13 黎明の残照


 


 大気は少しずつ抱いた赤みを失い、周囲を藍色の薄闇に沈め始めている。
 小高い丘の上に作られたジェリーレティアの要塞は、魔力による真っ白な灯火がいたるところに燈され、寂寞とした外壁都市の直中に強く浮かび上がっていた。軍馬によって踏み荒らされた石畳も、市民の気配が途絶えた民家も、厳しい表情で巡回する騎士たちの姿も、すべてが淡い光をまとわせて白く透けて見える。その光を滑らかな頬に受けながら、美貌の魔術師は細い手で燭台を取り上げ、軽く指を動かしただけでそこに明かりを燈してみせた。
「……納得、していただけましたか?」
 手にした燭台を近くの卓に下ろし、セスティアルは柔らかく笑って同僚たちを見回した。淡く青みがかった銀の眼差しを、それぞれの感情を浮かべた六人の瞳が受け止める。ジェインとエステラは無表情の中にも驚愕を滲ませ、リチェルはどこか納得したように頷き、グラウドは実感がわかないというように何度も首を振ったが、カズイとエレアだけは反応し損ねたように呆然とその場に立ち尽くしていた。それは、他の騎士たちの驚愕とはわずかに違う、大きすぎる衝撃にうまく感情がついてこない、と言わんばかりの奇妙な表情だった。
「――――異界?」
「ええ、カズイ。私たちの住まうシェラルフィールドとは次元を異にする、まったく別の世界。今となっては神話に謳われるだけの、四玉の王がその御力をもって二つに分けた世界の片割れ。……先ほどの戦で魔力を消し去ってみせた少年、シオン・ミスゼは、間違いなくその異界から渡ってきた存在です」
 まるで歌うように淀みなく答えて、セスティアルは吹き込んでくる涼やかな風にそっと瞳を細めた。
 第一位階の騎士たちが集っているのは、会議のために作られた回廊沿いの小部屋だった。多くの騎士たちが作戦の会議に用いるものではなく、住民からの嘆願の中でも比較的簡単なものの処理や、すでに決定された事柄の形式的な確認、あるいは司令官と一部の幹部だけで話し合う際に使われるだけの、小さな卓と数個の椅子しか置かれていない簡素な部屋だ。そこに第一位階の証である紫のマントがひしめき、窓から吹き込む風にゆるくそよぐ様は、閑散とした室内にまるで戦の最中のような緊迫感をかもし出していた。
「異界……次元の違う世界か。ふむ、そう言われてみれば納得できるものではあるな。シオンに感じた、あの何とも言えない妙な感覚も」
 十五、六歳程度にしか見えない面差しに大人びた表情を浮かべて、リチェルは片手を顎に当てながら小さく頷いた。セスティアルも軽く首肯し、自分と同じ称号を帯びる騎士を見遣る。
「なぜ、シオンがこのシェラルフィールドにやって来たのかはわかりません。ですが、シオンが歴史上初めてというというわけではない……そうですよね、カズイ?」
「……」
 すいと横に流された視線に、カズイは無言で脇に下ろした拳を握り締めた。ほとんど無意識のうちにその右手が動き、黒を基調とした騎士服の胸元に指を這わせる。そこにある何かを固く握った動作と、本当にかすかに響いたシャラ、という鎖の音に気づいたのは、すぐ隣に立っていた栗色の髪の少女だけだった。
「なるほどの。団長が拾った少年を侍従として面倒見るなど、あの方らしからぬ温情だとは思っておったが。この世界にあって魔力が効かぬとなると……言い方は悪いが、その利用価値は計り知れぬな」
「ええ」
 黒髪の女騎士の言葉に笑みを返して、セスティアルはですが、と穏やかにささやいた。
「シオンは利用されるだけではない、我が君の立派な侍従ですよ。今回の戦で我が軍の糧食が焼き払われずにすんだのも、ある意味ではシオンのおかげと言えなくもないのですから。……ですよね、我が君。シオン?」
 セスティアルの視線につられるようにして振り向いた騎士たちが、いつの間にか簡素な扉を開け、その木枠に手をかけて立っていた人影に気づき、大きく目を見開いた。
「団長?」
 焔のような榛色の髪に深青の瞳、堂々たる長躯を緋色のマントに包んだエルカベル騎士団団長の姿に、騎士たちは慌てたように片腕を胸の前に掲げ、浅い角度で腰を折る略式の礼をした。それに傲然とした態度で一つ頷くと、カイゼルはやや人口密度の高い室内に足を踏み入れる。そのすぐ後に続くようにして、侍従の白いマントを羽織った小柄な少年が、ためらうように視線をさまよわせながら会議室に入ってきた。
「説明は終わったか、セス?」
「はい、我が君。伝えねばならないことは、これですべて伝えたかと。……シオン」
 青銀色の双眸が、シオンの碧の瞳を見つめてふわりと和んだ。
「傷はもう大丈夫ですか?」
「あっ……はい! 大丈夫です、ご心配を……」
「いいえ。完全に治してあげられなくてすみません、大事にするんですよ?」
「はい、本当にすみません」
 慌てたように頭を下げながら、シオンはあれ、と内心で小さく首をひねった。セスティアルの言葉はいつもと変わらず優しかったが、どことなく普段より力がないように感じたからだ。困惑気味に隣のカイゼルを見上げると、主君たる青年は深い青の瞳を鋭く細め、違和感を覚えるほど無表情に腹心の魔術師を見下ろしている。
「カ……」
 思わず主君の名を呼びかけたシオンに、カイゼルはふっとセスティアルから深青の双眸をそらし、無造作に手を伸ばして隣に立つ少年を押しやった。前につんのめりそうになるシオンに構わず、カイゼルは第一位階の騎士たちを見回してそっけなく口を開く。
「セスから話は聞いたな? これが俺の侍従のシオン・ミズセだ」
「あ……あっ、申し訳ありません、このような格好で……っ」
 いきなり紹介されて目を白黒させたが、すぐに自分に集中するいくつもの視線に気づき、シオンは急いでその場に膝をついた。
「レイター・リチェル・カーロイス卿、ジェイン・レイ・ティアニー卿、グラウド・クロスファディ卿、お久しぶりでございます。……そしてお初にお目にかかります、誉れ高き第一位階の騎士様方。カイゼル・ジェスティ・ライザード大将軍の侍従たる栄誉をたまわりました、シオン・ミズセと申します。以後お見知りおき下さいませ」
