12 茶会への招待


 


 頬を撫でていく風の動きは、常と比べればずっと柔らかい。
 それも当然のことだった。古語で『夜』を意味するカイゼルの愛馬シャウディは、帝国屈指の名馬であり、本気で駆ければよほどの騎手でない限り振り落とされてしまうだけの快足を誇る。それがここまでのんびりと走っているのは、シャウディから数歩分だけ遅れてついて来る、目の覚めるような純白の馬のためであった。
「おいシオン、まだ生きてるか?」
 かなり無責任なことを言って、カイゼルは馬上から背後を振り返った。彼にとっては早足程度でしかない速度だが、乗馬の初心者にとってはほとんど命がけである。案の定、手綱を取っているというよりはしがみついている侍従の少年は、ほとんど今にも泣き出しそうな表情になっていた。
「一応言っておくが、この速度でも落馬すればかなり痛いからな、落ちるなよ?」
「……はいっ!」
「よし。せいぜい振り落とされないように掴まってろ」
「は、はいっ!」
 シオンの声が途切れがちなのは、馬の揺れに体が慣れていないからだ。上手く馬を御すためには、まず膝でしっかりとその体を押さえ、上下する動き合わせて自分の体も揺らさなければならない。よく訓練された馬はそこまで揺れないが、それでもまったく振動が皆無といううわけにはいかないのだ。
 シオンに与えられた白馬は、本来なら貴婦人を乗せるために躾けられていた若い馬だった。非常に賢く穏やかで、今も頼りない騎手を振り落とすこともなく、カイゼルを乗せたシャウディのあとにピタリとついてくる。名はセレネ。自由につけろ、とカイゼルに言われたシオンが、純白の毛並みと金にも見える茶色のたてがみを持った馬に選んだ、ギリシア神話の月の女神の名前だった。
 乗馬に関しては素人以下のシオンが、何とか無事にその背に掴まってカイゼルのあとを追っていられるのは、セレネが自分の判断でシャウディを追いかけているからに他ならなかった。
「あと半フィーリア(約一キロ)ってところだ、根性でついて来い、根性で」
「はい……っ」
 必死になって返事をしてくるシオンに、カイゼルは小さく微笑を過ぎらせた。手綱を掴んでセレネを御すことに命がけのシオンは、常の通り楽しげなカイゼルの笑みに、ほんの少しだけ優しげな色が滲んでいたことに気づかなかった。もっともそれは、懸命になって活動している小動物に人間が抱く『和み』に限りなく近かったが。
 カイゼルは侍従であるシオンを伴い、ライザードの敷地内から二フィーリア(約四キロ)ほど離れた高級住宅地にある、貴族シェインディア家の屋敷に向かっていた。
 それは帝国内に無数に存在する、カイゼルを毛虫のごとく忌み嫌っている大貴族の一つ、ではない。
 セレニア・ルイス・シェインディア。それは、一般的にカイゼル・ジェスティ・ライザードと最も親しいと見なされる女性であり、たった一人でシェインディア家を切り盛りしている大貴族の当主だった。そのセレニアが、カイゼルと新しい侍従を少年を茶会に招きたい旨を、朝からやって来た従僕に言付けてきたのだ。
 この侍従になったばかりの少年を見せたら、彼女はどんな反応を見せるだろうか。カイゼルは、口元にやや不謹慎な笑みが浮かぶのを自覚した。恐らく、常に夫の傍にいる侍従にさえ嫉妬するような、一般的な妾と同じ態度は取らないだろう。そういう女性でなければ、カイゼルの『愛人』などという座に収まってはいられないからだ。
 カイゼルは再びシオンを見返って、低く喉の奥で笑い声を立てた。
 容易に反応が想像できてしまったためだ。
 シオンはそんな主君の様子に気づいたが、結局は何も言わずに、首を傾げてその背を見つめるだけに留めておいた。それどころではなかった、というのもある。セレネがいかに名馬であろうとも、乗り手の方は名騎手には程遠いようであった。




