7 英雄の軌跡





 皇宮の外壁は二重構造で、一つ目の門をくぐったところが外苑(がいえん)、二つ目の門の先が正苑(せいえん)と呼ばれている。
 正苑を取り囲むように広がるのが外苑で、厩舎や武器庫、食糧貯蔵庫などが点在する区域である。大規模な書庫があるのもこの外苑だ。正苑には皇帝の居城である宮のほか、皇族が住まうための離宮、始祖の時代から守られてきた宝物庫、四玉の王を祀る神殿などがあり、名実共にエルカベル帝国の中枢となっている。
 エディオがシオンを連れて訪れたのは、外苑の中でも『青の苑』と呼ばれる場所に作られた書庫だった。
 四玉の王の伝説にちなみ、外苑は青の苑、緑の苑、黄の苑、赤の苑にわけられている。名称だけでなく、建物や植えられている花々の色が青、緑、黄、赤で統一されているのだ。目に痛くない程度の濃淡をつけ、広大な敷地を淡い四色に塗り分けた様は、ここが帝国最大の『城』であると納得させるだけの壮麗さに満ちていた。
 『青の苑』と呼び名される一角をつっきり、薄く青みがかった建物に足を踏み入れると、シオンはすでに何度目か知れない溜息を漏らした。
「……すごいですね」
「だろう? ライザード家の書庫もかなりのものだが、なんといっても帝国随一の蔵書を誇る皇宮の書庫だからね。ここに来ればたいていの書物は見られることになってるよ」
「たいていの、ですか?」
「そう。ま、『家庭料理の作り方』みたいな本はないだろうけど」
 悪戯っぽい表情で肩をすくめ、エディオは林立する本棚の間を足早に進んだ。シオンもきょろきょろしながら後に続く。
 本棚の配置はいわゆる『図書館』に似ているが、室内の面積が比べ物にならないほど広く、天井が高く、通路の間隔も十分に取ってある。採光窓は必要最低限の数におさえられ、火の気を伴わない明かりが薄暗がりの中で揺れていた。
「中々壮観だろう、シオン?」
「はい。それにとても綺麗です」
 ちらりと背後を見返ったエディオに、シオンは拳を握り締める勢いで何度も頷いた。
 外観は青みがかった石造りだが、壁や床は光沢のある木で作られ、魔力の明かりに映えて濡れたように輝いていた。少しでも湿気を吸収し、中の本を傷めないようにするためだろう。奇妙なところに感心していると、奥まった位置にある扉に向かい、管理者と会話していたエディオがシオンを手招きした。扉の中に入る許可を取っていたらしい。
「……中に入るんですか?」
「そうだよ。ここから先は貴族の中でも名を三つ持つ『大貴族』か、第三位階以上の騎士しか入れないことになってる」
「えっ……」
「あ、シオンは大丈夫だよ」
 濃い紫の双眸が楽しげに細められた。管理者の空けた扉をくぐり、ここだけは石造りになっている通路を進みつつ、エディオは隣を歩くシオンに冗談めかした視線を投げる。
「知ってるかい、シオン? 世の中の貴族……特に大貴族と呼ばれる人間はね。一人では満足に扉を開けることも、水をグラスに注ぐことも、服に袖を通すことも出来ないんだよ」
「え? ……あ」
「わかったみたいだね?」
「はい」
 シオンの口元に淡い苦笑が滲んだ。
「つまり、侍従というのは人数に数えられないんですね。大貴族の方と、そのお世話をする侍従でワンセットで、侍従は主君の付属品として扱われると」
「わんせっと?」
「……え、あっ、すみません!」
 うっかり口をついて出た『横文字』に、シオンは自分がどれだけこの世界に馴染んでいたか思い知らされた。
「僕の世界の言葉で、主君と侍従で一人として扱われるとか、そういう意味です。……すみません、ぽろっと」
「へぇ、君の世界の言葉か。――――カイザーに聞いたところによると、君は初めからこの世界の言葉が話せていたようだけど?」
「はい。理由はわからないんですが、なぜか最初から皆さんの言っていることがわかりましたし、僕の言っていることも理解していただけました。……でも、伝わらない言葉もあるみたいで」
 理由はわからないが、タイミング、イメージ、バスルーム、あるいはダントツなど、明らかな英語や俗語はこの世界の人間に通じなかった。理解できるのは会話だけで、習うまでは文字が読めなかったこととも関係があるのかもしれない。
