6 臥竜の胎動


 


 激しい驚愕の叫びが、一瞬の自失から立ち直った反乱勢力の中を走り抜けていった。
 光の奔流で夜闇を照らし、焔の灯された矢を彼らの頭上に射かけてきたのは、暗がりの中にひそんでいた騎士団の大軍であった。掲げられた松明の明かりによって、翻る征旗に描かれた黄金の三日月が浮かび上がる。無防備な側面に不意の攻撃をくらい、狼狽の叫びを上げて隊列を乱した反乱勢力の軍勢に、さらなる矢の雨が浴びせかけられた。
 この先の平原に布陣して、分散させた舞台の合流を図っているはずのエルカベル騎士団本陣が、魔術の薄紗に身を沈めて敵が出てくるのを待ち構えていたのである。
「――――エステラ! お前は門のヤツらを射殺せ。外門を閉めさせるなよ!」
「は」
「ジェイン、リチェルはそのまま進め。全力でヤツらの陣営に穴を開け、トランジスタに突入するぞ!」
「御意!」
 魔力の波動に乗って堂々とした声が響き、戦の喧騒を鋭く揺らしていった。
 カイゼル・ジェスティ・ライザード。榛色の髪を流して深青の瞳を輝かせた、帝国にその名を冠する闘神の姿に、戦場の至るところから悲鳴に似た声が上がった。慌てて門を閉めようとしていた者たちが、エステラの放った矢によって正確に急所を貫かれる。その隙を狙うようにして、ジェインとリチェルの率いる部隊が門の中へと躍り込んだ。
「ジェイン卿、では先の打ち合わせどおりに!」
「ああ」
 すさまじい速度で愛馬を駆りながら、リチェルとジェインは紫と深緑の双眸を交わしあった。
「四玉の王の祝福を!」
 定められた通りの祝福の言葉を交わし合い、そのまま舗装された都市の道を馬で疾駆していく。トランジスタは広大な面積を有する交易都市であり、都市の外を囲む門から街の中心にあるジェリーレティアまでは、緩やかな坂道となっている道を駆け上がっていかなければならないのだ。住民はほとんど退避しているか、反乱勢力の人質となっているとはいえ、街中で激しい戦闘を繰り広げるわけにもいかなかった。
 道に並んでいる敵軍を蹴散らしながら、リチェルとジェインの部隊は真っ直ぐに要塞を目指して進撃し始めた。
「……カイゼル・ジェスティ・ライザードッ!! おのれ、帝国の犬風情が、よくも、よくも……っ!!」
 耳障りな音を立てて歯を軋らせ、警備隊長の男は騎乗していた馬の手綱を引いた。
 乱戦に巻き込まれないように距離を取り、男はそのまま腰に下げた剣を抜き放った。崩れかかる部下たちを叱咤して、これ以上の侵入を許すまいと隊列を組み直そうとする。血走った目で周囲を見回しながら、手にした抜き身の剣を高く天へと掲げた、まさにその瞬間のことだった。
「……っ!?」
 ギィンという短い音を立てて男の剣が弾き飛ばされ、その甲冑に包まれた胸に長剣の柄が打ち下ろされた。
 体勢を立て直す暇もなく背に衝撃が走り、男はあっという間に馬上から地面に投げ出された。息を詰めて上体を起こそうとしたところへ、松明の光に映える白刃がピタリと突きつけられる。わずかでも動けば喉に切っ先が食い込むような、ぎりぎりの位置に据えられた冷たい刃に、男の唇からヒッと掠れた声が漏れた。
「……どうした? たかが帝国の犬風情に、何をそんな怯える必要がある?」
