15 汝帝位を継ぐ者よ


 

 
『陛下、皇帝陛下! 危のうございます、一度本陣へお引き下さいませ!!』
『どこに敵の敗残兵が潜んでいるとも限りませぬ、玉体にもしものことがあればいかがなさるおつもりで!?』
『……よい、案ずるな。心配は不要だ』
 背後から聞こえるいくつもの声を振り捨て、皇帝は単騎で一心不乱に馬を駆っていた。まだ幼い、十五には達していないだろうと思わせる少年だった。だが、その馬術は卓越したもので、積み重なって散乱する甲冑の残骸や打ち捨てられた戦車、そして臓物をはみ出させて転がるいくつもの亡骸たちに蹄を取られることなく、真っ直ぐに戦場だった大地を駆けていく。幼い面差しに浮かんだ表情は、この血なまぐさい場に不釣合いなほど静かだった。
 この世の地獄のような景色の中を、一体どれだけ走っただろうか。少年帝はようやく愛馬の手綱を絞って疾走を止めると、遠くに一際屍たちの重なる血まみれの大地に降り立った。馬によって踏み固められた土は固く、豪奢な靴裏は石にでも当たったような音を立てる。だが、幼い皇帝は気にした様子も見せず、年齢に似つかわしくない静かな眼差しで前方を見据えた。
 沈んでいく夕陽を受けて傲然と立った、何より見慣れたその後ろ姿を。
『……何だ、そのザマは』
 ぽつりと零された呟きは、追いすがってきた臣下たちに告げたものよりもずっと平坦で、何の感情も込められていないように響くものだった。
 かすかな震えも許さないというように。
『……あぁ、お前か』
 その声にゆっくりと振り返ったのは、皇帝に背を向けて立っていた大柄な男だった。馬の手綱を手にしたまま少年を認め、血と泥に汚れた精悍な面差しがふわりと緩む。それは間違っても、神聖不可侵の皇帝に対する態度と口調ではなかったが、少年は特に気にした様子もなく男を見返した。それを見やって男が苦笑する。
『お前、なに……こんなとこにまで来てんだ? お前は『戦争祭り』の神輿だろうがよ、安全な本陣に腰をすえて、ふんぞり返っていろよ』
『馬鹿者が』
 皇帝の声は冷たく、やはり氷のように静かなものだ。
『馬鹿者が、貴様がいつまで経っても戻って来ぬから、私がわざわざこうして出向いてやったのだろう。自力で帰還もできぬような将軍に、そのように偉そうな口をきく権利などないわ』
『……はは、耳に痛い言葉だな』
『当然だ、馬鹿者』 
 するりと、皇帝の未だ小さな手から手綱が抜けた。それでも男との距離を詰めようとはせず、世界の統治者として身につけた毅然たる眼差しで前を睨みつける。風が一陣吹き抜け、転がった甲冑の間を通って悲鳴のような音を鳴らした。
 あるいは本当に悲鳴だったのかもしれない。
 『皇帝』としての顔に隠したままの、純粋な少年の心が零した嗚咽と怨嗟の絶叫だったのかもしれない。
 避けがたい運命に対して。
 いやだと叫ぶ代わりに。
『お前はどこへ行くつもりだ』
 皇帝の声は変わらず揺るがなかったが、不思議と絶えがたい痛みを込めて響いたように聞こえた。男は顔だけで振り向いたまま、本当に小さく首を傾げる。何だ、というように。皇帝はそれを見つめ、淡々とした口調を保ったまま言葉を続けた。
『お前は一人でどこへ行くつもりだ。果たさぬ気か? 永遠に誓うと言った忠誠を、貴様はなかったこととして果たさぬつもりか』
『……んだよ』
 男は初めて全身で振り返り、幼い皇帝と向かい合う形になった。その動きに合わせるように音を立てて水音が響き、足元の大地を黒く染め上げるのにも構わずに。何本も突き立った鏃から赤い雫が伝い落ち、ぼろぼろになった衣服をさらに穢すのにも頓着せずに。
 戦場にあっては誰よりも恐れられ、畏怖と敬意を持って闘神と呼ばれた男の瞳が、少年の姿を映してふっと優しく細められる。
 愛しげに。
『なんて顔、してるんだよ』
 その響きに重なるようにして、少年の滑らかな頬を幾筋もの透明な流れが伝っていった。ぽたぽたと音を立てながら、聞き取れないほどかすかに嗚咽を漏らす喉を濡らす。
『このっ、馬鹿者が……っ』
『ああ』
『貴様のような馬鹿など、もういらぬ』
『ああ、そうだな。ごめんな?』
 男は幼子をあやすように微笑しながら、同時に教え子に言い聞かせるような、けれど確かに忠誠を捧げた主君へ向けるような表情を作って見せた。
 降りしきる赤い雨は止む気配もなく、衣服の上にかろうじて残った甲冑の残骸を夕陽色に染めていく。いつも男が腰に下げていた剣は、乱戦の直中で持っていかれてもうここにはなかった。ただ、男と皇帝の間の数歩分の距離には、大地を埋め尽くした血みどろの屍は倒れふしていなかった。
 それだけではない。
 皇帝がやって来た方角には、一人たりとも敵兵の亡骸が転がっていなかった。
 闘神と讃えられた大将軍が、誰一人として皇帝がいる本陣には近づけさせなかったことを示すように。
『ごめんな、謝る。謝ってやるから……泣くのは、ここだけにしとけよ?』
 お前は皇帝なんだから、という言葉は、子供の頃から嫌というほど聞かされてきた言葉だった。そしてそれに対する答えもいつも決まっていた。皇帝は個人の感情より、全体を優先できる人材でなければならない。常に凛として強く、民にとっては眩い憧憬と崇拝の対象でなければならない。彼を本陣で待つ臣下たちに、涙など見せるわけにはいかなかった。
 それを得がたい誇りだと思うよう、この男から教えられてきたのだ。
『当然だ』
 だから涙を零しながら、嗚咽に負けそうな唇をかみ締めながら、皇帝は背筋を伸ばしてしっかりと頷いた。
 侮るな、と強く言い切って。
『当然だ。私を誰だと思っている?』
 その姿を眩しいものを直視する見つめ、男そうだな、と柔らかく微笑んだ。
 ゆっくりと、いくつもの矢が突き立ち深い傷が刻まれた体を屈め、普段そうしてきたように皇帝の足元に跪く。傷だらけの片腕を前に掲げる正式な礼を施し、最期の焔を宿した瞳で小柄な少年を強く見つめた。
 うっとりと笑みを浮かべて、もう傍で守ってやることのでない主君に謝罪と、そして何よりの誓いをこめてささやく。
『我が皇帝、我が君』
 風が、悲鳴のように吹いた。
『貴方の治世が末永く、幸多いものであるように。いつか帝国の命運尽きるその時まで、この命が貴方と、貴方の意志を継ぐ者を守るように』
 泣きたくなった時は、いつでも泣き場所として使えるように。
 永遠に傍に、と。
 そう言って頭を垂れた帝国最大の大将軍は、西の空に沈んでいく太陽がやがて完全の姿を眩ませても、死臭と鮮血にまみれた戦場が底知れない闇に閉ざされても。
 もう、その場から立ち上がることはなかった。
 馬鹿者が、と幼い皇帝が呟いても、もう、決して。
 立ち上がり、炎のようだと称された明るく強い笑顔で、唯一の主君に微笑むことはなかった。