「ようこそいらっしゃいました、カイザー様」
 優雅な第一声と共にカイゼルたちを迎えたのは、まさに『貴婦人』という形容がそのまま当てはまる、楚々とした上品な女性だった。淡く輝く白金色の髪を高く結い上げ、慎ましやかな銀細工の髪飾りで留めている。肌は白磁、瞳は優しい若葉色、うっとりと微笑を浮かべた唇は珊瑚色だ。すでに二十代後半だというのに、まだ二十二、三歳といっても通用する瑞々しさがあって、シオンは思わず眩しげに目を細めた。
 高い天井の採光窓から光が降りしきる、玄関を過ぎてすぐの一室。シオンの感覚ではサロン、としか言いようのない部屋で、シェインディア家の女主人は客人たちを出迎えていた。
「変わりないか、セレン」
「ええ、カイザー様、おかげ様を持ちまして。貴方が中々訪ねて来て下さらないことを除けば、日々つつがなく過ごしておりますわ」
 カイゼルをカイザー、セレニアをセレン、と呼ぶ愛称の響きは、互いの中にある親密な空気を無言のうちに語っているようだ。セレニアの台詞は拗ねてみせる女性のものだが、表情も口調もどこか悪戯っぽく、女特有の媚とは無縁の雰囲気があった。可愛らしい人、というのが、シオンのシェインディア家の女当主に対する印象である。
 そしてセレニアの方も、カイゼルの新しい侍従に興味を持ったようだった。
「あら? まあまあ」
 萌え出したばかりの若草のような瞳を見張り、セレニアはシオンの方へ身を乗り出した。妙齢の美女の顔が急接近し、思わずシオンは背後に向かって一歩退いてしまう。だが、女当主の方はまるで気にした様子もなく、その貝殻細工を思わせる指先でシオンの頬に触れた。
「まあ、お可愛らしいこと。カイザー様の新しい侍従ね、お嬢ちゃんかしら、それともお坊ちゃん? お名前は?」
「あ……すみませんっ、申し遅れました。カイゼル様の侍従を努めさせていただくことになりました、シオン・ミズセと申します、シェインディア夫人。……えっと、一応、男です」
 まさか手を振り払うわけにもうかず、シオンは真っ赤になりながらセレニアに答えた。わざわざ性別を告げなくてはならないのが悲しいところだが、不思議と不快感はない。ただどうにも照れくさかった。どことなく舞台女優であり、イギリス人である母親に似た雰囲気があるせいかもしれない。
 セレニアはますます嬉しそうに微笑み、よしよし、とばかりにシオンの薄茶色の髪を撫でた。
「丁寧にありがとう。わたしくはセレニア・ルイス・シェインディア。あなたのご主君の……世間一般でいうところの愛人、かしら? これでも一応、シェインディアの当主です、以後お見知りおき下さいませね、シオン?」
「はい、こちらこそ、初めてお目もじつかまつります、シェインディア夫人。若輩者にはございますが、どうぞこれより、御心に留めおき下さいませ」
 シオンは我に返って丁重に礼を施すと、ウィルザスに教えられた通り、貴婦人の白魚のような手を取ってその甲に口づけた。チラリと視線を上げて見れば、カイゼルが上出来だ、というように軽く笑ったのが目の端に映り、それだけで何やら幸せな気分になる。セレニアもありがとうと呟いて、鈴を転がすような澄んだ笑い声を立てた。やはりそんなささいな仕草にも気品が滲み、カイゼルの横に立つと一幅の絵画のようだ。
 漂う空気がふわりと和んだそこへ、パタパタ、という可愛らしい足音が近づいてきた。
 シオンがそれに気づいて顔を上げたのと、勢い良く扉が開かれて小さな人影が飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。
「父上様」
 響いた声も、駆け寄ってきた足音も、シオンには一つのものにしか聞こえなかったが、部屋へ現れたのは二人の子供だった。
(――――え?)
 聞こえた言葉があまりにも突拍子のないものだったためか、シオンは思わず泉のような瞳を見張った。聞き違いかと思ったのだ。だが現れた二人の子供は頬を上気させ、大きな瞳をきらきらと輝かせながら、真っ直ぐにこちらに向かって走りよってきた。
「父上様!」
 そして次の瞬間、カイゼルを見上げながらもう一度そう言って、無邪気に明るく笑ったのである。
「…………はい?」
 それでも信じ難い事実に、シオンは思わず間の抜けた声を上げてしまった。一人で呆然と立ち尽くすシオンを他所に、カイゼルは唇の端で小さく笑って二人の子供を見下ろした。
「元気そうだな、フィオラ、シェラナ」
「はい!」
 並んで立つ姿もその甘やかな声音も、多少の差こそあれほとんど重なって響くものだった。
 明るい金色の髪に、澄み渡った空色の瞳。淡い薔薇色に染まった頬、桜色の唇、小さな手足の伸びた華奢な体。まるで天使のような、と表現しても何ら問題はないだろう、良く似た面差しの愛らしい子供たちだった。真っ直ぐな髪を肩辺りで切ってある方がフィオラ、かすかに毛先の波打つ髪を背の半ばまで伸ばした方がシェラナだろう。さらに良く見れば、フィオラよりもシェラナの方が輪郭が柔らかく、体つきも丸みを帯びているようだった。
 男と女の二卵性双生児である、とシオンが気づくまでに、さして時間はかからなかった。
