序 戦場に仰ぐ月





 剣戟と弓弦が奏でる音、燃え盛る炎が落とす熱気と陰影、繰り返し上げられる兵士たちの鬨の声。それらがすべて交じり合った戦場独特の音楽が、シェラルフィールドの清かな夜気を無残にかき回してた。
 帝都エリダから離れること三百フィーリア(約六百キロ)あまりの、皇帝によって自治を認められた外壁都市トランジスタは、常の穏やかさやをかなぐり捨てて戦の熱に狂奔していた。それも、徒党を組んだ山賊や犯罪者、政治的に地位を負われた没落貴族などが、都市の総督府や地方警備隊と戦火を交えているのではない。街の治安維持の目的で作られたはずの地方警備隊が、エルカベル騎士団にも匹敵するほどの甲冑に身を包んで武具を持ち、総督の守る要塞ジェリーレティアを激しく攻め立てているのだ。魔術によって炎をまとった岩石が打ち込まれ、鉄をも貫くほどの強度を与えられた矢が堅牢な外壁に穴を穿ち、巨大な槌が繰り返し城門に打ちつけられる。
「……司令官、カズイ卿! これ以上の攻勢には、いかにジェリーレティアが強固だとて耐えられるものではありませんっ! せめて、せめてあの投石だけでもなんとかしなくては……っ」
「うろたえるな、この程度の児戯で任された砦を失ったら、それこそ後世までの笑いものだぞ」
 飛来してくる無数の矢をものともせずに、カズイ・レン・ヒューガは紫のマントを翻しながら背後の部下に笑いかけた。弓箭兵には盾を並べて敵の矢を防がせ、攻性魔術師たちを集めて外壁の上に配置する。カズイの指示によって紡がれた焔が城壁から飛び、まさに炎がともされた瞬間の大岩に当たって爆発を巻き起こした。
「……っし」
 水による鎮火ではなく、さらなる炎による爆発を。苛烈な性格を反映した作戦が見事成功するのを見て、カズイは小さく拳を握って笑みを浮かべた。味方からは歓声が、壁下の敵からは爆音に混じって悲鳴が上がる。そのまま魔術師に攻撃を指示し、トランジスタの総督である第一位階の騎士は部下たちを振り返った。
「いいか、お前たち! あと三日もすれば帝都から援軍が来る、これまでは意地でもここを維持するぞ! 万が一砦を失ったりしたら、たとえ生き残っても騎士団長に殺されるからな!!」
 カズイの檄には、確かに騎士たちの士気を高める効果があったようだ。ワァッと声を上げて手にした武器を突き上げると、外壁に配された騎士たちは盾にまとわせた結界を強め、群がる敵軍に無数の光の矢を浴びせかける。敵軍は怯んだようだが、それでも城を攻め立てる勢いに緩みや停滞は見られなかった。
 地方とはいえ、外壁都市トランジスタは帝都と周辺都市の中継地点とも言える位置にあり、交易の拠点として栄えた巨大な街だった。外壁都市という呼び名の由来ともなった、街の四方をぐるりと囲む堅固な壁は、それゆえの富を狙う賊などから街を守るためのものだ。それだけ地理的にも意義のある大きな都市である、総督府に駐在する軍は第七位階以上の騎士で構成され、治安の保持と都市そのものの反乱に備えていた。そうだというのに、今ジェリーレティア城が陥落の危機に瀕しているのには、いくつかの看過しがたい理由があるためだ。
「――――カズイちゃんっ!」
「…………ちゃんはやめろ! 今は緊急事態だぞ!!」
 間近で聞こえた声と共に袖を引っ張られ、カズイはほとんど反射的に声を高めた。振り返った視線の先で、第三位階の騎士の証である緑のマントと、見慣れた長い栗色の髪が翻る。ほっそりとした体にマントをまとわせ、腰に届くほどの栗色の髪に宝石のような淡い琥珀の瞳を持った少女は、カズイの怒声にぷっと頬を膨らませた。
「……はーい、すみません間違えました、カズイ・レン・ヒューガ司令官様」
「拗ねるな、あとで構ってやるから!」
 面倒くさそうに叫んだカズイに、少女はきょとん、と大きな瞳を見張った。カズイの言葉こそ、緊急事態に似つかわしくないものだと感じたためだ。だが、すぐに自己の任務を思い出したように苦笑し、少女は瞬き一つで騎士としての表情を作って口を開いた。
「……じゃなくて、司令官に報告です。やっぱり、敵の所持する防具の類はすべて魔力よって≪選別≫されていました。いくつか、じゃなくて、ほとんど全部です」
「やっぱりか、じゃなきゃこれだけの攻勢の説明がつかないもんな。敵の正確な人数はわかったか?」
「およそ一万二千、我が軍の二倍強といったところです」
 一段と真摯な表情で言った少女に、カズイは眼差しをすっと強くした。
「やっぱり、誰か有力者が裏で糸を引いてやがるな」
 武具の選別とは、ただの鋼にすぎないものに魔力による祝福を与え、強度と殺傷能力を飛躍的に高める作業のことである。騎士団に支給される武器はすべて選別されたものだが、個人で入手しようとすればかなりの出費を覚悟しなければならない。少しずつ準備を進めていたにしろ、地方都市の反乱にしてはすべてにおいて手際が良すぎた。
「カズイちゃん……」
 困惑したように瞳を瞬かせた少女へ、今度はたしなめることもせずにカズイは笑ってみせた。やや乱暴に少女の栗色の髪を撫でてやると、強い眼差しのままで城壁にかけられた旗を仰ぎ見る。紅の地に金糸で縁取りがなされ、中央には剣と交差する黄金の三日月が描かれたそれは、エルカベル騎士団が掲げる深紅の旗だった。
 天に輝く月とは違った、だが同時に仰ぐべき金の三日月を見つめて、カズイは「それでも」と小さく呟きを落とした。
「それでも、第一位階の騎士としては砦を失うわけにはいかないよな」
 責められている要塞の責任者とは思えない、陽光のように明るく力に溢れた笑顔に、少女もぱっと顔を輝かせて頷いた。
 帝都から援軍が来るまで、最短でもあと三日。それまでジェリーレティアを陥落させず、持ち堪えてみせることが、彼らにかせられた至上命題だった。
 三日後、援軍さえ到着すればすべてが終わるのだから。
 それは楽観的希望ではなく、篭城した騎士たちが抱いている共通の認識であった。



 
 皇歴八七七七年、夏。
 ここ十年あまりは見られなかった大規模な反乱が、エルカベル帝国最大の戦の始まりを告げる、ささやかな狼煙となった。
 だがそれを知る者は、未だこの地上に存在しない。
 ただ一人、唯一それを志す者を除いては。
 急速に動き始めた歴史の中、戦の行く末がどのようなものであるのか、世界はじっと息をひそめて、時の流れのおもむく先を見守っていた。





  


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