9 夜と月の歌声
告げられた言葉がすぐには理解できず、シオンは瞳を見開いたまま絶句した。それほど思いもよらない言葉だったのだ。
「お前は異界から来たんだってな、シオン」
何でもないことのようにそう言った、カイゼルの言葉は。
「…………な」
何を、と呟いたつもりが、奇妙な呼吸音になっただけで音としては響かなかった。
シオンが異界、つまりこことは異なる世界から来たというのは事実だった。シオンはとっくにそれに気づき、その事実を受け入れている。だが、それを他人に理解してもらおうなどとは思わなかった。不可能に決まっているからだ。
そうだというのに、寝台の傍の壁に長身を寄りかからせたカイゼルは、平然とした表情でシオンを見据えていた。深い青の瞳は、どこか楽しげな光さえ宿しているように見える。次の言葉を紡げずに沈黙するシオンに、カイゼルはなおも笑ったまま簡単に言ってみせた。
「セスがな。お前が魔力を消し去ったりできたのは、お前があるべきはずのものを持っていないからだろう、だと。シェラルフィールドの人間なら誰しも持っているはずの魔力が、どれだけ探ってもお前の中には見出せないそうだ。微弱な魔力しか持たない一般人なら、普段はまったく感じられないことも珍しくはないが、俺やレイターであるセスが本気になって探っても感じられない、何てことはありえないからな」
つまり、シオンはその身にわずかな魔力も帯びないということだ。そしてそれは、シオンがシェラルフィールドの住人ではないという何よりの証拠になってしまう。餓えた美しき荒野は、魔力によって構成され魔力によって支配される、言うなれば魔力こそが基盤である世界なのだから。
「お前が魔力を持っていないせいで、逆に攻撃してくる魔力の支配を受けなかったんだろう。それどころか相手の魔力を消し去ることまでできる。セスに言わせれば『反作用』のようなものだそうだが……どっちにしろ、使い道のある特性だ」
そう言ってカイゼルの低く笑う声も、シオンには遠い世界の出来事のように感じられた。
幸か不幸か、カイゼルの言っていることが理解できないわけではなかった。どんなに呆然としていても、しばらくすればシオンの頭脳は勝手に活動を始め、告げられた内容を吟味し始める。それが耳を塞いで「嘘だ」と絶叫したくなるような、ありえない事柄でもだ。
「…………何かの、間違いではなくて、ですか?」
それでも一縷の望みをかけて、シオンは息も絶え絶えの表情で問いかけた。だが、すでに答えはわかりきっていた。カイゼルが言った通り、この世界で最高位であるレイターのセスティアルと、軍部の総指揮官であるカイゼルが、魔力に関することで間違いを犯すことなどありえない。
そしてシオン自身も、かなりおぼろげな記憶の中で、透明な銀色の光を感じたのを覚えていた。どこかで響いていた歌声と、ひどく満足げに笑う聞き覚えのある声音を、曖昧ではあるものの確かに覚えていたのだ。
銀の星が飛び違い、その光に透けて青く煌き渡る漆黒の空間を。
静謐を揺らして歓喜を謳った、祝詞の歌を。
出で給えかし
出で給えかし
ああ貴なる君よ
時は繰り返す 鍵は目覚められた
幸え給え
幸え給え
時は繰り返す 神代の時は歴史を刻んだ
それが何を意味するのかはわからなかったが、『鍵』という言葉には確かに聞き覚えがあった。
この世界へ連れて来られる瞬間に、自らを『番人』だと言った黒衣の人物が、シオンを指して「汝は鍵である」と言ってはいなかったか。汝を呼び招く者のところへ行くがいいと、不可思議な言葉と共に微笑してはいなかったか。響き渡った歌にあわせて、始まったという、天啓にも似た言葉を響かせてはいなかったか。
「僕は……」
