5 闘神の大将軍


 


 世界の名はシェラルフィールドといった。
 神代の言葉、と呼ばれる言語で『美しき荒野』という意味の名である。肥沃な土壌と豊かな森林、多くの湖沼と河川が目立つ世界にあって、何故荒野という名が与えられたのかを知る者はいない。人の手によって歴史が記されるようなった頃には、誰がそう呼び始めたのかもわからないままに、世界は当然のようにしてその名を戴いていたからだ。
 だが、『シェラルフィールド』というのはあくまで世界の名であって、人が創り出した国家の名ではなかった。
 現在、シェラルフィールドを治める国家の名はエルカベル帝国といった。言葉の意味は『玉座の剣』であり、人類唯一の統一国として中央大陸全土を治めている。それがいかなる時代であれ、シェラルフィールドに打ち立てられる国はたった一つだった。現在の支配体勢であるエルカベル帝国も、八百年近く人類を隷属させた前帝国コルトラーンの屍の上に建っていた。
 人類の支配者は、常にもっとも強き者、あるいはその血を色濃く受け継ぐ者でなければならなかった。シェラルフィールドで最も強き者とは、つまり最も強大なる魔力を身に帯びる者を指す。この世界の住人は、誰であれ必ずその身に魔力を秘めているからだ。魔術師と一般人、もしくは魔術を操れぬ剣士の差は、単にそれを引き出して扱う技術の差にすぎない。
 現在至高の玉座についている皇帝は、人類の中で誰よりも強き魔力を帯びる帝室の直系であった。
「……つまり、この世界にはエルカベルという帝国以外に『国』はないのですね? そしてどんな一般人でも、多かれ少なかれ魔力……というものを持っている。でもそれを上手く扱える人とそうでない人がいて、特に上手く扱える人が魔術師と呼ばれる存在になる……と、そういうこと、ですか?」
「そうだ。中々飲み込みが早いじゃないか」
 説明されたことを脳内で吟味しながら、紫苑は慎重に言葉を選んだ。それに対するカイゼルの答えは、紫苑の気のせいでなければどこか楽しげだった。手にした杯を惚れ惚れするような動作で傾け、向かいに座った紫苑に鋭い笑みを向けてくる。
 紫苑は現在、朝食を前にして空腹をなだめている真っ最中だった。染み一つない純白のかけ布が敷かれた卓上に、朝らしくあまり重くはない、だが信じられないほど豪勢な食物たちが鎮座している。
 外側はパリッとして、中は見ただけでふんわりと柔らかそうなパンに、とろりとした乳白色のポタージュらしきもの。紫苑に理解できるのはそれくらいなものだった。何の野菜を使っているのか想像もできない、鮮やかなエメラルドグリーンの薄い葉に、淡い青の花にも似た菜を飾ったサラダ。林檎より赤みの薄い、優しい薄紅色をした丸い果実。ベーコンに似ているような気がしなくもない、やはり何の肉だか判然としない薄焼きの肉など、紫苑は瀟洒な透かし彫りのなされた椅子に腰掛けながら目を白黒させていた。
 それでも、そこから立ち上る香ばしい匂いは、何も口にしないまま眠ってしまった紫苑にとって十分魅力的な存在だと言えた。それなのに彼の手が動作を鈍らせているのは、ひとえに朝から酒盃を空けている青年のおかげだった。
(助けて下さいセスティアル様……)
 緊張のあまり紫苑は胸中で呟いたが、美貌の魔術師は今この場にいなかった。彼だけではなく、昨日カイゼルに随従していた騎士たちも姿を見せていない。紫苑とカイゼルが食事を取っている部屋にいるのは、給仕のための従僕が数人のみだった。
 彼らは主のどんな動作もさまたげないよう、終始無言で仕事をこなしていた。紫苑の杯に果実水を注ぎ足す手際など、高級レストランのウェイターもかくや、という腕前だ。現実逃避気味にそんなことを思いながら、紫苑は遠慮がちに向かいに座った『拾い主』を見遣った。
「理解できたならいつまでももたもたするな、とっとと食え。さっきからちまちまと、女みたいなヤツだな」
 途端にじとりと深青の瞳で見据えられ、紫苑は「すみません!」と体をすくめながらスープに手を伸ばした。先ほどから豪快に杯を傾けているこの青年は、とっくに出された食事を胃の中に収めてしまっていた。素晴らしく速いのに、紫苑の目から見てもその礼儀作法は完璧だった。大貴族の当主、という立場は伊達ではないということだろう。
