2 焔の翼


 

 
 目を開けた紫苑の視界に映ったのは、土煙を上巻きげながら走ってくる十騎ほどの馬影だった。
 反射的に体を硬くしたが、野盗たちが見るからに慌て始めたことに気づき、紫苑はかすかに目を見張った。彼らの味方ではなく、敵なのだろうか。紫苑の脳裏を掠めた思考が正しいことを証明するように、男たちは口々に低く罵声を上げた。
「くそっ、まさかこんな所まで……っ!!」
「だから早く行こうって言ったんだろうがよ、あぁ!?」
 音高く舌打ちしながら、男たちは馬から飛び降りて腰から何かを抜き放った。ぎらりと光を弾くそれが剣だと知り、すぅっと紫苑の体が冷たくなる。これから何が起こるのかわかってしまったからだ。だが呆然と立ち尽くすことは許されず、褐色の髪の男に強く体を引かれてたたらを踏んだ。
「……何をっ」
 するんですか、と叫ぼうとして、紫苑は言葉を失った。ひやりとした何かが喉元に触れ、まるで気道をふさがれたように言葉と呼吸をはばまれたのだ。大人しくしてろよ、という押し殺した野太い声が耳元で聞こえ、首筋に抜き身の剣を突きつけられた体勢のまま動けなくなった。
 その間にも、舞い上がった土煙はすぐ間近まで迫っていた。
 他の騎手たちをぐんと引き離し、高々と蹄を躍らせながら飛び込んできた馬があった。新月の夜のような漆黒の馬だ。未だ止まり切っていないそこから人影が飛び降りたのと、紫苑の耳に断末魔の叫びが届いたのは、わずかな差こそあれぼ同時だった。
 白銀の光が無造作に振るわれ、剣を抜いて踊りかかってきた男を一刀の元に切り伏せたのだ。禍々しい深紅が大気中に吹き上がり、紫苑は大きく瞳を見開いた。
 鮮血の紗の向こうに、風をはらんで緋色のマントが翻る。倒れこんできた野盗の体を無造作に蹴り倒し、その人物は返す刃を明らかに怯んだ男たちに叩きつけた。短い苦痛の声と共に何かが宙に舞う。大きな鞠ほどのそれは、切断された人間の首だった。
 その動きにはわずかの躊躇いも、そして手加減もなかった。相手の話を聞く、という意思がまるで感じられない。相手を狩る対象としてのみ見つめている、正確無比な機械にも似た動きだった。
 だが、確かにそれが人間であることを示すように、降り注ぐ返り血は絶妙な身のこなしで避けられていた。
 たちまち立ち込めた強い血臭と、凄惨な死の腕の抱擁に、紫苑の視界に強く眩暈の靄がかかった。いましめてくる太い腕も、近くで聞こえる男の舌打ちも、喉をひやりと脅かす刃の存在も遠ざかる。ただ、ぼんやりと赤い色彩を追っていた。
 翻ってはためく、緋色のマントだけではない。吹き上がって大気を染め、柔らかな緑の草を赤く、覗いていた大地を黒く染め上げる血だけでもない。
 舞うように剣を走らせ、男たちを屠っていくその人物を彩る色彩こそが、『赤』だった。
 ぐらぐらと回る視界を懸命に凝らす紫苑の前で、どさりと、立ち向かっていった最後の男が血染めの大地に倒れ伏した。時間にして一分もかかっていないだろう。紫苑にとっては永遠とも思える時間だったが、剣を持った人物にとっては労力の消費にさえならなかったようだ。
 堂々たる長身の体躯を翻し、紫苑を拘束した褐色の髪の男に向き直りながら、息も乱れていない唇から冷ややかな声を押し出した。嘲りを隠そうともしない響きで。
