5 その名を高く響かせよ


 


 ディライト・ヴェル・シルファによって、外壁の外に配置していた部隊が全滅させられた。
 この報を聞いた反乱勢力の人間は、ある者は不安げに視線を交し合い、ある者は疑惑を込めて自分たちの指導者を見つめるようになった。ヴェルの奇襲があまりにも素早く、退却の仕方も信じ難いほど鮮やかで、外壁の中に駐屯していた主力部隊は対処することが出来なかったのだが、それがあたかも外の部隊を見殺しにしたように映ったのだ。もともと軍人ではない彼らの間に、指導者への不審が広まるのは当然の結果だろう。
 そして、彼らの不幸はこれで終わりではなかった。敗北の衝撃に浮き足立っているところへ、さらなる凶報が舞い込んできたのだ。
 四方を強固な外壁で囲まれたトランジスタは、その壁によって周囲から孤立しているわけではない。外壁の門から伸びたいくつもの公路により、点在するその他の都市と繋げられ、一つの大都市圏を作るような構造になっていた。公路には高位の魔術師によって『結界』が張られており、たとえトランジスタが敵に包囲されたとしても、そこを通って救援を呼びに行くことができるようになっている。反乱勢力の者たちも、その公路に頼って物資を運び込み、他の勢力との連携を図っていた。
 だが、その警備を任されていた部隊がヴェルによって全滅させられた。そこを見計らったように、ジェイン・レイ・ティアニーとレイター・リチェル・カーロイス率いる騎士団の別部隊が、それぞれ公路の結界を破ってそこを制圧してみせたのである。外壁の門そのものは閉ざされたままで、騎士団の者が都市の中になだれ込んでくることはなかったものの、このままでは補給の術が完全に絶たれるのは時間の問題だった。そんな危機感に苛まれている反乱勢力の者たちへ、ひそやかに一つの噂が投げ込まれた。
 指導者の一人である武装勢力の盟主が、トランジスタの警備隊長に強硬に反対してまで兵を出すのを拒むのは、騎士団長カイゼル・ジェスティ・ライザードと共謀して彼らを招き入れるためである、と。
 それは何の根拠もない流言であったが、彼らの間にさらなる不安を呼び込むには充分だった。トランジスタの警備隊に属していたものと、それに呼応して集った武装勢力の兵たちの間に、すでに修復不可能な溝が掘られつつある。そこに致命傷を与えたのは、斥候を努めている高位の魔術師によってもたらされた、一つの情報と甘い誘惑だった。
「……申し上げます。深夜のうちに退却したディライト・ヴェル・シルファ率いる部隊は、夜陰にまぎれて迂回する道筋を取り、正面門の裏手に広がった平原へ向かっております」
「何?」
 警備隊長であった男は、巨大な天幕の中でもたらされた報告に耳を傾け、その太い眉をきつくしかめた。騎士団の本陣は正面から進軍して来るものと思い、それに対応する策を考えていた最中だったのである。不審そうに口を引き結ぶ男へ、斥候の魔術師は静かな調子で言葉を続けてみせた。
「恐らくは、正面から向かってくる部隊は囮でございましょう。我らがそちらに気を取られている隙に部隊を集結させ、一挙に攻勢をかけてくるつもりかと思われます」
「……」
「ですが、公路の制圧にあたっていた別部隊なども、我々に気づかれぬよう大きく迂回する道を取っており、合流するには未だ時間がかかるかと。さらに裏手の平原にひそんでいる本陣は、多く見積もってもせいぜい五千」
 ゆっくりと伏せていた顔を上げ、魔術師は男を真っ直ぐに見つめながらささやいた。
 うっとりと、何かを誘うように。
「カイゼル・ジェスティ・ライザードの首を取るのならば、今しか好機はありますまい」
