4 軍師


 


「遅かったな、久しぶりの帝都で道にでも迷ったのか?」
 侍従の少年が扉を閉めるなり、笑みをふくんだ圧倒的な美声が室内に響き渡った。久しぶりに聞く揶揄には答えず、エディオは肉づきの薄い唇にくすりと笑みを浮かべる。
「久しぶりだね、カイザー。君の愛すべき棘だらけの性格が健在で嬉しいよ。丸くなってたらどうしようかと思った」
「お前も面の皮の厚さは変わらないようだな。シャングレインでの隠居暮らしが性に合ってるのかと思ったが、そろそろ持病の破壊衝動がおさえられなくなったのか?」
「いや、君に会いたくて矢も楯もたまらず飛んできてしまっただけだよ。うわぁ、何て献身的な幼馴染なんだろうね、私は」
「そうか。ああ、後でセスのところにでも行っておけ、今なら無償で頭ごと吹っ飛ばしてくれるだろう」
「それは世界的な損失というものだよ、このすばらしく希少価値のある黄金の頭脳に向かって何を言うんだい?」
 書類の積まれた机に歩み寄り、以前と変わらない調子で軽口を叩き合いながら、エディオは精神と脳が少しずつ活性化していくのを自覚した。決してつき合いやすい相手ではないが、エディオはこの幼馴染と議論を交わし、意見をぶつけ、歴史や軍略について話し合うのが何よりも好きだった。エディオとまともに会話できる者など、帝国広しと言えどもカイゼルやセスティアルくらいしか存在しない、という事情もあるのだが。
 心が浮き立つような感覚に薄く微笑し、目を白黒させているシオンに向き直ると、エディオは優しい仕草で自分の隣を指し示した。
「シオンもおいで。ちょっと話したいことがあるんだ」
「……あ、はい」
 シオンは従順な態度で答えを返したが、すぐにその場から動こうとはせず、まるで許可を求めるようにカイゼルへ視線を向けた。主君が軽く頷くのを確認し、いそいそとエディオの隣に歩み寄ってくる。エディオは軽く濃紫の瞳を見張った。
 そのままぷっと噴き出し、書類を脇に退けているカイゼルに目線を戻す。
「シオンはとても良い子だね、カイザー。侍従の鑑とでもいうべき態度だ」
「当然だ、誰の侍従だと思ってる?」
「ああなるほど、君に叱られないように気をつけていたら自動的にこうなった、ということだね。シオンもかわいそうに」
 ねぇ、と気軽な表情で同意を求められ、シオンは薄茶の髪を揺らしながら慌しく首を振った。とんでもありませんっ、と悲痛な口調で絶叫するシオンに、エディオは心から不思議そうな顔で首を傾げてみせる。
「……カイザー、こんな良い子を手元に置いていて、よくもまあ渾身の力を込めて虐め倒したくならないね? それともやっぱり丸くなったのかい?」
「お前と一緒にするな。俺が『意味もなく』こんなガキを虐めるはずがないだろう? 俺はそこまで暇じゃないからな。なあシオン」
「……え」
「何だ? 何か言いたいことでもあるのか? 聞いてやるから言ってみろ」
「……あ、いえっ、何でもありません!」
 これは意味のない虐めではないのだろうか、という思いにはあえて目を瞑り、シオン反射的に背筋を伸ばしながら力いっぱい断言した。 
 優しく親しみやすい主君とは言えないが、カイゼルは意味もなく相手を威圧したり、陰湿な嫌がらせをしたり、権威を笠に着て無駄に威張り散らしたりはしない人間である。揺るぎない実力を持って他者を圧倒するカイゼルだからこそ、シオンを初めとする部下たちは何よりの忠誠を誓い、貴族たちは秩序を破壊する危険分子として忌み嫌うのだろう。シオンはそれを理解していた。心酔していた、と言ってもいいほどだ。
 意味もなく虐めるはずがない、という言葉には即答出来なかったものの、必死な表情で主君の意に沿う答えを探し始めるシオンに、エディオがやんわりと苦笑しながら助け舟を出した。
「やっぱり虐めてるじゃないか。まあ、人間の性質なんて一年やそこらで変わるものでもないけどね。……それと、私の身分をシオンに教えなかったのは新手の嫌がらせかい?」
