11 教育


 


 エルカベル帝国には一週間という区分はないが、七日に一度、一月に四回の割合で休日が存在する。
 それは翠玉の日、青玉の日、紅玉の日、黄玉の日と呼ばれ、仕事に従事する者たちの貴重な休息日だった。だがもちろん、その日に休むことを許されるのは平民以上の身分の者だけであり、奴隷階級には休日は存在しない。絶対王政の悪しき階級制度だが、そうでなければ人々は店で物を買うこともできなくなってしまうだろう。平民の商人たちは、皆この日は奴隷の奉公人に仕事を任せて休んでいるからだ。
「ああ、だから」
 窓辺から差し込んでくる陽光に瞳を細めて、シオンは納得したように頷いた。
「今日はいつもより人が少ないんですね」
「そう。まあもっとも、わし等のような宮仕えの者はそうそう休むわけにもいかんがね」
 シオンに向かって鷹揚に微笑み、積み重ねられた本を脇にどかして頬杖をついたのは、恰幅の良い体を引きずるような長衣に包んだ壮年の男だった。
 綺麗に撫でつけられた髪はだいぶ後退しているが、常にニコニコと細められた瞳と同じ濃い茶色を保ったままだ。皺はあるものの目立たず、背もシオンより頭半分ほど小さく、全体の印象はまるで卵のようだった。名はウィルザス・フォールクロウ。ライザード家の所有する広大な書庫の管理者であり、エルカベル帝国でも一、二を争う高名な学者であるらしい。そして今は、彼の雇い主であるカイゼル・ジェスティ・ライザードの新しい侍従の教育係を努めていた。
 ウィルザスの管理する書庫室、つまり図書館の一室を貸しきり状態にして、シオンは羊皮紙の上にペン先を走らせていた。つたない字ではあるが、それでも黒いインクで書かれているのは日本語でも英語でもなく、エルカベル帝国で用いられている共通語だった。シオンの感覚からすると、英語というよりはラテン語の方に近いような気がする。丁寧さの感じられる筆跡を覗き込みながら、ウィルザスは生徒の上達ぶりに嬉しそうな微笑を浮かべた。
「……そうそう、翠玉の日、青玉の日……紅玉、黄玉と。いや、七日間でここまで書けるようになれば大したもんだて」
「本当ですか?」
「ああ。それにしても、お前さん会話は完璧なのに一切文字は書けないとはなぁ」
 どんな僻地から来たのかね、としかつめらしく眉を寄せるウィルザスに、シオンはうっと詰まったあと、実に曖昧な微苦笑を向けた。つるつるとしたゆで卵を思わせる彼が眉を寄せても、滲み出る愛嬌故かまったく強面にはならない。何となく国語の先生に似てるな、と思うと、シオンはますます笑みを誘われる。だが、どんなに彼個人に親しみを抱こうと、謎の理由で会話はできますが僕は異世界人です、などと告げるわけにはいかなかった。
 何とも言えない顔で微笑するシオンを見やり、ウィルザスは心配無用、とばかりに軽く手を振って見せた。
「まあ、お前さんの身の上は詮索無用、と若よりのお達しだからな。そう微妙な笑みを浮かべんでもよろしい」
「はい、すみません」
 素直に笑みを収めてシオンが頭を下げると、ウィルザスは本当に素直な子だなぁ、と嬉しそうに笑ってみせた。
 ウィルザスがシオンにまず教えたのは、皇歴と呼ばれるこの世界の暦、度量衡、貨幣制度など、生きていく上で不可欠の知識だった。暦や貨幣はともかく、現代とは比べ物にならないほど複雑な度量衡には閉口したが、シオンはもともとが異常なほどの勉強好きである。乾いた砂が水を吸収するように、見る見るうちに新たな知識を獲得していっていた。何より新しいことを知るのは楽しいのだ。
「……あ」
 懸命に羊皮紙の上に文字を綴っていたシオンは、小さく声を上げて顔をしかめた。ペン先が羊皮紙の一部に引っかかり、文字の最後に大きなインクの染みができてしまったのだ。紙と比べれば格段に質の落ちる羊皮紙なのだから、それも仕方がないと言えば仕方がないのだが。