 カイゼル・ジェスティ・ライザード。そう名乗った榛色の髪に深青の瞳の青年は、どこにいても目立つ存在だった。簡素な濃紺の上着に同色の下穿き、無造作に首の後ろで長い髪をくくっただけの姿でも、滲み出る空気は鮮烈の一言に尽きる。赤い髪に青の瞳、というだけでも豪奢の極みだというのに、その色彩が反発することさえないのだから、彼の造作が整っていること、まとう雰囲気が華やかなことは疑いようもなかった。
 今年で二十七になると聞き、紫苑は思わず感心してしまった。しっくりくるようでもあるし、二十代前半と言っても通用するような気もする。
 再び睨まれないように手は休めず、紫苑はささやかにカイゼルの様子を観察していた。セスティアルと共にいる時のような安心感は皆無だが、不思議と視線を奪われるのだ。
(……でも)
 紫苑は困惑気味に瞳を瞬かせた。
 この『世界』に来てからぱったりと聞こえなくなった、紫苑にとっては馴染みのある呼び声。それが目の前にいる青年のものなのか、それとも違う誰かの者なのか、紫苑はどうしても確信が持てなかった。低く、通りの良い声は確かにカイゼルのものと似ているが、何故かこの人に違いない、という確固たる意識が持てない。だが、野盗の男たちに捕まりそうになった時のように、違うという確信があるわけでもなかった。
 もはや紫苑の頭は、必死になって否定していた一つの言葉を受け入れていた。あてがわれた寝室で目を覚まし、今までの出来事が夢ではなかったと悟った瞬間、どれほど信じられなくても受け入れざるを得なかったのだ。
 『異世界』という、その言葉を。
(だからって、どうして僕が?)
 それは紫苑の偽らざる本音である。あの広すぎる地球の中で、日本など人口が多く経済的に発展しているだけの島国に過ぎない。誰か一人を選んで異世界に呼ぶのなら、わざわざ日本のような小さな場所から選ばなくても、もっと広い大陸がいくらでも存在するはずだろう。何故自分が呼ばれなくてはならないのか、紫苑はさっぱりわからなかった。
 思わず溜息をつくと、すかさず正面から鋭い声が投げかけられた。
「何だ?」
「……っ、何でもありません。申し訳ありません!」
 紫苑は慌てて首を振った。彼もカイゼルに向かって説明をしたが、まさか異世界から飛ばされてきました、などと言うわけにもいかず、断片的な記憶喪失のように振舞った。それはあながち嘘とも言い切れない。紫苑は実際帝国のことも、皇帝のことも、魔術のことも知らないのだから。「思い出せない」のではなく、「知らない」だけで。
 首をすくめながら目を伏せた紫苑に、カイゼルは胡乱な眼差しを向けた。だがどうでもいいと思ったのだろう、それ以上紫苑を追求することはなかった。
「まあいい、どうでもいいが早く食え。食い終わったら行く場所があるんだからな」
「え?」
 カイゼルの言葉に、紫苑は軽く首を傾げた。その拍子に薄茶色の髪がゆれ、セスティアルが見繕ってくれた白い上衣の肩をさらりと掠める。それを目を細めて見遣りながら、カイゼルは楽しげな調子のままで続けた。
「お前、奴隷階級になりたいか?」
「――――え」
「なりたくないだろう。何度も言うが、俺はまだお前に興味がある。だからお前に平民の身分を『買って』やると言ってるんだよ」
 紫苑の碧の瞳が大きく見張られた。
 カイゼルの言葉は突拍子もないものだったが、紫苑の頭脳は幸か不幸か、理解できずに置き去りにされることはなかった。ここが帝国であり、カイゼルが門閥家である大貴族の当主である以上、少年一人の身分を買うことなど造作もないことだろう。現代では考えられないことでも、専制君主制の古代の国では自然にまかり通っていたということを、紫苑は充分すぎるほどに知っていた。
 だが理解はできても、戸惑いがなくなるわけではなかった。
「……あの、カイゼル様」
「何だ」
 恐る恐る呼んでみても、カイゼルは機嫌を損ねた様子はなかった。紫苑はほっと胸を撫で下ろす。
 セスティアルはカイゼルに呼びかける時、まるで臣下が主君に呼びかけるような『我が君』という表現を使っていた。他の騎士たちに至っては団長や大将軍、使用人たちは旦那様と呼ぶ。名前で呼んでいいものか、紫苑は昨日から一人で悩んでいたのである。
