6 剣、翼、そして扉を開く者


 


 シオンを書斎から下がらせ、今気づいた、とばかりに片方の眉を吊り上げると、カイゼルは穏やかに笑っている幼馴染に向き直った。
「で?」
「うん?」
 エディオがとぼけた表情で首を傾げる。人好きのする柔らかな微笑だったが、濃い紫の瞳は楽しげに煌き、エディオの内心を何よりも強く物語っていた。うきうき、という擬音が聞こえてきそうだ。
 胡散くさげに目をすがめつつ、カイゼルは揶揄するようにして唇の端を持ち上げた。
「お前は結局なにをしに来たんだ? まさかシオンを口説きに来ただけ、ということはないだろう?」
「そりゃあそうだよ。ここで実際に会うまで、シオンのことは人づてにしか聞いてなかったんだからね。さすがに初対面の子を口説くためだけに来やしないよ」
「お前ならやりかねんがな」
「あ、ひどい」
 そういう言い方は傷つくな、とわざとらしい口調で呟き、エディオは執務机の横にある本棚へ歩み寄った。突っ立っているのに疲れたらしく、よいしょ、という声と共に背中をもたれさせる。
 部下の態度としては誉められるものではないが、カイゼルは特に何も言わなかった。眼差しだけでその動きを追い、黙っているエディオに答えの続きを促す。ふざけていては追い出されかねないと悟ったのか、単に軽口を叩くのに飽きたのか、エディオはくすくすと喉の奥で笑い声を立てた。
「とりあえず、君を訪ねたのにはいくつか理由があるけど……って、なんでそこで嫌そうな顔するんだい、カイザー?」
「それが全部すむまで帰らないつもりか、とっとと終わらせて失せろ、はっきり言って仕事の邪魔だ――――と思っただけだ。阿呆面下げてないで続けろ」
「……うわぁ、私の繊細な心は今の言葉で木っ端微塵に破壊されたよ。まあ慣れてるからいいけど」
 気軽な動作で肩をすくめ、エディオはシオンが出て行った扉に眼差しを向けた。
「じゃあ話を戻すけど、理由の一つはシオンに会うためだ。君が拾って侍従にした挙句、戦場にまで連れて行くなんて並大抵のことじゃないからね。ぜひその少年の顔を見なければ、という思いに駆られちゃったわけだよ。もちろん、口説くのを決めたのはさっき会話してからだけど」
「野次馬根性だな」
「あ、そういうこと言うかい? ……で、二つ目。こっちが本題だけど、私の後を引き継いでシャングレインの責任者になった騎士について」
 カイゼルの双眸に鋭い光が過ぎった。薄い微笑を保ったまま、頬杖をついていた手を外して体を起こす。
「確かシフォード、だったか?」
「そう、あの頑固なシフォード老だよ。ちょっとお年を召しているけど、皇帝陛下に対する忠誠心なら第一位階の騎士の中でも随一だ。まあ順当な人事だろうね」
「皇帝側からすればな。よくもまあ、あそこまで融通の効かない堅物のジジイに砦を任せる気になったものだ。部下たちは息が詰まって大変だろう」
 それは相手を容赦なくこき下ろす言葉だったが、カイゼルの口調には悪意も、冷笑も、他の貴族に向けるような軽蔑も混じってはいなかった。だからこそにこやかな笑みを浮かべ、エディオは過去をなつかしむように瞳を細める。
「シフォード殿は確かに頑固者だけど、大貴族の連中と比べたらかなりマシだったじゃないか。君のことも騎士団長だと認めていたし、会ったら必ず礼を尽くしてくれたし」
「その分小言も多いがな。目付け役にでもなったつもりか、俺が皇帝に不遜な態度を取るたびに『なりませんぞ団長』の一点張りだ。昔気質もここまで来れば貴重だろうよ」
「確かにね。皇帝本人が面白がってる、というより望んでるんだから放っておけばいいのに」
 カイゼルが団長に就任する以前、大貴族が『第一位階の騎士』の身分を独占していた時代に、一兵卒から始めて最高位にまで上り詰めた騎士。それが平民出のシフォード・ロアだった。
