7 群雄演舞


 


「エレア、どうだ?」
「うん……じゃなくてはい、司令官。もうそろそろだと思います」
 目を伏せて魔力の軌跡を辿っていたエレアは、カズイの真剣な声を受けて瞼を持ち上げ、栗色の髪を揺らしながら小さく頷いた。
 ぴんと張り詰めた静寂の中、その声は奇妙なほどの大きさで大気を揺らしていった。カズイは「わかった」と短く呟き、紫のマントを翻して背後を振り返ると、兵士たちの間を足早に歩き出す。彼の麾下にいるエルカベル騎士団の騎士たちは、司令官の命令一つ、腕の動き一つでいつでも出陣できるよう、要塞を囲む城壁の中に展開していた。
 カイゼルがカズイの兵力に望むこと、それはあまりにも明白だった。騎士団の本陣がトランジスタに突入した今、要塞に対する反乱勢力の包囲は少しずつ、だが確実に崩れ始めている。その隙をついて城壁から出陣し、カイゼルや第一位階の騎士たちが率いる部隊と連携して、トランジスタに布陣した反乱勢力を挟撃するのだ。乱戦の渦中に飛び出していくのは危険を伴うが、カズイも第一位階の騎士である。多少の緊張は覚えても、不安や困難を感じることはなかった。
「いいか、城壁を出たら左右に展開、とにかく敵軍を押して押して押しまくれ! 細かい指示は第二位階の騎士以下、それぞれの部隊長に一任する」
「は!」
「城門への結界、及び開閉は細心の注意を払えよ! 何があってもジェリーレティアには侵入を許すな!!」
「御意」
 声を張り上げながら兵たちの間を歩き、カズイは部下の一人から愛馬の手綱を受け取った。『リュー』という名の月毛の馬は、素直に主である青年の頬に鼻面を寄せ、たてがみを撫でる手に心地良さそうに鼻を鳴らす。それにそっと瞳を細めてから、カズイは最後に副官である少女を見返った。
「エレア、お前には城の守備を任せる。……大丈夫だとは思うが、危なくなったら城を守ることにこだわる必要はないからな」
「はい、大丈夫です司令官」
 遠回りに逃げてもいい、と告げてくる青年に口元を綻ばせ、エレアは毅然とした態度で首を縦に振った。彼女も第三位階に属する騎士なのである。剣を持って戦場を駆ける以上、その身が危険に晒されるのも覚悟の上だった。
「……無理はするなよ?」
 その一言で煩雑とした思いを振り払い、カズイはリューの首筋を軽く叩いてやりながら城門を見上げた。固く締め切った門扉を通しても、戦の剣戟や魔力による爆音は弱まる気配すらなく聞こえてくる。その音に挑むように眼差しを強め、彼の指示を待つ騎士たちに出撃を告げようとした、まさにその時だった。
「どうやら耄碌してはいないようですね、カズイ」
「……っ!?」
 突如として響いた涼やかな声に、カズイは文字通り飛び上がるようにして背後を振り向いた。他の騎士たちが驚愕にざわめく中、明るい青の双眸が腕を組んで立つ人影を捉え、極限まで大きく見開かれる。そんなカズイにゆるく首を傾げると、腕を解いてリューの首筋を撫でていた人物は、夜目にも艶やかな仕草で唇の端を持ち上げてみせた。
「お久しぶりですね、カズイ。三ヶ月前、春の観花祭で会って以来ですか」
「……なっ、セ……ッ!?」
「セスティアル様!!」
 言葉を詰まらせるカズイの横で、エレアがぱっと顔を輝かせて声を上げた。
「お久しぶりです、エレアライル。変わりはないようで安心しました」
 少女に青みがかった銀色の瞳を向け、湛えた微笑をゆったりと深くしたのは、長い黒髪をさらりとなびかせた美貌の魔術師だった。
 それに驚愕したのはカズイだけではなかった。この場に存在する、第三位階以上の地位を持つ騎士たちの誰一人として、セスティアルが用いた『転移』の魔術に気づいた者はいなかったのだ。ほんのかすかな魔力の波動、あるいは大気中に漂う術の残滓にさえも。まるで風のようなひそやかさで姿を現したセスティアルは、同僚を見つめて小さく笑い声を響かせた。
「そんなに驚かれても困ります、カズイ。私はこれでもレイターですよ? 第一位階の騎士の中でも、魔力最弱一、二位を争っている貴方に気づかれたら、最高位の魔術師としてちょっと困ってしまいます」