 かなり上達が見られるとはいえ、まだまだ慣れない様子のシオンに苦笑してから、ウィルザスは手を伸ばして少年の手からペンを受け取った。
「文字の練習の方はこの辺にしておこう。あまり根を詰めても手によくないからの」
「……はい」
 一瞬だけ残念そうな表情を浮かべたシオンに、ウィルザスはおや、と器用に片方の眉を持ち上げて見せた。
「シオンはよほど学問がお好きと見える。さてさて、若も今時めずらしい立派な少年を見つけてきたものだ」
「いえ、そんなっ……からかわないで下さい、ウィルザス様」
「そうかな? まあ良い、せっかくの休日を返上して勉強しているのだ、これで終わってはもったいないというものだろう」
 ほれ、と何気なく差し出された本を、シオンはほぼ反射的に手を伸ばして受け止めた。ずしりと重いそれは、ややくすんだ紅の装丁に金箔の貼られた豪華なものだ。シオンの碧の瞳がぱっと明るくなった。
「とりあえず、話を戻すとしようか……ああ、栞(しおり)の挟んであるところをあけなさい、そうそう」
 可愛い教え子を見守る教師のような顔で、ウィルザスはページを指し示した。シオンはほとんど迷うことなくそれに従う。若いというのに活字中毒の気があるシオンは、書くよりも読む方が上達が速いのだった。三日前など、初めて書庫に入ったとたんに恍惚とした表情を浮かべ、ふらふらと中へ迷い込んだまま夜になるまで出てこなかった。後になってそれを聞いたカイゼルに、若いくせに何て厭世的なヤツだ、と呆れられたほどだ。
 シオンが開いたページには、現在帝国で使われているものよりやや古い、古語と呼ばれる文字が綺麗に並んでいた。
「休日が翠玉、青玉、紅玉、黄玉の日、と言われるのは、伝説……というより神話から来ていてな。これがまあ、シェラルフィールドでいうところの創世神話というヤツだ」
「創世神話、ですか」
「そうだ。まあ創世と言っても、シェラルフィールドに神はいない。世界をお作りになった……いや、今の世界をもたらしなさったのは神ではなく、『王』だ」
「王?」
 ウィルザスの言葉を繰り返して、シオンはさらさらと髪を揺らしながら軽く首を傾げた。ずいぶんと意外な言葉だったからだ。同時に、何か不思議な感覚を覚えて困惑気味に眉を寄せた。記憶に何かが引っかかって存在を主張しているような、奇妙な既視感に捕らわれたのだ。だがそれは確かに像を結ぶことなく、ウィルザスの次の声で霧散して消えてしまった。
「そう、魔力持つ者たちの王、四人の宝玉の化身たちだ。ほれ、そこに書かれておるだろう」
 読んでみなさい、と軽く促されて、シオンは慌ててページに視線を落とした。慣れてきたとはいえ、難解な古文は普通の文章のように見た瞬間に理解する、というわけにはいかない。現代の学生が、今の日本語の原型であるというのに古典に苦しめられ、わからないと言って嘆くようなものだ。
 だが、シオンはこと学力に関しては一般的な学生ではなかった。文法そのものや単語自体の読み方が変わらないのなら、古語だろうと何だろうと、シオンにとって理解して朗読するのはさして難しくない。
「……ここを読めばいいんですか?」
「そう、もう君なら苦労なく読めるだろうて」
 にこにこと笑いながらそう呟き、ウィルザスはわずかにこげ茶色の目を細めた。それを視界に捉えながら、言われた通りシオンは端麗な装飾の施された文字に目を落とす。
 真面目な表情で一つ息を吸い込み、シオンは荘厳な調子で書かれた文章を滑らかに読み上げ始めた。