 男は気づくことができなかったが、その声の響きは甘やかで、高く澄み渡った響きのものだった。目深に被った外套の奥から、美しい輝きを宿した紫水晶の双眸が男を見上げる。まるで操られたようなぎこちなさで、男は告げられた魔術師の言葉を繰り返した。
「……好機、か」
「はい」
「今ならば、あの大将軍の首が取れるか」
「はい」
「我らが、勝利できるのか」
「はい、必ずや」
 淀みなく答えてみせる魔術師に、男はどこか病的な、引きつった笑いを口の端に上らせた。その脳裏では、いつくもの打算と策略が渦を巻いて生まれつつあるようだ。
「好機……そうか、好機か。それも私しか掴み取ることのできない、絶対の好機ということか」
 見る者が見たら正気を疑わざるを得ないような、恐ろしく暗い笑みをしまりのない口元に浮かべて、男は確かめるように「好機だ」と呟き続けた。そんな男に気づかれぬように、魔術師の口元にひっそりとした微笑が過ぎっていく。
 やがて男は笑いをおさめると、もはや魔術師になど一瞥も与えずに踵を返し、足早に天幕の外へと歩き去っていった。
 夜が明ける前に兵を整え、最低限の人数を残してトランジスタから打って出るつもりなのだろう。
 誰もいなくなった天幕の中、魔術師はゆっくりと被っていた外套を下ろした。ふわっとやや癖のある亜麻色の髪が広がり、どう見ても十五、六歳程度にしか見えない秀麗な美貌が露になる。黒髪の魔術師同様、最高位の魔術師『レイター』の証を持つ第一位階の騎士は、紫の双眸をゆるく細めて微笑を浮かべた。
「仕掛けは上々、あとは団長とセスの手腕に任せるとしようか」
 その穏やかですらある呟きを聞いたのは、広い天幕の中に灯された、煌々と燃える白い光のみだった。




 上空を吹き抜けていく強い風に、星を散りばめたような長い黒髪が踊った。
 それを優雅な仕草でおさえてみせ、ジェリーレティアの高い尖塔の上に危なげなく立ち上がると、セスティアルは花のような唇に微笑を過ぎらせた。
「……おや」
 笑みを含んだその声に、尖塔に立てられた三日月の旗に寄りかかって、血玉の双眸で夜空を仰いでいた青年がゆっくりと振り返った。浅く肩にかかる程度の赤い髪が揺れ、紫のマントにさらさらと落ちかかっていく。セスティアルの稀有な美貌ほどではないが、充分端麗に整った面差しに不機嫌そうな色が閃いた。
 それにも構わず、黒髪の魔術師は眼前の青年を見つめてくすりと笑みを零した。
「お久しぶりですね、ルイ。……貴方に、このようなところで会うとは思いませんでしたよ」
「やめてくれる? 白々しい。僕の気配がここにあるのを知っていて、転移の最中にわざわざ『道』を変えてきたくせに」
 ルイ、と呼ばれた青年が嫌そうに眉をひそめるのを見遣って、セスティアルは長い髪を揺らしながら首を傾げた。
「それは貴方も同じことでしょう? 私がいるのを知っていて、わざと魔力を抑えることなくここで待っていた。私がここにくるのを、貴方は知っていたのではないですか? レイター・ルイ・リンデット」
 一際大きな風が吹いて、鮮やかな赤い髪と艶めく黒髪を空へ巻き上げた。はらはらと零れてくるそれに瞳を眇めて、ルイはわずかに唇の端を歪めてみせる。それはセスティアルの言葉に対する肯定だった。
「君のそういうところ、ものすごく嫌いだけど、不快ではないよ」
「そうですか? それはありがとうございます」
 響きだけは穏やかなやり取りを、音を立てて過ぎていく風がさらおうとする。少しでも足を踏み外せば転落してしまうような、足場の悪すぎる尖塔の上で向かい合っているにも関わらず、二人の魔術師からは一片の危うさも見出せなかった。周囲に満ちた魔力によって、強すぎる風さえ彼らを苛むことはないのだ。それが、魔術師の王者たる『レイター』が持つ力なのだから。
