10 落日の凱歌


 


 後に、公式文書では『トランジスタ包囲戦』と呼ばれるその反乱は、実際の戦闘は一晩足らずで終結し、エルカベル騎士団とカイゼル・ジェスティ・ライザードの名をさらに高めただけの結果に終わった。
 反乱勢力の総数は約一万二千、それに対する騎士団は約一万五千。一方で、反乱勢力が約五千もの死者数を出したのに対し、騎士団は負傷者を合わせても八百人程度の損失しか出さなかった。考えてみればそれも当然で、重要な交易都市とはいえたかが地方反乱の制圧に、帝国最高の十三将と呼ばれる第一位階の騎士が六人も従ったのだ。それを率いてカイゼルが出陣した時点で、すでに反乱は制圧されたも同然だった。
 それでも、後々この戦が重大なものとして語られるのは、帝国側が反乱勢力に武器と情報を流していたのが明るみに出たからだ。騎士団の報告を受け、軍務省や国務省などは内通者の捜索に取りかかったというが、カイゼルはそれで裏切り者が発覚するとは思っていない。彼にしろ、セスティアルにしろ、反乱を裏で操っていた人物に心当たりがあったからだ。そして、それが外れていないという絶対の確信も。
「我が君。帝国への報告、および反乱勢力の首謀者の身柄の護送、終了いたしました。負傷者の砦への運び込みはまだ続いていますが、それも陽が落ちるまでには片づくかと」
「そうか」
「はい。それからシオンですが、傷の方は大事ありません。疲れのためか今は眠っていますが、じきに目が覚めるでしょう」
 夜が明ける前に戦闘は終結したが、その後の事後処理や負傷者の手当て、生き残った敵軍から武器や甲冑を押収する作業など、騎士団にはやらねばならぬことが山積だった。それらがあらかた片づいた今は、東の空からせり出してきた太陽も中天を行きすぎ、再び西の地平に沈んでいく準備をしている。明度を落とし始めた光を頬に受け、ジェリーレティアの回廊を歩きながら、セスティアルは隣を歩く主君を仰ぎ見た。銀青の瞳がふいに細められる。
「……ですがやはり、シオンには魔術が効きにくいようです。初めて会った時もそうでしたが、シオンは治癒の魔力を拒むことはありません。効きにくいだけで、その力を消し去ってしまうことはない……恐らく、シオンのあの『力』は自己防衛のためのものなのでしょう」
 セスティアルの静かな声音に、カイゼルは深い青の双眸をすっと眇めた。
「つまり、あいつを魔力で傷つけることだけは出来ない。だが、自分に敵意を持たない魔力ならば拒むことはないと。そういうことだな、セス?」
「御意」
「俺やお前の魔力が完全に消し去られなかったのも、あいつが無意識のうちに敵を判別し、己を傷つけるものだけを駆除しようとした結果か」
「恐らくは」
 セスティアルの声は控えめだったが、そこに宿っているのは確信だった。カイゼルは誰よりも忠実な腹心を見下ろすと、ややあって口元に鋭い微笑を閃かせる。
「やはり使えるな。面白い」
 誰にともなくそう呟いて、カイゼルは低く笑い声を響かせた。
 やがて長く真っ直ぐだった回廊が終わると、セスティアルは恭しく礼をして足を止めた。カイゼルは総督が執務室として使っていた部屋に向かい、セスティアルは他の騎士たちと共にいくつかの事後処理にあたらなければならない。さらさらと黒髪を流して一礼する美貌の魔術師に、カイゼルは笑みたたえたままで鋭利な眼差しを向けた。
「セス。後でカズイの馬鹿に言っておけ。俺はお前の『報告』を楽しみにしている、とな」
「御意に、我が君」
 セスティアルは花が綻ぶような微笑を浮かべ、緋色のマント翻して遠ざかっていく後姿にもう一度礼をした。ふんわりと風が吹きすぎ、彼のまとった紫色のマントをゆるくなびかせる。ふと、そこに梢の音ではない響きが混ざったような気がして、セスティアルは回廊と一続きになっている庭園に視線を放った。
 

 「許して」と風に告げても
 あなたはもう 遥か遠く


 風の中にひっそりと溶けるようにして、抑えられた声が歌を奏でていた。
 その声は低く穏やかだったが、響きは男性のものではなく女性のものだった。ゆっくりと巡らせた銀青の双眸に、大気の流れに散った黒髪と紫のマントが映る。