「――――美しき宝玉の王、立ち上る陽炎のごとき翠緑玉の君は言われた。『さあ』、界の亀裂に指を這わせて、翠玉の君はほほえんだ。『魔力による隔たり、界の断層をふさぐのではなく、広げてしまおう。我らが引き起こした隔たり、我らが生ある限り消えはしない亀裂ゆえに。風も、大地も、空も、いとおしき生物たちも、もはや狭間にて苦しむことのなきゆえに』」
「そして翠玉の鈴が鳴った。鈴の和音に唱和して、黄玉の君は進み出られた」
 すでに内容を覚えてしまっているのだろう、ウィルザスが後を引き取って続けた。軽く息をついて、シオンがさらにその後を口にする。
「『さあ』、果てなき闇を臨みながら、黄玉の君はささやいた。『翼は二つにわかたれる。魔力持つ者は我らが坐した玉座の跡へ。持たぬ者は遠き異郷へ。されど、かなしむことなかれ。遠き異郷、わかたれた同胞の渇望と慟哭は、みな等しく我らが叶えるところとなるゆえに』」
「そして黄玉の光が満ちた。光を静かにまといながら、紅玉の君は剣を抜かれた」
「『さあ』、光満ちた深淵に剣をたて、紅玉の君は告げられた。『鉄の時代の終焉、剣の者は新たなるきざはしを渡るだろう。歴史はすべて原始にかえり、記憶はゆるやかに風化を始める。秩序の天秤、調和と平衡を失することなきゆえに』」
「そして紅玉の剣が消えた。余光に衣をなぶらせて、琉璃宿す青玉の君はうたわれた」
「『さあ』、剣を呑んだ亀裂に手を伸ばして、青玉の君は述べられた。『我らもこの揺り籠、生まれ出でたいとおしき界を後にしよう。我らが力、我らによって引き裂かれる界、我らによって故郷を追われる哀れな諸人へ捧げるゆえに。光あれ、幸え給え。美しき、餓えた荒野へ我らが聖痕を、機械仕掛けとなるだろう沃野へ祝福を。やがてめぐり来る数知れぬ大乱に、閉ざされたただ一つの扉は開かれるゆえに』」
 シオンの伸びやかな声は、積み上げられた書物の山を越えていくようにして、書庫室の隅々にまで響いていった。それは神話の荘厳な言葉にふさわしい、ゆったりとしながら張りと豊かさに満ちた声音だ。普段のシオンの声からは想像し難い響きだった。
「――――そして、青玉の祝詞は響きわたり、一つであった世界はわかたれた。魔力満ちる界、すなわちシェラルフィールドへ。魔力持たぬ界、今は知るすべなき異郷へ」
「美しき宝玉の王、四玉の王は異郷へ渡られた。それより、人の世を統べる者は王ではなく、それすなわち皇帝と称するに至った」
 シオンの朗読をそう締めくくり、ウィルザスはやや悪戯っぽい表情をひらめかせて手を叩いた。
「いや、さすがだよシオン。初めて君の朗読を聞いた時も思ったことだが、君は役者の才能があるようだ。何か、そういう訓練を受けていたんじゃないのかね?」
「あ、いえ……」
 そこで初めて本から視線を上げ、シオンは困ったように微笑んだ。集中していた証拠に、白皙の頬はやや上気して色づいているが、長い朗読の後にありがちな声の掠れや息切れなどは見られない。実際、シオンは慣れているからだ。母親が著名な舞台女優であり、シオン自身も中学校を卒業するまでは大きな劇団に所属していて、一分以上の長台詞も決して珍しくはなかった。だがそれを告げることはできず、柔らかに微笑したまま沈黙するしかない。
 そして、ウィルザスは非常に物分りの良い教師だった。シオンの答えにくそうな様子を見て、それ以上追求することはなくあっさりと話題を変えてくれたのだ。
「まあ、今はそんなことはどうでもいいな。で、神話の内容は理解できたかね、シオン?」
「はい……だいたいのところは」
 シオンは内心で胸を撫で下ろし、慎重な表情を作って教師に答えた。
 その昔、世界にはその身に魔力を宿す者と、まったく魔力を帯びない者がそれぞれ共存して住んでいた。世界は絶大なる魔力によって形作られ、魔術師たちはその恩恵に預かり、そうでない者はごく普通に自然の恵みを享受して暮らしながら、一応は平和的に時を刻んでいたのである。