「なるほど、面白い。今度ぜひ君の世界の言葉を教えてほしいな。理解できたら楽しそうだ」
「はい。機会がありましたらぜひ」
 穏やかな口調で会話しているうちに、先ほどの部屋より一回りほど小さな一室に出た。
 表にあった部屋と違うのは、いっそ極端なまでに明かりが少ないことと、並んでいる本が一目でわかるほど古めかしいことだった。中には羊皮紙を紐で閉じただけのものや、修繕を繰り返してボロボロになってしまったものもある。中央には四角いテーブルがいくつか配置され、豪奢な細工の椅子が周囲を囲んでいた。
「レヴィアース卿、これは……?」
 シオンが興味を示したのは、テーブルの上に置かれている地図のような『板』だった。テーブルの半分を占領するほど大きく、山や平野、草原、川、湖、湿地帯などが細かい図で示されている。その上には小さな『駒』が雑然と置かれ、とぼしい明かりを弾いて白と黒に輝いていた。
「ああ、これはね。私みたいな軍師や将軍が、戦の際の戦術を色々と考えるためのものだよ」
「戦術、ですか?」
「そう。ここで貴重な兵法書を読んだり、かつての戦の記録を見たりして、自軍の布陣や相手側の陣形を考えるんだ」
 まあお遊びみたいなもんだけどね、と苦笑交じりに続け、エディオは椅子に座るようシオンを促した。自分は本棚から一冊の本を取り、ぱらぱらとページを繰りながら向かい側に腰かける。
「たとえばこれだ」
 白と黒に塗り分けられた駒のうち、エディオが取り上げたのは黒く輝く駒だった。
「三百年前に実際にあった戦闘なんだけどね」
「はい」
「エルカベル帝国に対して、独立志向の強い地方都市が団結して戦争を仕かけてきた。その時に行われた戦闘の一つで、レマ山が両陣営の激突の地になったことがある。レマ山については知ってるかい?」
 軽く首を傾げたエディオに、シオンは慎重な動作で頷いてみせた。
「外壁都市トランジスタの向こう側、かなり広い平原から続く山ですよね。あまり大きくはない……」
「そう。そこで都市の連合軍はレマ山の山頂付近に布陣した。戦争にあって高地に布陣するのは定石だからね。帝国側としては相手にみすみす有利な場所を取られてしまったことになる」
 エディオの指が軽やかに動き、黒い駒を次々と『山』の位置に置いていく。
「さて、少し遅れて平原にやってきた帝国側は、山に布陣した連合軍に対してどんな戦術を取ったと思う? ……ああ、一応言っておくけど、戦闘そのものは帝国側の圧勝だったよ」
「……」
 シオンは困惑気味に碧の瞳を瞬かせた。いきなり難題を突きつけられて困っているわけでも、問題の意味がわからず途方に暮れているわけでもない。突然「1+1は?」と問いかけられ、素直に「2」と答えていいのか迷っているような、何とも形容しがたい複雑な表情だった。
「あの、レヴィアース卿」
「なんだい?」
「連合軍の兵力はすべて山の上に布陣したんですか? 一人残らず?」
「そうだよ。完全に陣形を整え、『上がってこられるものなら上がって来い』と待ち構えてたらしい」
「双方の兵力はどれくらいですか?」
「いい質問だね。いくら連合軍とはいえ、正規軍並みの人数をそろえられるわけはない。それでも帝国史上稀に見る大規模な反乱だったから、敵の兵力はこの時点で三万強。翻って帝国軍は五万弱だ」
「……それなら」
 シオンの細い指が白の駒を取り上げた。どこか自信のなさそうな面持ちのまま、それを地図板の上にきっちり配置していく。
 山全体を取り囲むように。
「こうして山全体を自軍の兵で包囲して、持久戦に持ち込んだらどうでしょう? 敵が山頂に布陣しているなら、当然補給もままならないということですよね? だったら相手の補給戦を絶って、こっちはじっと待っているだけで決着はつくと思います。痺れを切らして山から下りて来たとしても、平地にいるように全軍がそろって、というわけにはいきませんし。迎え撃つのは容易なんじゃないかな、とか、思ったりするんですが……」
 黙っているエディオに不安を掻き立てられ、シオンは地図上に落としていた視線をそっと持ち上げた。やっぱりこんな簡単な答えじゃだめなんだろうか、という思いが碧の瞳を過ぎっていく。
