17 めぐり始めた歯車を



 

 カイゼルとシオンの次に四聖玉の間に姿を現したのは、典令長官メルーシャ・コル・カッターであった。
 背後に侍従のディプス・ロウル・フルガスを従え、堂々とした足運びで深紅の絨毯を踏んで歩くと、玉座のきざはしの下に恭しく膝をついた。当然のこととしてディプスもそれに倣う。そこまでは臣下の模範のような態度だったが、皇帝に発言を許されると同時に、メルーシャは太い眉をしかめつらしく寄せて口火を切った。
「我が皇帝陛下、出すぎたこととは思われますが、どうぞ彼奴めにはお気をつけ下さいませ」
 その言葉は予想通りだったのだろう、ヴァルロはいきなりの上奏に驚いた様子もなく、ほう、と小さく片方の眉を持ち上げた。だが、すぐにメルーシャの望む答えを与えようとはせず、どこかわざとらしい動作で首をひねって問い返してみせる。
「さて、典令長官よ。気をつけろと卿は言うが、予は一体誰に気をつければよいのか」
「それはもちろん、あの大将軍の地位を濫用して己の分をわきまえない若造に、でございます。陛下」
 メルーシャの答えは、その内心がどうであれ響きだけは淡々としたものだった。灰色の瞳をぎらぎらと憎悪に輝かせ、主君の耳に敵対者の誹謗を吹き込もうとしている重臣の姿など、冷静に眺めても決して美しいものではない。それでもヴァルロの双眸に嫌悪が過ぎることはなかった。貴族同士の醜い権力争いは、いつでも彼の神経を心地よく刺激してくれる。
 エルカベル帝国の皇帝が嫌うのは汚濁ではなかった。
 彼が嫌うものはただ一つ、平和という名の塗料で降り潰された退屈だけなのだから。
 そんな内心をわずかたりとも表には出さずに、ヴァルロは肘かけに頬杖をついてメルーシャを見下ろした。その眼差しを受けて、典令長官の背後に跪いたディプスは思わず息を呑む。彼は長官の命令通り、ここ数日あまりカイゼルの侍従を調べていた。カイゼルやセスティアルの鋭さのためにろくに調査は進まなかったが、それでも彼とて並みではない魔力の保持者である。あの少年に対して、何か拭いがたい違和感のようなものを感じ始めていた。
 決定的な何かが欠けているような、本能に訴えかける強大な何かを。
「……ふむ、面白いことを言う。卿はライザード卿に二心があると言うのか?」
「恐れながら陛下。彼奴めは必ず、我らが帝国の繁栄と存続に対して後々までの禍根となる存在でありましょう。どうぞあのような若造にお気を許さず、懸命なる処置をお願い申し上げる次第に存じます」
 青ざめるディプスをよそに、皇帝とその重臣の会話は続いていく。メルーシャの口調には、抑えようとしても抑えきれない溶岩のような憎悪が垣間見えた。ヴァルロはそれを心地よく思う。乱を予兆させる冷たい風は、皇太子時代から親征という形を取って、地方都市や皇位を巡る陰謀の戦を勝ち抜いてきたヴァルロにとっては近しいものだった。だがそれを悟らせるようなことはせず、皇帝は頬杖をついたまま重々しく頷いて見せた。
「そうだな、気をつけることにしよう。卿ら大貴族の忠誠、いつもながら嬉しく思うぞ」
「ありがたき御諚にございます、我が皇帝陛下」
 そう言って深々と頭を上げたメルーシャに、ヴァルロは唇の端を緩く持ち上げた。
 カイゼルやセスティアルとの謁見のような、ひやりと切りつける心地よい刃の存在は感じることができない。だが、確かに高揚する精神を感じることができるのは、目の前に跪いているメルーシャ自身ではなく、その背後に見られる大貴族たちの憎悪の炎のためだろう。そのままいくつかの言葉を交わした後、軽く手を振って典令長官を下がらせると、ヴァルロは静かに瞑目して豪奢な玉座の背もたれに体を預けた。
 退出する間際に、ディプスがふと過ぎらせた不安げな表情を思い出し、皇帝は声を出さずにひっそりと笑う。
「我が帝国に対する禍根となる、か。何と快い響き、快い認識であることよ」
「……は」
 何か仰られましたか、と丁寧に尋ねてくる己の侍従に、ヴァルロは戯れるように笑いながら問いかけた。
「お前はライザード卿をどう思う、シエラ?」
「……どう、と仰られましても。やや我が君に対する態度が不遜なような感じられますが、陛下の命に逆らわない、有能な軍人であるかと」
「ほう、ライザード卿は有能な軍人だと申すか」
「は」
 畏まって答えたシエラという人物は、背格好は青年なのだが不思議と性別が判断しがたい、奇妙な雰囲気の持ち主だった。それも当然で、シエラは自主的に性別を破棄した存在だった。男という性別を捨てることによって皇宮で権限を得た、一般的に宦官と呼ばれる高官。カイゼルなどはそれを毛虫のごとく忌み嫌っているが、エルカベル帝国では、宦官は奴隷の存在と同じく当たり前なものだと見なされていた。
 中性的な、だが黒髪の魔術師とは明らかに違う作り物めいた美貌を見上げて、ヴァルロは濃い蒼の瞳をかすかに細めた。
「違うな、シエラよ。あれは獣だ」
「……獣、でございますか」
「そうだ。誇り高く、賢く、強靭な野生の獣だ。誰もあの者を飼うことなど出来ぬ。そのようなことをすれば、いずれあの鋭すぎる牙で食い殺されてしまうだろうよ」
「……」
 シエラは答えるべき言葉を持たず、抑えきれない喜悦に瞳を輝かせる主君をただ見つめた。ヴァルロはそれ以上侍従に答えを求めようとはせずに、広大な四聖玉の間に蒼の双眸を戻す。
 たゆたう笑みに込められているのは、久しく感じることのなかった絶対の歓喜だ。
「シオン・ミズセ。あの少年は果たして、ライザード卿にどのような運命をもたらす存在であろうな」
 そしてこのエルカベル帝国にも。
 呟かれた言葉はひそやかに響きすぎ、背後に控えたシエラにすら届かず、宙に音もなく霧散していった。




