12 十字架上に誓う言葉


 


「さっきまで、夢を見ていました」
「夢?」
「はい、何だか妙な、不思議な夢を見たんです」
 カーテンの隙間から零れる光は、夕暮れ時を示す赤から淡い藍色へと変わり始め、夜が忍び寄って来つつあることを教えていた。
 前後不覚に眠りこけていたと思ったが、そこまで長い時間が経ったわけではないらしい。そのことにほっとしながら、シオンは慎重に言葉を続けた。
「気がついたら、上も下もないような暗い……でもすごく綺麗な場所にいて。銀色の光がたくんさん降ってたんですけど、そこで、いつの間にか誰かが目の前に立ってたんです」
 中身の入っていないカップの底を見つめて、シオンはそこで一つ息を吐いた。カイゼルは急かすわけでもなく、悠然と腕を組んで彼の言葉を聞いている。わかりやすく話さなければ、という義務感のようにものに捕らわれつつ、シオンは何とか視線を持ち上げて主君である青年を見つめた。
「それで、僕がその人の前に跪いて、その人に向かってシェディって呼んだんです」
「――――ほぅ?」
「はい、それで……って、え?」
 カイゼルの声音がすっと低さを増したことに気づき、シオンの顔から勢いよく血の気が引いた。
「ちちち違うんです!! あの、僕が自分の意思でその人に向かって膝をついたわけじゃなくてっ! 確かに僕の意識があったんですけど、声とか体とかも僕のじゃなかったんです!! 本当です、僕はカイゼル様以外の人に跪いたりは……っ」
 混乱のあまり言っている内容が滅茶苦茶だったが、シオンは必死になって言い募った。かつてカイゼルと共に皇宮に伺候した際、きっぱりと言われていた言葉を思い出したのだ。俺以外の誰にも膝をつく必要はない、と。だからこそ青くなって慌てるシオンに、カイゼルは軽く呆れたような表情を過ぎらせた。そのまま指先をたわめ、びしりと音を立ててシオンの額を弾く。
「うるさい。とりあえず、落ち着け。……まあいい、それがお前の意志じゃないってことは信じてやる。で?」
「あ、ありがとうございます……」
 弾かれて赤くなった額を押さえながら、シオンは大きく安堵の息を吐いた。
「あの、それで、僕が……じゃなくて、僕の意識が入り込んでしまった体の持ち主が、『シェディ』って呼んだ人なんですけど。金色の髪に濃い青の目の男の子で、僕よりは幼い感じでした。その人に向かって、僕じゃない誰かが何度も呼んでいたんです。『我が皇帝、我が君』って」
 そこで初めて、カイゼルの深い青の双眸に興味の色が過ぎった。
「我が皇帝、我が君だと?」
「はい、『俺の、たった一人の主君』って呼んでいました。――――あ、僕が呼んだわけじゃありませんからっ」
「当然だ、お前の主君は俺だろうが」
「はい、もちろんです!!」
 あっさりとしたカイゼルの答えに、シオンは首が取れるのではないか、というほどの勢いで頷いた。カイゼルの言葉を嬉しく感じてしまうあたり、すでに現代日本の高校生の思考ではなくなりつつある。それに気づくことはなく、シオンは碧の瞳で遠慮がちにカイゼルを見上げた。
「ただの夢かも、とも思ったんですけど。でもここに来てから変な夢ばかり見ますし、何かあるのかな、と……」
「――――」
 シオンの言葉には答えず、カイゼルは顎に片手を添えて何かを考えているようだった。カーテンの隙間から最後の光が降りしきり、無造作に括られた長い髪を焔色に波立たせている。夢の中の少年も美しかったが、やはりシオンの主君は戦の神を思わせるこの青年だけだ。そんなことを思い、じっと息をひそめて言葉を待つシオンに、帝国最高の大将軍は口元に笑みを閃かせた。
「なるほどな」
「……え?」
 何かわかったのだろうか、と首を傾げるシオンを見下ろして、カイゼルは小さく肩を震わせながら笑い声を立てた。
「お前は本当に面白いな、さすがは異界からやって来た切り札、ということか」
「……」
「馬鹿みたいな顔で呆けるな。妙な夢についてはそのうちわかる、今はお前が気にする必要はない」
「……はい」
 完全に納得したわけではなかったが、シオンは素直に主君の言葉を受け入れた。頷く少年を見てもう一度笑うと、カイゼルは惚れ惚れするような動作で椅子から立ち上がり、厚いカーテンの引かれた窓辺に歩み寄る。シャッという音と共にカーテンが押し開かれ、ゆるやかに沈んでいこうとする太陽の残照が飛び込んできた。藍色を帯びた朱色の光を受けながら、夕陽に似た色の髪を持つ青年は首だけでシオンを振り返った。
