8 間隙


 


 夜気を裂いて銀光が閃き、それに追従するようにして鮮やかな緋色が吹き上がる。
 ジェインは左手で手綱を、右手で細身の片手剣を操りながら、正確無比な剣さばきで敵兵を屠っていた。くるりと円を描いて切っ先が旋回し、背後から襲いかかってきた男の喉を深々と切り裂く。返す刃で横合いの剣を弾くと、無防備な胸甲にしたたかな一撃を加えて落馬させ、そのまま別の相手の甲冑の継ぎ目に剣を押し込む。魔力によって飛躍的に破壊力の増した剣は、軍馬の太い頚すらやすやすと切断し、その場に濃い鉄の匂いを伴った赤い噴水を作り出した。
 ジェインの視界が常人の半分しかない、と言って信じるものが、はたしてこの場に存在しただろうか。隻眼であることの不利など微塵も感じさせない、しなやかでありながら力強い身のこなしを見せて、ジェインは瞬く間に周囲に屍の山を築いてみせた。返り血を拒む淡い魔力の光が、ひややかな白銀の髪と深緑色の瞳を浮かび上がらせる。べっとりと赤く染まった細身の剣とも相まって、その姿はどこか命を狩る死の神のようにも見えた。
「……やはり、正規の軍人ではない者を斬るのは後味が悪いな」
 できれば戦いたくないものだ、と小さく呟きながらも、ジェインは一つだけ残った瞳で鋭く戦場を見渡し、翻った紫のマントを認めてかすかに唇の端を持ち上げた。
「無事であったか、カズイ卿!」
「ジェインか! おかげさまでピンピンしてるぜ、この世に団長より怖いものなんで存在しねえからなっ!!」
 ジェインの声に答え、先陣を切って反乱勢力の軍に踊りこんできたカズイ・レン・ヒューガが、幅広の長剣を振るいつつ声を張り上げた。一見すると無骨な剣だが、甲冑の間接部分や繋ぎ目、まとわせた魔力の薄い部分を狙って繰り出される一撃一撃は、意外なほどひそやかで繊細に見える。明るい色彩の双眸を鋭く細めて、カズイはジェインの騎馬と並走するように馬を走らせながら小さく笑った。ジェインもそれに答えて無言で頷く。そのやり取りには緊張感の欠片も見られなかったが、二人の騎士の動きには隙がなく、流麗ですらある戦い方はまるで接近戦の手本のようだった。
「そういやジェイン、団長はどこだ? 後方に控えてるのか!」
「ああ……いや」
 カズイの言葉に頷きかけ、ジェインは途中で動きを止めてから首をひねった。その間近で絶叫が響き、飛び散った血と臓物が結界に阻まれて音もなく霧散する。会話に意識を傾けていながら、騎士たちの全神経は敵の動きに集中し、冷酷とも言える正確さで相手の命を断ち切っていた。
「控えておられるわけではなく、全軍の指揮をとることに専念しておられる。この程度の相手、団長御自ら戦われる必要もあるまい。実際この反乱など、第一位階の騎士半数のみで充分片づくものだ、面倒なことはなさりたくないのだろうよ」
「面倒……って俺、ひょっとしなくてもその面倒に一役買ってるか?」
「まあ、死にたくなければ必死に功績を立てることだな」
 カズイの引きつった声音に、隻眼の騎士は無情とも言える口調でさらりと返した。カズイは「おいっ!」と叫びを上げつつも、八つ当たりのように長剣を薙ぎ払って敵兵を叩き落す。馬の蹄が人間の頭蓋を踏み砕く嫌な音がして、カズイはますますきつく眉をしかめた。
「……そろそろ、か」
 そんな同僚の様子にも構わず、ジェインは戦場を油断なく見据えながらぽつりと呟いた。
 鬼神のような、という形容がぴったりと当てはまる二人の姿に、反乱勢力の兵たちは少しずつ剣を引き、降伏の意を示し始めている。遠くからは魔力の波動に乗って、セスティアルが穏やかに投降を呼びかける声が聞こえてきていた。今頃は合流したグラウドとヴェルの部隊が、この反乱に呼応して決起するはずだった周囲の勢力を抑えているだろう。
 見れば、東の空は段々と明るさと透明度を増し、朝の訪れが近いことを告げている。陽が落ちる頃に始まった一連の戦闘も、夜が明けきるまでには何とか終結しそうだった。鋭く周囲に視線を配りながらも、二人の騎士から安堵の吐息が漏れた。
「ああ、そろそろだな」
 カズイも大きく頷き、ほとんど無意識の内に騎士服に包まれた胸元に手をやった。そこにある固い感触を確かめるようにして、きつく指先で握り締める。シャラ、と響いた鎖の音に頬を緩めると、隣に馬を並べたジェインを目顔で示しあい、部下たちへ指示を出すために馬腹を蹴った。
 駆けていく騎馬の後姿を見遣って、死を免れた男たちは力なく座り込み、その手から『選別』された武器を落とした。同じように魔力によって強化された武器を持ち、よく訓練された軍馬に乗っていても、埋めようもない実力の差というものを見せつけられたのだ。無力感と敗北感に打ちひしがれた声音が、血の匂いで淀んだ大気をぽつりと揺らしていった。
「……第一位階の、騎士。あれが」
 今だ明けない夜闇の中、戦神の愛し子である第一位階の騎士たちの姿は、強烈にすぎる印象を持って兵士たちの脳裏に焼きつけられた。