 ことさらに穏やかな声が、ひそむ侮蔑を隠そうともせずに頭上から投げ落とされた。
 戦の熱気を乗せた夜の風に、焔を思わせる長い髪が音もなく翻る。ゆったりとした笑みに細められる深青の瞳、鮮やかな緋色のマント。夜闇のように艶やかな漆黒の馬を御して、闘神と呼ばれる大将軍が真っ直ぐに手にした長剣を突きつけていた。
 その鋭すぎる深い色の双眸に、男の背に冷たい汗が伝った。
「武器を捨て、降伏してもらおうか。逆らえばこの場で殺す。どうする? 服従か、それとも死か」
 選ばせてやる、と倣岸にささやくその姿を目のあたりにして、男は自分たちが誰に戦いを挑もうとしていたのか、絶望と恐怖に支配されていく頭の中で理解した。
 勝てる相手ではなかったのだ。エルカベル帝国の史上最年少の騎士団長にして、もっとも皇室に近しい血を継いだライザード家の当主。最強の名を欲しいままにする、カイゼル・ジェスティ・ライザードという名の戦の神は、この程度の反乱を成功させてくれるほど優しくも愚かでもなかったのだから。
「早くしろ。貴様ごときに構っているほど、俺は暇ではないんでな」
 そのぞっとするほど冷酷に響いた声に、男の中に残っていた最後の反抗心もついえて消えた。




 世界は灰色に塗りつぶされていた。
 厚い雲が陽光をさえぎり、吹きすさぶ風が砂塵を巻き上げ、枝をむき出しにした木々がぎしぎしとしなる。その音さえ突風にさらわれ、しっかりと響く前に霧散して消えてしまう。思い出したように雲をななめに裂くのは、空が気まぐれに投げ下ろす白熱した雷光だ。世界は白と黒と灰色に支配され、荒野には生きているものの気配もなく、乾いた大気は無言の呪詛を紡ぎ上げているようだった。
 それは世界の終焉を思わせる景色だったが、荒野の中でただ一つ、色鮮やかな輝きを失っていない一角があった。
 かつては美しい景観をたもっていのだろう、ごく小さな神殿の跡地。屋根は壁の上半分と共に姿を消し、円柱は半ばからへし折れ、レリーフは砂に洗われるままになっていたが、そのひび割れた床に佇む四つの人影が、無残な建物の残骸をまばゆい光の源へと変えているようだった。
「もう、いかなくては」
 背を覆う髪、まとっている衣、柔らかく細められた瞳にいたるまで、すべて透明な青で統一された青年が穏やかに微笑した。
「これ以上、愛しい世界の悲鳴を聞き続けているのはつらい。すべての準備は整った。我らはもう、いかなくては」
「ああ。寂しいけれど、仕方がない」
 翡翠の青年が小さく頷く。そのすぐ横で、紅をまとう少年が闊達に笑った。
「そうでもないさ。こうやって四人が共にいくなら、あちらの『世界』でなにがあっても寂しいことなんかないだろ?」
「それはそうかもしれないけど。でもやはり、生まれ育ったこの王国とわかれるのは寂しいと思う」
 明るいその声に答えて、橙を宿す少年がゆるくかぶりを振った。
 青、翡翠、深紅、橙という順番で円を描くように立ち、風に宝玉の髪と衣をなびかせながら、光の化身たちは「今さらどうしようもないことだ」と薄く微笑を交わし合った。四人の中心には白く輝く扉がある。人間二人分はあろうかというそれを見上げ、何かを乞うように白い手を差し伸べると、四人はどこか悲しげに瞳をかげらせた。
「でもきっと、未来永劫許してはもらえないだろう」
