1 太陽の鷹


 


 振り下ろされた刃を剣で受け止め、シオンは重い衝撃に奥歯をかみ締めた。教えられた通りに刀身をずらし、何とか相手の体勢を崩そうとするが、それを察知した相手が逆に体を引いてシオンの剣を泳がせる。ぎょっとしたように目を見開き、よろけながらも踏みとどまろうとしたところで、相手の剣が下から掬い上げるように一閃された。キィン、という澄んだ金属音を立て、シオンの手から訓練用の片手剣が弾き飛ばされる。
 鈍い銀色に輝きながら宙を舞い、細身の片手剣はむき出しの大地に落ちてころころと転がった。
「……参りました」
 はぁ、と息を吐いて全身から力を抜き、シオンは痺れてしまった右手をほぐすように軽く振った。それを見て相手も剣を下げる。
 やや癖のある黒髪に薄紫の瞳、褐色の肌、しなやかに鍛え上げられた体躯を持つ、シオンとさして変わらない年齢の少年だった。優しげな面差しからは幼ささえ感じられるが、剣を軽々と片手で扱う様も、それを鞘に収める動作も実に手馴れたもので、落ち着いた紺色の騎士服がこの上もなく似合っている。名をカティ・リーズといい、エルカベル騎士団に所属する第十位階の騎士であった。
 飛ばされたシオンの剣を拾い上げ、柄についてしまった土を丁寧にぬぐうと、カティは呼吸を整えているシオンに穏やかな笑みを向けた。
「シオン、疲れた、大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
 剣を受け取りながら小さく頷いたが、さすがに体中が訴えてくる疲労を無視することはできず、シオンはぺたりとその場に座り込んだ。
「だめだね。戦いの訓練どころか、ほんのちょっと受け止めるのが精一杯で……」
「そんなことない。シオン、強くなった、前より」
「……え、本当?」
「うん、強くなった。実戦出ても戦える。きっと一分くらい」
 カティの表情はどこまでも真剣だった。シオンを揶揄しているわけでも、技量の足りなさを蔑んでいるわけでもなく、ただ純粋に慰めるための語彙が乏しいのだろう。うぅ、と情けない声を上げて呻き、シオンは腰の鞘を外して訓練用の片手剣を収めた。カティも首をかしげながら隣に腰を下ろす。
「シオン?」
「なんでもない……うん、がんばるよ。せっかくカティがつき合ってくれるんだし」
 拳を握って笑顔を作ったシオンに、カティはひどく嬉しそうな表情でにこりと笑った。
 二人がいるのは、ライザード家の敷地内に作られた騎士のための鍛練場だった。場合によっては数百、数千の騎士が集まるだけあって、広場になっているそこは広いというのも馬鹿馬鹿しいだけの面積を有している。すぐ近くには騎士たちが泊まりこむための宿舎があり、カティは現在そこの一室を借りて生活していた。
 『トランジスタ包囲戦』でディライト・ヴェル・シルファの部隊に所属し、位階の低い騎士とは思えない活躍を見せたカティは、戦闘後にカイゼルの目に止まって十三位階から十位階にまで昇進したのだ。それともない、今まで下宿していた貧しい民家を出て、ライザード家の所有する騎士の宿舎に入ることになったのである。シオンが喜んだのは言うまでもない。
「贅沢を言える立場じゃないけど、剣の稽古をつけてくれるのがカティでよかった。カイゼル様に感謝しなきゃ」
 指先で乾いた土をなぞりつつ、シオンは隣に座ったカティに碧の瞳を向けた。倒れた時の衝撃を少しでも和らげるため、鍛練場の大地は石ではなく平らな土になっている。しっかりと踏み固められているが、指先に伝わる感触は石よりずっと柔らかかった。
「……そんなことない」
 シオンの言葉を受けて、薄い紫の瞳がやんわりと笑みに細められた。最近になってから知ったのだが、カティは外縁大陸の出身であり、中央大陸で使われている共通語が自由に使えない分、細やかな表情の変化で相手に意志を伝えようとする。そのためだろう、カティが浮かべる微笑はいつも陽射しがけむるように優しかった。好意をもたれていると確信できるほどに。
「シオン、教わるのうまいだけ。ちゃんとしてる、上達」
「……実戦に出ても一分間戦えるくらい?」
「そう。……でも嬉しい。団長の命令、おれ、果たせてる?」
「うん、十分すぎるくらい果たせてるよ」
 苦笑しながら首をかしげたカティに、シオンは勢い込んで何度も頷いた。よかった、と呟いてカティがもう一度笑う。
 こうして毎日のように剣を合わせているのは、二人が要塞で一度会っていると知ったカイゼルが、だったらちょうどいい、という理由でカティに指南役を命じたからだ。シオンは心からそれに感謝している。カティは初めて出来た『対等』に話せる相手なのだから。