混乱した思考をもてあましながら、シオンは答えを求めるようにカイゼルを見上げた。
カイゼルとてすべて知っているわけではないだろうが、何故か、シオンにはこの青年に命じられたことならば喜んで甘受しようという思いがあった。それは意識しての思いではなく、完全に無意識の中で芽生えた感情だ。
あえて名前をつけるなら、忠誠心と呼ばれる思いだった。
縋るような眼差しを受けて、カイゼルはふん、と軽く唇の端で微笑してみせた。
「前に言ったな。俺はお前に興味がある、その興味の理由がわかるまでは傍に置くと」
「……はい」
「何故お前がこの世界に来たのか、どこから来たのかは俺の知ったことじゃない。だがお前の『力』は……いや、違うな。一切の力を持たないが故の特質は、使いようによっては切り札になる」
「…………」
「だから、手放す気はなくなった」
鋭すぎる笑みと共に告げられた言葉に、シオンは再度、湖沼のような碧の瞳を見開いた。そんなシオンの反応さえ楽しげに見遣り、カイゼルは壁からしなやかな体躯を起こして寝台に歩み寄る。
薄ぼんやりとした夜の明かりの中でも、流れた榛色の髪は炎の軌跡のようだった。
そんなことを頭の片隅で考えるシオンに、青く透ける闇色の瞳が真っ直ぐに向けられた。すべてが豪奢を極めるこの青年は、たとえ生死に関わるような局面に立たされても、不敵で余裕に溢れた笑みを失うことはないのだろう。
シオンはその輝きに見惚れた。
王者の風格、という言葉の体現者を前にして、唐突にセスティアルが「我が君」という呼称を使う意味がわかったような気がした。
「いいか、シオン。お前に、俺の侍従の身分をくれてやる」
だからだろうか。カイゼルの次の言葉に、驚きだけでなく確かな喜びも感じたのは。
「……え」
「下働きの仕事じゃなく、俺の傍仕えの身分にしてやると言ってるんだ。……どうする、お前はこの世界で生き残るために、この先何があっても俺に仕えるか?」
それは悠然とした、絶対者の言葉だった。
侍従という言葉は耳慣れないものではあったが、その意味は理解することができた。権力者の傍に仕え、身の回りの世話をする従者のことだ。
間違っても、身分が知れない上に、異世界からやって来たただの少年に相応しい役職ではなかった。
「……あの、それは僕が……何の身分も持たない僕のような者がついても、構わない役職なんですか?」
「あ? 何言ってるんだ、お前は? 俺の侍従を決めるのは俺だ、ほかに何の許可がいる」
「それはそう……ですが」
「俺がお前を侍従にすると決めた。それだけのことだ。何か文句でもあるのか?」
ここまであっさり断言されると、その響きはいっそ清々しかった。これでは皇帝でもない限り、カイゼルを従わせることなど不可能だろう。あるいは皇帝でさえ、この強すぎる魂を屈服させることなど不可能かもしれない。
それは思いがけないほど、強い吸引力を持ってシオンを引きつける認識だった。
自分を呼んでいた『呼び声』の主は、この大将軍たる青年に違いないという不思議な確信と共に。
『――――今こそ、歴史の鍵を呼び覚ませ』
さわりと、不意にどこかから響いてきた涼しい声が、反響する鈴の音のようにシオンの脳裏にこだました。
一つの答えを導くように。
『汝は覇者にふさわしき者』
カイゼルこそが、覇者にふさわしい者なのだと。
どうする、と再び問いかけられた声に、シオンは真っ直ぐに碧の瞳を持ち上げた。
息を吸い込んで、不思議な言葉に導かれるようにしながら。
「……カイゼル様に、お仕え申し上げます」
ほとんど無意識のうちに、だがしっかりとした自分の意思をも込めて、シオンの唇は言葉を綴っていた。
「どうぞ、これよりお傍に」
