9 愚か者の言葉


 


 魔力によって作り出された光は、揺らめくように水色から青、群青、紺碧、藍色へと色を変え、『青の苑』を夢幻的な光の底に沈めていた。それは燭台のように温かな明かりでも、松明のように熱をはらんだ光でもない。大理石の女神たちが片手を上げ、その手のひらの上に淡い光を灯し、炎の揺らめきを思わせる輝きで暗がりを彩っているのだ。闇が庭園を支配するこの時間、『赤の苑』は赤い光を、『黄の苑』は橙色の光を、『緑の苑』は緑の光を、そして『青の苑』は青い光まとい、帝都最大の皇宮を美しい色に染め上げていた。
 書庫を後にし、『正苑』に寄るというエディオに別れを告げて、シオンは庭園の見事さに軽く息を吐いた。この明かりを灯すためだけに雇われ、庭園の照明管理を担っている魔術師が何人もいるという。シオンの感覚からすると信じがたい話だが、一見無駄なところに労力を使い、民に威容を見せつけるのも皇宮の役目なのだろう。気後れしないように拳を握り締め、侍従の証である白いマントをかきあわせると、シオンは青くきらめく小道を歩き始めた。
 蔓薔薇の巻きついた棚、石造りの四阿(あずまや)、せせらぎを奏でる水路の横を通り過ぎ、計算された美しさに何度も感嘆の表情を作る。カイゼルの共として何度も訪れているが、一人で歩く皇宮の庭園はまるで別の場所のようだった。
「……迷ったりしたらしゃれにならないよね、多分」
 苦笑めいた呟きを漏らしつつ、シオンは迷いのない足取りで庭園の小道を進んでいく。幸いというべきか、シオンの方向感覚は非常に優秀で、初めての場所でもそれなりに歩くことができた。構造のはっきりしている場所ならなおさらだ。
「師匠……師匠、かぁ」
 慣れない言葉を繰り返し、シオンは困ったような表情で首を傾げた。
「なんだか、複雑な心境かも」
 ささやくような声で呟き、青く揺らめく周囲に眼差しを向けた。エディオに告げた言葉に偽りはないが、異世界に迷い込み、カイゼルに拾われ、軍師に弟子入りしてしまった自分を顧みると、思わず「どうしてこうなったんだろう?」と首を傾げたくなる。日本の高校生の中でも五指に入る珍妙さだろう。
 シオンが何より怖くてならないのは、そんな身の上を積極的に受け入れている自分自身だった。
「……うーん。なんかもう、普通の高校生には戻れないよね。確実に」
 ほんのわずかな苦笑を零し、シオンは吹き抜けていく夜風に目を細めた。
 時折不安に襲われることもあるが、たとえこの場に黒衣の人物が現れ、今すぐもとの世界に帰してやると言ってきても、自分はきっと首を横に振るだろうという確信があった。まだカイゼルとの誓いを果たしきっていないからだ。彼の覇業を達成するため、いかなる時でも傍にいて力を尽くすという誓いを。
 ふぅっと短く息を吐き出し、風に遊んだ薄茶の髪を押さえると、シオンは生垣を抜けてやや広い道に足を踏み入れた。甘い薔薇の香りが鼻腔をくすぐり、周囲に散りばめられた明かりたちが視界をかすめていく。
「……あ」
 そこで思わず足を止めたのは、豪奢な朱のマントをたはためかせ、道の真ん中を我が物顔で歩いてくる二人連れに気づいたからだ。無意識のうちに顔をしかめそうになり、シオンは意志の力を総動員して表情を改める。
 それはありとあらゆる意味で対照的な二人だった。堂々たる長身と厚みのある体躯を持った男性に、ひょろりとした体つきでせかせかと歩く小男。ブラス・ティン・フォーネルとディック・ドーラン、という名前を思い出し、シオンは慎重な動作で道の端に寄った。