「本当、カティと友達になれてよかった。毎日こうやって話せて楽しいし、稽古もつけてもらえるし」
 だからこそ真情をこめてカティに笑いかけ、感謝の言葉を伝えようとしたのだが、笑いかけられた方は驚いたように淡い紫の瞳を見開いた。え、という呟きがカティの唇から漏れる。
「……ともだち?」
 何を言われたかわからない、と言わんばかりにシオンの言葉を繰り返し、カティはそれきり喉を詰まらせたように黙り込んでしまった。思ってもみなかった反応を受けて、シオンもつられたように碧の目を丸くする。
「……え」
 カティの驚愕と困惑の表情に気づき、シオンは慌てたように両手をばたつかせた。
「あっ、いや、ごめんっ、友達とか、僕が勝手に思ってただけだったかも……! ひょっとして嫌だったっ!? うわ、本当にごめん、そういえば何も言わないで、こっちが勝手に友達だとか思ってて……っ!!」
 自分でも何を言っているかよくわからないまま、シオンは頬に血が上るのを自覚した。カティと友達になれたような気がしていたのだが、考えてみれば自分が勝手にそう思っていただけで、言葉に出して「友達になろう」と言ったことは一度もない。それなのに馴れ馴れしくしすぎてたかも、という思考が脳裏をよぎり、シオンは地面に埋まってしまいたいような気持ちにとらわれた。
 ずるずると深みにはまりかけたシオンを救ったのは、めずらしく慌てた表情を浮かべたカティだった。
「ちが……っ、違う、そうじゃない」
「……え?」
「違う。嫌、違う。そうじゃない、違う」
 必死になって首を振り、カティは体ごと隣のシオンに向き直った。薄紫の瞳が伏せられ、手首に溶接された金属の腕輪を困ったように見つめている。
「……カティ?」
「違う、そうじゃない。そうじゃ……」
 うまく言葉が使えない自分に眉を寄せ、カティはもどかしげにシオンを見つめた。常になく必死なカティの様子から、少なくとも迷惑がられていたわけではないらしい、ということが察せられ、シオンは相手に気づかれないように安堵の息を吐いた。
 ふわりと緩んだ空気に助けられたのか、カティは再び手首の腕輪に視線を落とし、ためらいを振り切るように声を絞り出した。
「……友達、いい?」
「え?」
「だから。シオン、おれと友達、なってくれる?」
 その瞬間、カティが『友達』と言われて驚いた理由に思い至り、シオンは胸が締めつけられるような思いを味わった。同時にそれを忘れていた自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。カティは解放奴隷であり、主人から畜生並みの扱いを受けていた人間であり、友達どころか人として接してくれる者すらほとんどいない存在だったのだ。何の根拠もないというのに。カティはこれほどまでにすばらしい人間だというのに。
 胸中で急速にふくらんだ感情のまま、シオンは勢いよくカティの両手をつかんだ。カティの両目が見開かれる。
「シオン……?」
「友達だよ」
 碧色の双眸がまっすぐにカティを見つめた。
「僕と、カティは友達だよ。……ううん」
 ふと思い直したように首を振り、シオンはカティの手を握ったままで頭を下げた。
「友達に、なって下さい」
「……シオン」
「カティ。僕と、友達になって下さい。……だめ、かな?」
 そろそろと顔を上げ、作為のない表情で瞳を瞬かせるシオンに、カティは混乱と驚きに塗りつぶされた顔を作った。
 やっぱりだめかな、と沈んだ声で呟くと、カティは呆然とした表情のままで何度も首を振った。何度も何度も、それ以外の動作を忘れてしまったような強さで。
「だめ、じゃない」
 ようやく綴られた呟きは、触れれば消えてしまいそうなほどに小さなものだった。
「だめ、じゃ、ない。……おれも」
「おれも?」
「おれも……」
 カティは何かを堪えるように顔をゆがめた。奴隷として生きてきたカティにとって、その続きを口にするのはひどく勇気のいる行為なのだろう。それでも口をつぐんでしまったりせず、カティはたどたどしい調子で言葉を続けた。
「おれも、シオンと、友達に……」
 シオンの手を力いっぱい握り締め、躊躇と恐れを追いやるように一度だけ目を閉じると、カティは幼い子供にも似た仕草で息を吸い込んだ。綺麗な色彩の瞳がシオンを映す。
「友達に、なりたい」
「――――うん!」
 シオンは顔を輝かせ、カティの手を温かく握り返した。ようやく緊張がほぐれたのか、強張っていたカティの表情も柔らかくゆるむ。初春の陽射しがカティの黒髪に降り注ぎ、目に痛くない程度の優しい光を散らした。