「カイゼル様。あの、どうして……」
 紫苑はやや躊躇ったが、もたもたしていては会話を打ち切られてしまうだろう、と思い、必死で自らを奮い立たせた。
「どうして、僕を拾って下さったのですか。……その、僕などを拾っても、貴方に何の利点もないでしょうに」
「面白いことを言うな。捨ててほしいのか?」
「いえっ! そうではありません、そうではないのすが、でも、僕は……」
 この世界の住人ではないのに、という言葉は胸中に呟かれただけだった。だが、まるでその呟きが聞こえたように、カイゼルは面白そうな表情で端正な唇を歪めてみせた。
「何度も言わせるな、俺はお前に興味が引かれた。その興味の理由がわかるまでは手元に置く。それだけだ」
 つまり、興味が失せたら放り出すということだろう。紫苑は思わず瞳を伏せたが、それは何故か不信感には直結しなかった。
 不安も恐怖も消えずに存在していたが、このカイゼルという青年に敵愾心を抱くことだけどうしてもできなかった。それは命を助けてもらったからだろうと、紫苑はよく考えることもなく思っていた。
 少なくとも、今この時は。




 人工的に作られた水路を、透明な水が流れてさらさらと音を立てていた。
 その流れを辿るように足を運びながら、セスティアルはくすくすと軽やかな笑い声を響かせた。苦笑にも似たそれは、目の前にいる青年へと向けられたものだった。彼の上司ではなく、同僚の青年に。
「そんなところで何をしてるんです? ヴェル」
「昼寝」
 あまりにも簡潔な答えに、セスティアルはますますおかしそうに口元を綻ばせた。彼が沿って歩いていた水路は円を描いくように庭園を囲んでいて、そのすぐ傍には立派な大木が何本も葉を茂らせている。声が聞こえてきたのは、その中でも一際大きな大木の上だった。
「今は朝ですよ? そんなに退屈だったのなら、貴方も同行すればよかったでしょうに」
「下らんな。何故俺が地方派遣の騎士の訓練、などという面倒くさいものに同行しなければならない? カイゼルも暇なことだ」
「ですが野盗の襲撃があって、その討伐にも駆り出されましたよ?」
「雑魚の、か?」
「当たりです」
 セスティアルは軽く枝の上を見上げたまま、ふふ、と柔らかく微笑んでみせた。
 一拍置いて、ザッという葉擦れの音と共に黒い影が舞い降りてきた。美貌の魔術師が立つ大地は、ほんのかすかにも音を立てずに飛び降りた青年を受け入れる。かなりの高さがあったにも関わらず、着地する際に何らかの負荷がかかっているようには見えない身のこなしで、その青年はセスティアルの横に降り立ってみせた。
 青年の名はヴェル・シルファといった。だが、彼を知る者は必ず名の前に『ディライト』という称号をつけて呼ぶ。セスティアルの名に最高位の魔術師の証たる『レイター』をつけるように。
 ディライト・ヴェル・シルファという名は、シェラルフィールドではやや特殊な意味合いを持つものだった。魔術師を最高の存在とし、魔力の強弱をすなわち力の強弱と見なす世界で、『ディライト』とは最高位の剣士に与えられる称号だからだ。それを証明するように、青年の腰に下げられた大振りの長剣がカチャリ、と音を立てて存在を主張した。
 ヴェルはセスティアルと同じ、第十四位階まで階級のわけられたエルカベル騎士団にあって、『統率者』と呼ばれる第一位階の騎士だった。たった十三人しか存在しない同等の同僚に、セスティアルは穏やかな銀青の瞳を向ける。
「ですが、とても面白い『拾い物』がありましたよ。我が君のお言葉を借りるなら」
「興味ない」
「言うと思いました。貴方はそういう面白味のない人ですもんね」
 言葉とは裏腹に、セスティアルの微笑は小揺るぎもしなかった。朝日の下でも茶色く透けない、純粋な夜の色を持った瞳がその笑みを見つめる。身分ある者は髪を伸ばすエルカベル帝国では珍しく、瞳と同じ色を湛えた髪は短かった。
 髪と瞳だけではない。ヴェルはすらりとしたブーツから上着まで、すべて闇を溶かし込んだような漆黒をまとっていた。唯一の例外が、銀の飾りで留められた紫のマントだ。セスティアルがまとうものと同じで、エルカベルではマントの色彩によって騎士団内の地位を表している。紫系の色彩は第一位階の騎士の証、鮮やかな緋色は大将軍の地位の証、というように。