 ライザード家やヒューガ家に比べればささやかなものだが、フォーネル家もドーラン家も広大な領地を持つ門閥貴族だった。大貴族カイゼル・ジェスティ・ライザードの侍従とはいえ、平民であるシオンが道を譲らないわけにはいかない。可能な限り脇へ寄り、大袈裟にならない程度に頭を下げると、相手がこちらに気づかないで通り過ぎてくれるのを待った。
 めったに人を嫌ったりしないシオンだが、何事にも例外というものは存在した。シオンの大切な人に悪意を向ける人間、自分より弱い者を虐げて平然としている人間、あるいは他人を傷つけることを何とも思わない人間など、中身があまりにも卑しすぎる人間はいくらシオンでも軽蔑することしか出来ない。ブラス・ディン・フォーネルとディック・ドーランは、シオンが嫌いになる要素をすべて兼ね備えた醜悪極まる人間だった。
「……おや」
 そのまま通り過ぎてほしい、というシオンの願いも空しく、刺々しい毒に満ちた声が空気を揺らした。
「そこの小僧。確かライザード卿の侍従の……」
「シオン・ミズセですよ、フォーネル卿」
 足を止めたフォーネルの横で、ドーランが細い目を光らせながら言葉を添えた。ただでさえ貧相な小男だが、そういった表情をするとますます容貌の醜さが際立って見える。顔の作りそのものが醜悪なわけでも、立ち振る舞いが粗野なわけでもなく、性根の卑しさがこの男の容姿を見苦しいものへと変えているのだ。
 シオンは細く息を吐き出し、ゆっくりとした動作で顔を上げた。舌打ちしたい気持ちを押し留め、一瞬で表情を取りつくろうと、偽りの恭しさを込めて二人に一礼する。
「……お久しぶりです。ブラス・ディン・フォーネル卿、ディック・ドーラン卿におかれましてはご機嫌うるわしく存じ上げます」
 言葉を交わしたことなど数えるほどしかないが、シオンは主だった貴族の名前ならばすべて頭に入っていた。この場合はそれが幸いしたと言える。貴族と呼ばれる人種の多くは、『下々の者』が自分たちの名前を知っているのが当然だと思っているからだ。
 傲慢な仕草で鼻を鳴らし、フォーネルは隣のドーランに顎をしゃくってみせた。
「ドーラン卿。今日はライザード卿が皇宮に伺候なさっている日だったか? なにせ、ライザード卿は我らごとき下賎の身とは比べ物にならぬ高貴なお方だ。あの方がいらしているなら人の口に上らぬはずがないが」
「そうですね。ライザード卿が皇宮にいらした、という話は聞きませんが、確か今日はレヴィアース卿がいらしていたはず。ライザード卿とレヴィアース卿は以前から親しくなさっておりましたから、ご自分がご執心の侍従を貸し与えたのではありませんか?」
「なるほど。やはり大貴族の方々の遊戯は我らには想像もつかぬほど高尚でいらっしゃる。その上、このように身分の低い者を一人で歩かせるとは」
 皇宮スティルヴィーアが穢れる、とでも言いたげな口調だった。一見カイゼルを褒め称えているようだが、その実、フォーネルの表情に宿っているのは溶鉱炉のような憎悪と嫉妬だ。保守的な大貴族はカイゼルを忌み嫌い、中流以下の貴族はその名声と権力に妬み混じりの憎しみを抱く。彼らは明らかに後者の人間で、滑稽なほどの憎悪を両目に宿し、目の前で頭を下げている少年に毒のこもった笑いを向けた。
「これ、小僧。わかっているだろうが、ここはお前のような下賎の者が歩いていい場所ではない。疾く立ち去れ」
「――――は」
 二人の態度は不快以外の何ものでもなかったが、シオンは丁寧な動作で礼を返し、恐縮したように体を縮めてみせた。フォーネルのような人間が望むのは二つ、絶対的な服従と耳に心地よい追従のどちらかだ。それを熟知しているシオンは、申し訳ありませんでした、と畏まった口調で呟き、頭を低くしながら二人の横を通り過ぎようとした。
 そこへ、男にしては甲高いドーランの声が響き渡った。
