14 王者は冠を捨て


 


 会議用の個室をあとにし、エステラと共に吹きさらしになった回廊に出たところで、セスティアルは苦笑しながら足を止めた。
「……すみません、エステラ」
「どうした?」
 エステラはれっきとした女性だが、身長は男性であるセスティアルと比べても何ら遜色がない。同じように足を止め、近い位置にある青銀色の瞳を覗き込んだエステラに、セスティアルはどこか困惑したような微笑を浮かべてみせた。
「すみません、ちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっとだけ、休憩しても構いませんか……?」
 どういう意味だ、とエステラが問い返すより早く、細身の体がぐらりと傾いだ。
「――――セスッ!!」
 愕然と目を見張ったエステラの前で、美貌の魔術師は右の肩から壁にもたれかかり、そのままずるずると床へ座り込んでしまった。伏せられた顔は長い黒髪にさえぎられて見えなかったが、浅く上下する肩やわずかに乱れた吐息、そして人前で倒れるというセスティアルらしからぬ失態が、彼の体調の悪さを何よりも明確に伝えていた。
「セス!?」
「――――……大丈夫、です。大声を……」
「ふざけるな、大丈夫ならばお主がこうして倒れたりするわけなかろう!」
 ぴしゃりと言い切りながら膝をつき、エステラは抱き起こすようにして細身の体を支えた。女とはいえ鍛え上げられた武人である、腕にセスティアルの体重がかかっても平然としたもので、真っ青な顔を見つめながら厳しく眦を吊り上げた。
「魔力の、使いすぎか?」
「うーん、ちょっとだけ、飛ばしすぎたかもしれませんね……」
「だからふざけるなと言っておる。……まさか、先ほどの説明の時から堪えておったのか?」
 咎めるようなエステラの口調に、セスティアルは力なく笑って首をすくめた。我が君にはバレていたようですが、と小さくささやいて、暗がりに沈む庭園に銀青の双眸を向ける。今にも消えそうな儚い風情に眉を寄せると、エステラは強引に白皙の頬に手を沿え、その顔を自分の方へ向かせながら口を開いた。
「だが、なぜだ? 攻撃も転移も、久方ぶりとはいえお主の負担になるほどのものではなかろう。仮にも帝国最大のレイターともあろうものが、なぜこんなに消耗しておる?」
「……そうですか?」
 こう見えても体は弱いんですけどね、と響きだけはのんきに呟いて、セスティアルはきつさを増した翠緑玉の瞳を振り仰いだ。だが顔を上げているのも辛いのか、すぐに視線をそらして俯いてしまうと、自分を抱きしめるように両腕で肘を押さえる。その上を絹糸のような黒髪が流れ落ちた。
「消耗してしまったのは、仕方がないんです。でも、私はレイターですから。まさか皆の前で倒れるわけにはいかないでしょう? もう少しくらいなら、耐えられると思ったんですけど、ね……」
「質問に答えろ。私の前でまで芝居をするつもりだった、と聞かされても笑って許せるほど、私はお人よしでも暢気でもないわ、馬鹿者」
「……すみません」
 腕越しに伝わる振動から微笑の気配を感じ取り、エステラはますます細い柳眉を吊り上げた。すぐにエステラの本気の怒りに気づいたのか、セスティアルはもう一度すみません、と呟き、ひどくゆっくりとした調子で言葉を紡いだ。
「シオンの、傷が」
「傷?」
「ええ。肩に矢を受けた、その傷が。攻撃の魔力ではないと、四玉の王の加護が認めてくれても。やはり、魔力を拒むことが王の残した贖罪ですから……」
「……セス?」
 セスティアルの言葉はあまりにも抽象的すぎて、エステラにはその意味を読み取ることができなかった。セスティアルも考えて話しているわけではないのだろう、長い睫毛に煙る瞳を伏せ、エステラの腕にぐったりと体重を預けながら、眠りに落ちる寸前のような頼りなさで言葉を続けた。
