10 伝説の片鱗


 


 風に巻き上げられていく砂塵が、曇天と地平の境目を曖昧にしているようだった。
 暗色に沈む乾いた風に、大地に林立する剣の飾り紐が揺れ、甲冑の残骸が荒れた地表を転がっていく。引っくり返って車輪を空しく回転させる戦車は、どこか陸上に打ち上げられた巨大な魚を思わせた。血を吸いすぎてどす黒く染まった大地も、それを埋めつくさんばかりに続いていく人馬の屍の群れも、行われた戦闘の激しさを無言の怨嗟と共に訴えているようだ。
 この世の終わりを思わせる光景には、だが完璧な静寂が降りているわけではなかった。
 薄闇を裂いて閃光がひらめき、金属同士を打ち合わせたような、高く澄み渡った音が大気を突き通した。冴えた冷たい空気の中、水晶でできた剣を合わせればこんな音がするのかもしれない。そんな感慨さえ抱かせるほど、それは金属音にしては清浄すぎる響きだった。それに次いで甲冑が無粋な音を立て、重い何かが地面に倒れ伏したことを教えてくれる。
「……ここまでだな、剣の者。すでに戦の趨勢は定まった。我らの勝利だ」
「剣を収め、退くがいい。とうに帰結の見えた戦で、さらに血を流すのは我らの本意ではない。約定に従い、我らの定めるところを是とするなら、今なお生きている者の命までは取らぬ」
 不意に響いた二つの声は、暗鬱な風をすべて吹き払う清風のようによどみなく、真っ直ぐに天へと奏でられていくものだった。
 一人は、深紅に煌き渡る光で形作られた剣を手に、紅玉を布として織ったような装束をまとう、紅蓮の炎を彷彿とさせる少年。もう一人は、何も持たない手を胸の前で組み合わせ、華美ではない黄金の衣を風に遊ばせて佇む、金粉を散らしながら輝く篝火のような少年。双方ともが均整の取れた長身の持ち主であり、信じがたいほど整った面差しの所有者だった。
 紅の少年は、首筋に遊ぶ短めの髪から切れ長の瞳、額に当てられた兜代わりの額飾り、そして豪奢でありながら実用的な硬いブーツまで、すべてが炎のように揺らめく極上の紅色に染め上げられていた。手にした剣も鋼ではなく、落日の一雫を凝らせたのにも似た光の結晶で作られている。
 対する黄金の少年は、薄い黄色から綻んだばかりの山吹色、そして煌びやかな白金と黄金の流れが、目に痛くない程度の光を放つ戦装束をまとっていた。髪は黄金よりもなお濃い橙色で、瞳は篝火を宿した黄玉の色を湛えている。紅の少年が鮮烈で強靭なら、この少年は絢爛で峻厳だと言えるだろう。
 どちらも勇壮で、地上に降り立った武神の立ち姿を思わせる威厳に満ちていた。
「…………おのれ」
 仰向けに大地に倒れ伏した男が、二人の少年を見上げて憎々しげにうめいた。何とか片肘をついて上体を起こそうとするが、胸甲に走った切れ目から絶え間なく鮮血が流れ出し、苦痛と共にその動きを妨げている。土に汚れた顔立ちはまず秀麗と言ってもよかったが、そこに浮かべられた表情は敗軍の将のもの以外ではありえなかった。
「おのれ妖者めが、怪異な力を持って四玉の王……紅玉、黄玉の戦王などと僭称する叛徒めが! 世界の半ばまでを手中にしただけではあきたらず、我ら誉れ高き剣の者を異界へ追いやろうなどと……そのようなこと、俺は認めぬ! 断じて認めぬぞ!」
「――――うわ、ばっかじゃねえの?」
 つい地が出た、と言わんばかりの口調で『紅玉』と呼ばれた少年が呟き、『黄玉』の少年が一瞬視線を逸らして嘆息した。だがすぐに橙色の眼差しを男に戻し、面倒くさそうに眉を寄せながらゆるく頭を振る。
「まさか。我らの負った責務、果たさぬつもりなど毛頭ない。だからこそ陣を率いて戦場に立ち、王たる者の証を示しているのはないか。何より、このままでは魔力の隔たりによって界は引き裂かれ、剣だ魔力だと騒いでいる場合ではなくなるだろう。仮にも一陣の将を名乗る者が、その程度の自明のことも理解できぬと?」
「黙れ!!」
 まだ二十歳にも達してはいないだろう、と思わせる風貌には似つかわしくない、淡々とした黄玉の声に男は激昂した。隣に立つ、冷めた光の紅玉の瞳がわずらわしそうに細められるのにも構わず、男は甲冑を鳴らしながら声を張り上げる。
「黙れ僭王が! すべて元はと言えば貴様らが招き、貴様らの悪辣な兄たちが始めた戦、よもや知らぬとでも言うつもりか!!」
「軽々しく兄たちのことを口にするんじゃねえよ」
