1 獅子咆哮


 


 外壁都市トランジスタ反乱の報は、魔術師たちによって帝都エリダにもたらされ、十年あまりの平穏に慣れていた人々に少なからぬ衝撃を与えた。
 季節は初夏、柔らかかった日差しは帯びた熱と強さを増し、不夜城スティルヴィーアの城壁を白々と照らしている。そこに漂う空気は静謐なものだったが、緊迫感が目に見えぬ糸となって張り巡らされているように、ピリピリと肌を刺す痛みを感じずにはいられない。青き真珠の間、と呼ばれる一室で主君の背後に控えたシオン・ミズセは、侍従の証である短い白のマントを無意識に握り締めていた。大分慣れてきたとはいえ、この場に満ちた圧迫感と静けさは並大抵のものではなかったからだ。
「……トランジスタで、恐れ多くも陛下の臣であるところの総督府に兵を向け、今なおジェリーレティアを包囲している叛徒(はんと)ら……便宜上反乱勢力と呼ばせていただくが、反乱勢力の総数はおよそ一万二千との報告があった。これは地方警備の者だけではなく、周囲の武装勢力をも抱き込んだがゆえの数である。しかもそれだけではなく、彼奴らが所持する武具はすべて『選別』されたものだということだ」
 青き真珠の間で席から立ち上がり、大きなすり鉢上の卓に着席した帝国の高官たちに向かって、軍務長官の地位にあるブレスト・フォル・フレヴァーが朗々とした声音で告げた。その手元には半透明の板が浮かび上がり、細かな文字や図表を周囲の者へ示している。ブレストの言葉を聞き、記された数字を目にした者たちの間から、押さえきれない溜息と苦々しげな呻き声が漏れた。
 一万以上の兵が集結するのをみすみす見逃し、兵を挙げさせてしまっただけでも信じ難い失態だった。それのみならず、選別された武具がエルカベル騎士団以外に大量に流れているという事実は、帝国に名だたる長官らの上に暗い影を投げ落としていた。
 内通者がいるのだという、共通の認識を。
「即座に軍を整え、ジェリーレティアの救援に向かう。これは当然のこととして、問題はいかほどの兵力を差し向けるかであるが……卿らの思うところは如何(いかん)?」
 ブレストはそう言って、何の表情も浮かんでいない顔で周囲を見回した。この反乱の責任を負うべきなのは、名目上は軍務長官である彼と騎士団長のカイゼル・ジェスティ・ライザードである。だがブレストの視線を真っ直ぐに受け止めたのは、中央の席についたカイゼルと、一段高い豪奢な椅子に腰掛けた皇帝のみだった。
 発言を求められぬように視線を逸らし、思案する振りをして事態が解決されるのを待っている高官たちに、カイゼルは侮蔑のこもった眼差しを向けた。無論、カイゼルにはこの反乱の責任を負わされ、軍部における権威を削がれるつもりなど毛頭ない。それはブレストとて同様だろう、カイゼルには軍務長官の思惑など十分すぎるほどわかっていた。
「どうなのか、忠実なる帝国の臣民たちよ。皇帝陛下がおわす御前会議で、発言の機会を得る栄誉にあずかろうという者は?」
 その装飾過剰な台詞に、カイゼルは誰にも気づかれぬように唇の端を持ち上げた。しばしの沈黙の後、意を決したように軍務省の次席書記官が発言を求めたのも、カイゼルの予想と寸分違わぬことだった。
「恐れながら、長官。本来ならばここは騎士団長御自らが出向き、その武威を持って皇帝陛下の威光を示すべきでございましょう。実際、多くの民や武官たちもそう考えているようです。……しかし」
「しかし?」
「私が愚考しますに、ここでライザード卿が出陣すれば、それだけ我らが反乱勢力を重く受け止めていると取られかねません」
 次席書記官の発言を受けて、周囲のざわめきが一際大きくなった。どういう意味だ、というささやきがいくつか飛び交ったが、そこには本当に訝る響きは込められていない。ブレストが浮かべた表情も、あらかじめ自分が用意した通りの発言を聞く、満足げな演出家の顔だった。
「では、その具申の意味を具体的に」
「はい。この度の反乱のために、帝国に刃向かう反乱分子どもが一挙に活気づいています。またそれによって、恐れ多くも騎士団そのものの武力や、皇室の絶対性に対して疑問を持つ者さえ出てくる始末。それを静めるためにも、ここで反乱勢力を徹底的に叩き潰すのは当然のことですが、それに対して騎士団が必死になっている、と取られるわけにはいきますまい。ますます民の不信感が募りかねませんゆえ」
「つまり、他の地方へと情報が伝わる前に、出来る限り隠密裏に反乱を鎮圧するべき、ということか」
「はい」
 あまりにも消極的な、実理性を廃した考え方だが、高官たちからは次々に賛成の声が上がった。カイゼルにはそれが馬鹿馬鹿しくてならない。彼らの目的はカイゼルに武勲を立てさせず、この反乱の責任を全面的に押しつけること、それ以外にありえないからだ。