 カイゼルが騎士団内の改革を推し進め、セスティアル、ヴェル、エステラなどの若い騎士を登用していく中、シフォードはすでに五十近かったにも関わらず第一位階を退かなかった。カイゼルなりに老将へ敬意をはらった結果だろう。シフォードもカイゼルを団長として認め、ごく自然に部下として膝を折ったが、彼はよくも悪くも融通の効かない性格をしていた。そこが若い騎士とシフォードの差だ。
「あの頑固さじゃ、皇帝側を離れてこっちの陣営につけ、って言っても無駄だろうね。たとえ捕虜にして投降を迫っても、シフォード殿なら間違いなく自決を選ぶだろうし」
「そうだな。皇帝もそれがわかってるからお前の後釜に据えたんだろう。シャングレインは完全に皇帝側と見なすべきか」
「多分ね。第一位階の中でも味方なのが確定してるのは、今のところセス、リチェル、カズイ、グラウド、ジェイン、エステラ……それにまあ、多分ヴェルかな。あとは私。シフォード殿と、レイターのルイとレスティニアは敵。残りの二人はどうだろうねぇ」
「まず間違いなく敵だな。……が、ルイやレティア、ジジイと違って口説ける可能性もある」
 のんびりとした表情で首を傾げたエディオに、カイゼルは不敵に笑って断言してみせた。エディオが軽く目を見張る。
「………カイザー。今、つくづく君が男殺しでよかったと思ったよ。なにげに第一位階の騎士を八人も篭絡してるしね」
「エダ、死にたいなら遠回しな言い方をしないでそう言え。今なら特別に俺自ら殺してやる」
「冗談が通じないと怯えられるよ、主にシオンに」
 冗談とも本気ともつかない口調で呟き、帝国最高の軍師は窓の外に視線を投げた。
 書斎は日当たりの良い二階に作られている。窓の外では常緑樹が葉をしげらせ、初春の光と風をあびてざわざわと歌声を奏でていた。会話の内容にそぐわない天気だね、と胸中に呟き、主君にして友人である青年に視線を戻すと、エディオは右手の指を折りながら言葉を続けた。
「君の『剣』になりうるのはヴェルたち五人。『翼』になりうるのはレイターであるセスとリチェル、それに軍師である私。戦い、飛翔するのに必要な者たちは集いつつある。あとは扉を開く『鍵』、シオンがどんな役割を果たすかだね。そればかりは私にも予想がつかないけど」
 歌うようなエディオの言葉を受けて、カイゼルは口元に不敵な笑みを上らせた。
「役に立たせるに決まってるだろう。あいつは俺の『切り札』だからな」
「……昔からそうだけど、君に断言されると心配する気が失せるのはなぜだろうね、カイザー」
 聡明そうだった少年の瞳を思い出し、エディオは喉を鳴らして小さく笑った。無邪気な子供を思わせる笑みだったが、そこでふと真顔に戻り、本棚から離れて執務机へと歩み寄る。両目だけが悪戯っぽい光を浮かべて輝いた。
「それから、君を訪ねてきた理由の三つ目」
「なんだ、まだあるのか?」
「それがあるんだよ。まあ、ついさっき出来た理由なんだけどね」
 エディオの唇が淡く笑みを刻んだ。
「私がさっきから口にしている『鍵』という言葉について」
 君にも話しておこうと思ってね、というどこまでも穏やかなささやきに、カイゼルは深青色の双眸を細めてエディオを見やった。エディオも笑ったままで視線を受け止める。
 長くも短くも感じられる沈黙を破ったのは、わずかに笑みを含んで響くカイゼルの声だった。
「それがさっき言っていた『面白い話』か?」
「その通り。多分ご期待に沿えると思うんだけど?」
「いいだろう、話してみろ」
「御意のままに、カイザー」
 エディオに否やがあるはずない。世間話をするような気軽さで頷き、自分の知っている『事実』について話し始めた。




 今日だけで一月分の緊張と驚きを使い果たした、などと思いながら、シオンはふらふらと螺旋階段を下っていた。あらゆる事態に対して耐性がついたつもりだったが、どうやらまだまだ修行不足だったらしい。
「高校生が軍師の弟子って……」
