくて大変ときたもんだ。『召喚』しようとしてる最中に殺されたらたまんねぇしな」
 リーシャとレギアの二人は、『男爵』よりもはるかに高位の眷族に守護されている。階級だけで考えれば彼らが死ぬはずがないが、たとえばレイスバーグが数秒で男爵を召喚できるのに対し、二人は数十秒から一分近くの時間をかけねばならない。『召喚』に必要な手順も段違いに複雑で、高位の眷族に守護された方が強い、と一概に言えないのはそのためである。
 やれやれと肩をすくめたライアに、シザーは銀髪をもてあそびながら薄く笑った。
「つまり、殺し合いになった場合はテメェより俺の方が有利っつーことだな、ライア」
「………そういう怖いことを言うんじゃねぇよ、冗談に聞こえねぇからっ!!」
「半分冗談だ、気にすんな」
「しかも半分かよ!!」
 不敬罪だっつーのにっ、と叫んだライアの右手の甲と、緩められた僧服から覗くシザーの首には、淡く光を放つ刻印がはっきりと刻まれていた。ライアの手の甲に刻まれているのは大輪の花と竜、シザーのそれは瀟洒な剣と広げられた翼だ。そのわずかな差異が示す事実を、ライアもシザーも過不足なく認識していた。
 疲れたように溜息を吐き、刻印の『竜』の部分を愛しげに撫でると、ライアは薄く開けられた窓へ視線を向ける。ラジステルで降りしきる雨など知らぬように、曖昧な色の青空がどこまでも広がっていた。






    


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