2 不器用な騎士


 


 シオン・ミズセの一日は、よほどのことがない限り決まった予定通りに進んでいく。
 朝、起床の鐘が鳴ると同時にカイゼルのもとへ茶を運び、細々とした仕事の後カティと剣を合わせ、簡単な昼食をはさんで侍従としての職務を再開する。初めは慣れない仕事にひどくとまどったが、一度すべての動作を体が覚えてしまうと、忙しい毎日はシオンに驚くほどの充実感をもたらしてくれた。侍従長と共に主君の日程を組むのも、外部から届けられた書状を管理するのも、カイゼルが目を通す前に書類を分類しておくのも、細かい作業が得意なシオンにとってはさほど苦にならない。
 僕って仕事の虫なのかなぁ、と胸の内に小さく呟き、シオンはライザード家の廊下を足早に進んでいた。カティとの稽古が思ったより長引いてしまい、カイゼルのもとへ向かうのがいつもより十分程度遅れている。
「カティは大丈夫だったかな……」
 真面目な友人を思って首を傾げつつ、シオンは向こうから歩いてくる使用人に気づいて顔を上げた。
「……あ、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
 相手もシオンを認めて相好を崩し、歩く速度を上げて走り寄ってきた。明らかに安堵した、と訴えてくる相手の顔を見上げ、シオンは碧の瞳を何度か瞬かせる。
「どうかしましたか?」
「いや、どうかした、ってわけじゃないんだが。……旦那様がどこにいらっしゃるか知らないか、シオン?」
「カイゼル様ですか? 今は書斎の方にいらっしゃると思いますが」
 記憶を辿りながらそう答え、シオンは何かに思い当たったように目を見張った。
「あ、ひょっとして、今日の午後からいらっしゃるっていうお客様がみえたんですか?」
 だったら僕がご案内しますが、と続けた生真面目な少年に、まだ若い使用人は一瞬だけ顔を輝かせた。そのままシオンに顔を寄せ、ぐっと押さえた声で耳打ちする。
「予定にあったお客人じゃないんだ。第一位階の騎士様が、このお屋敷の近くまで来たからって旦那様にご挨拶にいらっしゃってな」
「第一位階の騎士様が?」
「ああ。それで今、別の者が旦那様に知らせにいってる。……ということで、シオン」
「はい?」
 その次にくる言葉を想像するのはたやすかったが、それでも聞き返してしまうのがシオンのシオンたる所以だろう。我が意を得たり、とばかりに大らかな笑みを浮かべて、使用人はやや低い位置にあるシオンの肩をポンと叩いた。
「第一位階の騎士様を旦那様のところまでご案内してくれ。お前、身分の高い騎士様方とは顔見知りなんだろ? なんたって旦那様のお気に入りだもんな」
「……って、違います! お気に入りなんかじゃ……っ」
「照れるな照れるな。んじゃ、頼んだぞシオン。騎士様は玄関のところで待っていて下さってるから」
 慌てたように声を高めるシオンに構わず、使用人の青年は気さくな動作でひらひらと手を振った。もたもたしてないで早く行って来い、という声なき言葉を感じ取り、シオンは溜息を吐きながら玄関の方へ足を向ける。
 使用人の態度は強引だったが、それはシオンにとって悪感情を引き起こすものではなかった。普通に考えれば、古参でも何でもない少年が主君に目をかけられ、帝国の英雄である第一位階の騎士に紹介されるなど、屋敷で働く者にとっては面白くない事実に違いない。なぜシオンだけが特別扱いされるのか、と。だが、慎み深いシオンの性格も幸いし、ライザード家で働く者たちはおおむねシオンに好意的だった。先ほどの若い使用人のように。
 それが何よりも幸福なことだと知っているシオンは、特に文句を言うこともなくライザード家の玄関に向かった。使用人の青年が言った通り、シオンは第一位階の騎士のうち七人とは顔見知りで、数人とは茶会に同席したこともある。だからこそさして緊張もしなかったのだが、広い玄関ホールに佇む人影を認めた途端、無礼だと知りつつもその場で足を止めてしまった。