 何より立ち直れなくなってしまいますよ、と呟いて、美貌の魔術師は同意を求めるように小さく首を傾げた。松明の輝きの中、しっとりとした黒髪が肩から滑るのを見て、セスティアルを凝視していたカズイはふいに我に返る。清雅な美貌に向かって二、三度瞳を瞬かせた後、言われた内容を理解してカッと頬を紅潮させた。
「ってお前、本人に向かって魔力最弱とか言うなよな! ちょっと普通に傷ついたぞこの野郎っ、血のせいなんだから仕方がないだろ……って、違う! そうじゃなくて、何をしてるんだお前は!? 何でお前がここにいる、団長の傍にいるんじゃなかったのか!?」
「あ、すみません。でも魔力がそこまで微弱なのに出世できたということは、それだけ貴方が有能だということでしょう。一々気にしてはだめですよ? ……ちなみに、私がここにいるのは我が君の命令です」
 カズイの台詞の前半と後半、その両方にしっかりと答えてみせると、セスティアルは悪戯っぽく人差し指を口元に寄せた。訝しげに眉を寄せたカズイに向かって、唇に指先を当てながら息を吸い込み、もったいぶった様子で静かに口を開く。
 重々しく、普段よりもずっと低めの声音で。
「『あの馬鹿がもしも耄碌して、こっちの意図にも気づかず城に立てこもりやがるような間抜けだったら、お前がサクッと往生させて騎士たちの指揮をとって来い。いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないとは思うが、一応の保険だ』」
「……っ!」
 セスティアルがことさらゆっくりと綴った言葉に、カズイは一瞬で顔色を失った。横でエレアがうわぁ、と曖昧な苦笑を浮かべ、リューが立ち尽くす主人を案じたように小さく鳴いたが、それに反応を返す余裕さえない。ヤバ、という意図しない呟きを漏らし、カズイは楽しげに微笑む同僚に縋るような眼差しを向けた。その顔色は夜目にも真っ青だ。
「……なあ、セス」
「はい?」
「やっぱ団長……怒ってた、よな?」
「『死にたくなかったらキリキリ働け』とは言っていましたけど、怒ってはいらっしゃらなかったと思いますよ」
「……人はそれを怒ってるって言うんだよ!!」
 カズイは悲痛な叫び声を上げ、脱力したように愛馬の首にもたれかかった。その様に軽く苦笑すると、セスティアルは穏やかな仕草で友人の広い肩を叩いてやり、青い瞳を覗き込むようにして柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です、『一応』の保険だと言ったでしょう? 何より、カズイは一人で立派に我が君の意図に気づいたじゃないですか」
「……」
「我が君の言う通り、キリキリ働けば罰せられることもありませんよ。失敗は功績で帳消しになります」
 細い三日月の月明かりと、小さく揺れる松明の光に黒髪を輝かせ、青みがかった銀の双眸を細めて笑うその美貌は、つき合いの長いカズイの目から見ても充分驚嘆に値するものだった。いくつかの例外は存在するが、シェラルフィールドでは強い魔力を帯びる者ほど整った容姿の所有者が多い。最高位の魔術師レイターともなれば、世界に満ちる力の恩寵も格別のものとなるのだろう。透きとおるような白皙の肌も、目元に翳りを落とす長い睫毛も、ほのかな燐光をまとって闇に浮かび上がるようだった。
 ふっと唇に微笑を刻むと、セスティアルは優雅な動作で紫のマントを風に流し、カズイの肩に手を置いたままでその横に並んだ。静かに紡がれた言葉が、再び音もなく張り詰めた静寂を揺らしていく。それは武人というよりも、神殿で祈りを捧げる神官の祝詞のようだった。
「さあ行きましょう、カズイ・レン・ヒューガ。我が君、カイゼル・ジェスティ・ライザード大将軍が貴方の軍をお待ちです」
「……ああ」
 セスティアルの言葉に大きく頷くと、カズイも表情を引き締めて背後を振り返った。隣に立つエレアに一瞥を投げかけ、腰に下げた銀の剣を一気に抜き放つ。掲げた切っ先に、刃のようにひそやかな三日月の光が反射して輝いた。
 ぐっと腹に力を込めて、彼の命令を待つ部下たちに向かって声を張り上げる。
「出るぞ、出陣だ!!」
 司令官の号令に答えて、地を揺るがす鬨の声がジェリーレティアに響き渡っていった。