「我らの贖罪によって招かれるかわいそうな贄たちと、我らの力を継がされる何も知らない子孫たちに?」
「そう。なんの責もないというのに、過酷な運命を背負うことになる愛し子たちに。こんなことを祈るのは、すべての元凶を作った者の傲慢でしかないけれど」
「それでも、祈ることはやめたくないんだろ? だったらずっと祈り続ければいい。たとえそれが罪でしかなくても、祈りが少しでも愛し子の守りになるように」
 それぞれの表情でささやき、何かを振り払うように瞳をふせてから、四人は一度だけ荒野の果てに視線を放った。崩壊しつつある世界に愛しそうな笑みを向け、幼子をあやすように優しく呟く。
「さようなら。愛しい夢の王国よ」
「さようなら。我らが破滅を招き寄せ、我らを拒み、我らを何よりも愛してくれた世界よ」
「我らはわかたれた機械仕掛けの沃野で、この血を絶やさぬように伝えていくから」
「いずれめぐりくる大乱のために、目覚めるその時まで祈り続けているから」
「だから、どうか」
 それはどこまでも透明で、どこまでも優しく、愛情と慈しみと謝罪に満ちあふれた声音だった。
 四人の声に引き寄せられたのか、固く閉ざされていた扉が音もなく開き始める。一瞬ごとに満ちる光が明度を増し、灰色の色彩を塗りかえ、荒野を清冽な輝きでつつんでいく。透明な光で世界が洗いなおされる中、柔らかな言葉だけが幾重にも幾重にもこだまし、滅びに瀕した夢の王国に染みとおっていった。
 どうか許して、と。




「……シオン? シオン、大丈夫かね?」
 肩に軽い振動を感じ、次いで勢いよく色とりどりの光景が目に飛び込んできて、シオンはぎょっと碧色の瞳を見開いた。
「シオン?」
「えっ……ウィルザス様?」
 慌てて隣に顔を向け、皺の刻まれた丸い顔を認めて首を傾げると、シオンの肩を揺さぶっていた壮年の男は軽く眉を寄せた。
「いかにもわしはウィルザス・フォールクロウだが、一体どうしたんだね、シオン。何やら視線があらぬ方向に飛んでおったようだが?」
「え……あっ」
 隣に立つ恩師の言葉を理解して、シオンは思わず白い頬に朱を上らせた。いかにここが後方とはいえ、今シオンがいるのは戦場だ。そこでぼんやりと思考を飛ばしているなど、流れ矢に当たっても文句は言えない状況だろう。すみません、と慌てて頭を下げるシオンに、ウィルザスは穏やかに首を振ってみせた。
「いや、シオンは戦場に出るのは初めてだろう? だったら緊張するのも無理はないことだろうて。………ほれ、肩の力を抜きなさい。心配せずとも、ここまで敵が攻めて来たらわしが撃退してやろう。わしとて魔力にはいささかの自信があるでな」
「――――はい」
 いたずらっぽく笑うウィルザスを見て、シオンも控えめな微笑を口元に浮かべた。
 ウィルザスは治癒系の魔術に突出した魔術師であり、医療班の監督役として今回の戦に参加していた。本人としては、主の侍従であるシオンのお目付け役も兼ねているつもりのようである。それに素直な感謝を覚えつつ、シオンは先ほどの光景を思い出して首を捻った。
(あれは……)
 灰色に塗りつぶされた荒野に、光を統べて佇んでいた四人の王。ただの白昼夢というには、その光景はあまりにも鮮烈で現実感があった。
(四玉の、王?)