「随分と手間をかけさせてくれたな。卑しい下郎の分際で」
 低く、戦慄するほど通りの良い美声だった。野盗の男が一歩引き、紫苑はそれに引きずられてよろめいた。それでも眼前の人物からは視線を外さない。
「これ以上手間をかけさせず、とっとと死ねよ?」
 ゆったりと冷たい笑みに細められた瞳は、深い青に透ける黒だった。榛色の焔を思わせる長い髪に、漆黒に近い青の双眸。緋色のマントをまとい、抜き身の剣を片手に下げた、戦神を象った彫刻のような青年の姿がそこにあった。ただ瞳に揺れる光だけが、命のない彫刻とは一線を画した鮮烈さを醸し出している。
 我知らず視線を奪われ、食い入るように焔のような青年を見つめていた紫苑は、彼の首に腕を回して剣を突きつけた男がひっ、と短く息を呑む音を聞いた。
「……大将軍、カイゼル・ジェスティ・ライザード!」
 低い悲鳴のように呟いた男の声は、抑えきれない恐怖に掠れていた。それも仕方がないことだと言える。ただの野盗と眼前の青年では、瞳に湛えた力の強さが違いすぎた。鮮烈で圧倒的な紅蓮の炎と、その前に引き出された矮小な羽虫、という表現が一番近いかもしれない。
 だが人間は、ある意味では羽虫よりも愚かだった。本能の警告にもたやすく耳を塞ぎ、どうにかして自身を優位に立たせようとする。紫苑は、男が次にどういった行動を取るか予想がついて愕然とした。
 そして、男は紫苑の予想通りに行動した。
「動くんじゃねえ!」
 紫苑の首に回した腕に力を込めて、ことさら剣をその白い肌に触れさせながら叫んだのだ。
「動くな……動くなよ。こっちには民間人のガキがいるんだ。お前ら騎士団の人間が、民間人を見殺しにできんのか? できねえよな、ああ、そんなことしたらまずいもんなぁ!」
 自分の台詞に勇気づけられたように、男の口調に生気が戻り始めた。肌を浅く切り裂いた剣よりも、強い腕の力がもたらす痛みに紫苑は顔を歪める。それでも悲鳴は上げなかった。
 焔の青年は何も言わず、深青の瞳で鋭く男を一瞥する。男はそれを逡巡と取ったのか、勝ち誇った表情で引きつった笑みを浮かべて見せた。
「いいか、そのまま動くんじゃねえぞ! 動いたらこのガキを殺す! 殺すからなっ!!」
 音程の狂った叫びを上げながら、紫苑を引きずってずりずりと後ずさる。震える剣先のせいで、紫苑は抵抗らしい抵抗もできなかった。それでも何とか上げた碧の瞳に、青年がほんのかすかに唇の端を吊り上げたのが見えた。
 それに全く気づかなかった男は、露骨な焦りを顔に腕の力を強めた。最後の砦だとでもいうように。
「……早く来い、このガッ……」
 ガキ、と紫苑に向かって続けようとした男は、だがその先を告げることができなかった。それも、永遠に。
 トンっという軽い衝撃を背中に感じた瞬間、紫苑はきつすぎるいましめを解かれて前へつんのめった。
「……うわっ」
 足をもつれさせてとっさに目を瞑った紫苑は、だが地面に倒れこむことはなかった。すっと伸ばされた細い腕が、紫苑の体を優しく抱きとめたからだ。ふわりと、花にも似た清かな香りが紫苑を包み込んだ。
「大丈夫ですか?」