 そしてこの双子が、カイゼルとセレニアの子供たちであるという事実にも。
 冷静になって考えてみれば、そう意外でもないことだった。成人と見なされる年齢が日本より早いここでは、二十七歳のカイゼルに十歳ほどの子供がいても何らおかしなことはない。実際日本でも、江戸時代あたりまでは十代前半で結婚することも珍しくなかったのだ。
 だが、それでも拭い去れない驚きというものは存在する。非礼とわかりつつ、思わずカイゼルと双子を何度も見比べていると、深青色の瞳が怪訝そうに細められた。
「おい、さっきから何を百面相してるんだ、シオン?」
 頭は大丈夫か、という主君の声に我に返ると、フィオラとシェラナの青い瞳がじっとシオンを見つめていた。男児であるフィオラの瞳には子供らしい好奇心が、シェラナのそれにはやや静かで深い光が宿っているようで、双子の内面の違いを教えてくれる。その眼差しの真っ直ぐさに、思わずシオンは内心で呟いてしまった。
 可愛い、と。
 シオンは子供が好きだった。小さな子供に微笑みかけられると、思わず無条件に好意を寄せたくなる程度に。それが主君の子供であるならばなおさらだ。
「申し訳ありません」
 自分の立場を思い出してすぐに膝を折り、シオンは双子と視線を合わせるようにしてにっこりと微笑んだ。
「はじめまして。僕は貴方がたのお父上様にお仕えしています、侍従のシオン・ミズセです。どうぞ、以後お見知りおき下さい」
 子供と話す時は、なるべく近い目線でゆっくりと、そしてどちらかというと高めの声で話す。そちらの方が聞き取りやすく、子供の警戒心を薄れさせることができるからだ。シオンの優しげな容貌も幸いしたのか、双子の表情に浮かんでいた微量の警戒がぱっと消え、天使のような顔立ちに明るい笑みが浮かんだ。
 二人のうち、真っ直ぐな髪を肩で揃えたフィオラが目を輝かせながら口を開いた。
「こんにちは、シオン・ミズセ。ぼくはフィオラ・レオン・シェインディア。フィオラでいいよ。こっちは妹のシェラナ」
「シェラナ・カイン・シェインディアです」
 フィオラの紹介に、シェラナは短く答えてぺこりと頭を下げた。闊達な兄と違い、人見知りをする性格なのかもしれない。そんな様子を微笑ましく思いながら、シオンはもう一度双子に向かって柔らかく笑った。その笑みのあまりの優しさに、カイゼルがやや意外そうな表情で軽く眉を上げる。シオンがここまで全開の笑顔を見せたのは初めてだったからだ。
「はい、フィオラ様。シェラナ様。これから仲良くして下さいね」
「……うんっ!」
 シオンの笑顔には、確かに双子の心を掴む効果があったようだ。フィオラは明るく、シェラナは控えめに、という違いはあるものの、二人とも心から嬉しそうな表情を作って元気良く頷いた。それがまた、シオンには可愛らしくて仕方がない。黙って見ていたセレニアも口元を綻ばせた。
「良かったわね、フィオラ、シェラナ。でもシオンはお父様の大切な侍従ですからね、あまり失礼なことをしては駄目よ?」
「はい、母上様」
 セレニアの言葉に従順に答えるながらも、二人はシオンに遊んでほしくでたまらないようだ。膝をついたままのシオンの袖につかまり、「いつまでいるの?」「どうして前はいなかったのに、父上様の侍従になったの?」と代わる代わる質問してくる。笑ったままでそれに答えるシオンに、カイゼルは小さく唇の端を持ち上げた。
 感心したというように。
「随分ガキの扱いが上手いじゃないか、その分なら子守もできるな?」
「……あ、はい。子供が昔から好きで」
 可愛いですよね、と言うシオンの頬は、先ほどから緩みっぱなしだった。カイゼルは呆れたような表情を作ったが、それについては何も言わず、手を伸ばして双子の髪をくしゃりとかき回した。きゃあと嬉しげな声を上げる二人を簡単に押しのけ、シオンの襟首を掴んでひょいと床の上に立たせる。シオンはえ、と瞳を見開いたが、カイゼルは構わずに片手の指で扉を指し示した。
「……が、子守は次の機会だ。今日の目的はセレンたちにお前を会わせることと、シェインディアの茶会に出席することだからな。フィオラ、シェラナ、お前たちも来い」
「はいっ、父上様!」
 双子は弾かれたように背筋を伸ばすと、シオンの横に並んだままで同時に返事をした。その表情には、自分たちの父に対する何よりの敬愛と信頼が浮かんでいる。二人の手を取ってやりながら、シオンはカイゼルを見上げて軽く首を傾げた。
「あの、茶会、といいますと……?」
「あ? 決まってるだろうが」
 主に何をすればいいのか、と暗に問いかけるシオンに、カイゼルは鋭く微笑を閃かせた。常の通り、力に満ちた剣のような笑みで。思わずそれに見惚れていると、カイゼルはセレニアを促して歩き出しながら首だけで振り返り、深青の瞳を細めて見せた。
 ただの茶会に出席するにはあまりにも不遜な、そしてどこか楽しげな表情で。
「これから面白い奴らに会わせてやると言ってるんだ、黙ってついて来い」
 主君のその言葉に対して、シオンに肯定以外の返事があるはずもなかった。






    



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