 チラリと深い青の瞳を上げると、皇帝の暗い色彩を帯びた蒼の眼差しとぶつかった。皇帝ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアは、どこか退屈そうに肘かけに頬杖をつきながら、カイゼルに向かって小さく微笑を浮かべてみせる。カイゼルもそれを捉えて薄く笑った。
 挑戦者と、それを受けた者の声なき会話に気づいたのは、カイゼルの背後に控えたシオンのみだったが。
「……さて、他に異論がないのならば、聡明なる我らが皇帝陛下に上奏し、判断を」
「その必要はあるまい」
 ブレストの言葉を途中で遮り、御前会議が始まってから初めてカイゼルが口を開いた。
 無数の視線が、まるで現れた敵軍の総大将を見つめるようにカイゼルへ集中する。軍務長官は目に見えて舌打ちしたげな表情を閃かせたが、大将軍の地位を持ち、門閥家の筆頭とも言えるライザード家の当主の発言を、皇帝でもない彼が遮れるはずもなかった。
 水を打ったように静まり返る権力の虜囚たちに、カイゼルは悠然とした眼差しを向けた。シオンは思わず呼吸を詰める。この場の支配権が、あまりにもあっさりとブレストからカイゼルに移ったようで、その鮮やかな空気の変化に感覚がついていかなかったのだ。
 カイゼルはそんな周囲になど構わず、ゆったりとした動作で席から立ち上がった。その視線はブレストへ向けられていたが、シオンは気づいていた。カイゼルの瞳は軍務長官など素通りし、緩く笑みを浮かべた皇帝だけを見据えていることを。
「卿らはこの反乱に対し、この私が赴くまでもないと言う。その理由は『これ以上軍部の信用を落とさぬよう、秘密裏にことを進めるべし』とのことだが、卿らは本気でこのようなくだらぬ意見を推すつもりか?」
「……くだらぬ意見、と?」
 ブレストだけではなく、発言した次席書記官や他の高官らも、憎々しげな表情の中に憎悪の色を過ぎらせた。ただ皇帝だけが、そのくすんだ色合いの蒼い瞳を楽しげに細める。
 心地よい楽曲を聞くように。
「ああ、実にくだらぬ意見だ。まず第一に、軍部の威信……ひいては陛下の御威光を示すために必要なのは、反乱勢力が徹底的に、そして大々的に敗れて鎮圧されたという事実。秘密裏にことを進め、兵力を出し惜しんだ挙句に、万一こちらが敗れるようなことがあればいかがするつもりか? これは利敵行為と言わざるを得ぬと思うが」
「……」
「第二に、何故、民の不信を拭うために民に媚びねばならぬ? 我らがすべきは民に媚び、これ以上の不信を抱かれぬようにすることではない。どれだけの疑問をもってしても覆し得ぬ、絶対の事実を突きつけて不信を払拭することだ。違うか、賢明なるエルカベル帝国の廷臣たちよ」
 カイゼルの言葉は、神殿に響く荘厳な誓約の祝詞のように、青き真珠の間に満ちた静寂を揺らしていった。ギリッと音を立てんばかりに歯をかみ締め、ブレストは榛色の髪を流した政敵を睨みつける。だがカイゼルの表情は涼しげなままだった。
「……ではライザード卿。万が一卿が出兵し、それでもなお鎮圧に手間取るようなことがあれば、その責任はすべて卿が取ると言うのだな」
「ありえぬ仮定だ」
 軍務長官の地を這うような声を、カイゼルは刃のような笑みと共に切って捨てた。
 それだけで言葉に詰まったブレストをもはや一顧だにせず、カイゼルは紅のマントを翻して皇帝の前に跪いた。惚れ惚れするような完璧な動作で礼を施し、それでも視線は不敵に持ち上げたままで。
「出陣のご命令を、陛下」
 ヴァルロは湛えた微笑を強くし、焔色の髪と深青色の瞳を持った『闘神』を見下ろした。
「勝算はあるのか、ライザード卿よ」
「無論」
 今まで続いていた軍議の内容を覆すには、この短いやり取りだけで十分だった。
 ヴァルロはゆっくりと頬杖をついていた腕を外し、豪奢な椅子から立ち上がった。足元に跪きながら、その心は一切膝を屈していない形ばかりの臣下を見つめ、何より心地よさげに微笑む。それはヴァルロが皇太子時代、親征の形を取って地方反乱の鎮圧に出向き、戦場に身を晒していた時の笑みに近しい表情だった。
「カイゼル・ジェスティ・ライザード、エルカベル騎士団団長よ。卿にトランジスタへの出兵を命じる。即刻兵を整え、ジェリーレティアに救援に向かうが良い」
「御意」
「武勲を期待しているぞ、ライザード卿」
 周囲すべてが苦虫を噛み潰したような顔で沈黙を守る中、次いで零されたヴァルロのささやきは、あまりにも小さすぎてカイゼルにしか届かなかった。
 吹き付ける冷たい風にも似た、底知れない響きをこめて。
「何よりの、強大なる武勲を」