 この時、すでに騎士団の勝利は確定しており、反乱勢力の敗北は火を見るより明らかだった。
 それは覆しようのない事実だったが、戦場では時として、偶然としか呼びようのない何かが作用する。まさにこの時がそうであった。最終的な勝敗には影響がなくとも、レイター・セスティアル・フィアラートや、カイゼル・ジェスティ・ライザードでさえも予想していなかった事態が、トランジスタの外に展開していた騎士団の部隊に牙を剥いたのである。
「……っ、ウィルザス様!!」
「シオン、君は下がっていなさい! 弓に気をつけて!!」
 シオンは愕然と目を見張りつつも、周囲で慌しく動き始めた騎士たちの妨げにならないよう、急いで愛馬であるセレネの手綱を引いた。
 シオンはウィルザスと共に、負傷者の手当てや糧食の警護にために後方に展開している、支援部隊の直中に控えていた。安全とは言えないまでも、あくまでも支援と警護のための部隊であり、敵兵と直接交戦するような状況にはならないはずだった。だが、いくつかの偶然が重なり合った結果、その部隊までもが戦闘の濁流に飲み込まれることになってしまった。
 この戦で勝利することは不可能だ、と悟った反乱勢力の一部隊が、指揮官の命令も制止も振り切って戦線からの離脱を図ったのである。それは統率の取れた動きではなく、たとえるなら恐怖に駆られた子供が、何も考えず感情に任せて逃げ惑うのにも似ていた。皮肉なことに、だからこそ戦場の混乱と喧騒の中に紛れてしまい、騎士たちの包囲から転がり出るようにして外壁から突出して来たのだ。
 外壁の門近くに布陣した後方部隊を見て焦ったのか、それとも玉砕覚悟で騎士団に一矢報いようとしたのか、その部隊は逃走の勢いを保ったまま、警護の部隊へと猛攻をかけてきた。とたんに周囲は乱戦となり、悲鳴と怒号が未明の空に響き渡る。それはシオンが経験したことのない、命があまりにも簡単に奪われていく本物の戦場だった。
「セレネ、ここから……っ」
 離れて、という主人の言葉に忠実に従い、目の覚めるような白馬は踏み荒らされた大地を蹴った。とたんに襲ってくる振動に奥歯をかみ締め、シオンは懸命に片手で手綱を取りながら、腰に下げられているはずのそれに手を伸ばす。長くも短くもない、だが一目で底知れない殺傷能力を秘めていると知れる美しい中剣。慣れない感触の柄をしっかりと握り、一息に剣帯に吊るした鞘から刀身を抜き放った。
「……!」
 それを握り直す暇もなく、シオンは何かに引かれるようにして右手を掲げていた。ギィンという音と共に衝撃が走り、自分の手にした中剣が相手の剣を受け止めたのだ、ということを知る。目線を上げると、甲冑に身を包んだ男が間近で剣を構え、異様な光を湛えた目でシオンを見下ろしていた。そこにあるのは明確な殺気だ。
「ちょ……待っ……」
 自分でも何を言っているのかわからないまま、シオンは無我夢中で相手の切っ先を弾くと、セレネの首にしがみつくようにして身を沈めた。唸りを上げて剣が頭上を走っていき、髪が数本引きちぎられる感触に息が詰まる。そのまま体を起こして、そちらの方を見もせずに唯一の武器を横に振り抜いたのは、シオンの意志というよりも条件反射のようなものだった。
 金属同士がぶつかり合う高い音が響き、シオンの右手に重い衝撃と痛みが走った。シオンの振るった剣が甲冑に当たって、体勢を崩した敵兵が騎馬から転がり落ちたのだ。だがシオンに、それを確かめている余裕も時間もありはしなかった。
(……どうしよう、死ぬ、かも……っ!)
 片手で必死に手綱を操り、シオンは荒い息を吐きながら背後を見返った。すでにウィルザスの姿は見えなくなっている。とにかくここから離れなければ、と前に視線を戻して、敵兵の少ない場所を探そうと瞳をめぐらせた、まさにその瞬間のことだった。
 言い知れない寒気がシオンの背筋を走り抜け、大きく見開いた碧色の双眸に、火を灯して飛来する矢が映ったのは。
 シオンの脳裏を駆け巡ったのは、逃げなければならない、という強迫観念にも似た思いと、逃げてはいけないという理性による認識だった。火矢の狙いはただ一つ、エルカベル騎士団の糧食を焼き払い、彼らの補給線を絶つことだ。一万以上の兵を抱える軍隊にとって、糧食を失うことは計り知れない痛手となってしまう。自分でもなぜだかわからないまま、シオンはそれを悟った。だからこそ、金縛りにあったようにその場から動くことができなかった。
「―――――っ!!」
 ドン、という突き飛ばされたような衝撃を感じ、次いで右肩にすさまじいまでの熱が弾けた。
 そして次の瞬間、世界を押し包んだのは澄明に透きとおった、魔力を帯びない銀色の輝きだった。