「あ? 誰がそんな面倒なことをするか。告げるまでもないと判断したから意図的に忘れただけだ」
「知ってたかい、カイザー? 噂によると、それを巷では嫌がらせと呼ぶらしいよ? まあ、あくまで信用に値しない単なる噂だけどね。――――じゃあ、改めて自己紹介しようか、シオン」
 慣れた様子でカイゼルに答えておいて、エディオは困惑気味に立ち尽くしているシオンに笑みを見せた。
「私はエディオ・グレイ・レヴィアース。君が見抜いた通り、エルカベル騎士団軍師の任に就いてる。一応、カイザー……カイゼル・ジェスティ・ライザードの幼馴染で親友だよ」
「腐れ縁の知人、の言い間違いだな。ついに呂律も回らなくなったか?」
 冷笑を浮かべてすっぱりと言い切ったカイゼルに、エディオはわざとらしく切なげな溜息を吐いた。
「いつも思うことだけど、君のその性格は信者と敵しか作らないからね。可能なら改善することをお勧めするよ?」
「寝言は寝て言え。その前にお前の性格を改竄してみせろ」
 それでまともになるならな、というカイゼルの言葉を受けて、騎士団の若き軍師はくるりとシオンに向き直った。口元にふわりと苦笑が浮かぶ。
「こういう人だからね、カイザーは。よくもまあこんなに長くつき合えてるものだよ、我ながら。……セレニアも、昔から物好きと言うか何と言うか」
「あ……えぇと」
「ああ、いいんだよ、無理して答えなくても。それじゃあ次、シオンに自己紹介してもらっても構わないかな、ご主君?」
 台詞の前半はシオンに、後半は椅子の上で長い足を組んでいるカイゼルに向けたものだった。聞き慣れない名前に思わず首を傾げたが、カイゼルが深青の瞳でこちらを見たことに気づき、シオンは頭で考えるより先にすっと居住まいを正す。侍従として身についた条件反射だ。
 それを見やって満足げに笑い、カイゼルはエディオを向かってぞんざいに顎をしゃくってみせた。
「この馬鹿に名乗ってやれ、シオン。お前の身分と、出身地もな」
「――――はい」
 それだけでカイゼルの意図を汲み取り、片腕を胸の前に掲げる略式の礼をすると、シオンはエディオに向かって控えめな微笑を作った。
「改めまして、お会いできて幸甚至極に存じます、エディオ・グレイ・レヴィアース卿。カイゼル・ジェスティ・ライザード様の侍従を努めさせていただいております、シオン・ミズセと申します。……信じがたいことかもしれませんが、シェラルフィールドとは次元を異にする世界より参りました。魔力を持たない非力な身ですが、出来うる限りカイゼル様のお役に立ちたいと思っております。どうぞお見知りおき下さいませ」
 淀みのない口調ですらすらと名乗ってみせ、シオンはやや慎重な仕草でエディオの表情を伺い見た。出身地も告げろ、とわざわざカイゼルが命じてきた以上、エディオもいわゆる『カイゼル派』の騎士であると断定して間違いはない。だが、初対面の相手にいきなり「異世界から来ました」と言われ、「はいそうですか」とあっさり納得できる人間は稀だろう。場合によってはふざけていると取られる可能性もある。
 シオンはそれを危ぶんだのだが、エディオは幸いにも『稀』の範疇に入る人間だった。
「……それはそれは」
 それどころか表情を引き締め、濃い紫の双眸を小さく細めたのだ。
「セスティアルの言っていたことは本当だったみたいだね」
「……え?」
「歴史が動く瞬間に立ち会えるなんて光栄の極みだ。その片割れが古馴染みの友で、向かう先が望むものと一致している以上、私もまた選ばれた『駒』の一つだと思っていいのだろうね。……四玉の王もずいぶんと面白いことをなさる、人の身には過ぎた道だというのに」
「……あの」
 何と答えていいかわからず、助けを求めるようにカイゼルを見返ったシオンに、当の主君は普段通りの表情で鼻を鳴らしてみせた。
「放っておけ、シオン。こいつの仕事は軍師だと言っただろう」
「はい?」
「こいつの脳内は異次元だ。おおかた誰も知らないような古い知識を引っ張り出してきて、誰も知らないような方法で納得してるんだろう」