「四玉の王は。異界から渡り来る『鍵』に、過酷な運命を背負わせる代償として、魔力を拒み受けつけないという加護を残した。……だからシオンの傷は、深いものだったら私にしか癒せません。レイターの中でも、王の守護者の力を強く継いだ者でないと、王の加護は認めてくれない」
「……癒そうとしたから、お主でさえこんなにも消耗してしまった、ということか。あの、異界から渡ってきたという少年を?」
 疑わしげなエステラの言葉に苦笑し、セスティアルはうっすらと青みがかった銀色の双眸を開いた。だが、それは黒髪の女騎士を捉えることなく、どこか遠くを見つめてそっと細められる。エステラの気のせいでなければ、浮かべられた表情はあまりにも悲しげで、辛そうなものだった。
「あまりにも過酷だと、そう思いませんか……? 治癒の魔術でさえほとんど効かない者が、歴史の移り変わる、もっとも世界が乱れる時代に招かれて。よほど運が良くなければ、行きつく先は一つしか考えられない。だからでしょうか。黎明帝に仕えた、あの偉大なる英雄が……」
「セス。お主、何を知って」
 反射的に口から滑り出た言葉は、しっかりとした問いかけになる前に途切れてしまった。まるでその代わりだとでもいうように、力の入っていないセスティアルの体を胸に引き寄せ、まとった紫色のマントでその姿を隠す。カイゼルの腹心であり、帝国最大の魔術師であるレイター・セスティアル・フィアラートが倒れたなど、間違っても騎士や一般の兵たちには知らせられない事実だった。幸いというべきか、事前に第一位階の騎士たちが人払いをしておいたためもあって、薄暗い回廊内に彼ら以外の姿は見えない。そのことにひとまず安堵し、エステラはセスティアルの綴る細い言葉に耳を傾ける。夢うつつの中、恐らくは本人ですら無意識のままに綴っているのであろう、予言めいた不思議すぎる言葉に。
「……あの、ジン・ヒューガが、今でも贄と、そう呼ばれるのは。シオンもまた、四玉の王によって呼び招かれた、シェラルフィールドのための生贄なのかもしれませんね」
「――――セス」
「そうはさせたくはないと。そう思うのは、人の身で、許されざる傲慢なんでしょうか……」
 そこで静かに言葉が途切れ、エステラの腕にかかる重さがわずかに増した。
「セス?」
 かすかな焦燥を込めて名を呼んだが、伏せられた睫毛は震えもせず、閉ざされた瞼が持ち上げられることもなかった。それでも呼吸だけはしっかりしたもので、昏睡に陥ったわけではなく眠り込んでしまったらしい。白すぎて青くさえ見える顔を見下ろし、痛みを堪えるように整った顔を歪めながら、エステラは細い肩を抱く手に力を込めた。
「贄、だと」
 形の良い頭をしっかりと抱きしめ、眠りを妨げないように押さえた声で呟く。
「お主は何を知っておるのだ、セス? ……四玉の王は何を思い、何を、この世界に残していった?」
 その問いに答えが返ることはない。ゆっくりと、慈しむように手触りの良い黒髪を撫でて、エステラはそっと翠緑玉の双眸を伏せた。周囲に銀色の煌きが生まれ、夜闇の中に二人の姿を浮かび上がらせる。
「お主が背負いきれぬというなら、共に背負ってやろうものを。負けず嫌いは昔から変わらぬのだな……セスティ」
 今では呼ぶことのなくなった愛称を口にし、一瞬だけ口元に愛しそうな笑みを過ぎらせる。そのまま紡いでいた『転移』の魔術を発動させ、銀の光と共に人気のない回廊をあとにした。
 貴方たちは何を望んでおられたのか、という四人の王への問いかけは、その光に飲み込まれてふわりと消えていった。




『……坊ちゃま』
 寒々しい畳敷きの部屋に、ひどく落ち着いた女性の声が響いた。
『坊ちゃま。二の、青の坊ちゃま。お食事の時間にございますよ』