「……ここまで」
 くすり、と零された微笑の気配と共に、性別を感じさせないひそやかな声が闇に響いた。今まで幾度も綴られ、そのたびに未来を手繰り、あるいは過去を呼び寄せてきた『番人』の言葉だ。
 淡い銀の光が降りしきる闇の中、番人はゆったりと浮かべた微笑を深くする。
「ここまでだ、我がこの手で手繰り寄せ得る、我が王の望まれた祈りの欠片は。……ああ、されど」
 すいと伸ばされた手のひらに、音もなく星のような輝きが落ちた。一瞬で弾けて消えるそれを見遣って、闇よりもなお暗い、光の射さない闇夜のような双眸が細められる。
 どこか哀しげに。
 そして、寂しげに。
「されど、彼の鍵が傷つくのは我が王の本意ではあるまいよ。たとえやがては寄する未来、繰り返される永劫の連鎖であろうとも、王の御心は何よりもお優しくていらっしゃるゆえ」
 静かに首を振って、黒衣の番人は漆黒の眼差しを虚空に放った。ひっそりと光を湛える白い扉の上に、陽炎のような淡い揺らめきが立ち上り、絡み合いながらいくつもの像を結ぶ。
 肩を抑えながら白馬の背から転がり落ち、世界に銀色の光を爆発させた薄茶色の髪の少年。長い亜麻色の髪に宝石のような琥珀の瞳の、美しいドレスに身を包んだ華奢な少女。剣を振るって戦場を駆け、数え切れないほどの傷を負いながらも不敵に笑う、黒髪に黒い瞳の精悍な青年。金色の髪をなびかせて天へと歌を奏でる、凄艶な美女。それらがくるくると入れ替わり、目まぐるしく回転し、目に痛くない程度の柔らかい光を散らしていた。
 番人はうっとりと微笑むと、抱きしめるようにしてその映像に手を伸ばした。
「さあ始めよう。血の色をした伝説を、戦で綴られる歴史を。絶鳴と剣戟は楽団の音色、飛び散る鮮血は舞台を飾る垂れ幕。……けれどそれゆえに、道程は何よりも眩く輝くだろう。行くつく場所は価値ある高みだろう」
 狭間と呼ばれる闇の下に、歌を思わせる声が響いていく。
「だからこそ、次は知るといい、小さな鍵よ。王が汝に望んだ責務を。祈りの贄に選ばれた、その不幸と幸福を。我はそれに手を貸そう。それもまた、王が我に望まれた何よりの役目なれば」
 誰にともなくそう呟いて、番人は黒衣に包まれた白い腕を振った。浮かんでいた映像がぱっと弾けて消えるのを、薄く笑みを滲ませたままで見つめる。最後に映ったのは、一刀の下に敵を切り捨てた黒髪の青年だった。
「繰り返すために。そして終わらせるために……」
 闇を映した瞳を閉ざして、番人は一人、遠くから響いてくる旋律に耳を傾けた。


 出で給えかし
 出で給えかし
 遥か いずこより 神はぶる歌は響いて

 幸え給え
 幸え給え
 永久なるかむよごとを綴るだろう

 出で給えかし
 出で給えかし
 ああ貴なる君よ
 時は繰り返す 鍵は目覚められた

 幸え給え
 幸え給え
 時は繰り返す 神代の時は歴史を刻んだ

 
「……どうか贖罪の贄に、あたう限りの祝福を」






    



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