滑り出した音をシオンが確認したのは、カイゼルが満足げな笑みを刻んだあとのことだった。
自分が何を言ったか、正確に理解していたわけではなかったのだ。
「いい答えだ」
笑みを含んだ声音と共に、カイゼルの無骨な手が伸ばされ、シオンの細い薄茶色の髪をくしゃりとかき回した。優しくはないが、荒っぽいだけでもない仕草で。驚いたシオンが大きく目を見張った。その頭を一、二度軽く叩くと、カイゼルはさっさと寝台に背を向けた。
「あれだけ寝たんだ。もう眠くはないだろうが、根性で寝ておけ。明日から侍従としてビシビシしごくからな」
首だけで軽く見返って楽しげに言い、カイゼルはもう用は済んだとばかりに、上質な薄青の絨毯を踏んで扉に向かって歩き出した。
ほとんど音もなく開いた扉を見て、硬直していたシオンは我に返った。
その時、反射的に声を出してしまったのは何故だったのだろう。自分でもよくわからない衝動に突き動かされて、シオンは堂々としたカイゼルの後ろ姿に叫んでいた。
「………カイゼル様!」
「何だ?」
扉に手をかけた体勢のまま、カイゼルは面倒くさそうに振り返った。それだけで申し訳ないような気分で一杯になったが、呼び止めておいて「用はありません」と言うわけにもいかない。内心で激しく頭を抱えながら、シオンはぎこちなく、主君となった青年に向かって頭を下げた。
「―――――おやすみなさいませ、カイゼル様」
無言で見送ることができなかったのは、カイゼルに頭を撫でられた衝撃が大きかったせいかもしれない。
今まで絶対的で、雲の上に立つ存在として見ていたカイゼルが、初めてそこにいる人間として捉えられた。それが理由もわからず、シオンは嬉しかったのだ。
そんなシオンの内心に気づいたわけではないだろうが、カイゼルは扉を押し開けて唇の端で小さく笑った。
どことなく、優しげにも見える笑みで。
「ああ」
一瞬の錯覚かもしれなかったが、それでもシオンは湧き上がる喜びの存在に気づいた。
静かな音と共に扉が閉まり、広い室内に静寂が戻ってくる。昨日は疲労の中でも心細く、もといた世界に帰りたいという当然の願いしか頭になかったが、今日はさして寂しいとは思わなかった。もはや現代日本ではありえないような、時代がかった台詞の数々にも違和感を覚えなくなりつつある。自分の意外な順応性に、シオンはかすかに微笑を浮かべた。
その瞬間、部屋に静けさが降りたことによって、今まで聞こえていなかった音が耳に飛び込んできた。
先ほどシオンの意識を覚醒に導いたそれは、いくつかの弦楽器や笛の音が重なって作られた音色と、そこにかぶさって響いていく歌声だった。
ライザード家に雇われた楽団が演奏しているのか、子守唄を思わせる音楽が空気を揺らし、広い屋敷をどこまでも優しい空気で包み込んでいる。シオンは瞳をなごませ、裸足のままで寝台から絨毯の上へと降りた。そのまま窓辺に寄り、音楽を引き入れるように薄く飾り硝子の窓を開く。
とたんに涼やかなそよ風に混じって、夜の静謐さに馴染んだ響きが室内に流れ込んできた。
「わ……」
思わず瞳を眇めたのは、夜空に浮かんだ月が信じ難いほどの明度を持って、青みがかった銀の光を降らせていたからだった。どこか美貌の魔術師の瞳を思わせるその光は、シオンにあてがわれた部屋から見渡せる中庭にも降りしきり、その露台で演奏している楽団を幻想的に浮かび上がらせている。
風と月の光に乗って、歌声はシオンの元まで優しく漂ってきた。
どうしてその言葉が理解できるのかはわからなかったが、シオンはうっとりと、柔らかに降り積もっていくような旋律に耳をすませた。
荒野におちた一羽の小鳥
空を見上げて鳴きつづける
失くしてしまった羽はどこと