 相手が振り返る動作に合わせ、紫のマントと茶色の髪が揺れた。サファイアのような青い瞳がシオンを映し、一瞬の間を置いて端正な顔にばつが悪そうな表情が広がる。
「……カズイ・レン・ヒューガ卿」
「ああ、お前か」
 苦虫を噛み潰したような顔で呟き、カズイはガシガシと茶色の短髪をかき回した。茶色の髪に明るい青の瞳、バランスの良い長躯、甘く整った顔立ちの美青年だが、そのぶん不機嫌な表情を作ると並々ならぬ迫力がある。思わずその場で回れ右をしかけ、シオンはあらん限りの自制心を持ってその衝動を堪えた。この方はカイゼル様の部下で第一位階の騎士様、と口の中で繰り返し、壊れかけた人形のような動作で頭を下げる。
「……あの、お久しぶりです、ヒューガ卿」
「ああ」
 出会い方が最悪だったためか、その後改めて会う機会がなかったからか、シオンはこの青年騎士にわずかばかり苦手意識を持っていた。それは相手も同様らしく、シオンに向けられた眼差しは友好的とは言いがたい。髪をかき回していた手を下ろし、仕方なさそうに溜息を吐くと、カズイはしかつめらしい表情でシオンを見下ろした。そのままぶっきらぼうな調子で口を開く。
「……団長」
「えっ、はいっ!?」
「団長はどこにいるんだ? 案内に来たんだろ、お前」
「あっ、はい、すみません! カイゼル様は書斎にいらっしゃると思いますので、ご案内いたします!」
 相手が外した紫のマントを受け取り、侍従らしく慣れた仕草で片手に抱えると、シオンは右手と右足が同時に出かねない動きで歩き始めた。カズイも溜息を押し殺してそれに続く。
 仮にも案内役である以上、シオンはカズイより数歩先を歩かねばならないが、なにぶん長身の青年と中背の少年ではリーチに差がありすぎた。広大な幅を誇る廊下を通り、ゆるく螺旋を描く階段を上りきった辺りで、カズイは意図せずに前を歩くシオンに追いついてしまう。そのまま後ろに下がるのも妙な気がしたのか、前を睨みつけるようにして隣を歩くカズイに、シオンはこれまでにない緊張感を覚えて首をすくめた。
 その様子をちらりと見やり、カズイは渋面を保ったままで一つ嘆息した。
「……おい」
「はいぃっ!?」
 突然カズイに声をかけられ、シオンの声がものの見事に裏返った。カズイがほんのわずかに眉をひそめる。
「ここまででいい」
「……え?」
「だから。案内はここまででいい。何度か来たことがあるからな、ここから書斎までの行き方なら一人でもわかる」
「あ、ですが、帰りは……」
「そこらへんにいる使用人に案内してもらうさ」
 有無を言わさぬ口調で言いきり、シオンの手から強引にマントを取り返すと、カズイは返事を待たずにさっさと歩みを再開してしまった。慌てたのはシオンである。
「あ、の、ヒューガ卿……っ」
 何かお気に障ることでも、と続けようとしたシオンは、ふいに振り返ったカズイの視線に射抜かれ、その場に押さえつけられたように動きを止めた。
「言っておくけどな」
 青い瞳がわずかにすがめられた。
「俺は、お前が異界から渡ってきたなんて信じてない。……お前のことも、信用したわけじゃない」
「――――え」
「特殊な身の上話をでっちあげて貴族に取り入ろうとする平民、なんてのもめずらしくないんだ。全員がお前を認めたわけじゃない。それを忘れるなよ。……それだけだ。じゃあな」
 それきり興味を失った、とばかりに踵を返し、カズイは速い歩調で書斎に続く廊下を歩き去っていった。その後姿をぼんやりと見つめ、シオンはカズイに言われた言葉を脳内で反芻する。
(……え)
 ようやくその意味が脳に染み通り、シオンは湖沼のような瞳を大きく見開いた。
(――――えぇぇっ!?)
 ガァン、という音が聞こえてきそうな面差しで、シオンは青年の歩いていった廊下に視線を向けた。すでにカズイの後ろ姿は見えなくなっていたが、それにも気づいていない様子で豪奢な廊下に立ち尽くす。
 どうしよう、という途方に暮れた呟きを漏らしながら。