 
 ふっと閉ざしていた瞼を持ち上げ、エルカベル帝国の第六十二代皇帝、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアは、ゆっくりと豪奢な寝台の上に上半身を起こした。
 極上の絹で織られ、縁に名工たちの手による繊細な刺繍を施したかけ布が滑り、毛足の長い深紅の絨毯の上に落ちる。ヴァルロはしばらくそれを目で追っていたが、やがてかけ布を拾い上げようともせずに寝台から下り、やはり精緻な細工の施された窓辺へと歩み寄った。
 全人類の頂点の立つ皇帝の居室である。寝台から東向きにしつらえられた窓までは、平民からすれば馬鹿馬鹿しいような距離があいていた。
「……ふむ」
 カーテンを開けてみるまでもなく、未だ朝が忍び寄るどころか目覚めてもいない時間だとわかった。部屋に漂う闇の密度は薄まる気配もない。どこか興をそがれたように窓に背を向けると、ヴァルロは濃い蒼の瞳で壁にかけられた燭台を一瞥した。
 たったそれだけの動作で、美しい乙女たちが一本の蝋燭を捧げ持つ形の黄金の燭台に、音もなく眩い白光が灯った。
 その光を峻厳な横顔に受けながら、ヴァルロは寝台の横の椅子を無造作に引いてそこに腰掛けた。この椅子の足一本を賄うだけで、善良な平民の半年分の賃金は使い果たされてしまうだろう。だが、ヴァルロにとっては見慣れた調度品の一つにすぎない。彼は生まれた時からレヴァーテニアの直系であり、やがてはこの世界を統べることを約束された身分だったのだから。
「……やれやれ。ご先祖様も、一体予に何を見せようというのか」
 くっと喉の奥で小さく笑い、至尊たる者の手というにはやや無骨にすぎる骨ばった手が、壁一面をびっしりと埋め尽くした本棚へと伸ばされた。戯れるように宙で遊んだ手が取ったのは、濃い紅に黄金の装丁がなされた豪奢な本だった。題の書かれていない表紙に無言で指を滑らせ、ヴァルロは先ほどの夢を反芻するように鋭い瞳を細めた。
 エルカベル帝国は、前王朝コルトラーンを打倒した『天帝』ジェシス・ロウ・ジス・レヴァーテニアの御世より七百年以上続き、全人類と世界を隷属させてきた統一帝国だった。だが、それだけの長い時間が順風満帆に過ぎたわけではなかった。皇歴八七七七年の現代から遡ること三百年あまりの、皇歴八四三二年。この年は、どれだけ帝室寄りのお抱え歴史家であろうとも血色の文字を記さざるを得ない、かつてない大規模な反乱が皇帝と帝国に牙を剥いた年であった。
 独立志向の強さと帝国への反発ゆえに一揆を繰り返し、長い間冷遇されてきた地方都市連合が強大なる指導者を得て、世界で唯一の玉座に反旗を翻したのが八四二九年。三年後、『闘神』と讃えられた大将軍の命と引き換えに鎮圧されるまで、その乱は数多の人命と血を涙を飲み干して猛り狂ったと伝えられている。だからこそ人は大将軍を英雄に祭り上げ、その後、賢明な統治で帝国を繁栄に導いた幼い皇帝を『黎明帝』と呼ぶのだ。戦の爪痕を覆い隠してしまうために。
 少年帝の流した涙などには、誰一人として思いを致すことなく。
 だがヴァルロとて、三百年前の先祖を思って心を痛めているわけではなかった。彼は羨ましいのだ。命尽きるその時まで、戦の直中にあった英雄が。
 世界を覆すほどの乱を経験した皇帝が。
「そういえば予の騎士団長……カイゼル・ジェスティ・ライザードは、かの『闘神』の再来と言われていたな」
 そう誰にともなく呟き、神聖なる皇帝は楽しげに低く笑った。昼間、名目上は「長く伺候しなかったことへの謝罪とご機嫌伺い」に謁見を申し込んできた、レイターの青年とのやり取りを思い出したためだ。
『帝国屈指の魔術師よ、レイター・セスティアル・フィアラートよ。卿の忠誠は一体誰の上にあるのか』
 いくつか取りとめもない言葉を交し合った後、ヴァルロがそう尋ねたのは戯れ以外の何物でもなかった。近くに侍った侍従たちが顔色を変えるのにも構わず、美貌の魔術師がどう答えるのか皮肉な喜びと共に待った。
 そして答えは期待通りのものだった。
『恐らくは、聡明なる陛下のお考えになっておられる通りの場所に、我が忠誠は存在しておりましょう』
「……良い答えだ、レイター・セスティアル・フィアラート。大将軍の腹心よ」
 揺ぎない笑みと共に告げられた言葉を思い出し、ヴァルロは楽しげな笑い声を響かせながら小さく呟いた。パラリと厚い装丁の本をめくり、燭台の明かりに煌々と照らされた筆跡を目で追っていく。やがて目当てのページにたどり着くと、綺麗に整えられた顎髭を撫でつつ鋭く微笑んだ。
 記されている題は、下るきざはし。
 皇室のみに伝わる伝承歌だ。
 