「それで、お前はわかったのか?」
「え?」
「お前は自分の『力』を自覚できたのか、と聞いたんだ、シオン」
 カイゼルの言葉を耳にした瞬間、反射的にシオンの背筋が伸びた。
「……何となく、ですが」
「セスも言っていたがな、お前の力は自己防衛本能のようなものらしい。それも魔力にしか反応しない、完全な反撃型のな。今回も魔力によって灯された火矢を受けて、その瞬間に力が発動したんだろう」
 お前が魔力を一切持たないためだろうが、と鋭く瞳を細め、カイゼルは窓枠に長身をもたれかけさせた。シオンが出て行った時に勝手に消えた明かりが、室内の光が薄れていくにつれて再び灯り始める。シオンは寝台の上に腰かけたまま、困惑した視線をカイゼルに向けていた。
 肩に矢を受けた時に爆発し、周囲を包み込んでいった銀色の光と、恐怖の叫びを上げてうずくまってしまった多くの兵士たち。傷の痛みに体を折りながらも、その現象をもたらしたのは自分らしい、ということだけはかろうじてわかった。だが、それがなぜなのか、何の役に立つのかは理解の範疇を超えている。問いかけるようなシオンの眼差しに、カイゼルは腕を組みながら不敵に笑った。いつもと何ら変わらない、王者のような自信と覇気に満ちた表情で。
「お前のその力は役に立つ。俺の目的を達成するためにな」
 ガタガタ、と音を立てて窓硝子が震えた。外で強く風が吹いたためだろうか、まるで咎めるようなその音に、カイゼルは嘲るような表情を浮かべて見せただけだった。
「この反乱を裏で操っていたのは……いや、違うな。操りもせず、物資と情報を流して馬鹿共を踊らせていたのは、エルカベル帝国の皇帝、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアだ」
「――――え」
 世間話でもするような口調で告げられた言葉に、シオンは声もなく瞳を見開いた。小さく声を上げたまま、目を見開くことしかできなかった。それほどに突拍子もない言葉だったからだ。
 そんなシオンの様子とは対極に、カイゼルの表情は楽しんでいるようにしか見えなかった。
「皇帝の望みはただ一つ。この俺が、エルカベル帝国と神聖不可侵の皇帝に向かって弓引くことだ。ご丁寧に、ジェリーレティアの監督をこのまま俺に委ねるつもりらしいしな。わざわざ拠点を与えてくれるとはお優しいことだ」
「……帝国に、弓、引く?」
「ああ。何だ、まさか意味がわからないとかぬかすつもりか?」
「いえ、わかります! わかりますが……っ」
 何度も強く首を振り、シオンは呆然としてカイゼルの深青の双眸を見上げた。そこにたゆたう光は相変わらず鋭いもので、冗談や戯れを口にしているようには見えない。その言葉の意味を掴み損なわないよう、シオンは懸命に思考をめぐらせながら言葉を探した。
「……でも、なぜですか? 皇帝……陛下が、どうして自分の治世を揺るがすようなことをするんです? そんなことをしても何の利点もないんじゃ……」
「あの皇帝はな、停滞に倦んでいるんだよ」
 困惑に揺れるシオンの声を、どこか抽象的なカイゼルの言葉が断ち切った。
「玉座に座る皇帝という、自らの役割とそれをこなす自分自身に倦んでいる――――ありていに言ってしまえば退屈しているんだろうよ。仮面の被り心地の悪さに辟易し、停滞を破壊する何かを待ち焦がれている。俺や、お前のような存在をな」
「そんな……」
 カイゼルの言っている内容は理解できたが、納得できるかといえば話は別だ。シオンは思わず立ち上がり、右肩の痛みに眉を寄せながらも疑問を口にしていた。
「そんなことで、国の、頂点に立つ人が?」
「無論、他にも何か、俺には考えもつかん何かがあるかもしれないな。だがそれこそ、俺には何の関係のないことだ。ヤツが停滞を倦むなら壊してやるし、玉座を放り出したいなら手伝ってやる」
「……っ」
 傲然とシオンを見下ろしながら、カイゼルは当然のことを告げるようにして言葉を紡いだ。
 万が一外に漏れた場合、たとえカイゼルであろうと死を免れることができないだろう、重大極まる告白を。
「俺はエルカベル帝国を滅ぼし、大陸に新たな国家を作る。邪魔をする者は門閥家の貴族だろうと、皇帝本人であろうと排除するまでだ」