 大将軍の侍従、というだけで十分ありえない役職だが、『軍師の弟子』はそれに輪をかけて信じがたい話である。同級生に告げても笑い飛ばされるのがオチだろう。夢の見すぎもたいがいにしろよ、と。
「どうしよう。夢……なわけないし、冗談でもなさそうだったし」
 思わず頭を抱え、あああ、と意味をなさない呻き声を上げるシオンに、階段を上っていく使用人たちが微妙な視線を投げかけていった。そこには多分に憐れみが含まれている。また旦那様に虐められたのか、という声が聞こえてきそうだったが、自分の思考にはまり込んでいるシオンはそれに気づかなかった。特大の溜息をひとつ吐き、いつの間にか止まっていた足を動かし始める。
「本当にどうしよう……あ、もしも弟子入りするとして、ヒューガ卿は認めてくれるのかな……」
 絶対に無理な気がする、と絶望的な気分で呟き、豪奢な天井を仰いだ瞬間だった。
「カズイがどうかしたんですか?」
「うわあっ!!」
 突然背後から涼しげな声が響き、シオンの心臓に多大なる負担をかけたのは。
「あ、すみません。驚かせてしまいましたか?」
「…………セッ、セセセ、セ……ッ」
「はい?」
「セスティアル様ッ!?」
「はい、私は間違いなくセスティアルですけど、どうかしました?」
 心臓の真上を押さえ、肩で息をしながら振り返った侍従の少年に、美貌の青年は青みがかった銀の瞳を瞬かせた。艶やかな漆黒髪がさらりと流れる。
 どこかへ出かけていたのか、今日のセスティアルは黒の騎士服をまとい、紫のマントを三日月の飾りで留めていた。髪を束ねた銀の結い紐、腰に下げられた装飾用の細剣、精緻な刺繍の施されたベルトと水晶の飾りが、この世のものとは思えない美貌をさらに美しく彩っている。バクバクいっている心臓をなだめ、一度大きく深呼吸すると、シオンは目の前に立つ魔術師に感嘆の視線を送った。
 声もなく見惚れているシオンを見やり、セスティアルは繊細な容貌を苦笑にほころばせた。
「……大丈夫ですか、シオン? 何だか驚かせてしまったみたいですね」
「あっ、いえ……っ」
 シオンは勢いよく首を振った。カズイかエディオが現れたと思って驚いた、とは口が裂けても言えない。
「何でもないんです。ちょっと考え事をしていたものですから……」
「そうですか? それならいいんですけど」
「すみません、大声を上げてしまって……あ、セスティアル様はどうなさったんですか?」
 セスティアルもシオンと同様、二階の方から一階に向けて螺旋階段を下っていた。別におかしなことではないが、セスティアルの服装を見ると、たった今用事をすませて帰って来たばかりだとわかる。行き違いになった可能性もあるとはいえ、それならカイゼルのもとに報告に訪れてもよさそうなものだ。
 疑問をこめて見つめてくるシオンに、セスティアルはああ、と呟いて柔らかく微笑んだ。
「ちょっと外に出ていたんですが、馬を使うのが少し面倒くさかったので『転移』を使ったんですよ。だから帰りも直接二階の露台(バルコニー)に出たんです」
「ああ、それで」
「ええ。我が君のところへ報告に行こうかと思ったんですが、お客さんと密談しているようなので遠慮しました」
 茶目っ気たっぷりに言ってくすくすと笑う。軽く首をかたむける様も、結われた黒髪が流れる様子も、月明かりのような瞳が細められる仕草も、美貌を見慣れたシオンが思わず感動するほど絵になるものだった。いつもよりさらに美麗な格好をしているせいか、どこか神がかった雰囲気さえかもし出しているように見える。
 やっぱり綺麗だなぁ、と内心で感嘆したシオンに、セスティアルは笑顔で爆弾を投じてみせた。
「それで、カズイが何を認めてくれないんですか?」
「……っ!」
 シオンの喉がゴフッ、と奇妙な音を立てた。呼吸に失敗して咳き込み出した少年に、セスティアルは青銀の双眸を軽く見張る。
「大丈夫ですか、シオン? ――――すみません、ちょっと唐突でしたね」