 それに返されたのは、地を這うような低い声だった。同時に尊大な王者の声でもあった。
 男は明らかに気圧されて怯んだが、その事実そのものに誇りを傷つけられたのか、そのまま沈黙することはなかった。あるいはその方が幸福であったかもしれない。不意に、見るからに虚勢であるとわかる笑みに口元を引きつらせ、男は口にしてはならないことを口にしたのだ。
「……ふん、兄たちか。いかにもっともらしく弁舌を弄そうと、貴様らとて、しょせんは貴様らの兄たちの走狗に過ぎぬということか。何が翠玉、何が青玉の王か! 女と変わらぬ美貌で世を惑わす、古に国を滅ぼした忌まわしき毒婦と何が違うと」
 言うのだ、と。男はそう言おうとしたのだろう。だがそれは適わず、くぐもった嘲弄の微笑はぶつりと途切れて消えてしまった。
 軌跡さえ残さない速度で紅の光剣が振るわれ、男の首はすっぱりと胴体から切り離されていたのだ。間髪いれずに黄玉が踏み込み、そのブーツに包まれた足が一瞬だけ宙に浮いた首を蹴り飛ばした。赤い線を描きながら兜を被ったままの首が飛び、信じがたいほど遠くの地平に消えていってしまう。一拍おいて、彼らの会話を黙して聞いていた敗軍の兵たちが、地から起き上がることもできずに恐怖の叫びを上げた。男は彼らの司令官だったのだ。
 首を失った体は、どこか戯画めいた滑稽さで鮮血を吹き上がらせ、わずかに起き上がっていた姿勢からゆっくりと大地に倒れていった。もう充分血を吸っていた大地が、これ以上の死を拒絶するように血で溢れ、にわかに鮮やかな緋色の池を作る。もとは白銀色だったのだろう甲冑が、その池によってべっとりと赤く染まり、荒廃した戦場にひどく不吉な光景を生み出した。
 滑らかな動作で後退していた少年二人は、時ならぬ雨に打たれもせずに泰然と立っていた。返り血一つ浴びないその様は、やはり人間ではなく冷酷な戦の神のように見える。血に染まることもない光の剣を払い、紅玉は血溜まりに伏した屍にぞっとするような冷笑を向けた。
「愚者が。死して贖えただけ幸いと思え」
「助かる命を自ら捨て、首級を差し出すだけで済んだのだ。感謝するがいい」
 誰にとも無く冷たすぎる声音で呟くと、少年たちは復讐に燃え立つ瞳を上げることしかできない、無力な敗残兵を眺めやった。すでも戦う力など欠片もないとはいえ、この者たちが先ほどの男と同じ轍を踏み、彼らの『兄たち』を侮辱しようものなら、一瞬で物言わぬ肉塊に変えられていたことは間違いない。いっそそうしてやろうか、と、程度の差こそあれ二人の双眸は語っていた。それを止めたのは前ぶれなく響いた、鈴の清音にも似た凛冽な声だった。
「……やめろ、二人とも。すでに勝敗は決した。これ以上の血は余計な戦火を生むだけだ」
「鉄の時代は終わり、これからは真理と言霊の時代が来る。……さあ、武器を捨てて投降しろ。今、ここに天運は定まった」
 そう言って、ふわりと舞い上がった風と共にその場に現れたのは、翡翠と青玉の化身だった。
 水晶と翠緑玉を溶かして流れを作ったような髪に、極上の緑柱石を思わせる瞳を持った少年は、翠玉の王。水のようにさらさらと流れ落ちていく青の髪に、水色から藍色に移ろう不思議な瞳を持った少年は、青玉の王。紅玉と黄玉の兄たちであり、よく似た面差しが伝えるとおりの双子だった。
 弟二人が快濶な戦神の化身なら、兄二人は典雅で妖艶な美の神の寵児だろう。敗軍の兵たちは呼吸も忘れ、現実感が希薄になるほどの美貌を見つめていた。
「兄貴!」
「兄上」
 紅玉と黄玉の顔が一瞬で明るくなり、軽やかに兄二人の傍らへ歩み寄った。翠玉はどこか無邪気な笑みをそれに向け、青玉はたしなめるような表情を作る。黄玉は殊勝に、紅玉はあらぬ方を見遣って兄二人の背後に下がり、まるで後背を守るような位置に控えてみせた。
 四人が並び立った、ただそれだけで世界の色彩は明度を増したように思われた。
 翠玉、青玉、紅玉、黄玉。眩い世界の至宝が人の形を取ったなら、このような姿になるに違いない。四玉の王、と呼ばれる魔力を持つ者たちの王は、静かに地獄絵図と化した戦場に宝玉の瞳を流し、朗々と響き渡る声音で宣言した。
 絶対的な響きを持って。
 覆せない、ただ一つの掟を定めるようにして。
「すべては定まった。剣の者は魔力なき沃野へ、魔力持つ者は力満ちる荒野へ。世界は二つにわかたれ、永久に一つに戻ることはない」