 だがその平和は、魔力を持つ者たちの中に四人の王が生まれたことによって崩壊した。翠玉、青玉、紅玉、黄玉の王。彼らは乱世を望んだわけではなく、世界の支配権を主張したわけではない。ただ生まれながらに持っていた強大すぎる力と、それを留めておくだけの器があった故に、世界に満ちる魔力がすべて彼らのもとに集まってしまったのだ。低地に水が流れ込み、やがてはそこに溢れて氾濫するように。
 世界の礎である魔力の集中は亀裂と断層を生み、いつしか空間そのものが崩壊の危機に晒された。それを憂えた四玉の王は、自らの力を持って世界を二分する、すなわち二つにわけてそれぞれの界を独立させてしまうことを決意した。魔力を持たぬ者を別の空間へ、魔力を持つ者を王たちのいた王都の跡へ。それに反対する者たちと長くに渡る戦の末、ついに四玉の王たちは勝利を得、世界自体を二つにわけるという方法で崩壊を防いでのけたのだ。
「……その際、すべての力を封じ込めた王たちは、ただの人となって異界へと渡っていった。彼らはこの世界には残らなかったのだ」
 もっともらしくウィルザスが頷くのを見ながら、シオンはふと、脳裏を過ぎった考えに気づいて慄然とした。
 四玉の王は、世界を魔力を持つ世界シェラルフィールドと、魔力を持たない遠い異郷とにわけたという。そして王自身は魔力を封じた上で、シェラルフィールドには残らず異界へ渡っていったというのだ。
 シオンは気づかずにはいられなかった。彼の身の上との奇妙な符合に。
「あの、ウィルザス様、異界というのは……」
「うん? さあ、なにぶん神話だからの、人によっては全くの物語、歴史的価値はないと言う者もおる。異界というのも存在が確認されているわけではないしな。いかにわしが高名な学者だといっても、異界が本当にあるかどうかはわからんよ」
 あればいいと思っておるがな、と快活に笑うウィルザスに、シオンは何とか笑顔を返すことに成功した。だが内心では激しい動揺を隠すのに精一杯だった。
 かつて四玉の王たちが渡っていったという、異界。
 魔力を一切持たない、こことは異なる世界。
 それは、シオンがもといた世界のことではないのだろうか。
 ただの神話だ、とは思いつつも、脳裏にひらめいた仮定は容易に去ってくれそうになかった。そうであるならば説明がつくのも確かだったからだ。 
 そのまま深みにはまっていきそうになったシオンを救ったのは、失礼いたしますっ、というにぎやかな声と共に駆け込んできた奴隷の青年だった。扉こそ静かに開けたものの、よほど急いで来たのか肩は上下し、声は上ずってしまっている。シオンとウィルザスの驚いたような視線を受け、奴隷の青年はやや髪を乱したまま、それでもきびきびとした調子で頭を下げた。
「お勉強中に失礼いたします、ウィルザス卿、シオン殿」
「何だね、そんなに急いで」
「はっ」
 ウィルザスののんびりとした声を受けても、青年の急いだ調子は全く変わらなかった。ここは書庫室の中でも一際高く作られた塔の中腹であるから、駆け上がってくるのはさぞ大変だっただろう。そんなことを思って首をかしげているシオンに視線を向け、彼はひどく重々しい口調で侍従の少年に告げた。
 旦那様がシオン殿をお呼びです、と。
 ウィルザスはおや、と軽く眉を持ち上げ、シオンは大きく目を見張って椅子から腰を浮かせた。それは、今現在シオンが最も優先すべき主君の名だったからだ。
「カイゼル様が、ですか?」
「はい。階下にてお待ちにございます」
 お急ぎ下さいませ、という奴隷の青年の声が、シオンの勉強時間の終了を告げたのだった。
 






    



inserted by FC2 system