ナイトメア
 第五話 賢者の予言 2


 


 大聖堂の床に跪き、胸の前に掲げた左の拳を右手で包み込んで、フォール・グランデュエル・ライア・シュトラーゼはステンドグラスに眼差しを向けた。
 光に透けてきらきらと輝くそれは、『杯』の聖皇国の名にふさわしく、色とりどりの硝子が嵌めこまれた豪奢なものだった。咲き誇る純白の花に優美な蔦、光輪を戴く十字架、簡略化された羽、そしてすべてを従えて微笑む白金色の天使。どんな手段で作り出したのか、天使の髪に当たる硝子は薄い金色で、黄色とも琥珀色とも違う柔らかな光を放っていた。夜になれば銀色を帯びて冴え冴えと輝くだろう。透明度の高い月明かりのように。
「…………なぁ、シザー」
「うるせぇよ」
「うるせぇって何だよ! せめて会話くらいつきあえよ、暇だろっ!?」
「あーあーうるせぇ。つーか妙だな、聖皇陛下は今お祈りの時間であらせられやがるはずなのに、なぜか知らねぇが『会話につきあえ』とかいうわけわかんねぇ声が聞こえやがる」
 幻聴か、とわざとらしく片耳をほじりながら、シザーは長椅子の上に高々と足を組んだ。背後を見返ったライアが情けない表情を作る。
「仕方ねぇだろ? お前、これがどんくらい退屈だと思ってるんだ? こう、じーっと手を組んで跪き続けなきゃなんねぇんだぞ? 普通に痛いだろう、膝が」
「黙れボケ聖皇。いっそそのまま神の声でも聞いちまえ。そのうち本当に聞こえるかもしんねぇぞ。慈悲に満ちあふれた神の声が」
「痛々しいこと言うなよ、俺が『ああっ、神の御声が聞こえる――!!』とか言って狂おしく身をよじり始めたらどうすんだ。軽く嫌だろ」
「つーか瞬殺だな」
「だったら言うなよ!」
 聖皇と枢機卿とは思えない会話を交わし、ライアは眉を寄せながらステンドグラスに視線を戻した。透きとおる光が目に染みる、とばかりに瞳を細めて、気を取り直したように口を開く。
「でよー、シザー」
「だからうるせぇ」
「いいから聞けよテメェ! …………これこれ、このステンドグラスの天使。リーシャに似てねぇ?」
「似てねぇ。会話終了。とっとと祈りに戻りやがれ」
 シザーの声は雪原の氷よりもなお冷たかった。思わずその場に倒れそうになり、体中の筋肉を使って何とか踏みとどまると、ライアは無情な部下に恨みがましい瞳を向けた。
「シザー。お前、俺のこと実は嫌いだろ?」
「ガキみてぇな拗ね方すんな、はっきりいって虫の触覚程度も可愛くねぇ。お前が妙なこと言い始めるから悪いんだろ、病気か?」
「んだよ。よく見りゃ似てるじゃねぇか。髪の色とか、髪の色とか、髪の色とか、美形なとことか」
「悪かった。病気じゃなくて単なる素か」
 ひどくあっさりとした表情で言い切り、シザーは眼前に広がるステンドグラスに眼差しを投げた。ライアの意見は当然のように一蹴したが、白金色に輝く綺麗な髪も、作り物だからこそ表現できる美貌も、どこかひややかで清冽な雰囲気も、言われてみれば破壊的な美青年に似ていなくもない。んだとコラッ、と騒ぐライアに一瞥もくれず、シザーは唇の端を歪めて笑みを作った。
