1 輝ける大地に





「……あ」
 愛馬の手綱を取って足場の悪い山道を疾駆しながら、セスティアルは青みがかった銀色の双眸を眇めた。
「何だ、セス?」
 唸りを上げて過ぎていく風の中にあっても、その呟きは前を走る上司に届いたようだった。誰であれ思わず膝を折り、その場に跪かずにはいられないような力に溢れた声に、セスティアルは空を見つめながら躊躇いがちに呟いた。
「何か……不思議な感覚がありました。この先で」
「魔力か?」
「いえ」
 足場の悪さをものともせず、ちらりと馬上から見返ってくる上司を見つめ、セスティアルは今度ははっきりと首を振った。
「魔力ではありません。……だからこそ、おかしいのです」
 不思議な言い回しに、彼の上司である男はすっと瞳を細めた。ただそれだけの動作にも、まるで喉元に白刃を突きつけられたような威圧感が宿る。だが、馬上のセスティアルは萎縮してしまうことはなかった。
 強すぎる眼差しを自然に受け止め、一塊になって馬を走らせる味方たちにぶつからないよう、絶妙な手綱さばきで先頭を走る上司に愛馬を寄せた。彼らほど『魔力』を持った者はこの場にいないとはいえ、むやみに人に聞かせていい内容ではなかったからだ。
 世界でも最高位に位置する魔術師のセスティアルが感じ取った、その事実は。
「空間が歪んだのは間違いありません。ですが、そこに一切の魔力が感じられなかったのです。本当に、欠片たりとも」
 どういう意味かおわかりでしょう、というセスティアルの言葉を受け、男はふと、興味の光をその双眸に過ぎらせた。
 抜き身の剣のように鋭く輝く、見据えられただけで切り伏せられてしまいそうな鮮烈な眼光だった。
 ふんと軽く唇の端を歪め、男は前方へその眼差しを戻した。落馬すれば即座に命を落とすような速度で駆けているというのに、その動きはあまりにも滑らかで、隙がなかった。
「俺には関係ないな。それによって俺に不利な事態が発生するなら叩き潰すし、まったく関係ないままなら放っておく」
「……ですが、できれば前者であって欲しいと思われているでしょう?」
「当然だ。俺は退屈が嫌いなんだよ。知ってるだろう、セス?」
「もちろんです、我が君」
 その会話をうっかり漏れ聞いてしまった栗毛の馬の騎手は、冷風に吹き付けられたようにぎゅっと首を縮めた。本人たちは笑みさえ浮かべて言葉を交し合っているが、彼らの上司にして主君たる男とここまで会話ができる者など、帝国広しといえどもセスティアルを含めた数人しか存在しない。こうして馬を並べて走っているだけで、彼を含めた若い者は緊張に手に汗が滲むのだ。
 セスティアルはそんなささいな反応にも気づいたようで、そっと後ろを振り返るとなだめるように苦笑してみせた。青年とは思えない、女性と見紛う中性的な美貌に微笑みかけられ、まだ若い騎手の青年はぱっと頬を赤らめる。それでも、落馬したり速度を落としたりしないのはさすがというものだろう。とたんにひがみの視線が若い騎手に集中するが、セスティアルはそれには気づかぬ様子で上司に向き直り、ですが、ともう一度柔らかくささやいた。
「そのどちらでもない可能性も否定はできますまい」
「あ?」
「貴方の有利となるような現象が、この先でもたらされるかもしれぬと。そう申し上げたら貴方はつまらないと仰いますか?」
 真意の見えない、捉えどころのない風のような声音を向けられ、男は振り返らないまま簡単に返した。
「それはお前の、最高位の魔術師『レイター』の称号を持つ者としての忠告か?」
「いいえ、我が君。忠告ではなく、やや楽観的な希望的予言、とでも取って下されば」
 やはり飄々としたセスティアルの言葉は、男にとって不快感を刺激するものではなかったようだ。神が丹精をこめて創り出した彫刻を思わせる唇に、だが柔らかさとは無縁な微笑を閃かせて言い切って見せた。
 決まっているだろうが、と。
「何であれ跪かせ、屈服させ、手に入れる。それが俺の『有利』になるようなものなら、な」
 すべての事象から敗北という文字を排除した、まさに支配者というのにふさわしい言葉だった。支配者という称号は、この世界ではただ一人にのみ許されたものであるにも関わらず、男には何よりその響きが似合った。少なくともセスティアルはそう思っていた。
「ええ、我が君」
 だからこそ、頬を切り裂くように過ぎていく風にも紛れない声で、セスティアルは馬上の主に告げた。
「歴史は貴方に微笑むでしょう」
