序 星の下の呼び声





 立派な石造りの校門をくぐり抜けながら、水瀬紫苑(みずせしおん)は瞳を細めて空を仰いだ。
 太陽は一時間ほど前に一日の務めを終え、遠い西の空に姿を消してしまっていた。街灯の明かりが柔らかく降りそそぎ、紫苑の薄茶色の髪を淡い金色に透かしている。それは脱色や染色では決して出せない、自然な透明感を持った色彩だった。眇められた瞳は淡い碧色で、彼が純粋な日本人ではないことを証明している。
 イギリス人であり、かなり著名な舞台女優である母の美貌を余さず受け継いだ紫苑は、とても男には見えない面差しを軽くしかめて歩き出した。
 本来なら、この二時間前には自宅についているはずだったのだ。だが、生徒会の役員を務める友人たちに帰宅するところを捕まり、山のような仕事を手伝わされ、気がつけばすっかり陽が暮れてしまった。
 自分のようにハーフというわけでもないのに、無駄に麗々しく輝いた友人の顔を思い浮かべ、紫苑は思い切り溜息をついた。
 あまり夜道は好きではないのだ。
 特に、彼が籍を置いている有名な進学校の月篠(つきしの)高等学校は、都心にあるとは思えないほど緑に溢れた一等地に建っている。朝や昼間は豊かな自然の恵みに感謝する気にもなれるが、夜ともなれば静寂が耳に痛いほどだった。女々しいと言われようと、この静けさが苦手なのだから仕方がない。
 都会の喧騒から切り離された場所では、普段は遠ざかっているそれが勢いを増して迫ってくるからだ。
「……あ、また」
 性別を感じさせない涼しげな声には、わずらわしいというより、心から困惑したような響きがこめられていた。
 吹き抜けていく、春らしくかすかに緩んだ風の中に。
 ざわざわ、と砕けるような音を鳴らす梢の歌に。
 低く、そして近く遠く、繰り返し、繰り返し。
 どこかから彼を呼ぶ声が聞こえる。


 はやく来い。
 

 どこかから響いてくる低い声は、ひどくいらだった調子で耳の奥にこだまし、紫苑に言い知れない焦りと切なさを感じさせていく。
 いい加減にしろという、こめられた厳しさを隠そうともしない響きで。