「それ以前に、あのガキは天使は天使でも屍量産用の殺戮天使だろ。それが天におわす御使いと似てるなんざ、はっきり言って神をも恐れぬ暴言だ。天使も涙の海で溺死するだろうよ」
「いやま、そりゃそうだけどよ。何か雰囲気っつーか、綺麗さっつーか。その辺のもんが似てる気がしねぇ?」
「しねぇっつてんだろ。おら、さぼってないでとっとと祈れ。黙って祈ってられねぇなら、せめて真面目に祈りの言葉くらいは唱えてみせろ」
 ようやくライアに向き直り、海のように青い瞳と視線をあわせると、シザーは容赦のない動作でその腰の部分を蹴りつけた。他の臣下がいたなら真っ青になって絶叫しただろうが、限られた礼拝の時間である今、広い大聖堂にはシザーとライアの二人しかいない。長椅子に座ったまま蹴りを放ち、その足をひけらかすようにひらひらと振って、シザーは主君に対するものとは思えない態度で顎をしゃくってみせた。ステンドグラスの下に作られた祭壇へ。
「祈ることはがねぇなら、ラジステルでドンパチやってるガキ共の無事でも祈っとけ。あれでもエア・ラグナの『屍天使』と『十字架』の守護騎士団団長だ、死ぬことはねぇだろうが、死にかける可能性はものすごく高ぇからな」
「…………うぅぅ、この破戒者、っていうか不敬の大罪人」
 蹴られた腰を片手でさすりつつ、ライアは瀟洒な細工のほどこされた祭壇に向き直った。これ以上は命が危ないと悟ったのか、左の拳を右の手のひらで包み、優雅な動作で深々と礼をする。シザーもゆったりと鋼色の瞳を細めた。
 ライアの手の甲に刻まれた刻印。それがやんわりと光をまとい、純白に輝く大聖堂を照らし始めた。
「……沈黙して立ち上がり、光の中へ入れ、忠実なる主の僕たちよ
 神聖なる杯に源を発し、世々限りなく誉め歌われ
 グランデュエルの名を持って呼ばれる貴き民よ
 剣を捨て、盾にすがらす、ただ恵みのわざをこいねがい
 王と呼ぶ万軍の主によりすがる者たちよ」
 リーシャの澄明な歌声とは異なり、どこまでも太く、深く、朗々と響いていく声だった。
「汝の主、汝の神はこう言われる
 恐れず、臆さず、立ち止まらずに行け
 栄光を汚す者に罰を、誇り高く進む者に祝福を与えよう
 望み破れ、足を折った罪人も
 祝福の中では惑うこともない」
 日に一度、聖皇ライア・シュトラーゼが大聖堂で祈りの言葉を捧げ、枢機卿シザー・ジェルマンがそれを見守る。ライア本人にすら告げたことはなかったが、シザーはこの短く、他愛もなく、ばかばかしい時間が不思議なほど好きだった。当たり前すぎて手放せない幸福のように。どこまでも懐かしい情景のように。
「ならば勇士よ、剣のかわりに栄えを得よ
 輝きを帯びて進め、真実と謙虚と誇りを駆って
 汝の主は守るだろう
 忠実なる主の僕たちを」
 高く組んだ足に頬杖をついて、シザーは奏でられていく詩歌の言葉にうっすらと笑った。祭壇でも、ステンドグラスでも、祈りを捧げるべき神でもなく、ただ一人の主君に眼差しを据えて。
 遠いラジステルの地までは届かなかったが、その声は大聖堂の隅々にまで広がり、礼拝の時間が終わるまで絶えることはなかった。




