11 神話の王の子守唄


 


 柔らかい、降り積もるような闇が広がっていた。
 そこは確かに夜を思わせる闇なのに、周囲に満ちているのは漆黒ではない。自分の手さえ見えないような、冷たく塗りつぶされた暗がりでもない。どこまでも透明に青く透ける大気と、絶え間なく降り注ぐ銀の粉雪が照らす空間だった。
 舞い落ちてくる銀の光を見つめ、『シオン』はひどく安らいだ気分で息を吐き出した。細かな光はいつまでもいつまでも降りしきり、闇の底に吸い込まれては消えていく。そこへまた新たな光が生まれ、闇を淡く透かしてふわりと揺れる。とても懐かしい光景だった。どこで見たのか、いつ見たのかはまるで思い出させなかったが、胸をつくような郷愁と安堵を感じさせる輝きだ。
 銀の輝きに髪をなぶらせながら、『シオン』はふと、伏せていた瞳を遠くへ放った。
(歌が、聞こえる)
 青い闇の彼方から、単調な旋律の歌声が聞こえた。緩やかに舞い上がる子守唄。銀の輝きに彩られた音色。そんな心地よい音に口元を綻ばせた時、ふいに降り続ける銀色の光たちが揺らいだ。何だろう、とゆっくりした動作で首をめぐらせ、果てのない闇の向こうへ目を凝らす。降っているのか、それとも天へと上っているのか、それさえもわからなくなってくるいくつもの光を挟み、淡く浮かび上がる人影が佇んでいた。初めからそこにいたような、あまりにも当たり前すぎる空気を滲ませて。
 『シオン』は口元に心から笑みを浮かべると、悠然とした足取りで闇の上を歩き出した。上も下も判然としない空間の中、『シオン』の無骨な黒い靴はしっかりと足元を踏みしめている。まるで硝子張りの床を歩いているようだったが、その靴裏はわずかに足音を立てなかった。ほんの数歩でその人の前にたどり着き、『シオン』はもう一度笑ってからその場に膝をついた。
 そこにいたのが、彼の唯一にして絶対の主君だったからだ。辺りは青い闇と銀の光だけで埋め尽くされ、すぐ前に立つその人の姿さえ朧にしていたが、当然のこととして『シオン』にはわかった。初めから知っていた、と言った方が正しいかもしれない。限りない親しみと敬愛を込め、『シオン』は穏やかに瞳を細めながらその人の名を呼んだ。
「――――シェディ」
 カイゼル様、と、いつものように呼んだつもりだった。だが、唇は勝手に違う音を綴っていた。
 自らの口から滑り出た言葉に、『シオン』は愕然と目を見開いた。だが、『シオン』の意志とはまるで関係なく、体は力強い笑みを浮かべたままで再度呼びかけを口にする。前に立つ人影に向かい、シェディ、と。
 聞いたこともない名前だった。何より、それは『シオン』が仕えるただ一人の主の名ではなかった。その事実に狼狽し、何とかこの場から離れようともがくのに、体は『シオン』の思う通りには動いてくれない。それどころか『シオン』はゆっくりと立ち上がり、光をまとったその人に向かって右手を伸ばすと、自分よりも大分低い位置にある頭をくしゃりと撫でた。柔らかなその感触と、主君の頭を撫でるという己の行動にさらに驚く。驚いているというのに、口元はただ優しい笑みを浮かべただけだった。
「シェディ。俺の主君。俺の、ただ一人の皇帝。どうした? また、何か怖い夢でも見たのか」
 すらすらと口をついて出る言葉は、限りない愛情と柔らかさに満ちた響きを持っていた。低く、耳に快い余韻を残す声音。低くも高くもない『シオン』の声とは違うものだ。『シオン』はますます混乱したが、やはり体は勝手に動き、眼前に立つ人の顔を覗き込むようにして屈んでいた。
 瞳が、ふわりと細められる。
「シェディ?」
「――――……」
 初めて、光の中のその人が口を開いた。だが、その場に響いた音はあまりにも小さく、音を成さないままに霧散してしまう。それがなぜか哀しくて、『シオン』はゆるく首を傾げた。正確に言うならば『シオン』ではない、この小柄な人影に絶対の忠誠と親愛を捧げている『誰か』の意識だ。
「シェディ。我が君。どうした?」
 その優しい、染み入るような声音に助けられたのか、目の前の人物がもう一度口を開いた。
「……ないのか」
「ん?」
 小さく苦笑して首を傾けると、その人は苛立ったように何度か首を振った。
「だから。帰りたくは、ないのか? 帰れるかもしれないのに。いつか、帰ることが出来るかもしれないのに。……それなのに、お前はいいのか?」
「何だ、そんなことか」
 困惑する『シオン』をよそに、『誰か』の意識はふわりと優しく苦笑した。頭を撫でていた手を離し、黒い武装に包まれた広い肩をすくめる。鮮やかな緋色のマントが闇に翻った。
「いいんだ、シェディ」
 響いた『誰か』の声は、『シオン』が思わず目を見張りたくなるほどに深く、大きな慈しみに満ちたものだった。
「いいんだ。シェディ。我が皇帝、我が君。覇者の王冠を戴く王。俺がお前を選んだんだから」
「……」
「誰かが俺を選んで、ここに連れてきたのかもしれない。お前を守るために、俺が選ばれたのかもしれない。だがな、シェディ」
 本当に小さく、前に立った人の肩が揺れたように見えた。
「俺が、お前を選んだ。お前だけが俺の主、唯一無二の皇帝だ。だから俺はここに帰る。何があっても、もしも元いた場所に帰れるとしても……たとえ死んだとしても。俺はお前の傍らに帰る。頼むからそれを忘れないでくれ、シェディ」
 『シオン』はじっと息をひそめてその言葉を聞いていた。自分の口から紡がれているというのに、まったく違う人物が喋っているようにしか聞こえない。何より、宝物を守る子供のように「シェディ」と繰り返す『誰か』の口調に、『シオン』は胸が痛むのを感じずにはいられなかった。
 やがて、光に包まれたその人は静かに『シオン』を見上げた。実際は彼と体を共有する『誰か』を見たのだが、『シオン』は目が合ったように感じて瞳を見開く。そこにいたのは、陽射しに照らし出された稲穂を思わせる黄金の髪に、周囲の闇とよく似た濃い青の瞳の、『シオン』よりずっと幼い少年だった。
 固く引き結ばれていた唇を綻ばせると、少年は静かに息を吸い込んで唇を開いた。
 銀色の光をまとわせながら、『シオン』ではない『誰か』を必死に見つめ、たった一つだけ言葉を綴る。
「――――ジン」