 剣を持っていた兵たちは、見えない手に押さえつけられたように剣を手放し、大地にひれ伏していった。格の違いを思い知ったのだ。そして、四人の『王』たちの決定に異を唱えることなどすでに許されぬと、短い時間の間に悟ったのかもしれなかった。
 屍の中に跪く幾人もの兵に、四人の宝玉たちはそれぞれの表情をひらめかせた。
 それは彼らの個性を表すように異なるものだったが、共通しているのはかすかに揺らめく悲しみの存在だった。そしてそれを抑えて凛と上げられた、四色の輝石の煌きだった。
「――――きっと、もう帰れはしないだろうけれど」
 限りない切なさと強い覚悟を込めた声音は、誰が零したものだったのだろうか。
 消えていくその響きを追うようにして、黒く沈み込んだ荒野のただ中に、風が弾けた。




 急速に意識が現実世界に舞い戻り、シオンはすさまじい勢いで掛け布を跳ね除けた。
 きっちりと閉められた窓からも、シャラン、シャランという、静寂を乱さない程度に抑えられた鐘の音が入り込んでくる。太陽はまだ完全には姿を現していなかったが、東の空は雲を眩い黄金色に変えていこうとしていた。
「…………うわっ」
 まずい、と血の気が引いた顔で呟き、シオンはほとんど飛ぶようにして絨毯の上に降りた。
 降りると同時に素晴らしい速度で洋服棚に飛びつき、同時並行してまとっていた肌触りのいい寝巻きを脱ぎ捨てる。夢見が悪かったせいかやや汗をかいていたが、それに構っている余裕もなかった。一番手前にあった水色の上着を手に取り、それを羽織りながら手櫛で細い茶髪を整える。すべての支度を整えるまでにシオンが要した時間は、秒にしてわずか十五秒でしかなかった。
 身支度を整えると、シオンは息つく暇も無く身を翻した。扉を押し開け、いっそ感動するほど広く長い廊下を走り出す。すでに鐘の音は十回を数え、緩やかに余韻を残しながら消えていこうとしていた。
 内心で消えないで下さいっ、と鐘の音にさえ低姿勢で絶叫し、シオンは泣きたくなるほど長い長い廊下をひたすらに走った。
 シオンの現在の身分は、エルカベル帝国騎士団長にして門閥家である大貴族の当主、カイゼル・ジェスティ・ライザードの侍従だった。初めこそ、日常が普通に古典劇である世界にとまどいもしたが、明敏で器用なシオンはかなりの速度で仕事に慣れつつある。地球世界の暦で言えば約一週間、ここシェラルフィールドの感覚では単に七日間が過ぎているのだから、それも当然といえば当然だろう。
 シェラルフィールドには『一週間』という区分がなく、一月が約二十九日から三十日で、一年は地球の一般的な暦と同じ三百六十五日だった。どちらかといえば太陰暦の方に近いかもしれない。もっとも、シオンはまだこの世界について勉強を始めたばかりであり、まだまだ知らないことの方がずっと多いのだが。
 侍従であるシオンがこなす一日の最初の仕事は、起床の鐘がなる前に起きて支度をすませ、厨房から主人であるカイゼルに目覚めのお茶を運ぶことだった。実に大貴族らしい習慣だと言えるが、カイゼルは普通の貴族のように、侍従に起こされるまで眠り込んでいるなどということはない。シオンが部屋を訪れる時には、すでに必ず起き出して身支度を整えているのだ。
 だからこそ、たとえ数分の遅れであろうとしっかりとばれてしまう。
「寝坊した…………っ」
 小学校から中学、そして高校に至るまで、一度たりとも口にしたことのない言葉だった。奇妙な新鮮さを覚えつつ、シオンは今さらながら恥ずかしそうに白い頬を染める。広すぎるほどの廊下には、奴隷たちや他の従僕、女中などが、それぞれの仕事をするために忙しく動き回っているのだ。周囲から上がるくすくすという笑い声に、シオンはそのまま頭を抱えてうずくまりたくなった。
「おやシオン、寝坊か?」
「珍しい、慣れてきたんで気が緩んだんじゃないのかい?」
 その内の何人かが、走っていくシオンの姿を認めて声をかけてきた。からかうようだが、込められた響きは暖かい。シオンにはどこか人の庇護欲を誘うところがあるのか、特に年配の従僕たちなどは新しい侍従に好意的であった。
 シオンは律儀に歩を緩めながら、その一人一人に「おはようございます」と笑顔を向けて頭を下げた。返される笑みにもいちいち答えながら、五十メートルを七秒切れそうな速度で厨房に駆け込み、淹れたてのお茶が乗せられた銀の盆を手に取る。