 血まみれの手を伸ばしても
 過ぎた日々は 帰らなくて

 崩れ落ち 泣き続けたら
 恋しいと 歌だけが綴った
 
 「許して」と風に告げても
 胸で願う どうか 許さないで……


「……セスティアル卿?」
 穏やかだった歌声がふいに途切れ、代わりに訝しげな女性の声が響いた。木の幹にもたれて歌っていた黒髪の女騎士が、翠玉色の瞳を軽く見張ってこちらを見ている。セスティアルは淡く微笑むと、優雅な足取りで庭園に歩を進めた。
「死した者への鎮魂歌ですか、エステラ?」
「いや」
 エステラもうっすらと笑い、同僚の言葉に頭を振った。
「そのように感傷的なものではない。ただ血なまぐさい戦場には、このように稚拙な歌が似合うだろう。そう思って意味もなく歌っていただけだ。―――――耳汚しであったな、許せ」
「――――別に構わないのですが、エステラ」
 セスティアルは一つ肩をすくめると、エステラの隣に並びながら小さく苦笑した。首を傾げてみせる女騎士へ、青みがかった銀色の瞳を柔らかく和ませる。
「随分と他人行儀ですね。スティルヴィーアの中や軍議の最中では当然ですが、いつまでも卿、などと畏まって呼ばれては困ってしまいます。何やらよそよそしくてつまらないでしょう?」
「それもそうか、セス」
 セスティアルの悪戯っぽい言葉を受けて、エステラは大らかに笑いながらその肩を叩いた。エステリア・ウィルス・クローバーとレイター・セスティアル・フィアラートは、第一位階の騎士に叙任される前からの旧友である。気安い空気の中に親しみと込め、二人はどちらからともなく笑いあった。
 やがて笑いを収めると、エステラは風に黒髪を流してレイターの青年を見上げた。笑みを浮かべていた翠玉の瞳に鋭さが戻り、騎士としても真剣な表情が整った面差しに浮かぶ。
「それで、セス?」
「はい」
「さっきのあれは……何だ?」
 セスティアルも静かにエステラを見つめた。何がですが、などと聞き返すことはしない。ただ月夜を思わせる双眸を緩やかに伏せて、周囲を過ぎていく風に長い黒髪を流しただけだ。
「そうですね。他の騎士たちにも説明しなければなりませんし……事情を、お教えしましょうか」
 笑みの名残を完全に消し去った声音に、エステラはゆっくりと頷いた。