 すぐ傍で聞こえた声は、風の音色のように涼しげで、柔らかいものだった。
「……え?」
「もう大丈夫ですよ、怖かったでしょう?」
 そう言って紫苑に微笑みかけたのは、長い黒髪に青みがかった銀の瞳の、中性的な美貌の持ち主だった。なめらかな肌は抜けるように白く、髪はただ黒いだけでなく星を散りばめたように艶やかで、それが銀青の瞳に映えて美しい月夜のように見える。紫苑は思わず見惚れたが、それでも、榛色の髪に深青の瞳の青年を見た時ほどの衝撃はなかった。
 だからだろうか、冷静にその事実に気づくことができたのは。
 ゆっくりと振り返った視線の先で、野盗の男は音もなく地面に倒れ伏していた。みるみるうちに広がっていく赤い池が、男の命がすでに尽きていることを教えてくれる。致命傷となったのは頭部の、それも完全な頭の頂きを刺し貫かれた傷だった。拘束されていた紫苑を傷つけないよう、あたかも頭上から男だけを細い刃物で貫いたような傷だ。
「あ……」
 碧の瞳を見張って黒髪の人物を振り仰いだ紫苑に、その人は優しい微笑を向けた。大丈夫だ、と無言のうちに語るような表情だ。そのまま優雅に背後を振り返ると、泰然と腕を組んだ青年にそっと頭を下げた。
「出すぎた真似でしたか、我が君?」
「そう思うか? セス」
「いいえ」
 間髪いれずに答えると、セスと呼ばれた美貌の青年、セスティアルは輝くような笑みに口元を彩らせた。
「いいえ、我が君。貴方は退屈を嫌ってらっしゃいますが、価値のない愚行に御手をわずらわせるのも嫌っていらっしゃいますから」
 臆さずに告げた部下を見やり、青年は軽く微笑を浮かべた。それはセスティアルのように優しげではなく、剣のように鋭すぎる微笑だった。
 反射的に体を硬くした紫苑には気づかぬ様子で、青年はセスティアルに向かって口を開いた。
「ご苦労だったな」
「もったいのうございます。しょせんはこの程度、小手先の魔術に過ぎませんから」
 口を挟むことができずに立ち尽くしていた紫苑は、いつの間にか他の騎手たちも馬から下り、青年の後ろに控えていることに気がついた。よく見れば、全員が同じ意匠の装束に身を包んでいる。青年だけが緋色の、セスティアルだけが薄紫のマントを羽織っている以外は、全員が鮮やかな緑色のマントを足元近くまで流していた。
 未開の地の住人、などという説明では、紫苑の明敏な頭脳は納得してくれそうもなかった。
 セスティアルの隣で、自分でも無意識のうちに緋色のマントの青年を見つめていた紫苑は、いきなりその視線がぶつかり合ってびくりと体をすくませた。
 黒に近い青の瞳が、痛いほど真っ直ぐに紫苑を見つめていた。紫苑は何も言えず、かと言って視線を外すこともできずに途方にくれた。
「――――おい、そこのガキ」
 限りない美声が、この上なく尊大に紫苑に向かって投げかけられた。
 それに返事をするどころか、体を動かすこともできずに固まる紫苑に、青年はあからさまに眉を寄せた。そのまま血に濡れた草を踏みつけ、大股に紫苑に向かって歩み寄ってくる。マントを捌いて颯爽と歩くさまには、やはりどこか支配者を思わせる優美な傲慢さがあった。そんなことを思っている内に、気づけば青年の手が紫苑の額に添えられていた。
(……え?)