 不意に落ちかかった沈黙の中で、先に口を開いたのは黒髪の魔術師だった。
「今回の戦、裏で色々と暗躍していたのは貴方ですね、ルイ」
 さらりと紡がれた言葉に、ルイもあっさりとした調子で答えを返した。
「ああ、それが僕の任務だったものでね。でもまあ、それももうお終いだ。あとは彼らが勝手に頑張ることで、僕の知ったことじゃない。……もっとも」
 ルイの赤い唇が笑みを刻み、鮮やか過ぎる緋色の双眸が冷ややかに細められた。
「彼ら程度の実力では、逆立ちしたってカイゼルには勝てないだろうけどね」
「ええ、当然です」
 ルイの挑むような言葉を受けて、セスティアルの美貌にはっとするほど鮮烈な微笑が湛えられた。月明かりにも似た銀青の双眸が流れ、そびえ立つ外壁の方へと向けられる。そこには黒々とした闇が横たわっているだけだったが、魔力を統べる者である彼らの目は、ひっそりと街中を進んで門へ向かっていく兵たちを捉えていた。
 夜のうちに門から打って出て、エルカベル騎士団の『本陣』へと逆に奇襲をかけるつもりなのだろう。
 舞うような動作で振り返り、セスティアルは静かに長い睫毛を伏せた。風の中に漆黒の髪が揺れ、紫のマントがバタバタと翻る。実態が危ぶまれるほどの美貌を微笑みに溶かし、セスティアルはゆっくりとした動作で口を開いた。
「……月は二つ、三日月を統べる太陽のもとへ集い来たり、残りの二つは剣に寄する。鍵は焼き尽くす焔のもとで、やがて老いたる玉座を業火の中に葬り去るだろう」
「……」
「鍵はただ一つだけ。老いたる玉座は焔のもと、やがて終焉という名の幕切れを迎える。それが残された祈りの欠片、確かに存在する王たちの望みなれば。――――ねぇ、知っていますか、ルイ? 私は、我が君のもたらす落日と黎明をこの目で見るために、今ここで戦っているんですよ」
 浮かべられた微笑は柔らかいものだったが、ルイは背を伝う冷たいものを感じて双眸を細めた。
 さりげなく間合いを取ったルイを見つめて、セスティアルはふわりと口元を綻ばせる。
 押しつけがましいものではない、ただ静かで自然な威圧感を宿して。
「邪魔をするのならば、貴方であろうとも消します」
 それはどこまでも当然のように、清冽な響きだけを伴って紡がれていく言葉だった。
 じっと鋭い眼差しでセスティアルを見据えていたルイは、ややあってゆるく首を振った。まといつく恐怖を振り払うような、同時に諦めと呆れの伺える仕草で。
「……できれば、あまり君とは戦いたくないんだけどね。『最強のレイター』、セスティアル・フィアラート?」
「私も、叶うことならばレイター同士で刃を交えたくはありませんよ、ルイ・リンデット」
 その簡潔なやり取りを最後に、ルイはセスティアルの前から数歩分退いた。その足元から光が生まれ、辺りに漂う魔力の密度が高まっていく。光の中で音もなく身を翻したルイは、視線だけで振り返って軽く微笑した。
「それでも、今度会う時はきっと戦場の直中」
「けれどそれもまた、逃れ得ぬ自らの選択の結果なら」
 セスティアルも優しく微笑んで、揺るぎない響きの言葉を返した。
「……いずれ、また」
 その声はどちらが発したものだったのか、それを確かめる間もなく、ルイの姿は光の中に溶けて消えていった。
 先ほどまでの緊張感が嘘のように、張り詰めていた空気が柔らかく緩む。