 ただの高校生にすぎなかったシオンが、黒衣の人物に出会ったことによって異界シェラルフィールドに招かれ、そこの大将軍の侍従となってから一つの季節が移ろった。
 春らしく柔らかだった風も熱気を孕み、石畳を照らす陽光は十分すぎるほど鮮烈だ。だが東京の夏に比べれば涼しささえ感じられて、シオンは汗一つかくことなくカイゼルの後に続いていく。その心臓は先ほどからうるさく跳ね回っていた。
「戦は初めてか、シオン?」
 ライザードの荘厳な門をくぐり、屋敷へ向かって歩きながら、カイゼルは振り向きもせずに侍従の少年に問いかけた。ほぼ反射的に居住まいを正すと、シオンは鼓動を落ち着けつつ「はい」と頷く。あらゆる欺瞞や醜さもあり、実に不平等で争いのなくならない世界だったが、それでもシオンの生きてきた場所は平和だった。生き抜くために剣を持ち、人の命を奪って明日を勝ち取る必要のない場所だった。
 それゆえの幸福を享受しながら、それを意識したこともなかったけれど。
 常になく緊張した様子のシオンに、カイゼルはふん、と軽く笑みを浮かべてみせた。シオンとは違い、己が生き抜くために他者の屍を踏み越えてきた者の笑みだ。鮮血の池の上を歩みながら、それでも足を取られることなく進んできた者の表情だった。
「心配するな、お前に剣を持って前線で戦えというわけじゃない。使えもしないだろうしな」
「……はい」
「何だ? その顔は。俺がたかが地方反乱ごときに敗北するとでも思っているのか?」
 チラリと向けられた主君の視線に、シオンはとんでもありませんっ、と首を横に振った。シオンとて、騎士たちや武官たちがカイゼルを讃えて何と呼んでいるか、一度ならず耳にしたことがあった。
 常勝不敗の闘神、カイゼル・ジェスティ・ライザード。
 十一の時に初陣してから、赴いた戦で一度たりとも敗北の苦渋を味わったことのない、戦の神に愛された存在。三百年前に黎明帝を助けて戦った、帝国最高の大将軍の再来とも謳われるカイゼルに、いっそ盲目的なまでの信頼と忠誠を寄せる騎士も多かった。そしてカイゼルは、信仰にさえ似たそれらの信頼と忠誠に、勝利という華々しい事実を持って答えてきたのである。
「とりあえずは、皇帝の期待に応えてやろうじゃないか」
 どこか含みを持たせた響きで、カイゼルは微笑と共に言い切ってみせた。戦を前に気負っているわけでも、自己の力を過信しているわけでもないその言葉に、シオンの肩からも幾分力が抜ける。
「はい、カイゼル様」
 強く首を縦に振ったシオンに、カイゼルは小さく楽しげな表情を過ぎらせた。≪切り札≫であるこの少年の存在ゆえに、今度の戦は今までとは違ったものになるだろう。その予感が心地よかったからだ。
「……お帰りなさいませ、我が君。シオン」
 風の中に涼しげな声音を響かせて、屋敷の扉の前に佇んでいた黒髪の魔術師が膝を折り、姿を見せた主君に向かって優雅に礼を取ってみせた。長い黒髪を微風にそよがせ、紫のマントを捌きながら跪く腹心を見下ろし、カイゼルの深い青の瞳が鋭く細められる。
 響いた声は静かで、それゆえに何よりの力に溢れた、敗北を知らぬ者の言葉だった。
「出るぞ、セス。出陣だ」
「御意に、我が君」
 その言葉は束の間の午睡から覚めた、気高い獅子の挙げる猛々しい咆哮にも似ていた。
 少なくとも、恐怖とは違った高揚感をもたらす何かを、シオンは確かに感じていた。






    



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