 リチェルがおや、と言わんばかりに眉を上げ、ジェインは口元だけで薄く微笑し、グラウドは親愛の情を滲ませて大きく頷いた。一度しか名乗っていないにも関わらず、長い貴族の名までしっかりと覚えていた少年に感心したのだろう。他の騎士たちはシオンとは初対面だったが、エステラは艶やかな仕草で唇の端を吊り上げると、片手を胸に添えて優雅に頭を下げて見せた。
「こちらこそ、初めておめもじつかまつる。シオン・ミズセ。私はエステリア・ウィルス・クローバー。みなエステラと呼ぶゆえ、お主も気兼ねなくそう呼んで欲しい。異界より来た来訪者と、こうしてまみえることができたのは望外の喜びだ。どうぞこれからもお見知りおき願いたい」
「はい、幸甚至極に存じます、エステラ様」
 エステラが女性の騎士であることに気づき、シオンは跪いたままでそっと白い手を取ると、恭しい仕草でその甲に口づけた。エステラも翠玉色の瞳を細めてそれを受け入れる。そのまま少年を促して立ち上がらせ、黒髪の女騎士は背後のカズイとエレアを振りかえった。
「カズイ卿、エレアライル。お主たちも突っ立ってないで……」
 挨拶でもしたらどうだ、と続けようとしたエステラは、そこでふいに言葉を切った。カズイが真剣な、どこか必死ささえ滲ませた表情で足を踏み出し、エステラの横を通り過ぎてシオンの前に立ったからだ。え、と大きく目を見張ったシオンに、カズイは喉から声を絞り出すようにして口を開いた。
「お前、異界から来たって……」
「……え?」
「異界から来たって、本当なのか?」
 シオンは困ったように瞳を瞬かせた。だが、仮にも第一位階の騎士である相手に嘘を言うわけにもいかず、隣のカイゼルを伺いながら小さく頷く。やはり信じられない話なのだろうか、と軽く瞼を伏せた瞬間、思いがけず強い力で両肩をつかまれ、シオンはぎょっとして碧の瞳を見開いた。
「えっ……」
「本当なんだな……本当に、異世界から来たんだな!? だったら……っ」
 カズイの突然の行動に、普段ならばすぐに止めるはずのエレアや他の騎士、そしてセスティアルさえもとっさには動くことができなかった。カイゼルだけは深い色の瞳に鋭い光を閃かせたが、カズイはそれにも気づかない様子でシオンに詰め寄り、そのほっそりとした両肩を揺さぶりながら叫んだ。
 答えなど得られないと知っていても、必死になって尋ねずにはいられない愚かな子供のように。
「だったら『ジン』っていう名前を……ジン・ヒューガっていう名を知らないか!? お前の世界に、ジン・ヒューガっていう名前の男はいなかったか!」
「……っ」
 揺さぶられた拍子に右肩が痛み、シオンは小さく細い眉を寄せた。強い力に本能的な恐怖を覚え、肩をつかまれたままで何度か首を振る。
「知、りませっ……」
 そんな名前は知らない、と答えようとしたが、そこで何かが脳裏を掠めていった気がして、シオンはそれ以上言葉を続けることができなかった。
(――――『ジン』?)
 どこかで耳にしたことがある名前だった。鼓膜の奥に、胸が痛くなるほど静かな少年の声が残っている。確かに聞いたことがある響きなのに、どこで耳にしたのか、誰が誰に呼びかけていた名前なのか、それがとっさに思い出すことができない。ただ、なぜか黄金の髪に深青の瞳を持った少年の姿が瞼裏を過ぎった。
「……あっ、の」
 懸命に記憶をたどって思い出そうとしたが、カズイに捕まれた右肩が引き攣れるような痛みを訴え、シオンはまず手を放してもらおうと口を開きかけた。
 だが、シオンがその意思を伝える前に、決して小柄ではないカズイの体は横向きに跳ね飛ばされ、すぐ近くにあった壁に当たってすさまじい音を立てた。シオンは大きく目を見張りながら真横を振り仰ぐ。何の予備動作もなくカズイを蹴り飛ばしてのけた張本人は、ひややかな表情で両腕を組み、壁伝いに崩れ落ちた部下の姿を見下ろしていた。
「……第一位階の騎士が、何を一人で取り乱した挙句、人の侍従に掴みかかってわめいてるんだ? 頭を冷やせ、鬱陶しい。――――シオン、無事か?」
「……あ、はい、って、えぇっ!?」
「あれなら放っておけ、この程度ならいつものことだ」
 目を剥いたシオンの視線の先で、エレアに助け起こされたカズイが脇腹を抑えつつ、声にならない悲鳴を上げて激痛を堪えている。それを冷たく一瞥すると、カイゼルは硬直している他の騎士たちに向き直り、出入り口の扉に向かって顎をしゃくってみせた。
「これ以上、シオンについて説明する必要はないな? ジェイン」
「……は」
「お前の部下は城門の警護を担当していたな? 恐らくその心配はないだろうが、残党がうろついている可能性もある。人数の増強を言い渡しておけ」
「御意」
「リチェル、エステラ、グラウド。お前らは部下の報告をまとめた後、適当な時間に俺のところまで持って来い。一応警戒態勢は維持のまま、ただし第三級から第四級まで落とすことを許可する」
「はい」
「エレアライル、お前はその馬鹿を回収しておけ。カズイ、お前は後で俺のところまで来い、命令だ」
「あ、はいっ」
「…………御意」
 矢継ぎ早に命令を下し、部下の騎士たちがしっかりを頷いたのを確認してから、カイゼルは最後にセスティアルへ眼差しを向けた。
「セス」
「は」
「『わかって』いるな?」
「――――御意に、我が君」
 セスティアルは一瞬だけ青銀の瞳を見張ったが、すぐに淡い苦笑を浮かべて頭を下げた。詳細な言葉などなくても、それだけで主君の言わんとしていることがわかってしまったのだ。それに簡単な動作で頷いてみせ、カイゼルは侍従の少年を促しながら長身を翻した。
「いつまで呆けてるんだ? 行くぞ、シオン」
「……っあ、はい!」
 もしかして助けてくれたんだろうか、と首をひねりつつ、シオンは騎士たちに向かって丁寧に頭を下げると、小走りに主君の後を追って扉をくぐった。侍従の白いマントがふわりと翻り、まるで少年の背に広がった羽のように見える。静かに見守る騎士たちの眼前で、簡素な木作りの扉は音もなく閉まり、廊下を歩き去っていくシオンとカイゼルの姿を完全にさえぎった。