 要塞の外で、ゴゥッと音を立てて突風が吹きぬけていった。
 シオンは今度こそ絶句した。カイゼルの言葉はすなわち、エルカベル帝国と皇室に対する謀反の宣言だ。いくら侍従であるとはいえ、異世界から迷い込んだ得体の知れない少年相手に、世間話のような気軽さで口にしていいことではない。だが、カイゼルは唇の端で小さく笑うと、人差し指で無造作にシオンを招き、ごまかしをゆるさない深青の双眸をすっと眇めた。
「シオン、俺はお前に『これから何があっても俺に仕えるか?』と聞いたな」
「――――はい」
「それに対してお前は是と答えたが、どうだ? この話を聞いても、また同じ答えを返す覚悟があるか」
「……」
「当然、失敗すれば死罪は免れない重犯罪だ。失敗する気なんぞさらさらないがな。平穏無事に過ごすというわけにはいかなくなる。どうする、シオン? それでもお前は自分の意思で俺に仕えるか? 答えは数ヶ月前と変わらないか」
 主君の問いに対し、シオンはすぐに答えを返すことができなかった。答えが決まっていなかったわけではない。自分がどうすればいいのか、決めることができずに迷っていたわけでもない。だた、あまりの驚きと衝撃で頭が働かなかったのだ。
「……僕、は」
 だが、強すぎる驚きの波が去った後、残っていたのは決意とかすかな喜びだった。
 信頼されている、と思うのは増長かもしれないが、それでもシオンは嬉しいと感じたのだ。カイゼルの立場ならば、シオンには何も告げずに謀反に巻き込み、その力だけを利用することもできたはずだろう。たとえ形だけだったとしても、シオンの意志を尊重するつもりがなかったのだとしても、こうして選択権を与えられたことが嬉しかった。
 だからシオンは顔を上げ、窓辺に佇むカイゼルを真っ直ぐに見つめた。一つ息を吸い込み、声が震えないように注意しながら言葉を形作る。
 変わらない誓いの言葉を。
「僕は、カイゼル様にお仕え申し上げます」
 響いた声は、わずかにも揺るがずに大気を震わせていった。
「他の誰でもない……皇帝でもない、カイゼル・ジェスティ・ライザード様に」
『お前だけが俺の主、唯一無二の皇帝だ』
 どこからか、低く通りのよい声が聞こえたような気がした。限りない敬愛と忠誠を込めて、ただ一人の主君に向ける言葉が。
「カイゼル様だけが僕の主、唯一無二の、主君です」
『我が皇帝、我が君』
「我が主、我が君。カイゼル様に、変わらない忠誠を捧げることを誓います」
『覇者の王冠を戴く王』
「覇者に……王冠を戴くのにふさわしいのは、カイゼル様だと思います。だから、僕などの力でよろしければ、カイゼル様の覇業を達成するために使って下さい」
 何かに導かれるようにして言葉を続けながら、そこでふいに右手を胸の前に掲げ、シオンは何の作為もなく礼をした。
「どうぞ、これよりお傍に」
 かつても告げた言葉だった。一度目はこの世界で生きていくために。二度目は明確に自分の意思で、けれどその意味を深く考えたわけではなく。そして三度目の誓いは、大きすぎる決意と覚悟を秘めて凛と響いた。
 カイゼルは無言でそれを聞いていたが、ややあって小さく口元を綻ばせた。
「いい答えだ、シオン」
 その答えも、かつて告げられた言葉と同じものだった。
「忘れるなよ」
「はい」
「言っておくが、泣こうが喚こうが無視するからな」
「はい、肝に銘じておきます」
「よし」
 鋭くも不敵な笑みを閃かせると、カイゼルは手を伸ばしてシオンの髪をくしゃりとかき回した。
 荒っぽいが暖かな仕草に、シオンは無言で碧の双眸を見開いた。普段が普段なためか、額を指で弾かれるのには慣れても、こうして頭を撫でられるのには中々慣れることができない。だが決して嫌なわけではなく、むしろ嬉しいと感じられる仕草だ。だからシオンは小さく笑みを浮かべて、胸の中の誓いを改めて確かめた。
(大丈夫、生きていける)
 ただ一人の主君、仕えるべき主のために生きる。
 たとえ、それが十字架へと続く道だったとしても。

『いつかこの願いの贄となるだろう、かわいそうな幾人もの愛し子たちよ』
 たとえ招かれた理由が、残された王の祈りを叶えるための、贖罪の贄だったとしても。






    


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