 それに答えたのは、当然だ、という揺ぎ無い鋼のような声音だった。




 まず目に入ったのは、眩い光だった。
 薄闇に慣れていた目には強すぎる光だったが、不思議とその光が紫苑の目を焼くことはなかった。ゆっくりと首をめぐらせ、心地よい音を立てて揺れる緑の色彩と、鮮やかに澄み渡った青さを視界に映し込む。緑は大地を覆った草と生い茂った木々の葉で、青は頭上に広がる鮮やかな空の色だった。
 ここは、と呟きかけて、紫苑は「そんなお約束な」とその言葉を飲み込んだ。この場合、ここはどこかと口に出したところで事態が好転するとは思えない。とりあえず、紫苑はそろそろと腕を動かしてみた。体は無事に動く。そこでようやく、紫苑は右手に学校の革鞄を握り締めていることに気づいた。
 紫苑が急性の記憶障害にかかったのでなければ、つい一瞬前まで彼は桜並木の下にいたはずだった。しかも時間は夜で、都会独特の薄ぼんやりとした暗がりに沈んでいたはずである。そうだというのに、眼前に広がる景色は紫苑を嘲笑うかのように光に満ちていた。テレビや映画、写真の中でしか見たことがないような、緑に溢れる山の中のようだ。
 そのすべてが、ありえないほどに眩く、美しい光に包まれて輝いていた。
「…………拉致?」
 今流行りの、と呟いてみたが、当然返る声などあるはずもなかった。
 そもそもこれが拉致であったり、よくニュースで報道される未成年誘拐であったりするなら、こんなに美しい景色の中に放り出されるはずがないだろう。母親譲りの繊細極まる美貌のせいで、紫苑は何度かそういう目にあったことがあるが、誘拐した相手を山の中へ置き去りにするなど聞いたこともなかった。
 リリリ、という小さな音に視線を落とせば、草の合間で見たこともない虫が鳴いていた。紫苑は、少なくとも図鑑に載っているような虫ならば全て把握している自信があるが、透き通った青い羽に緑の体を持った虫になどお目にかかったことはなかった。
「……」
 非常に嫌な考えが脳裏を過ぎったが、紫苑は無理やり思考を軌道修正して自らに言い聞かせた。
「薬か何かで眠らされて、どこか未開の地に連れて来られた……ってところかな、多分」
 あまりのことにパニックに陥る、ということはなかった。進退窮まると逆に冷静になってしまうのは、幼い頃から培われた紫苑の性分だった。
 記憶にある黒衣の人物と、気がついた時にはピタリと聞こえなくなっていた呼び声と、最後に見た扉のようなものと。紫苑の、教科によっては全国統一模試一位というありえない数字を叩き出す頭脳は、それらを統合して一つの言葉を導き出していた。
 だが、紫苑はそれを認めたくはなかった。現実を否認しているのではない。そんなベタな、そして現実的には決して起こらないだろう事態を許容できるほど、彼の心は広くないというだけだ。
「……とにかく、人を、探さないと」
 その場に座り込みたくなる衝動を必死に堪えながら、紫苑は何とか視線を持ち上げた。外国人であれ何であれ、人間の姿を探さないことにはどうしようもない。整備されているとは言い難いが、何とか道のようなものは先へ続いていた。ちらちらと揺れる木漏れ日の道を、紫苑は人里を目指して進んでいこうとした。
 だが、その場から数歩も進まないうちに、彼は歩みを中断されることになった。
 地を揺るがす馬蹄の轟きが、紫苑の向かおうとした方角から響いてきたのだ。紫苑はビクリと体を震わせた。黒い点のようだったものが、瞬く間に馬の群れの形になって迫ってくる。ここが日本であるのなら、山の中で馬を乗り回すなどということはありえない。一般に開放されている牧場などは、もっとしっかりと整備された平地のはずだった。
「…………っ」
 とっさに身を翻そうとするが、馬に乗った者たちが紫苑のいる場所へ走ってくる方が早かった。せめて気づかずに通り過ぎて欲しい、という紫苑の願いも空しく、高々と上げられた馬の蹄が視界を覆う。紫苑は鋭く息を呑み、動くことができずにその場に立ち尽くした。
「――――おい、見ろよ」 
 紫苑に気づいて手綱を絞ったのは、馬に乗った十人ほどの男たちだった。浅黒く日焼けした肌に、馬上にいても見て取れる長身に、がっしりした顎を覆う強(こわ)い髭。明らかに日本人ではないと知れる風体だったが、紫苑の耳に入ってきた笑みを含む声は、確かに彼が意味を理解できる言葉だった。
 紫苑は鞄を抱きしめるようにしながら、愕然とした面持ちで自分を取り囲むように展開した騎手たちを見遣った。
(日本語……?)