 まるで、実際に起こった出来事を再生してみせたように。
「……ところでシオン、君は若の策をどう思う?」
 再び思考の中に沈みかけていたシオンは、突然ウィルザスに声をかけられてビクリと肩を揺らした。明らかに話を聞いていなかった様子の少年に、ウィルザスはやれやれと口元に苦笑を上らせながら、先ほどの問いかけをもう一度繰り返した。
「シオン。若とセスティアル卿が用いた戦略、君はどう思う? ほんの少しでもいい、理解できたかね?」
 口調は優しげだが、ウィルザスのこげ茶色の瞳には教師としての光が浮かんでいた。ほぼ反射的に背筋を伸ばし、シオンは一時的に先ほどの光景を頭から締め出すと、慎重に言葉を選びながら小さく頷いた。
「少しだけでしたら、理解できたように思います」
「よろしい。ではシオン、今回の戦で重要になったこと、及び策を成功させる上での着目点は?」
「……重要なのは、反乱勢力の人たちが一つの統一された組織ではないこと。それから、こちら側に敵の内通者がいるということです。だからあえて兵力を分散させ、敵の補給線を絶ってから合流して全面的に攻撃する、という報告を『帝国に』してから出撃したんですよね? 敵に流れるというのがわかった上で」
 帝国側の上層部に、敵への内通者がいるのはわかり切っていたことだ。だからこそ正しい報告を行わず、作戦の概略を伝える時点で罠を仕掛けたのである。
 他の部隊が合流しようとしている『本陣』は囮であり、実際にカイゼルが率いる騎士団の主力は外壁の裏手に布陣していた。敵が嘘の報告に踊らされ、功を焦って門から打って出てくるのを待ち構えていたのだ。案の定、反乱勢力の者たちは今が好機と思い込み、騎士団が目くらましの術の中に潜んでいることにも気づかず、みすみす自分たちで堅牢な外壁を開け放ってしまった。
 シオンの正確な洞察に笑みを深め、ウィルザスは軽く頷くことで続きを促した。
「敵が完全に協力し合っているわけではないから、あの程度の噂を流すだけで簡単に崩れましたよね。そのあたりのことも、カイゼル様とセスティアル様はわかっていたんだと思います。……それに」
 そこで不意に言葉を切り、シオンは湖を思わせる碧の瞳をわずかに細めた。
「もし打って出て来なくても、いくらでも内部で分裂させることはできると思います。ヴェル様の部隊が捕らえた捕虜に嘘の情報を吹きこんで、わざと解放するとか。敵の指導者がカイゼル様と共謀している、という噂をもっと徹底させて、わざと見つかるように密書を送るとか。……もっとやり方を選ばないのなら、レイターであるセスティアル様やリチェル様が潜入して、敵の糧食に火をつけるなり何なりできたはずですよ、ね?」
 最後の部分はやや自信なさげに首を傾けつつ、シオンは一つ一つ丁寧に言葉を続けた。その充分すぎるほど具体的な内容に、ウィルザスは少なからず驚いて目を見張る。このおっとりした優しい少年が、戦略についてそこまで考えているとは思わなかったのだ。
「……確かに一理ある。ではシオン、若がそれを用いなかった理由は?」
「多分、食料を失って追い詰められた敵が、自棄になって要塞に攻撃を仕掛けたらまずいからだと思います。そこまでしなくても、実際に敵は自分から門を開けて、カイゼル様たちに追い詰められていますし」
 あまり人道的でもないですしね、と言って困ったように微笑み、シオンは近くに控えた白馬の首を撫でた。
 ウィルザスは幾分後退した髪に手をやると、心から感心したというように息を吐いた。線の細い華奢な少年を見遣って、卵のような丸い顔を何度も振ってみせる。
「中々どうして……君はやはり頭が良いな、シオン。訓練次第では軍師にもなれるんじゃないかね? 着目点も適切だし、発想も悪くない」
「いえそんなっ! 絶対に無理です!! カイゼル様の侍従でも僕には身に余る役職ですから!!」
 途端に顔を赤らめ、シオンはすさまじい勢いで首を振った。謙虚というよりも、本気で自分には無理だと確信している表情だ。あまりの必死さに思わず苦笑しながら、ウィルザスはほんのかすかに双眸を眇めた。
 優しげでありながら何かを祈るような、哀しみと慈しみの混ざり合った表情で。
「いや、君はあらゆることを学ぶべきだよ、シオン。そして願わくばその知識と発想が、君を守る何よりの力となるように」
「……ウィルザス様?」
 恩師の唐突な言葉に、シオンは小さく瞳を見張ってその名を呼んだ。
 だがウィルザスは穏やかに笑って首を振るだけで、その真意を語ろうとはしなかった。ただ節ばった手でシオンの頬に触れ、祖父が孫にするように柔らかく笑っただけだ。
「生きるために、様々なことを学ぶといいよ、シオン」
 その響きは暖かく、そしてどこか、寂しげだった。






    



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