 流れゆく星屑が夜に消えて
 千億の輝きが尽き果てても
 宝珠の瞳を閉ざすことなく
 お前の哀しみは拭われるだろう
 
 暁は空のきざはしを渡り
 落涙の雫は慈雨に変わる

 讃え給え夜半の歌を
 救いのない地に響き渡る
 今はなき人の血に濡れても
 ただ吹き抜けていくゆらめいた風は
 消えはしない絶叫さえ拭い去る
 
 一瞬ではない真実の永遠
 空を仰いだ我々は罪人であると
 知っていながらお前はここで出会った
 やがて光のない宵闇も明けるから
 汝途切れずに続く道であれ


 歌の最後には、明らかに走り書きと知れる字でたった一言、『やがて来たる我が同胞へ』と書かれている。
 その歌に込められた意味は、未だ誰にも解読できていなかった。ただエルカベル帝国の始祖帝ジェシスも、幼かった黎明帝も、この歌を無二の腹心から捧げられたという伝説が残るばかりだ。ヴァルロもこの歌には皇太子時代から慣れ親しんでいるが、何を告げようとしている歌なのか理解できたことは一度もなかった。
 しばらくそれを見つめてから、ヴァルロの無骨な手が意外なほどの丁寧さで本を閉じた。
 何かの余韻を味わうように蒼色の瞳を閉ざし、軽く仰のいて唇にゆったりと笑みを刻む。
「お前はどうかな、カイゼル・ジェスティ・ライザード」
 待っているぞ、という本当に小さな呟きは、夜の闇の中でも不気味なほどにはっきりと響き渡っていった。
 何を待っているのか、誰にも告げないままに。
 微笑の意味を、悟らせないままに。
 

 夜空に満ちた闇はまだ深く、東の空に白光が満ちるには幾分かの時間がかかるように思われた。 






    



inserted by FC2 system