 それからの戦いを、果たして戦闘と呼ぶことが許されるのだろうか。
 繰り広げられたのは討伐であり、掃討であり、剣戟と弓弦の音を伴う優雅な舞踏であった。反乱勢力は、崩された隊列を立て直す暇を与えられず、隻眼の騎士や少年姿のレイター、黒髪をなびかせた戦女神の化身によって奥へと追い詰められていく。兵士ですらない叛徒たちの幾人かは、混乱と狼狽、そして何よりの恐怖に支配されながらも、彼らが第一位階の騎士と呼ばれる所以をその目で確かめることになった。騎士たちの戦い方はそれぞれ異なるが、戦場で一際鮮烈に映えるその姿は勇ましく、眼差しを奪われずにはいられないほどに美しかったのだ。
「……『美しき王、黙視の支配者よ』」
 喧騒の中で何よりも静かに、透きとおった少年の声が奏でられた。ふんわりとした亜麻色の髪をなびかせ、手綱を操って愛馬を走らせながら、リチェル・カーロイスはゆっくりと紫水晶の瞳を伏せる。その声に導かれるようにして、少年の周囲に淡い白金色の煌きが巻き起こり、天使のような姿を闇の中に浮かび上がらせた。血なまぐさい戦場の中にあって、清浄な輝きはどこか場違いなほどに綺麗で、荘厳だった。
「『罪人たちの嘆きは荒れ野に消え、禍いの剣はあわれにも折れ果て、傷ついた小鳥は大地へ落ちる。草々は枯れて、悲嘆の歌はたえることなく、あなたの僕は涙さえ忘れた』」
 それは、呪文の詠唱というよりも古い歌の一説のようだった。優雅に節をつけて言葉を操り、リチェルは花びらを思わせる唇にうっとりと笑みを刻む。そこで途切れた言葉を繋ぐようにして、どこからか響いてきた涼やかな声が大気を震わせた。
「『その御言葉は移ろう光、祈(の)みたてまつる歌声は天に過ぎゆく。王は折れた剣を抜き放ち、高き輝きによって諸人を断じられた』」
「『ああ、幸いなるかな、響く祝詞よ』」
「『幸いなるかな、われは王座の跡を守る者』」
「『幸いなるかな』」
 白金の輝きに澄んだ銀光が重なり、長い黒髪が吹きすさぶ夜風に踊った。一瞬で騎馬ごと転移してのけた美貌の魔術師が、同じレイターの称号を持つ騎士を視線を合わせ、穏やかに微笑しながら歌に唱和したのだ。リチェルもそれにくすりと笑い返し、ゆるりと片手を持ち上げるようにして言葉を綴った。
 破壊のための力を呼び起こすために。
「……『いと高き王よ、ならばなさしめよ。剣もて、諸人へ審判を』」
 言葉が剣戟の音を裂いて、天へ凛と響いていった。
 ただ、それだけのことだった。たったそれだけの言葉と動作で、二人の『レイター』を中心にして眩い光が爆発し、猛り狂う一本の流れとなってトランジスタの街道を貫いた。光に飲まれた石畳が音もなく弾け、その一瞬後には消え去り、やがて光さえも湧き上がるように生まれた闇に蹂躙されていく。その直線上にいた馬も、反乱勢力の者たちも、己の身に起こったことを正確に理解できただろうか。高まっていく魔力の密度に恐怖し、逃げ出そうと馬首を返しかけたところで、光と闇の奔流に飲み込まれて文字通り消え去ってしまったのだ。
 魔力による破壊はまさに一刹那だったが、その力が走り抜けていった後には、巨人の手で掬い取っていったような溝がくっきりと掘られていた。その縁に引っかかるようにして、上半身だけを失った馬の体が転がり、生理的な反射だけでビクビクと動いている。時間が止まってしまったような静寂の中、それだけでいやに生々しく、これが現実に起こったことなのだと示していた。
 その場にいたすべての者が動くことを忘れ、風さえもその動きを止めてしまった世界に、信じがたいほど穏やかに聞こえる呟きが零された。
「……ふむ、やはり最初が肝心と言うしな、セス?」
「そうですね、リーチェ。あちらも充分怯えてくれたようですし」
 魔力の残滓を掲げた手にまとわせ、清冽な美貌を持つ二人のレイターは顔を見合わせると、気軽な仕草で首を傾げた。死臭さえ漂わない破壊の痕を前にし、あまりにも透明にすぎる微笑を口元に過ぎらせる。それは、シェラルフィールドでは絶対の力である魔力に愛され、最大の恩寵を与えられた死神の笑みだった。
「感謝してもらおうか、反乱勢力の諸君」
「レイター二人の魔術など、滅多にお目にかかれるものではありませんよ。その目にしっかりと焼き付けておきなさい」
 死出の手向けにね、という優しいささやきは、決して大きなものではなかったにも関わらず、戦場の隅々にまで揺るぎなく響いたようだった。
 一拍置いて、まるで世界が音を思い出したように絶叫が弾け、戦場に喧騒と狂乱とが舞い戻ってきた。少しでもレイターたちから距離を取ろうと、叛徒たちは押し合いながら馬を操り、あるいは徒歩になって抉られた大地を逃げ惑う。それは、さながら踏み散らされた小さく力ない虫のようだった。
 だが、リチェルとセスティアルにのみ恐怖を感じ、必死になって逃げようとしていた者たちは、絶望に捕らわれて悲痛な叫びを上げることになった。攻囲が緩んだ一瞬の隙をついて、ジェリーレティアの要塞からカズイ・レン・ヒューガが率いる騎士団が突出し、混乱を極める反乱勢力の側面に喰らいついたのである。それはあまりにも鮮やかな襲撃で、反乱勢力の者たちは要塞に侵入する隙を与えられず、ほとんど無防備に騎士団の攻撃を受けてしまった。
「狙うは総指揮官の首のみだ! 俺たちにケンカ売ったこと、骨の髄まで後悔させてやれよっ!!」
 カズイの、やや乱暴だがこの場合は何よりも効果的な激に、エルカベル騎士団の騎士たちは剣を突き上げて歓呼を響かせた。
 そしてそれは、戦の勝敗が完全に決した瞬間でもあった。






    



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