 いつものことだ、と言わんばかりの口調だったが、エディオは器用な動作で片方の眉を持ち上げた。心外だというように。
「それはひどいな、私はしごく真っ当なことを言っただけだよ。四玉の王の御意を思ってね」
「だからそれが変人だと言ってるんだ。人との会話中にふざけたことを口走るのはやめろ、鬱陶しい」
「あ、そういうことを言うのかい? ひどいな、後で面白いことを教えてあげようと思ったのに」
「だから馬鹿なことを口走るな。……お前が俺に『教えてあげる』? 長い隠居生活で耄碌したのか、エダ?」
 それはシオンが慣れ親しんで久しい、すべてのものを従える王者の口調だった。お前にそんな権限があると思っているのか、とほのめかす傲慢な言葉だったが、エディオは鼻白むことも顔をしかめることもなく、ひどく心地よさげな表情で淡く笑ってみせる。濃い紫の瞳が深青色の双眸を見つめた。
「冗談だよ、カイザー。我が友にして我が唯一の主君。何せ久しぶりだからね、この程度の戯れくらいは許されてしかるべきだろう?」
「お前の冗談は笑えんな、もう少し笑いの勉強をしてきたらどうだ?」
「思い切りひややかな笑みを浮かべながら言う台詞じゃないね」
 慎ましく控えているシオンを横目で見やり、エディオは全身を包む充実感にひっそりと笑った。
 他人には理解しがたいだろうが、軍師であるエディオにとって、この幼馴染に対する友情と忠誠心は矛盾せずに同居するものだった。水上砦シャングレインへ赴く以前、エディオとカイゼルの関係を指して、「友人同士ではなく単なる主従ではないか」と揶揄した大貴族の当主がいる。それに対し、エディオは奇妙なものを見るような顔で言い放ったのだ。彼と私が対等なわけがないだろう、と。
 エディオはカイゼルの頭脳であり、有能で賢明な部下であり、臆さずに腹のうちを言い合える稀有な友人だった。対等、あるいは自分が優位に立った交友関係しか認められない貴族たちなど、エディオにとっては憐憫と冷笑の対象でしかない。エディオとカイゼルはそうしてつき合ってきたのだから。
 ある意味奇妙な軍師との関係を、カイゼルも『面白いもの』として自然に許容していた。エディオだけではなく、セスティアルから向けられる絶対の忠誠も、薄氷を踏むようなヴェルとの関係も、異世界から渡ってきたシオンの存在も、カイゼルにとっては取り立てて騒ぐ必要のない『当たり前』なことなのだ。
 支配者の傲慢さを当然のようにまといながら、カイゼルは目の前に立つ己の軍師に笑みを向けた。
「まあいい、後でわかっていることは洗いざらい話せよ、エダ?」
「御意のままに、カイザー」
 どこまでも優雅な動作で一礼すると、エディオはそこで何かに気づいたように瞳を瞬かせた。無言で佇んでいるシオンへ視線を投げ、ちょいちょいと指先で近くに招く。
「……はい?」
 二人の間には数歩分の距離しか空いていなかったが、シオンは素直に頷いてエディオの傍へ歩み寄った。その肩にポンと手を置き、エディオは輝くような微笑をたたえてカイゼルに向き直る。
「忘れるところだったよ。君にも話があるって言ったね、シオン?」
「あ、はい」
「とりあえず、カイザーの許可をもらわなきゃいけないんだけど」
 肩に置かれた手に力がこもり、シオンは全身を嫌な予感が押し包むのを感じた。シェラルフィールドに招かれ、危険と隣り合わせの生活を送るうちに磨かれた直感が、可能な限り迅速にこの場から逃げろと訴えてくる。無論、主君と第一位階の騎士の前から逃亡するなど、ただの侍従に過ぎないシオンにとって不可能の代名詞でしかなかったが。
「あの、レヴィアース卿……?」
 冷や汗を流しながら首を傾げたシオンに、エディオは含みのある表情でにこりと笑っただけだった。そのままシオンの肩に両手をかけ、男にしては細身の体をカイゼルの前に押し出す。
 ついで告げられたエディオの言葉は、常識人であるシオンの理解を軽く超越したものだった。