「……あ、いえっ、そんな……」
「……ああ、カズイが我が君のところへご挨拶に来たんですか。それでシオンが案内をした、と。……あ、なるほど、それで」
 シオンの背をはすってやりつつ、セスティアルは知らないはずの事実をあっさり口にした。魔術を使って場の『記憶』を読んだか、大気中の『魔力』が自主的に彼へ教えたかのどちらかだろう。セスティアルは最高位の魔術師である『レイター』であり、シェラルフィールドに満ちる魔力を統べる者なのだから。
 空気のざわめきに目を細め、セスティアルは同情のこもった眼差しでシオンを見つめた。
「なんというか、災難でしたね。シオン」
「……そんなことはないです。やっぱりその、認めていただけないのは僕が未熟だからですし」
 セスティアルに背中をさすってもらう、などという恐れ多い状況に赤面し、礼を言ってから居住まいを正すと、シオンは前向きな強さを伺わせる微笑を作った。
「ですから、そのうち認めていただけるように、もう少しカイゼル様のお役に立ちたいと思います。まだまだご迷惑をかけることが多いでし、戦場でも……お役に立てるとは言えませんから」
 セスティアルも瞳を細めて優しく笑った。ほっそりとした手を伸ばし、親しみをこめてシオンの肩を叩く。
「やっぱりシオンはいい子ですね」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜しなくてもいいですよ。……カズイもね。本当はいい人なんですけど、ちょっと子供っぽいところがあるというか、青いというか」
 笑顔の中に苦笑を滲ませ、セスティアルはシオンの肩から手を離した。
「だからきっと大丈夫です。カズイもきっかけが欲しいだけだと思いますから。案外、一度わだかまりが溶けたらあっさり手のひらを返すかもしれませんよ」
 冗談めかした言葉だったが、何よりも温かい響きを持ってシオンの胸に染みていった。ありがとうございます、とシオンが頭を下げ、セスティアルが穏やかな表情でひとつ頷く。
 周囲の空気がふんわりと緩んだが、それだけで終わらないのがセスティアルの『一筋縄ではいかない』ところだった。
「それじゃあ、私もシオンのために一肌脱ぎましょうか」
「……え?」
「ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。余計なことはしませんし、カズイに対して何か働きかけるわけでもありませんから」
「……あ、えっと」
「大丈夫ですよ。お兄さんに任せて下さい」
「あ、はい……って、え?」
 笑顔に押されるようにして頷きかけ、シオンは我に返って目を丸くした。そのままビシリと音を立てる勢いで凍りつく。
 そんなシオンに気づいているのかいないのか、黒髪の魔術師は優しい表情でにこりと笑った。優雅な動作でシオンの横を通り過ぎ、階段を数段下りたところで振り返る。青銀の瞳はどこまでも楽しそうに微笑していた。
「行かないんですか、シオン?」
 いつまでもそんなところに立ってたら邪魔になりますよ、という言葉を残し、セスティアルは弾むような足取りで階段を下り始めた。さらりと揺れた黒髪を見やり、シオンは呆然とした様子で小さく呟く。今聞いた言葉が信じられない、というように。
「――――おにい、さん?」
 それがセスティアルなりの冗談だったのか、「兄だと思ってくれても構わない」という気遣いだったのか、シオンはどうしても確かめることが出来なかった。あまりのことに頭が働かなかった、と言った方が正しいかもしれない。
「……あ、そうか」
 レヴィアース卿はセスティアル様に似てるんだ、という儚い呟きは、誰かの耳へ届く前にほどけて消えた。






    


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