 はやく早く速く。
 はやく来い、ここまで。


「……どうして」
 怒ってるんだろうか、と紫苑は首をかしげずにはいられない。
 身に覚えのない幻聴に責められても困る、というのが紫苑の正直な思いだった。そういう問題ではないのだが、彼の思考は昔から他者とずれた位置をひた走っている傾向がある。物心ついた時にはすでに『聞こえていた』それは、紫苑にとってはやや迷惑な日常の一部と化していた。精神病ではないのか、などと疑うことさえしないのだ。
 ただ、その声が聞こえると決まって胸の奥が痛むのである。
 恋煩いでないことだけは確かなその痛みを持て余しつつ、紫苑は桜並木の下を足早に進んだ。まだ満開には少し遠いものの、夜風に花びらがひらひらと舞う様は目に心地よい。手にした今時めずらしい革製の鞄を持ち直し、紫苑は淡い色合いの瞳で花びらの向こうを透かし見た。並木道が途切れた向こうには道路が走り、見慣れたバス停の表札が覗いているはずだった。
 だが、紫苑の視界に映ったのは道路を走る車でも、歩道を行きかう人の群れでもなく、花びらの雨に打たれながら辺りの景色を切り取る黒い影だった。
 夜の闇をそのまま落としこんで、それを全身にまとったしなやかな影。それが黒衣に身を包んだ人影だ、と気づいた時には、紫苑の足は持ち主の意思に反して止まっていた。
 ザァッと花びらを巻き上げながら風が舞い、紫苑の金色がかった薄茶の髪をなびかせていった。だが、裾の長い黒衣は強い風の中にあっても遊ぶことさえない。すべての空間から切り離されたように、ただ闇と花の洗礼だけを受けてひっそり佇んでいた。
「……え」
 紫苑はパチパチと瞳を瞬かせた。
 春とはいえ、まだ完全な陽気が空気を支配するには間がある季節。そうだというのにもう変質者が出たのか、と思ったとしても、誰も紫苑を責められはしないだろう。それがまっとうな反応というものだ。
 五メートルほど離れた位置にいるその人物は、立ち尽くす紫苑を真っ直ぐに見つめていた。これだけ離れているのに、不思議とその顔立ちまではっきりと見て取ることができる。足元に届くほど長い髪に、ひんやりとした光を湛えた切れ長の双眸。それらがすべて深すぎる闇の色をまとう中、陶磁器のような肌だけが輝くような白さを誇っていた。
 それは信じ難いほどの美しさだった。
「……あの?」
 どこか気おされるものを感じながらも、紫苑は秀麗な弧を描く眉を軽くひそめた。
 真っ直ぐすぎる眼差しに、ひどく居心地の悪いものを感じたからだ。
「僕に、何か?」
 変態でしたら間に合ってますが、と至極真面目に付け足したのは、紫苑の奇妙な性格の表れだったのだろう。黒衣の人物は気を悪くした風もなく、それどころか紅い唇を微笑の形に吊り上げて見せた。
 それだけでざわりと、満ちる空気の色が変わった。
 遠くに聞こえていた車の走る騒音も、ざわざわと騒ぐ桜の木々の梢も、弾き出されたようにその場から消え去ってしまった。硬い、夜の闇に染められて黒く続いていくアスファルトの道も、ゆらりと揺らいで青く染まって見える。紫苑はますます困惑し、鞄の取っ手を強く握り締めた。
 ずきずきと、胸の奥が痛みを訴えていた。耳元で声が響いている。呼び招く声が。
「よもや、このような機械仕掛けの沃野に」
 ゆるりと唇の端を持ち上げ、黒衣の人物が微笑と共にささやいた。
 風を思わせるほどひそやかな、同時に水を通したように曖昧に響く声だ。
「わかたれた同胞の、呼び声を聞く者がいようとは」
 紫苑は大きく目を見張った。言っていることの意味がわかったのではなく、『呼び声』という言葉に反応してしまったのだ。
 呆然とした紫苑を愛しげに見つめ、黒衣の人物は流れるようにそっと、手首まで長衣で覆われた細い腕を持ち上げた。手招きをするように。
「呼ぶ者がいるならば、汝はすなわち『鍵』であるのだろうよ。……それを聞き届けるのもまた、引き裂かれてわかたれた二つの界の、慟哭と渇望の声を等しく叶える我のつとめなれば」
「え?」
「聞いたのだろう? 汝は呼ばれているのだから。拒絶は赦されぬ。それが遠き日に四玉の王より託された、扉の番人たる我のつとめ。先の大乱より七百七十七の時が移ろうた、この良き夜に」
 くすくすと笑う声は、まるで何かの催眠術のようだった。抱きしめるようにいつまでも響いていく。突き放せない強さをもって。
 耳元で響く声は大きくなる。
 繰り返し、繰り返し。


 はやく来い。
 一体いつまで待たせる気だ?


「――――ならば行くが良いよ、汝を呼び招く者のところへ。汝は鍵であるのだから」
 近く遠く、聞きなれた呼び声に重なるように響いた声音が、最後だった。
 立ち上った陽炎のような何かが扉を作り、開け放たれたその向こうに眩い光の軌跡を見た、と思った瞬間には、紫苑の意識はそれに呑まれてふっと途切れていた。
 驚愕の中にどこか安堵に似たものがあったのは、あるいは彼の錯覚だったのかもしれない。それでも確かに、紫苑は満足げに笑う低い声を聞いたのだった。


 
 ザァッと風が吹き抜けた桜並木に、ひらりと一枚、薄紅色の花びらが落ちた。
 遠くから都会の喧騒が流れてくるそこには、アスファルトの小道が続いていくだけで。
 最初から誰もいなかったことを示すように、夜の翳りだけが落ちかかっていた。
 





  



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