「この子を私にくれないかい?」




 少年は優雅な動作で足を進め、広い露台に恭しく片膝をついた。
 まだ冬の支配下にある風が吹き、腰まで伸ばされた髪を空へ巻き上げていく。それを見やって目を細め、悠然とした足取りで少年の前に歩を進めると、エルカベル帝国皇帝ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアは口元に笑みを刻んだ。
「顔を上げよ」
「……は」
 声変わりの済んでいない少女めいた声だった。生真面目な動作で顔を上げ、硝子玉のような目でじっと見つめてくる少年に、ヴァルロは気のない様子で手すりの向こうへと視線を投げる。
 初春というのもおこがましい季節だったが、皇宮の庭園は使用人たちによって整えられ、民家の庭とは一線を画した優雅さをかもし出していた。水路では凍りつく寸前の水が日差しを弾き、花の代わりに常緑樹が葉をしげらせ、他のどの季節とも違う澄んだ重厚さを演出している。何の感慨のふくまれていない視線でそれを見下ろすと、ヴァルロは片手で跪いたままの少年を手招きした。
 一瞬だけ迷うように視線をさまよわせたが、すぐに失礼いたします、と呟いてその場に立ち上がり、少年は皇帝の数歩後ろにまで歩み寄った。見返った蒼の瞳が冷たく笑う。
「軍師、エディオ・グレイ・レヴィアースは少し前に帰還したそうだ」
「はい」
「これでライザード卿の『剣』たちがほぼそろったことになる。今頃は屋敷で再会を喜びあっておる頃だろう」
「はい、陛下」
 少年の返答はどこまでも従順だったが、なぜそれを自分に話すのだろう、という疑問が色素の薄い瞳を掠めた。それに気づいているのかいないのか、ヴァルロは喉を鳴らして低く笑い声を立てる。そのまま節くれだった指に手首をつかまれ、静かだった少年の双眸に感情の小波が走った。
「……陛下?」
「今はまだだ。だが、そうだな。じきにお前にも役目を果たしてもらうことになりそうだ」
「それは、承知しております。偉大なる皇帝陛下。私などにそのような大任をお任せくださったご恩、愚かな私とて忘れたことはございません」
 滑らかに紡がれる言葉を受けて、ヴァルロは少年の細い手首をくるりとひっくり返した。手首の内側に刻まれた刺青を見やり、唇の端でひそやかに微笑する。
 低く耳障りの良い声が大気を震わせていった。
「お前の役目はわかっているだろう?」
「ええ、陛下」
「ならば問おう。お前の役目は?」
「『打ち込まれたひとつの楔』」
「楔とは?」
「『いずれ来たる破局の引き金』」
「引き金とは?」
「……『刃を隠した一振りの剣』。そして『鍵の鮮血と涙』」
 少年の答えは奇妙なまでに淡々としていた。教えられた台詞を読み上げているように。自分でもその意味を理解しかねているように。
 あっさりとした態度で一つ頷き、つかんでいた少年の手首を開放すると、ヴァルロは再び皇宮の庭園に蒼い双眸を向けた。
「つまりはそういうことだ。じきにすべての意味がわかる。我が望みも叶う。……リヴィウスも喜んでくれるであろうよ」
「……は」
「……ああ、お前にも呼び名が必要か。こう呼ばれたいという望みはあるか、我が小さな楔? 出来うる限り叶えてやるが」
「いいえ」
 間髪いれずに首を振り、少年は初めて笑顔を呼べるだけの表情を作った。片腕を胸の前に掲げ、どこか芝居のような仕草で略式の礼を施す。
「どうぞ陛下のお望みのままに」
 何と呼ばれようと本望にございますゆえ、という少年の言葉に、ヴァルロは片手を顎にあてて軽く首をひねった。ふむ、と楽しげな口調で呟き、思案するように空へと眼差しを流す。
「そうだな。では……」
 ヴァルロの声をさらうようにして風が吹き、青すぎる初春の空へと吹き抜けていった。
 遠い未来にもたらされるだろう、避けがたい悲しみと痛みを嘆くようにして。






    


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