「……あ」
 侍従としての仕事を終え、あてがわれた自室へと帰って来たシオンは、文机の横に置かれたそれを見て思わず声を上げてしまった。
 瀟洒な透かし彫りがなされた、燭の明かりに映えて輝く白木細工の机。その影になるような場所に無造作に置かれているのは、黒い革に銀の留め金がつけられた大きめの鞄だった。
 シオンが通っていた月篠(つきしの)高等学校の、指定された革鞄だ。
「そっか、ここに置きっぱなしにしてたんだっけ……」
 シオンがこの世界シェラルフィールドに持って来られたのは、身にまとっていた紺のブレザーと、この革鞄の二つだけだった。今となっては唯一、もとの世界とシオンを結ぶよすがだと言っても過言ではない。エルカベルでの生活があまりにも鮮やか過ぎて、いつの間にかもとの世界の方が夢だったのではないか、という考えが脳裏を掠めることさえあるからだ。
 だが、革鞄はしっとりとした艶を見せてそこにあり、シオンが確かに月篠高等学校に通う学生であったことを証明していた。
 うっすらとついた傷も妙に懐かしく思え、シオンは微笑しながらそれを手に取った。ここにやって来たばかりの時は全てにおいて必死で、この鞄の存在を思い出すことさえなかったのだ。手に取っただけで中身を確かめようとはせず、シオンは重い革鞄を抱きしめるようにしながら、ぽすっと柔らかな寝台に腰かけた。
「……父さんと母さんは元気かな。あの四人も……多分心配してるだろうな」
 そのまま後ろに体を倒し、シオンは絵画の描かれた天井に向かってぽつりと呟いた。父と母が心配しているのは当然のことだろう。学校の帰りにシオンがこの世界に飛ばされてから、すでに一週間以上が経過しているのである。そしてシオンの四人の友人たちも、きっと今頃は消えた彼のことを気にかけているだろうと思った。
 そう考えると胸は痛むが、ここに来たばかりの頃と比べると、もとの世界に帰りたいという強い思いは少しずつ薄れつつあった。
 もちろん死ぬまでここにいるつもりか、と問われれば答えは否だった。だが、泣きたくなるほどのもとの生活への渇望はほとんど感じなくなっている。理由は恐らく、あの榛色の髪に深い青の瞳を持った青年だ。
 日本で普通の高校生として暮らしていては決して知ることはなかっただろう、有能で魅力的な主君に仕える喜びを、シオンは嫌というほど知ってしまったのだ。
「ねえ、雫、蛍、嵐、律……」
 静かにささやかれた名前は、誰よりも仲の良かった有人たちのものだった。かすかに碧の瞳を揺らし、それでも口を閉ざすことはなくシオンは呟く。
 誰に聞かせるためでもない、自分自身のための言葉を。
「僕は弱いから。だからこんな戦いのある世界にいたら、いつかとんでもないことになるかもしれないけど」
 でも僕は、と柔らかくささやき、シオンは柔らかく微笑を浮かべた。
 泣き笑いのように。
「カイゼル様の傍で、生きてみたいんだ」
 それは自分に告げた誓約であり、心配をかけている友人たちに対する謝罪の言葉でもあった。
 ぎゅっと固い鞄の感触を抱きしめ、シオンはそっと瞼を閉じた。もとの世界の光景を瞼裏に思い浮かべ、懐かしい人たちの笑顔を思い出しながら。
 その光景に手を伸ばすことはせずに、シオンの意識はいつしか眠りの中へ引き込まれていった。