「……あ」
 遠くから聞こえてきた力強い詩歌に、中庭で林檎をかじっていたカイリは背後を振り返った。
「やっば、もう礼拝の時間じゃん!」
「ホーントだ。これ終わったらあの枢機卿さんが戻ってくるな、カイリ」
「わかってるよっ! うっわー、やばい! 今日までにやっとけ、って言われたこと一つもやってないし!!」
 石作りの椅子からぴょんと飛び降り、にやにやと笑っているアルカイドを軽くにらむと、カイリは建物の入り口に向かって足早に歩き始めた。肩をすくめてアルカイドもそれに従う。
 グランデュエルに着いてまだ日の浅いカイリだが、持ち前の順応力と明るさ、何より類稀な潜在能力で、あっとういう間に自分の居場所と身分を確立してしまった。特にこの中庭が気に入ったらしく、訓練を抜け出してはこうしてアルカイドとじゃれあっている。んー、と声を上げながら大きく伸びをし、カイリはすぐ傍にそびえ立つ鐘楼に視線を向けた。
「なーなー、あれって王様が唱えてるんだっけ? いっつも思うけど、綺麗だよなー」
「確かに。さすがは神の代理人、ってね」
「ついでにあのシザーの王様だし」
 シザー、という名前を口にした途端、カイリの顔がすさまじい勢いで歪んだ。シザーの厳しい訓練が堪えたのか、あるいはその非人道的な性格についていけないのか、カイリは早くもシザー・ジェルマンに対して恐怖心を持ち始めていた。課題をすっぽかして逃げ出してしまうほどに。
「っていうかひどいよな、兄ちゃんたち。シザーって人のところに行って、兄ちゃんたちの名前を出せば上手く取り計らってくれる、って言ったくせに!」
「いや、嘘は言ってないって。確かに上手く取り計らってくれたっしょ? なにせ枢機卿直々の特訓だし」
「いらないから、そんな特別っ!! あーもう、こんなことなら無理にでも兄ちゃんたちにくっついて行って、兄ちゃんたちに修行してもらえばよかった!!」
 こじんまりとした中庭を抜け、大聖堂の横を迂回するように歩きつつ、カイリは悲痛な表情で頭を抱え込んだ。その気持ちはわからなくもないが、アルカイドは『守り手』として現実的な言葉を口にする。
「いやいやいや。よく考えてみなって、カイリ。あの綺麗なお兄さんと強い騎士さんが、あの枢機卿さんより優しいって保障がどこにある? っていうか絶対似たり寄ったりだって。特に綺麗なお兄さんの方」
「あー……うー」
「ついて行く、なんて言ったら問答無用で崖の下とかに蹴り落とされかねないでしょ。ほら、よーく思い返してみなって」
「うぅー……それは否定しない、けど」
 白金の髪に紫銀の瞳をした美青年と、黒髪に紺碧の瞳を持つ長身の男。カイリをグランデュエルに送り込んだ張本人たちは、シザーと張り合えるほど強く、ふてぶてしく、凶悪極まりない性格の持ち主だった。負けを認めたからよかったものの、あのまま敵対していたら間違いなく殺されていただろう。
 そうだというのに、カイリはあの二人の討伐者が好きだった。
「何でだかわかんないけど、俺、またあの兄ちゃんたちに会いたいよ。んで、兄ちゃんたちの仲間に入れてもらって、一緒に旅しながら虚構の眷族を狩りたいんだ」
「一緒に?」
「うん。……ま、足手まといにならないくらい強くなんなきゃ、それこそ容赦なく崖下に蹴り落とされるだろうけどさっ!」
 そこで一度言葉を切り、カイリは照れ隠しのように明るく笑った。
「だからルカ! ルカもがんばって『貴族位』に昇進してよねっ! でなきゃちゃんとした討伐者になれないんだから!!」
「うっ!! か、簡単に言うけど、『貴族』の個体数はばっちり決められてるだって! 貴族の誰かが一人死んでくれない限り、俺がどれだけがんばっても貴族位には昇格できないのっ!!」
「え――っ!?」
「えー、じゃない!!」
 ぎゃんぎゃんと喚きあい、お互いにびしりと指を突きつけながら、カイリとアルカイドは王城の東棟に足を踏み入れた。途端に清浄な空気が二人を押し包む。王城全体を守護する結界の効果だ。
「ってやばいっ、もう礼拝が終わる時間っ!!」
 アルカイドを促して走り出しながら、カイリは胸中で一つ頷いた。絶対に討伐者になって、あの二人と一緒に旅をしてやる、と。






    


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