 起伏のないその声と共に、真っ白な手が漆塗りの椀を差し出す。敷かれた畳は見るからに上質なもので、丸く作られた障子の窓も、そこに嵌めこまれた木の柵も、色調の押さえられた朱塗りの天井も、部屋の主人の身分を示すように美しく豪奢なものだった。どんな目利きであっても感嘆の息を吐き、旧家の子息にふさわしい部屋だと言って賞賛せずにはいられないだろう。女性の座った廊下と少年のいる室内を、まるで牢獄のような木の格子が区切ってさえいなければ。
 その格子に両手を差し入れ、湯気さえ立たない椀を掲げるようにしながら、古めかしい着物をまとう女性はもう一度繰り返した。お食事の時間にございます、と。
 そのほっそりした腕ごと、白い着物の袖が椀を振り払った。すっかり冷めてしまっていた汁物が飛び散り、女性の袖や上等な畳、そして汚れを知らない真っ白な着物に薄く染みを作る。力いっぱい差し出された椀を払いのけ、無表情だった女性の顔に感情の小波を作り出したのは、座敷牢の中で膝立ちになった白い着物の少年だった。
『――――いらない』
 それは今にも壊れて消えてしまいそうな、痛々しく張り詰めた声だった。
『いらない。……いらない、そんなもの』
 真っ白な着物と、一度も陽の光に当ったことがないのではないか、と思わせる真っ白な肌の上に、細く色素の薄い髪がさらさらと滑る。
『会わせろ』
 少女のように長い睫毛が持ち上げられ、隠されていた瞳がまっすぐに女性を射抜いた。薄明かりを反射して煌くのは、畳敷きの座敷や白の着物にはまるでそぐわない、どこまでも濃くありながら澄明に透きとおる空の色だ。西洋人のそれよりもずっと深く、ずっと綺麗で、真夏の空をそのまま切り取って嵌めた青玉の色だった。
『しずくと、らんと、りつに会わせろ。僕は何もいらない。何もほしくない。この家から出せだなんて言わない。……だから、しずくとらんとりつに会わせろ。僕にあの三人を返せ。あの三人に、別に三人を返せ。そうしたら他にはなにもいらないから!』
 激情のままに格子を殴りつけ、信じがたいほど美しく澄み渡った瞳を輝かせながら、少年は畳の上に立ち上がった。裾の長い着物がその上に広がり、張り詰めた静寂にするりと衣擦れの音を響かせる。その裾が、風もないのに空気の手に持ち上げられた。
『坊ちゃま……っ』
『何もいらないのに、何もいらないって言ってるのに! 許してくれなくても、出してくれなくても、愛してくれなくてもいいのに! ただ四人でいられれば幸せなのに、奪わないで、あの三人といっしょにいさせてくれれば何もいらないのに! こんな世界だってほしくないのにっ!!』
 柔らかな亜麻色の髪が揺れ、薄暗がりの中に淡い軌跡を描く。風が起こるはずのない密室だったはずが、少年の周囲ではゆるやかに風が巻き起こり、障子窓をきしませ、真っ白な着物の裾を翻す。異様な光景の中、ただ青玉の瞳だけが激しいまでの光を放っていた。血を吐くように朱塗りの天井を仰ぎ、耐えがたい痛みに繊細な面差しを歪めながら、少年はあまりにも悲痛な絶叫を響かせる。
『四人でいられないなら、僕からあの三人を奪うなら、あの三人から別の三人を奪うなら、こんな中途半端な世界はいらないっ! もう一つの片翼だって滅んでしまえばいい!! 王の血なんて知らない、贖罪なんて知らないっ!! 僕たちはただ、兄弟で、四人でいられればそれでいいだけなのにっ!!』
 室内で荒れ狂う嵐に呆然とした眼差しを向け、女性は逃げ出すこともできずに口元を覆った。まだ十にも満たない四人の兄弟を引き離し、離れた位置にある座敷牢に一人一人を閉じ込めるなど、仕方がないとはいえあまりにも惨いことだと思っていたが、眼前に展開する光景を見てその理由を知った。恐怖に小さく体を震わせながら、古くからこの家に使える女性は小さく呟く。恐ろしいものを見る目で、表情で、蛍様、と。




「……何か、ありえないほどのすさまじい悪夢を見たんですけど。っていうか僕死ぬほど不機嫌なんですけど。この責任をいったいどう取ってくれるんだ、嵐(らん)?」
「って俺のせい!? 兄貴が嫌な夢を見て不機嫌なのとか全部俺のせいっ!?」