 子犬のような目でじっと見つめられ、エディオは堪えきれない、とばかりに小さく噴き出した。そのまま肩を震わせて笑い始める。大笑いといっても差しつかえのない勢いで。
「あの、レヴィアース卿……?」
「ああ、いや、ごめんごめん」
 なにも笑わなくても、と恨めしげな表情を作るシオンに、エディオは目尻の涙をぬぐいながら片手を振ってみせた。
「違う違う、君の答えは大正解だよ、シオン。なにも答えがおかしいから笑ったわけじゃない。……なんていうか、理路整然とした戦術と自信のなさそうな表情の差異が面白くてね。いやもう、カイザーも大した拾い物をしたものだ」
「……え、正解ですか!?」
「そう、大正解だ。時の帝国軍の軍師は、まさに君が言った通りの戦術を用いて連合軍を疲弊させ、自棄になって山を下りて来たところを散々に打ち破ったんだよ。――――それに気づいただけでも大したものだけど、惜しむらくは『敵の援軍』の存在を聞いて来なかったことだね」
「……あ」
「気づいたかい? 敵に強大な援軍がいた場合、山頂に布陣した本陣と挟撃される恐れもある。まあ、最初に敵は三万弱と聞いた以上、普通はそれが敵の全兵力だと思うけどね。どんな場合でも、どんな小さなことでも疑ってかかり、後に禍根を残さないのが軍師の役目なんだよ」
「――――はい」
 シオンは真剣な表情で頷いた。
 シオンはまったく知らなかったのだが、もし知っていたら驚愕を隠せなかっただろう。あの有名な三国志で、蜀の馬謖(ばしょく)が原則に捕らわれて山上に布陣し、それを包囲した敵の将軍によって敗北を喫した、というエピソードを。
 なんの予備知識もないまま『正解』を導き出した少年に、エディオは喉を鳴らして低く笑い声を立てた。広げたままの本をそっと取り上げ、向かい側に座っているシオンに差し出してやる。
「今の話はここに載ってる。これは三百年前に書かれたものなんだけどね、今までの歴史書や兵法書とは少し違って、すごく斬新な書かれ方をしてるんだ。目のつけ所が違うっていうのかな」
 差し出された本を両手で受け取り、シオンは年代を感じさせる黄ばんだ紙に視線を落とした。写植のように綺麗というわけではないが、きちんと大きさのそろった文字が整然と並んでいる。
「残念ながら持ち出すことは出来ないけど、この中でならいくらでも読むことが出来るよ。……ああ、多少古い言葉で書いてあるけど、もう古語は勉強はしたかい?」
「あ、はい! ウィルザス様に教えていただきました。古代の文法までなら習いましたので」
 大丈夫だと思います、というシオンの言葉を受け、エディオは満足そうな表情で一つ頷いた。
「さすが爺や。なかなか進みが早いようだ。それなら大丈夫」
「……あ」
「ん?」
「あの、レヴィアース卿」
 もぞもぞと居心地が悪そうに身じろぎ、言いにくそうに視線をさまよわせると、シオンは微笑している軍師をためらいがちに見上げた。
「これはその、すごく貴重な文献ですよね? よろしいんですか? ……あの、一介の侍従になんか見せてしまっても」
「ああ、それなら大丈夫」
「……」
「君に見せたのは勧誘活動の一環だから。ほら、こういうのを読んだり戦術を考えたりするのは楽しいだろう? 私の弟子、というか補佐役になればこういう特権がたくさんついてくるんだよ」
 すばらしいと思わないかい、という冗談めかした軍師の言葉に、シオンは力が抜けた風情で小さく噴き出した。エディオも肩をすくめて穏やかに笑う。
 初めて会った時からそうだったが、エディオは常に飄々とした様子を崩さず、相手に必要以上の緊張を強いることもなかった。シオンはそれを嬉しく思う。無条件でその手を取ってしまいたいと願うほどに。
「……レヴィアース卿」
「なんだい?」
「あの、お話が」
 あるいはだからだろうか。曖昧だった言葉がすんなりと固まり、何の抵抗もなく口をついて出たのは。
「――――お話が、あります」






    


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