 ふっと肩から力を抜くと、セスティアルは浮かべていた笑みを苦笑へと変えて、どこか困惑したように細い月明かりを仰いだ。青みがかった美しい銀の瞳に、仄かな哀しみにも似た光が宿る。困りましたね、という呟きも、限りなく穏やかな響きを紡ぎ上げていくものだった。
「本当に、レイター同士で争うことはしたくないんですけどね。ねぇ、リーチェ」
 脳裏に浮かんだのは、同じようにカイゼルの麾下にあるレイター・リチェル・カーロイスの姿だ。遠くを見るように双眸を揺らすと、セスティアルはかつて同じ場所で学んだ騎士にそっとささやきかけた。
「……貴方はせめて、敵にはならないで下さいね」
 静か過ぎる声を風に流して、セスティアルはふっと睫毛を伏せて瞳を閉じた。
 やがてゆるりと瞬いて瞼を持ち上げると、哀しげだった表情は完全に拭い去られ、その瞳に騎士団長の腹心としての強い光が煌いた。魔力を宿した眼差しで再び外壁を見遣り、まさに門が開いていく最中であることを確かめてから、口元に軍師としての鋭い笑みを閃かせる。すべては作戦通りに進んでいた。あとは、もしもの時のための『保険』をかけにいかねばならない。
 ルイと同じように転移の光を生み出しながら、セスティアルはすいと白い手を差し伸べた。
 そこに落ちた銀色の光を握り締め、まるで祈るようにその手を胸元に引き寄せて、黒髪の魔術師は小さく何事かを呟いた。その言葉が音となって響く前に、セスティアルの姿は銀色の光の渦に飲み込まれ、気配一つ残さずにその場から消え去っていた。




 ギシギシと軋んだ音を立てて、外壁の裏手に作られた西門が開かれていった。
 周囲に防音のための結界を張り巡らし、馬蹄の音や甲冑が擦れる響きなどを押さえ込んで、地方警備隊に属していた者を主力とした八千の部隊は、ひそやかに門の外へと進軍を始めた。もう一人の指導者である盟主の男は苦虫を噛み潰していたが、広まっている噂を助長するような行動は取れず、警備隊長の勝手な決定を覆すことはできなかったのだ。その苦渋に満ちた顔を思い出し、警備隊長の男は溢れる笑みを抑えることができなかった。
 これで四千程度のカイゼルの部隊を破り、その首級を挙げれば、エルカベル帝国などすでに滅んだも同然だった。ゆくゆくは彼が指導者となって、圧制とは無縁の理想的な国家を建設するのだ。男には具体的な構想も、国を機能させていくのに必要な知識もなかったが、それを補って余りある熱意だけは無駄なほどにあった。
 うっとりと目を細め、甘美な想像に身を委ねていた男は、ついに気づくことが出来なかった。
 先頭を任された部隊の者たちが、一拍置いて何かを感じたように首を傾げ、指示を仰ごうと背後を振り返ったことに。
 ごく普通の静寂から、戦場に張り詰める刃のような空気へと、漂うそれの種類が変わったことに。
 その一瞬後、まるで真夜中に太陽が出現したような眩い光が溢れ、耳をつんざく轟音が静寂を圧して響き渡った。
「――――っ!?」
 光の奔流は一筋の道となり、整然と行軍していた反乱勢力の兵たちを飲み込むと、削り取るようにして弾き飛ばしてのけた。光系の魔術だ、と彼らが気づいた時には、今までまるで聞こえなかったはずの馬のいななきが轟き、鏃に火を灯した矢が雨となって降り注いでくる。まさに門から足を踏み出した隊列の、無防備な側面を容赦なく抉るような、一片の狂いもなく計算されつくした攻撃だった。
 一挙に混乱に陥る軍の中、ただ一つ、何よりの恐怖と驚愕を秘めて一つの名が響き渡った。
「――――カイゼル・ジェスティ・ライザードッ!!」






    



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