「……大丈夫ですか、カズイ?」
 静謐な面持ちで主君を見送ったセスティアルは、ややあって象牙細工のような美貌を苦笑に綻ばせると、思い切り眉をよせて床に座り込んでいる同僚に手を差し伸べた。
「いっ……てぇ……っ。くそ、久しぶりに蹴られたな、団長に」
「仕方ありませんよ。――――シオンはきっと、知らないと思いますから」
「……っ!」
 ほっそりした白い手に自分のそれを重ね、セスティアルに支えられながら体を起こしたカズイは、困ったように告げられた言葉にさっと表情を変えた。わかっていても、改めて他人に指摘されると反発したくなるのだろう。押し黙ってしまったカズイを見つめ、心配そうにこちらを見ている少女に視線をやると、セスティアルは大丈夫だというように優しく微笑してみせた。
「大丈夫です、カズイ。ジン・ヒューガ……エルカベル帝国至上最大の英雄にして、貴方の家たるヒューガの始祖となった彼の方は、心無い者が言うように正気を失っていたわけでも、生まれを詐称した卑しき身分の存在でもありません」
「なっ……」
「シオンはきっと知らないでしょう。ですが歴史は語ります。シオンは彼の方と同じ。英雄が『黎明帝』を助けて帝国の存続に貢献したように、シオンも我が君の覇業のために異界から渡り来た存在なのだと」
「……セス?」
「私はそう、信じていますから」
 つかみ所のない風のように笑って、セスティアルは歴史に燦然と輝く英雄の血を引き、それゆえに多くの苦しみを負った青年の肩を気安く叩いた。カズイがそれに答えを返すより早く、セスティアルは無言でそのやり取りを見つめていた騎士たちに瞳を向けると、扉を指差しながらゆっくりと首を傾げる。
「それでは、私はまだ仕事があるのでもう行きますが……貴方たちはどうします?」
 わざとらしく飄々と響いたその声に、黒髪の女騎士は我に返ったように何度か瞳を瞬かせ、セスティアルの隣に歩を進めた。
「……途中まで、同行しよう」
「そうですね。行きましょうか、エステラ」
 セスティアルはにこりと微笑して頷き、小さく眉を寄せたエステラに手を差し伸べた。






    


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