空を見上げて鳴きつづける
空を忘れた一羽の小鳥
首を伸ばして歌をうたう
愛していると繰り返して
ただいつまでも歌いつづける
それはひどく悲しげな歌だった。楽団の奏でる寂しい音色に乗せて、歌声は夜の大気をふわふわと揺らしていく。
広い窓辺に寄りかかり、シオンは髪が夜風になぶられるのに任せていた。
日本語とは確かに違うのに理解できる言葉たちは、どうしようもなくシオンの耳に優しかった。
どうしてか、言い知れない親しみと懐かしさを覚えるほどに。
今も響いている小鳥の歌声
それだけが告げるのだろう
小鳥は鳥ではなく あの人だったのだと
今も繰り返すかなしい歌声
それだけが消えないのだろう
残された小鳥の 最後のこころなのだと
いつの間にか、シオンも楽団にあわせて歌を口ずさんでいた。単調な調べを繰り返す歌は、記憶力と音感に優れたシオンにとって決して難しいものではない。劇団に所属していたシオンの声は、本職の歌い手の声音に掻き消されてしまうこともなく、ライザードの広々とした屋敷に広がっていった。
波紋を描く湖のような瞳で月を仰ぎながら、シオンは胸元で硬く手を握り締めた。
ここで生きていく。
いつか帰れるまで。
その決意を表明するように、シオンの伸びやかな歌声は夜空へ紡がれていった。
ふと聞こえてきた澄み切った音律に、セスティアルは口元を甘く綻ばせた。
彼は常人に比べて優れた聴覚を有している。そこに混じった声が最近出会ったばかりの少年のものであると、ほとんど一瞬のうちに気づいていた。
「よほどシオンが気に入られたのですね、我が君?」
くすくす、と笑う声と共に告げられた言葉は、セスティアルの独り言ではなかった。中庭に面した回廊の一角で、柱に優美な体を預けていた魔術師の視線の先に、石造りの床を鳴らしながら歩いてくる青年の姿がある。
自然な動作でその前に進み出ると、セスティアル長い服の裾をふわりと広げて膝を折った。それを当然のこととして受け入れながら、カイゼルは唇の端を持ち上げてみせる。
「そう見えるか、セス」
「はい、我が君。恐れながら、我が君は随分シオンにお甘いかと」
その台詞の内容だけをみれば、古参の部下が新入りばかりを気にかける主君に諫言しているようにも聞こえる。だが、そう告げたセスティアルの声音は楽しげで、薄紅色に色づいた唇も柔らかな笑みを刻んでいた。事実彼は楽しんでいるのだ。
カイゼルも喉の奥で笑い声を立て、響いている歌声を辿るように深青の瞳を細めた。
「あいつは面白い。しばらくは退屈しなくてすみそうだ」
「はい、我が君」
それが主君にとっての最大の好意の表れだと、セスティアルは傍近くに仕えるものとして誰よりも理解していた。そして主君たる青年の喜びは、そのままセスティアルにとっての歓喜に違いなかった。
「かつても申し上げました、我が君」
降り注いで銀色の粉を散らしている、月光をそのまま嵌め込んだ瞳を上げ、セスティアルはゆったりと微笑した。さらさらと綺麗な音を立てて流れ落ちる髪は、やはりそのまま星を散りばめた夜のようにも見える。セスティアルを評して、シオンが綺麗な月夜のようだ、と思ったのは完璧なる事実だった。
硝子細工を思わせる笑みはそのままに、セスティアルは至高の存在に祝詞を捧げるようにして、うっとりとささやいた。
「歴史は貴方に微笑むでしょう」
歌声に唱和して響いていく声に、カイゼルの低い声音が変わらない答えを返した。
揺るがない笑みを浮かべながら。
「当然だ」
シオンの存在が、カイゼルにとってどんな未来をもたらすのか。
知る者は地上に一人もなく、ただどこかで微笑む『番人』だけが、その白い指を伸ばして未来を手繰り寄せようとしていた。