「お疲れ様です」
「ご苦労様」
 そこに勤める女中と笑顔で挨拶を交わしてから、シオンは盆を持って主君の部屋へ向かった。ポットに入ったお茶を零すわけにはいかないため、全力疾走はできずに早足で歩くしかない。それでも競歩の大会があれば優勝できそうな速度だった。何だか余計な特技ばかり増えていく気がするな、とシオンは小さく苦笑した。
 それにしても、あの夢は何だったのだろう。シオンは薄茶色の髪を揺らして首を傾げた。ただどうしようもなく鮮烈で、信じがたいほど現実感のある夢だった。そうだというのに、目が覚めた瞬間ほとんどの記憶を道連れにして霧散してしまったのである。色も匂いもあったはずなのに、今はその大半が記憶の中から零れ落ちている。
 確かに懐かしい人たちを見たと思ったのは、シオンの気のせいだったのだろうか。
 シオンは再び首を傾げたが、そこで彼は目的の場所についてしまった。
 透かし彫りのなされた壮麗な扉は、実用性重視の執務室ではなく、カイゼルが使っている当主の寝室だった。ごくりと音を立てて唾を飲み込み、シオンは片手を持ち上げて扉を軽く叩いた。
「おはようございます、カイゼル様。お目覚めでしょうか」
 ここ一週間あまりで違和感を覚えなくなった台詞だ。もう普通の高校生には戻れないだろう、とシオンは遠い目をして嘆息したくなるが、それは言っても詮無いことだった。
「入れ」
「……はい。失礼いたします」
 すぐに返った声がいつも通りだったことにやや安堵し、シオンは恭しく扉を開いた。
 その瞬間、前触れなく伸びてきた指に思いきり額を弾かれ、危うくポットの乗った盆を取り落としそうになった。えっ、と目を白黒させるシオンに、聞きなれた低い声音が投げかけられる。
「遅い」
 力そのものはさして強くなくとも、油断していたところに一撃をくらえばかない痛い。それでも盆を片手で抱え込んで、空いた方の手で額を押さえたのは侍従の鑑と言うべき行動だっただろう。少し涙目になった少年を傲然と見下ろし、たわめた指でその額を強打してみせたカイゼルは小さく笑った。
「鐘が鳴り終わると同時に来い、と言っただろうが。慣れたから気が緩んだのか?」
 だったらもっとしごく必要があるな、とうそぶくカイゼルに、シオンはひたすら小さくなるしかない。夢実が悪かったとはいえ、寝坊して主人を待たせたのは言い逃れのしようがない失態なのだ。
「…………申し訳ありません」
「縮こまるな、鬱陶しい。どうでもいいから早くしろ、茶が冷めたら温め直させるぞ?」
 やや低さを増したカイゼルの声にただ今っ、と答え、シオンは急いで豪奢だが重厚な室内に足を踏み入れた。クリーム色と枯葉色で統一された部屋は、もっと年齢を重ねた者が好むような壮重さに満ちていたが、不思議とカイゼルには違和感なく馴染んで見える。
 寝台の横に置かれた卓に盆を置き、シオンはかなりぎこちなさの抜けた手つきで主のために茶を注いだ。朝特有の涼しい空気に、お茶の心地よい芳香が立ち上っていく。
 それを見つめながら、シオンは再びぼんやりと、先ほどまで見ていた夢の内容に思いを馳せた。
 もうどんな夢だったかはまるで覚えていない。だが、どうしてもただの夢だとは思えなかった。注がれていくお茶の煌きのように、零れてしまっても消えてしまったわけではないと、奇妙な確信が胸の中に渦巻いているのだ。
「……おいシオン、寝ぼけてるのはお前の勝手だが、零すなよ?」
「――――っわ、あ、はい!」
 突然カイゼルの低い声が近くで聞こえ、シオンは思わず飛び上がるようにして返答した。その声のあまりの大きさに、カイゼルが軽く眉をひそめる。だがそれ以上は何も言うことなく、シオンの差し出したカップを手に取った。何せカイゼルは多忙の身なのだ。特に朝は一瞬一瞬が惜しいのである。くだらないことで時間を潰すわけにはいかないのだろう。
 シオンはそれをわきまえていたから、夢のことをカイゼルに告げようとはしなかった。
 いずれ告げることになるにしても、もっとしっかりと思い出してからだ、と、シオンは特に考えることもなくそう思っていた。 






    



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