「当たり前だろ。お前があまりにも僕を待たせるから眠くなったんだ。……たく、居残りなら居残りだと朝から言っといてくれる? そうしたら待たずにさっさと帰ったのに」
 日本人離れした面差しを不機嫌に歪め、弟と置き去りにしてさっさと校門に向かう蛍(ほたる)に、嵐はだってー、と間の抜けた声を上げながら追いすがった。
「今日の英語の時間中に居残りが決定したんだもん。前から決まってたわけじゃないもん」
「……お前、また英語の時間中に現国と科学と日本史の教科書でバリケード作って、その影で早弁してたのかっ!?」
 途端に眉を吊り上げた一つ上の兄に、嵐はすばらしい速度で視線をそらした。そんなことしていない、と断言できないのは、蛍の言った内容が事実であるからに他ならない。悲壮な表情でこめかみを押さえると、蛍は弟の背を蹴飛ばして「早く自転車取って来い、この馬鹿!」と怒鳴りつけた。四人の兄弟のうち、三男の嵐だけが電車ではなく自転車で登校している。別に重大な理由があるわけではなく、単に電車代を節約するためと、電車では始業時刻に間に合わないことの方が多いためだ。普通は逆なのだが、叶(かのう)四兄弟に世間一般の常識は通用しないのである。それを知っているのは兄弟四人と、今はもう近寄りさえしない実家の人間と、限りなく近しい友人の水瀬紫苑だけだったが。
「……それにしても、紫苑はまだ帰って来ないんだな」
 蛍の物憂げな呟きに、自転車を押して走りよってきた嵐が軽く首をひねった。
「やっぱあっちに『呼ばれ』たんじゃん? 俺詳しく知らないけど、紫苑がいなくなった夜に変な感じがしたし」
「不吉なことを言うな、不吉なことを」
 蛍は嫌そうに眉を寄せると、手にしていた革製の鞄を自転車の籠に放り込み、さも当然のように後ろの荷台に腰かけた。兄よりも色の濃い黒の瞳を瞬かせ、嵐は次男坊に問いかけの視線を送る。
「時にお兄様、なんで当たり前のように自転車の後ろに乗ってんの?」
「うるさい。夢見が悪くて疲れたんだ」
「……了解です、お兄様」
 あっさりと両手を上げて降参し、嵐は蛍を乗せたままで自転車をこぎ始めた。校内でも有名な二人が下校するとあって、まだ校内に残っていた生徒たちが手を振ったり、顔を見合わせて熱っぽくささやきあったりと大忙しだ。それににこにこと手を振り返しながら、嵐は後ろ向きに座った兄を首だけで振りかえった。
「それで、兄貴。紫苑どうすんの? 本当にあっちに呼ばれちゃったんだとしたらヤバくない? それ」
「……取り返すさ。もちろん。紫苑は僕たちの世界に入ってきた、ほとんど唯一と言ってもいい友達なんだから」
「うん。俺も紫苑だったら嫌じゃないなー、兄貴たちとか律に近づいても」
 他のやつだったら普通にヤだけど、と言って朗らかに笑う嵐に、蛍はじとりと胡乱な視線を向けた。
「お前の場合は極端なんだ。……でも確かに、突き詰めていけば僕たちの世界は四人だけで完結してるから。紫苑の存在は貴重だよ。大切な友達だし。本当にもうこの世界にいないんだとしたら、何があっても全力で取り返す」
「うん、兄貴たちと律が死んだら俺世界を滅ぼすけど、紫苑が死んでも大量虐殺に走りたくなりそうだし!」
「――――物騒なこと言うなっ、たとえ事実でも!!」
「えー!」
 抗議の声を上げる嵐に拳を見舞い、前を見ろ、と冷たく言い切ってから、蛍は暮れ始めた空に茶色がかった瞳を向けた。あまり風にさらしているとコンタクトの入った目が痛むため、すぐに視線をそらして何度か瞬きを繰り返す。そのまま弟に背中を預けると、蛍はわずかに整った顔を歪めた。懺悔のように。謝罪するように。
「紫苑が呼ばれたのは。もしかしたら、僕たちのせいかもしれないし、な」






    


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