 ぐいと乱暴に顔を上げさせられ、深青の瞳に覗き込まれた瞬間、紫苑は全身を包む驚きに体を硬くした。だが、当の青年は紫苑の様子になど全く構う様子を見せない。
「男か、女か? その格好からするに男だな」
「あ、あの……っ」
「質問に答えろ」
 手を振り払うことなど思いもつかず、紫苑は直立不動の姿勢のままで情けない声を上げた。その瞬間に男のまとう空気が威圧感を増し、苛立ったような色が強く混じる。それだけで紫苑は悟った。おどおどした、要領の得ない答えを返していては容赦なく切り捨てられるだろう、と。
 会話する価値なしと思われてしまえば、もはやこの青年は一瞥も向けてはくれないに違いない。そうさせてはならなかった。今のところ、紫苑がすがることのできる存在は彼らだけなのだから。
 すぅっと一つ息を吸いこみ、紫苑は懸命に、だが碧の瞳を凛然と上げて答えを返した。それがこの場を切り抜けるために必要なことなら、怯えなど一時的に押さえ込んでしまうだけの強さは持っていたのだ。
「……男、です」
「どこから来た? 何でこんな場所でうろうろしていた」
「黒い服を着た男に……攫われて。気がついたらここにいました。どうやって来たのかはわかりません。自分のいた場所も」
「攫われた? 人買いか」
「わかりません。ただ、本当に気がついたら山の中に」
 紫苑は慎重に言葉を選んだ。眼前の青年には、通り一遍の嘘はごまかしは通用しない、と思わせるだけの雰囲気があった。だが、真実をそのまま語ることなどできるはずがない。自分でもどこまでが真実なのかわからないからだ。
 確かに明晰さを感じさせる紫苑を見下ろし、青年はその額を押さえつけていた手を離した。だが興味を失ったわけではないのだろう、真っ直ぐな視線で頭一つ分は小さい少年を見据え、黙って後ろへ移動したセスティアルを軽く振り返った。
「おい、セス」
「はい」
 セスティアルは静かに頷き、細身の少年の隣に並んだ。全てを心得たように、失礼しますね、と呟いてから紫苑の首筋にほそい指先を走らせる。紫苑は反射的に体を引いたが、そこから零れた蛍のような光が宙を舞い、白い肌に描かれた赤い線を包み込んだ。暖かいわけではなく、ただ染み渡るように柔らかい光だ。瞬きする間に、薄く血の滲んでいた傷はあとかたもなく消えてしまった。
 ひりひりする痛みが消えたことに、紫苑は首に手をやって目を見開いた。それに優しく微笑みかけ、セスティアルは上司に眼差しを戻した。
「それで、いかがなさいますか?」
 彼は紫苑の身柄をどうするか、と尋ねているのだ。それが察せられ、紫苑は再び体を強張らせた。ここがどこなのかはまだわからないが、最悪の場合、不法入国の罪に問われることもあるかもしれない。
 我知らず祈るような表情を浮かべる紫苑に、青年はそっけない瞳を向けた。だが端正な唇から漏れたのは、セスティアルの問いに対する直接の答えではなかった。
「お前、名前は?」
 びくっと体を震わせながら、それでも紫苑は必死になって口を動かした。
「……紫苑、です。水瀬紫苑」
「ミズセシオン? ミズセが名前か、変な音だな?」
「あっ、違います、申し訳ありません!」
 紫苑は内心で頭を抱え込んだ。ここがどこだかはわからないが、少なくとも姓が後に西洋式の文化圏であるらしい。
「紫苑が、名前です。紫苑、水瀬です」
「ふん、シオンか」
 言葉が発せられたと同時に、ざっと強く空気の色が変わった。青年が笑みを浮かべたのだ、気づき、紫苑は声もなく息を呑む。とっさにその場に膝を折らなかったのは、それでも確かに畏怖以外の感情を覚えたからだ。
 支配者としての微笑で厳然と大気さえ染め替えながら、青年は紫苑を見下ろして口を開いた。
 響いた音は、軍の総大将が敵陣の直中に向かって名乗りを上げるのにも似た、ただ堂々として強く言葉だった。
「俺はカイゼル・ジェスティ・ライザード。エルカベル帝国騎士団長の大将軍だ」
 それは先ほど野盗の男が叫んだ名だった。だが込められた響きの差は比べようもない。エルカベル帝国、という聞いたことのない国の名よりも、男の口にした名前の方に強く意識を奪われ、紫苑は碧の瞳に驚愕を浮かべながら呟いた。
 カイゼル、という響きは、彼がいた場所でも耳にする音だったからだ。
「……皇帝?」
 カイゼルとは、カイザーの別名。
 それは皇帝を意味する言葉だった。






    



inserted by FC2 system