「それにしても、ライザード卿は一体どういうおつもりなのでしょうねぇ。大貴族の当主ともなれば、侍従一人選ぶにも家柄や血筋を重んじるのが当然のはず。それなのにこのような氏素性の知れない子供を傍に置くとは。……しかも誉れ高き皇宮にまで連れ歩き、こうして一人で歩き回ることまで許すなど、名門ライザード家のご当主のなさりようとは思えませんな」
 ドーランの双眸が爬虫類のそれを思わせる光を宿した。白っぽくぎらつく瞳を見下ろし、フォーネルがことさらたしなめる口調で言葉を続ける。
「いや、ドーラン卿。我らごときがライザード卿の意図を詮索するなど不遜の極みだ、口を慎まなくては。……なにせあの方は『皇帝陛下さえ恐るるに足らず』と公言してはばからないと聞くからな。どこで我らの言葉を聞いていらっしゃるかわからぬ」
「おお、確かにそうでしたな。……いやはや、しかし『皇帝陛下さえ恐れぬ』とは、さすがは天下のライザード卿と言わざるをえませんな。我々凡人とは格が違う」
「まったくだ。もはやあの方に怖いものなど存在しないに違いない」
「まことに。――――なにせ、ライザード卿は偉大なる皇帝陛下さえ恐れてはいらっしゃらない御仁ですからね」
 実に意地の悪い笑みを浮かべ、ドーランは立ち止まった少年の背に尊大な表情を向けた。
「ねぇ、シオン・ミズセ。君はライザード卿の『お気に入り』なんでしょう? 案外、ライザード卿が他人には聞かせられないようなことを言っているのを知ってるんじゃないですか?」
「他人には聞かせられぬようなこと、とは?」
 それに答えたのはフォーネルだった。口の端に共犯者の微笑を湛え、たきつけるようにしてドーランの言葉を促す。
「あまり大きな声では言えませんが、ねえ? ライザード卿が陛下を敬っていらっしゃらないのはすでに周知の事実。……ですから、口さがない貴族たちは『ライザード卿はいずれ謀反を起こすのではないか』としきりに噂しているんですよ」
 怖いですねぇ、とわざとらしい口調で続け、ドーランはシオンに爬虫類の眼差しを向けた。だが、少年が平静そのものの表情で振り返ったのを見やり、わずかに面白くなさそうな表情を閃かせる。
「――――申し訳ございません、ドーラン卿。何を仰っておられるのかわからないですのが……」
 ひどく申し訳なさそうな顔つきで首を傾げるシオンに、ドーランとフォーネルは素早く視線を見交わした。
「ドーラン卿。いかにその小僧が『お気に入り』とて、ライザード卿がそんな重大なことを簡単に漏らすわけがあるまい。……まあ、卿の言ったことが事実であったとして、だがな」
「仰るとおりです。ですがまあ、事実であったとしたらこんなに恐ろしいことはありませんね。皇宮の重鎮たちに『若輩者』と侮られていたライザード卿を取り立て、今日の地位まで上りつめさせて下さったのは陛下でしょうに、ライザード卿はその恩人に刃を向けるのを躊躇わないと言うのですから」
「まったくだ。いや、これでも大きな声では言えぬことだが、さすがはかつて『魔性の子』と噂された方だな」
 ドーランとフォーネルの表情は笑顔だったが、そこに湛えられているのは正視に耐えないほどの憎しみだった。カイゼル本人にぶつけることが出来ず、普段は胸の内でぐらぐらと煮えたぎっている憎悪を、目の前に飛び込んできた『憎きライザード卿の侍従』にぶつけることで溜飲を下げようというのだろう。
 シオンは『貴族に難癖をつけられて怯える侍従』の表情を作り、頼りない様子で目を伏せていたが、その瞳の奥には滅多に見せないほどの怒りがあった。貴族二人はそれに気づかず、楽しげな口調を保ったままで声をひそめる。
「『魔性の子』というと、あれですね。ライザード卿が家督を継ぐことになった時の……」
「ああ」
 フォーネルの顔にはっきりした侮蔑が広がった。