 錯覚かもしれないが、それは確かに紫苑が聞きなれた言語だった。
 言葉が通じるならば、ここがどこかを尋ねることができるかもしれない。紫苑はそう思ったが、それをすぐに実行に移せなかったのは、眼前の男たちから嫌なものを感じたからだ。
 荒い息をつく馬たちをうまく御しながら、男たちは紫苑を見下ろしていた。その内の、褐色の髪を適当に結んだ大柄な男が口笛を吹く。髪と同じ色の目はぎらぎらと輝いていた。
「今日は厄日だと思ってたが……」
 その粗野な、聞いたこともないほど野太い声に、紫苑の背にさっと冷たいものが走った。
「こんなところでいいもん見つけちまったな。なあお前ら?」
 台詞の後半は他の男たちに向けられたものだが、紫苑にはそれだけで充分だった。彼らが味方にはなり得ない、ということを理解するには。
「おい坊や、いや、嬢ちゃんか? こんなとこでどうした、迷子になっちまったのか」
「かわいそうになぁ。ここは危ないからおじちゃんたちについておいで。一人でうろうろしてるととって食われちまうぞ?」
「食われちまうって、お前にか?」
「違えねえや!」
 口々にどっと笑いながら、男たちは一人、また一人と馬から下りてきた。紫苑は思わず後ずさったが、後ろの男に阻まれてそれ以上下がることができない。心臓がどくどくとうるさいほどに飛び跳ねている。手のひらに冷たい汗が滲んだ。
(野盗)
 そんな言葉が紫苑の脳裏に過ぎっていった。ここから逃げなければならない、という思いが強くなる。男たちが紫苑を『獲物』と見なしているのは明白だったからだ。
 よく見れば、男たちは程度の差こそあれところどころに傷を負っていた。粗末な衣服もあちこちが汚れ、まるで何かに引っかけたように擦り切れている。
「おい、こんなとこでもたもたしてんじゃねえよ。早いとこ行こうぜ」
 紫苑に興味を示した者だけでなく、馬に乗ったままで後ろを気にしている男もいた。だがそれも、別の男の笑い声によって簡単に一蹴されてしまう。
「びびんなよ、情けねえ。もうとっくにまけただろうよ、あんな都のお貴族様なんかよ」
「そりゃそうかもしれねえけどなぁ……」
 もうその男の不安など一顧だにせず、笑い飛ばした男はいきなり紫苑の腕を掴んだ。先ほどの褐色の髪の男だ。
「……っ、離して下さいっ!!」
 ぞわりと鳥肌を立てて逃れようとするが、元より細身の紫苑が屈強の男に抵抗できるはずもない。
「妙な格好だな? 小僧か、嬢か? まあこの顔ならどっちでもいいだろうが」
「……僕は男ですっ!」
 とっさに叫んだ紫苑に、男はやや残念そうな表情を閃かせた。周囲からも男かよ、という落胆の声が上がる。もっとも、本気で残念がっているようには聞こえなかった。
 ギリギリと、紫苑の腕を掴む力が強くなった。痛みに眉を寄せる紫苑へ、男はことさら唇の端を持ち上げてみせる。
「ま、あとで確かめさせてもらうさ。男だろうと別に問題もねえしな」
 その言葉に、紫苑は大きく碧の瞳を見張った。
 一瞬動きを止めた紫苑の腕を引き、男はその体を馬の上に押し上げようとした。当然のことのように、彼を連れて行こうとしているのだ。まるで拾った品物を持ち帰ろうとするように。
「嫌だっ……離せ……!」
 腰に腕を回され、その嫌悪感から必死になって抵抗する紫苑に、男たちは嗜虐的な笑みを浮かべるだけだった。周囲から投げつけられる品のない言葉に、紫苑の視界が絶望に暗くなる。ここがどこなのか、彼らが誰なのか、何故言葉が通じるのかはわからないが、この男たちに連れて行かれたらどうなるかは紫苑にもわかった。
「嫌だ……っ!!」
 痛いほど強く掴んでくる手から身をよじり、紫苑は懸命に逃げようとした。
 この男たちは『違う』のだから。紫苑が出会い、共に行くべき存在ではないのだから。
 それが自身の思考なのかもわからないまま、紫苑の耳元では不思議な声が響いていた。風のように、水を通したように、渦を巻きながら響く黒衣の人物の声が聞こえ続けていた。
『ならば行くがいいよ。汝を呼び招く者のところへ』
 混乱する思考に飲まれないように、紫苑は強く瞳を閉ざした。
『汝は鍵であるのだから』
 聞こえてくる声だけを追いかけ、何かが訪れる瞬間を待ちながら。
 にやにやと笑いながら紫苑の体を持ち上げようとした男は、ふと、吹いてくる風の向きが変わったことに気づいて眉を寄せた。
 他の男たちもかすかに首をかしげ、笑いを収めながら視線を巡らせる。その顔色がさっと変わったのは、まさに次の瞬間のことだった。
「おいっ……っ!」
 焦ったようなその声被さるように、遠くから風に乗って響いてきた馬の蹄の音が、きつく目を瞑った紫苑の耳に届いた。
 耳元で繰り返す声を裂いて、確かに強く、聞こえた。 





    



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