 意識がゆるゆると螺旋を描き、夢の底から現実へと引っ張り上げられた。固く閉じていた瞼に光が透け、その眩しさに思わず眉根を寄せる。鉛のように重い腕を反射的にかざし、両目を庇いながらひどく緩慢に瞼を持ち上げると、淡い光に照らし出された天井が見えた。
「……え、と?」
 薄く茶色がかった白い天井は、シオンの記憶にないものではなかった。どこで見たんだろう、とまだ曖昧な頭を働かせ、すぐに眠りに落ちる前に通された部屋だと思い出す。そろそろと体を動かして上半身を起こしてみると、右の肩口に引き攣れるような痛みが走った。
「いっ……!」
 思わず涙目になって体を折り、その痛みによって記憶が勢いよく舞い戻ってきた。
 セスティアルによって肩の矢傷をふさがれ、要塞ジェリーレティアの中に運び込まれたのが夕暮れ前のこと。一時的に兵士用の個室を与えられ、しばらく休んでいるように言われた後、この簡素な寝台の上で眠り込んでしまったらしい。眩しいと感じた光は燭台の明かりで、実際は目に痛くない程度の柔らかな光だった。右の肩を片手で抑えつつ、シオンは恥ずかしさのあまり赤面した。仮にも大将軍の侍従ともあろうものが、他の騎士たちが忙しく働いている中で眠りこけていたのだ。
「どうしよう、何か仕事、仕事をもらわないと……っ」
 慌てて寝台から降り立ち、ふと気づいたように夜着の襟を開いて傷口を確かめてみた。骨にまで達するほどの深い傷だったが、そこにはすでに新しい皮膚が盛り上がり、治りかけの証であるかさぶたを作っている。先ほどは急に動いたために痛んだだけで、この分なら活動するのに支障はないだろう。
 シオンは一つ頷くと、寝台の下に揃えられていた部屋履きを足につっかけ、視線をめぐらせて着替えを探した。だが、椅子の背もたれにかけられた侍従の白いマントしか見つけられず、仕方なくそれを手にとって肩から羽織る。伸びてきた薄茶色の髪を手櫛で整えながら、シオンは先ほどまでの夢を思い出して首を傾げた。
 自分の意識が別の誰かの体に入り込み、その行動を客観的に見つめているという、あまりにも不思議な夢だった。シオンという意識は確かに存在しているのに、その体と心はまったくの別人のものだったのだ。シオンよりもずっと低い男性の声に、明らかに武人であると確信できる大柄な体躯。まとっていた緋色のマント。視界に映ったのは見慣れた薄い茶髪ではなく、黒炭を溶かしたような純粋な黒髪だったように思う。
 そして何より、黄金の髪に濃い青の瞳を持っていた少年の、胸が痛くなるほど真摯な眼差しが頭から離れなかった。
「シェディ……って、誰だろう」
 首を捻ったままで呟き、シオンは傷跡に障らないよう注意しながら歩き始めた。カイゼルを直接探しては邪魔になるかもしれないから、第三位階の騎士辺りかウィルザス様を探そう、と心に決め、さして大きくもない木製の扉に手をかける。取っ手の部分を捻って軽く押すと、室内よりは明度の抑えられた広い廊下が見えた。
 その瞬間のことだった。
「何だ、どこへ行くつもりだ、シオン?」
「――――っ!?」
 聞きなれた低く通りの良い声が聞こえ、シオンは文字通り飛び上がるようにして顔を上げた。その拍子に右肩が痛んだが、それさえも気にならないほどの驚きに碧の目を見開く。
 そこに立っていたのは、焔を思わせる榛色の髪に深青の双眸を持った、シオンが仕えるべき主君の青年だった。
「カイゼル様……っ!?」
「あ? 人がせっかく様子を身に来てやったって言うのに、何だその顔は。何か文句でもあるのか」
「いえ、あの――――えぇっ!?」