 足早に廊下を進み、騎士服の裾を翻しながら角を曲がったところで、カズイは呻き声を上げながらその場にうずくまった。髪をくしゃりとかき回し、両手で形の良い頭を抱え込む。
「……なに言ってんだ、俺」
 それは自己嫌悪と後悔に満ちた声音だった。膝の間に顔を伏せ、あーうー、と意味を成さない声を漏らしている様は、まかり間違っても誉れ高き第一位階の騎士には見えない。誰かに見られたらかなり恥ずかしいことになっただろうが、カズイにとって幸いなことに、書斎や執務室に続く廊下には静寂だけが落ちかかっていた。使用人たちが仕事中の主君に気を使っているのだろう。
 その静寂を思い切り乱しつつ、カズイは呻くようにして低い独白を続けた。
「……つーか違うだろ、なに子供相手に大人気ないこと言ってんだ、俺。ああくそ、あんなこと言うつもりじゃ……っ」
 カズイとて、何もあの少年を不条理に非難したいわけではなかった。案内を途中でやめさせたのも、帰りは別の使用人に頼むと言ったのも、カズイなりにあの気まずい状況を打破しようとした結果だったのだ。それなのに俺ってヤツは、と憎々しげに呟き、カズイはうずくまったまま大きく溜息を吐いた。
「まずかったよな、いくらなんでもあれは。認めたわけじゃないだの、信用してないだの」
「そうだな、器の小ささを自分で宣伝したようなものだ」
「……うっ、やっぱりそう思うか? ……そうだよな、どう考えても八つ当たりだったよな、あれは」
「何だ、少しは自覚があるのか?」
「そりゃ俺だって、あんな子供に八つ当たりしたくてしたわけじゃないんだよ。でもなんつーか、いざとなると意地になっちまうっていうか、素直に言葉が出てこないというか……」
「そうか。それでお前はガキのように馬鹿丸出しで俺の侍従に絡んだわけだな?」
「そうだよな、あれじゃ俺の方がガキだよな。…………って、え?」
 いつの間にか独り言が『会話』になっていることに気づき、カズイは頭を抱えた体勢のままで動きを止めた。ギシギシ、と音がしそうな動きで顔を持ち上げ、鍛え上げられた長身に紺色の服、肩から滑り落ちていく榛色の髪、そして鋭く輝く深青の瞳を視界に収める。
 カズイはその場で気絶したくなった。
「だっ……」
「あ?」
「だだだだ、だんっ、団長……っ!?」
 第一位階の騎士どころか、とっくの昔に成人した男性とは思えない悲痛な声に、カイゼル・ジェスティ・ライザードは氷のようにひややかな微笑を浮かべてみせた。まとう色彩や気性は紅蓮の炎そのものだが、武神のごとき峻厳な美貌には冷たい笑みがよく似合う。現実逃避気味にそんなことを思いつつ、カズイは騎士団の上司である青年に青の瞳を向けた。
 背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。
「あ、あああああの、団長」
「何だ?」
「その、本日はお日柄もよろしく……」
「ああそうだな。で?」
「絶好のご挨拶日和かな、とか何とか思いまして、近くまで来たから団長のご尊顔を拝しに来たわけだったりするんですが…………っていうかすみませんすみませんすみませんっ、勘弁してくださいっ!!」
 流れるような動作でその場に土下座し、カズイは絶対的な力を持つ上司の慈悲にすがった。そんなものがこの世に存在するのか、という疑問が脳裏をかすめたが、このまま岩を粉砕する脚力で蹴り飛ばされるのは絶対に遠慮したい。『カイゼルに蹴られる回数不動の第一位』を獲得しているカズイとて、なにも好きこのんで上司に痛めつけられているわけではないのだ。
 十分すぎるほど長身の男が床にはいつくばり、必死になって相手の寛恕を請う様子はどことなく微笑ましかったが、カイゼルの浮かべた冷笑が緩むことはなかった。
「カズイ」
「……っはいぃ!?」
 思い切り裏返った声で返答するカズイに、カイゼルはゆったりと笑みを深めてみせた。
「お前が何をしようと、シオンに対して何を思おうと、はっきり言ってそれは俺の知ったことじゃない」
「……は」
「だから何をしようとお前の勝手だ。何をそこまで無様に許しを乞う必要がある?」
 穏やかですらあるカイゼルの言葉を受けて、カズイの顔がほんのわずかに明るくなった。お咎めなしですむのだろうか、という淡い期待は、だが次の瞬間無残に打ち砕かれる。
「だがな」
 カイゼルの微笑に凄みが加わった。
「俺の目の届く範囲でガキ臭いことをするなら、お前もそれなりの覚悟を持ってしろよ? あまり鬱陶しいことをするなら蹴り殺すぞ」
「――――っ!!」
 死刑宣告にも等しいその言葉に、騎士団の中でも英雄と誉れ高い第一位階の騎士は声もなく絶叫した。






    


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