 それはとても綺麗な光景だった。
「……友達」
「え?」
「友達、はじめて。嬉しい、すごく」
 その言葉に胸が熱くなるのを感じ、シオンが何かを言おうと口を開いた瞬間、穏やかだった静寂に鳥の羽音が覆いかぶさった。バサバサ、という大気を打つ音に顔を上げ、シオンとカティはそれぞれの表情で目を和ませる。シオンがゆっくりとカティの手を外し、空に向かって右腕を差し伸べると、厚い革の巻かれた部分に一羽の鳥が舞い降りてきた。
「アポロ」
 シオンの声に答えるように鳴き声を上げ、見事な両翼を一度だけ震わせたのは、鋭い爪とくちばしを持った若い鷹だった。まだ雛と呼ばれる期間を過ぎたばかりだが、あと一、二年もすれば息を呑むほど美しい成鳥になるだろう。どこか危なっかしい手つきで腕を引き寄せ、シオンは腰のベルトに下げた袋を左手で探った。中から肉の欠片を引っ張り出し、黒味の強いくちばしの傍へ寄せてやる。
 アポロ、と呼ばれた鷹はすばらしい速度でそれをついばみ、満足げな様子で一声鳴いた。シオンもほっと息を吐く。
「ごめんね、アポロ。ひょっとして、稽古が終わるのを待っててくれたの?」
 軽く首を傾げたシオンの言葉に、アポロはどこか不機嫌な動作でバサッと翼を広げてみせた。それを見やってカティが身を乗り出す。
「友達。アポロも」
「え?」
「アポロも、友達。だめ。仲間はずれ」
 カティの言わんとしていることを悟り、シオンはああ、と呟いて小さく笑い声を立てた。二人が仲良く話をしているのを見て、仲間はずれにされたアポロが怒ったのではないか、というカティの意見に、驚くほどすんなり納得している自分に気づく。
「そうだね、ごめん、アポロ」
 左手を伸ばしてシオンが首の辺りをくすぐってやると、アポロはどこか鷹揚な態度でたたんだ翼を震わせた。
 太陽神の名をつけられた年若い鷹は、トランジスタ包囲戦後、カイゼルからシオンに与えられた戦闘の『褒賞』だった。僕は何もしていませんっ、というシオンの主張はすっぱり無視され、もらうわけにはいかないという遠慮は一蹴され、他の人にあげてほしいという懇願は一笑に付された。もとよりシオンがカイゼルに適うはずがないのだ。
 一分にも満たない押し問答の結果、シオンは「魔力を無効化して戦闘の早期終結に貢献した功績」の褒賞を受け取ることになった。それがこの美しい鷹である。
「……シオン」
「うん?」
「戦の褒美、そういえば、鷹、なぜ?」
 シオンよりずっと慣れた仕草で手を伸ばし、羽の付け根のあたりを撫でてやりながら、カティが今気づいたとばかりに首を傾げた。シオンがほんのわずかに遠い目をする。
「ああ……セスティアルさまに聞いたんだけど、ちょうどあの時、ライザード家お抱えの鷹匠が屋敷に来てたんだって。で、立派な鷹を何羽か献上されて、ちょうどいいから一番若い鷹を選んで僕に下さったらしいよ」
「ついでで?」
「うっ」
 カティに悪気がないのはわかっているが、余計な装飾のない言葉は時として胸をえぐる。胸の辺りを押さえて呻いたシオンに、カティとアポロが不思議そうな表情で視線を交わしあった。言葉が通じているとしか思えない様子を見て、シオンは何でもないよ、と呟きながら力なく笑ってみせた。
「ついで……かもしれないけど、別にいいんだよ。何の役にも立ってないのに、カイゼル様がわざわざ『褒賞』のことを考えて下さったんだから」
「うん、シオン、健気」
「え」
 これって健気なのかな、と真剣に考え出したシオンをよそに、カティは何の前触れもなく空を見上げて目を見張った。そのままくいくいとシオンの袖を引き、武人らしく節くれだった指で屋敷の方角を指し示す。
「シオン、昼、そろそろ。戻る、仕事」
「え、あっ……そうだね、カティも騎士団の方の訓練があるしっ」
 太陽が中天にさしかかっているのに気づき、シオンはズボンをはたきながら慌てて立ち上がった。その動きが突然だったためか、右腕にとまっていたアポロが翼を広げて舞い上がり、主人に対して抗議するような鳴き声を上げる。うわごめんっ、と空中に向かって謝罪しつつ、シオンはカティを促して屋敷の方に歩き始めた。アポロも滑空しながらその後を追う。
「友達、三人」
 頭上で旋回するアポロを見上げ、カティが楽しそうな口調で小さく呟いた。正確に言えば二人と一羽だったが、ここで口をはさむのも無粋に思えて、シオンはカティと並んで歩きながら柔らかく微笑んだ。






    


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