 さわさわという梢の音が砕け、開け放たれた窓から心地よい風の息吹が侵入してきた。
 だが、それも頭痛の種を減らす要因にはならず、月篠高等学校生徒会室、というプレートのかかった一室で書類をめくっていた叶蛍(かのうほたる)は、目の前の空席を見遣って溜息をついた。
「……本当、紫苑はどこに行ったんだろうね、あれからもう三日経つけど」
 吹き込んできた風よりなお涼しげに響く声に、隣で退屈そうにパンをかじっていた少年が反応する。
「うーん……あ、ひょっとして旅に出たとか? 桜の花がひらひら〜ってしてて気持ちよくて、つい学校をさぼりたい誘惑に負けて夜行列車に乗っちゃったとか!」
「真面目に答える気がないなら口を開くな、もう一回混ぜ返したら晩御ご飯抜き」
 とたんに、ごめんーっと情けない声を上げる弟の嵐(らん)に冷たい眼差しを返してから、蛍は間髪いれずに手を伸ばし、机に置かれたプラスチックの容器を取り上げた。そこには『滑らかプリン』と書かれたシールが貼られ、サインペンの走り書きで値段が記されている。まだ半分ほど中身が残ったそれを、無造作に背後に置かれた小型の冷蔵庫の中に放り込むと、蛍は色素の薄い茶色の瞳を細めて見せた。
「それで? お前はいつまでプリンを貪り食ってるんだ、雫(しずく)?」
「……ああっ」
 蛍ににっこりと微笑みかけられて、冷蔵庫に連れ去られたプリンに悲しげに手を伸ばしていた雫は、うーっと小動物のように小さな唸り声を上げた。黒髪黒目の嵐とは違い、色素の淡い髪も瞳も、ハーフというわけでもないのに日本人離れした麗々しい顔立ちも、一見すると見間違えてしまいそうなほどに蛍と似ていた。それは当然のことで、雫と蛍は叶家の双子であった。
 プリンっと悲痛な声を上げて瞳を潤ませる雫に対し、蛍の返答はにべもない。
「黙れ。むしろ雫も嵐も実は僕のこと嫌いだろ? 僕に仕事をやらせていつか過労死させようっていう魂胆だろ」
「……蛍兄、蛍兄、そんなことないから。俺は蛍兄の味方だから」
 だからそんな悲観しちゃだめだって、と厳かに言って、律(りつ)は手元の書類から顔を上げた。嵐と同じく黒髪黒目の、華やかな顔立ちをした少年だ。
 繊細で少女のような面差しの雫と蛍は三年生、闊達な明るさをいっぱいに感じさせる嵐は二年生、落ち着いた雰囲気を持つ律は一年生である。非常に珍しいことに、上の二人が双子、下の二人がそれぞれ年子であるため、四人の兄弟がみな同じ高校に通っていた。もっとも、この中で生徒会に所属しているのは会長の雫と副会長の蛍のみで、弟二人は手伝いという名で生徒会室を貸しきっているだけであるが。
 本来なら、ここに四人の共通の友人である水瀬紫苑がいるはずだった。
 だが、紫苑は三日前から行方不明になっていて、生徒会室に顔を出すどころか学校にすら来ていなかった。紫苑の両親は警察に捜索願いを出したようだが、未だに情報すらつかめていないらしい。校内でも人気の高かった紫苑である、その噂は瞬く間に学校全体に広まってしまっていた。
 四人の顔に心配が浮かんでいるのは当然のことだが、それは世間一般で言うような、行方不明の友人を案じる少年たちのものとは微妙に違っていた。
「本当に、どこに行っちゃったんだか。紫苑は」
 気が重そうに蛍が溜息をつくと、可愛らしく首を傾げていた雫がぽつりと呟いた。
「うーん、ひょっとしたらもう『こっち』にはいないかも? だってあの三日前の夜、微妙にあの感じがしたし」
「……言いにくいことをさらっと言うなっ!」
「あー……うん、した。確かにあの感じがした」
「いや、そうだとしたら、紫苑さん結構まずいと思うんだけど」
 もしこの場に第三者がいても、四人が言っている内容を理解するのは困難だっただろう。だが四人が最小限の言葉だけで会話を成立させると、まるで異なる口調と表情の中に共通の色を過ぎらせた。
 面倒なことになったかも、と言わんばかりの、困惑しきった表情を。
「……まったく、もうすぐ陽宮(ひのみや)高校との合同学園祭があるっていうのに」
 せめてそれまでに帰って来い、という蛍の自棄にも似た呟きは、時空を隔てた場所にいる友には届かなかったが、その狭間を生きる黒衣の番人には確かに届いていた。
 御意に、というささやきと共にうっとりと微笑が零されたことを、誰一人として知ることはできないままに。




 この時、起こった全ての事象を完璧に把握している人物は一人もいなかった。
 ある者は期待を、ある者は決意を、ある者は困惑を抱いて時を見送る中、ただ確実に歯車の部品は揃いつつある。
 めぐり始めた歯車がどんな未来を手繰り寄せるのか、やがて、大きな衝撃と共に世界は知るだろう。
 歴史を貫通する強大なる時の激流は、もう、すぐそこまで迫っていた。 





    


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