 驚愕のあまり言語中枢が仕事を放棄してしまったのか、シオンは目を見張ったままで素っ頓狂な声を上げた。その驚きももっともで、カイゼルの手には銀製の盆が乗っており、その上に鎮座しているカップからは芳しい香りが漂っているである。呆然とした面持ちのまま、声もなく固まる侍従に眉を寄せ、カイゼルは顎をしゃくってシオンが出てきたばかりの部屋を指し示した。
「どうでもいいが、部屋に戻れ。あまりうろつくな、はっきり言って邪魔だ」
「……」
 そう言われてしまえば、シオンに逆らうことなど出来るはずもない。とっとと部屋の中に入って行ってしまった主君に続き、シオンも従順に扉をくぐった。
「座れ」
 音を立てないように扉を閉めると、さも当然のような仕草でカイゼルに寝台を指さされ、シオンはこれ以上なく慌てた。
「いえそんな、座らなくても大丈夫です!」
 ぶんぶんと音がしそうな勢いで首を振るシオンに、カイゼルはほう、と意地悪く唇の端を歪めた。自分はさっさと一つだけ置かれていた椅子に座り、立ったままのシオンを面白げに見つめている。
「たかが矢に射られた程度で死にかけ、セスの治療が終わってから倒れるように眠り込んだ挙句、今も死人のような真っ青な顔色を晒しておいて、それでも立ったままで大丈夫だと? それは重畳、丈夫な侍従を持って嬉しい限りだな」
「……申し訳ございません、座らせていただきます」
 内心で滂沱と涙を流しながら、シオンは素直に寝台へ歩み寄り、かけ布を整えてから遠慮がちに腰を下ろした。それを見て満足げに笑うと、カイゼルは卓の上に置いた盆からカップを取り上げ、無造作にシオンに向かって突き出した。
「香草茶でいいな?」
「え? あ、えっと……」
「いいのか悪いのか、どっちだ?」
 途端に深い青の瞳が剣呑な光を帯び、シオンは急いで「いただきます!!」と頭を下げた。受け取ったカップに口をつけ、透きとおった緑色の液体を喉に流し込む。味は濃く淹れた緑茶に似ていて、やや強めの苦味が舌を刺激した。それでも表情を一切変えず、ほとんど一息にそれを飲み込むと、冷えていた体の底がじんわりと温まるのを感じた。
 ほっと小さく息をつき、シオンは空になったカップを握り締めながらカイゼルを伺った。
「あの、カイゼル様」
「何だ」
「すみませんでした、ご迷惑をおかけして……」
「いちいち気にするな、鬱陶しい。いつものことだろうが」
「……すみません」
 あっさりと返され、シオンはひたすら小さくなって謝罪するしかなかった。だが、当のカイゼルは興味がないと言わんばかりに眉をひそめ、シオンの謝罪を断ち切ってしまう。シオンとしては身の置き所がなかったが、カイゼルが少しでも自分を案じ、様子を見に来てくれたのだと思うと嬉しかった。
 あるいはだからだろうか。先ほど見た夢について、カイゼルに問いかけてみようと思ったのは。
「カイゼル様、その、すごくくだらない話かもしれないんですけど」
 お尋ねしても構いませんか、と低姿勢で切り出したシオンに、カイゼルは小さく眉を上げた。
「めずらしいな、お前の方から俺に話があるとは」
「そ、そうでしょうか……?」
「だからいちいち縮こまるな。……俺も暇じゃないからな、話すならさっさとしろ。聞いてやる」
 突き放すような口調でありながら、カイゼルの言葉はどこか優しかった。それに心から安堵して、シオンは一つ一つ記憶を辿りながら口を開いた。






    


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