 冬の晴れ渡った夜空を思わせる、だが星々の煌きとは無縁な深い瞳をそっけなく逸らして、ヴェルはさっさと踵を返してしまった。漆黒をまとわせた最高の剣士は、微笑しているセスティアルを振り返ることさえしない。慣れているのか、黒髪の魔術師は気を悪くした風もなく笑い、紫のマントを翻した後姿へ視線を放った。
「我が君の拾い物……シオンという少年は、この世界に棲まう存在ではありません」
 風がさざめくような声音だった。ヴェルに聞かせるものというより、風に流してしまうことを目的とした独り言のような。ヴェルはふいに足を止め、セスティアルの呟きを確かめるように肩越しに振り返った。
 セスティアルはゆったりと笑いながら、ヴェルの漆黒の瞳に青みがかった銀の眼差しを当てた。
「確信したのは夕べのことですが。彼は、シェラルフィールドの住人が誰しも宿しているはずのものを持っていない。野盗を追い詰めたディマリス山に、まったく魔力を感じさせない歪みを感じた、その直後にシオンに出会いました」
「――――何が言いたい、レイター?」
「シオンは、何かをもたらすためにシェラルフィールドへ来たのだと。私はそう思っているのですよ、ヴェル」
 答えたのは、一瞬の沈黙だった。風が木々の梢を鳴らし、流れる水はさらさらと涼しげな音色だけを奏でていく。皇宮に次ぐ、とさえ言われる広大なライザード家の庭園には、今はセスティアルとヴェルの二人しかいなかった。水桶を持って小走りで進んでいく奴隷の姿も、鋏を持った庭師の姿もない。
 降りた静寂を破るのではなく揺らすように、セスティアルは風に長い髪を遊ばせながら言葉を繋いだ。悪戯をたくらむ子供のように。同時に、策略を蜘蛛の糸のごとく張り巡らせる軍師のように。
「停滞した歴史を、再び動かすために」
 響いた声音は、わずかに離れたところに立つヴェルだけが聞いた。
 その響きを自然に受け止めて、ややあってヴェルは薄く微笑を閃かせた。
 カイゼルの笑みを鋭い剣の切っ先とするならば、ヴェルのそれは微細に散った氷の破片だった。鋭く冷たく、だがどこか捉えどころがなく霧散していく。
「……どのみち、俺には興味のないことだ」
 その呟きだけを残して、ヴェルは今度こそ振り返ることなく歩き去っていった。その決して長身ではない、しなやかな俊敏さを印象づける姿が庭園の一角にさしかかった瞬間、淡い銀色の粒子のようなものが弾けて消える。もっとも、それはセスティアルにしか知覚することができない光だった。ただの光ではなく、魔力の凝りなのだから。
 呼吸をするような自然さで、庭園の一部を『人避け』の結界で覆っていた美貌の青年は、朝らしく活気に溢れた喧騒の戻ってきた空を仰いだ。
 吹きすぎていく風が艶やかな髪を揺らし、薄紫のマントの上に輝く闇色の流れを作る。ライザード家の豪奢な庭園とも相まって、どこか一幅の絵画のような光景だった。
 瞳が柔らかく細められたのは、朝日の眩しさのためだけではない。うっとりと、まるで睦言をささやくような声でセスティアルは呟いた。
 魔術師の言葉は、つまりは託宣だ。
「歴史は動くでしょう、餓えた美しき荒野は血を欲する。鍵は呼び覚まされ、そして闘神は目を覚ました」
 それは、白く輝く扉の『番人』が漏らした言葉によく似た響きを持っていた。
 意味を成した言葉というよりも、むしろ降り注ぐ何かを音に変えているような印象の声だ。そして陶酔した優しい響きも、確かに番人に通じるものがあった。
 そっと瞳を閉ざして、セスティアルは風の中に静かにささやいた。
 すでに結界はないためか、聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で。
 だが不思議と綺麗に紡がれる音律で。
「我が君は闘神であらせられるのだから、ね」
 ふわりと、風の手に攫われてその音が消えたのを見届けて、セスティアルは優美な動作で身を翻した。






    



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