 部下の騎士に労いと新たな命を与え、厩舎に寄ってから広間に足を踏み入れたカズイ・レン・ヒューガは、壁にもたれかかった黒ずくめの影を認めて思い切り眉を寄せた。
「……げっ」
「カズイちゃん、げっとか言わないの! 失礼でしょう!? それに、今回のことはカズイちゃんの責任なんだから」
 もう、とばかりに頬を膨らませる少女に青い瞳を向け、カズイは黒衣の騎士を指差しながら憤然と抗議した。
「おいエレア、確かに今回の反乱は俺の責任かもしれないけどな、だからと言って俺がこいつと仲良くしなきゃならない理由にはならないだろ! お前、こいつが今までどんなに……っ」
「はいはいはい、いいからお礼言いましょうね、カズイちゃん。セスティアル様とか、他の統率者の人たちにも助けてもらったでしょう?」
「……」
 まるで保護者のような言いようだが、反論の余地なく正論である。カズイはぐっと詰まったが、大人気なく少女を怒鳴りつけるようなことはしなかった。脇に下ろした拳を強く握り締め、まるで親の仇を見つめるように黒ずくめの騎士、ディライト・ヴェル・シルファを見下ろす。そのまま靴音を大きく立てながら小柄な影に歩み寄った。
「――――おい」
 その声に、ヴェルは答えを返すどころか視線さえ上げなかった。カズイはきりきりと眉を吊り上げたが、何度か深く呼吸を繰り返し、腹立だしいことこの上ない同僚を睨みつける。
「……今回は、悪かったな」
 絞り出すようなカズイの声が耳障りだったのか、ようやくヴェルは伏せていた顔を上げると、茶色の髪に青い瞳を持った長身の騎士を見上げた。カズイの気のせいでなければ、その無表情に浮かんでいるのは無機物を見遣るような冷ややかさだ。やがて唇を笑みの形に吊り上げると、帝国最大の剣士は壁から背を離し、胸の前で腕を組みながら小さく言い捨てた。
「何だ、いたのか」
「……っ!!」
「カズイちゃん、だめ! だめだめだめ、ディライトに向かっていっても勝てるわけないから! カズイちゃんは魔力も弱いんだから!! 落ち着いてってば、ほら、ねっ!?」
 反射的に剣を抜こうとしたカズイを、エレアが背後から腰に飛びついて必死に制止した。
 騒がしい二人に冷笑を叩きつけると、ヴェルは紫のマントを翻してさっさと踵を返した。マントはところどころ黒ずみ、そこに飛び散った返り血を禍々しく浮かび上がらせている。カズイはそれに射殺さんばかりの視線を放ったが、ヴェルは振り返りさえしなかった。どちらかというと小柄なその背に、ふいにぬっと影が落ちたのはその時だった。
「よーうヴェル、カズイ。またお前らケンカしてんのか? ちっとは仲良くしろよ、十三人しかいない第一位階の騎士同士なんだからよ」
「グラウド!?」
 晴れた日の空のような瞳を見張って、カズイは広間に現れた大男を見遣った。短く刈り込んだ茶色の髪に、人懐こい夜空色の瞳を持った偉丈夫は、カズイとエレアにひらひらと片手を振ってみせる。そのマントや頬も血と泥で汚れていたが、ヴェルのような凶悪さが感じられないのは、精悍な顔に浮かべたガキ大将のような表情ゆえだろう。無精ひげに覆われた顎を無造作に撫でながら、グラウド・クロスファディは大股に同僚に歩み寄った。
「久しぶりだな、カズイ。エレアちゃんもますます別嬪になったなぁ、むさ苦しいのばっかり見てたから目の保養だぜ、なぁ?」
「え、そんな……」
「そうか?」
 エレアはぽっと頬を赤らめたが、隣に立ってカズイが軽く眉を寄せながら首を捻ったのを見て、すばらしい速度でその鳩尾に肘を埋めて見せた。「うぐっ!?」と呻き声を上げて体を折る上司を押しのけ、栗色の巻き毛を揺らして愛らしく微笑む。
「グラウド様もお疲れ様です。もう、カズイちゃ……司令官にも、少しはグラウド様やヴェル様を見習ってほしいです。さっきも、助けてもらったっていうのにヴェル様に突っかかっちゃって……」
 まったく子供なんだから、と溜息を吐く少女に、グラウドは心から楽しそうに笑い声を立てた。
「気にすんなよ、こいつはこの通り、他人なんか路傍の石程度しか思ってねえ冷血漢だからな。ヴェルのヤツが認識してんのなんざ、多分団長とセスくらいのもんだろ」
 本人の目の前にしてはっきりと物を言っても、グラウドの場合はそれが陰湿に聞こえないから不思議である。にやにやと口の端に笑みを滲ませたまま、腹の部分をさすってこちらに背を向け、ぶつぶつと何かを呟きながらいじけているカズイの背を力いっぱい叩いた。
「で……っ!!」
「いつまでも女の尻に敷かれてんなよ、カズイ! そんなんじゃ将来苦労すんぞ、お前。なぁ……」 
 同意を求めるように見返ったグラウドの瞳は、そこにいるはずの黒衣の騎士の姿を見つけられず、軽く見開かれた。馬鹿騒ぎに嫌気がさしたのか、あるいはこちらのことなど気にも留めていないのか、ヴェルは気配も感じさせずに広間から出て行ったようだ。やれやれと肩をくすめ、グラウドは開けっ放しにされたままの扉に夜空色の向けた。
「相っ変わらず協調性のないヤツ。――――ってまあいいか、俺もそんなことを言いに来たわけじゃねえしな」
「じゃあ何しに来たんだよ、お前……」
 じとりと青い目を据わらせて見上げてくる同僚に、グラウドはポンと手を打ちながら「ああ」と声を漏らした。
「そうそう、俺はお前らを呼びに来たんだよ。セスとエステラにそこで会ってな、他の騎士たちを呼んで来いだと。……さっきのアレの、説明をしてくれるそうだ」
 その声を聞いた瞬間、カズイの表情がすっと引き締まり、エレアも琥珀色の瞳を大きく見張った。アレ、というのが何を指すかなど、彼らにとっては確認するまでもないことだ。カズイは一つ頷くと、先に立って歩き始めたグラウドの後に続いて足を踏み出した。






    


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