「恐ろしい話よな。当時二十歳すぎの若者に過ぎなかったカイゼル・ジェスティ・ライザードが、当主であった父親を『殺して』家督を継いだなど。まったく、中流貴族にすぎぬ我らには想像もつかぬ話だ。……そんな主君に仕えるのはさぞ大変であろうな、そこの小僧?」 
 その瞬間だった。シオンの中で何かが音を立てて切れ、顔からありとあらゆる表情が抜け落ち、それを埋めるようにして艶やかな微笑が広がったのは。
 ひどくゆっくりとした動作で振り返り、踵をそろえて背筋を伸ばすと、シオンは青い光を浴びながら口元を綻ばせた。
「――――仰るとおり、我が主君であらせられるカイゼル・ジェスティ・ライザード様は恐ろしいお方でございます」
 フォーネルとドーランがおや、と言わんばかりの顔を作った。次いでそこに勝ち誇った表情が浮かぶ。
 ライザード卿は侍従一人手懐けられないのか、と言わんばかりの笑みを見つめ、優雅な仕草で目を細めると、シオンは淡々としながら耳に心地よい声で『台詞』を続けた。
「侍従たる身でこのようなことを言うのは無礼でしょうが、我が主君は敵と見なした方には容赦せず、時として一族郎党まで皆殺しにするのを躊躇わないお方です。頼もしく感じるのはもちろんのことですが、私は身の回りのお世話をさせていただく侍従に過ぎません。やはり主君の苛烈なご気性は恐ろしく感じられてしまいます」
 そこで一度言葉を切り、シオンは輝くような微笑で整った面差しを彩ってみせた。
「ですが、やはり武勇で名を馳せたフォーネル卿、そして俊英と名高いドーラン卿は違うのですね。心より感服いたしました」
「……なに?」
 訝しげな顔で首を捻ったフォーネルに、シオンは湖のような碧の瞳を見開いた。
「なに、とは? ……聡明なフォーネル卿とドーラン卿ならばおわかりのことと思いますが、私は単なる侍従に過ぎない身です。主君であるライザード卿に問われれば、皇宮での出来事を包み隠さず語らねばなりません。その私を前にして、我が主君への『敵意』とも取れることを仰るなど、生半な覚悟では出来ぬことと存じます。ですから『感服いたしました』と申し上げました」
 二人の顔色がさっと変わった。シオンが何を言っているのかを悟ったからだ。
 シオンが二人の暴言を主君に告げれば、カイゼルはフォーネルとドーランの二人を『敵』と認識し、その強大な武力と権力を持って叩きつぶそうとするだろう。『謀反の疑いあり』とまで言ってしまった以上、冗談だと言っても向こうは納得しないに違いない。フォーネルは厳つい顔を紅潮させ、ドーランはぎょろりとした目を大きく見開き、穏やかに笑っている少年に驚愕の視線を向けた。こんな反撃に出られるとは思っても見なかったのだ。
「むろん、お二人には我が主君を敵に回しても大丈夫だ、という自信がおありなのですよね? 立派な見識をお持ちであるお二人が、よもや大貴族ライザード家の当主に対して冗談を言われるはずがありませんから。さすがは貴族の中でも名を知られた方々、ブラス・ディン・フォーネル卿とディック・ドーラン卿です」
 二人の顔を順番に眺めやり、シオンは頬さえ染めてうっとりとささやいた。
 シオンは心の底から怒っていた。怒り狂っていた、と言ってもいい。カイゼルが家督を継いだ経緯も、ライザード家が抱えていた当時の事情も、この二人のような人間が得意そうに語っていいことではないはずだった。シオンは主君の過去を何一知らなかったが、それはフォーネルとドーランが笑いながら口にし、カイゼルへの誹謗に使っていいものではないのだ。カイゼルの過去はカイゼル一人だけのものなのだから。
 にっこりと笑ったまま顔を上げ、激昂するならしてみろ、とばかりに胸を張ったシオンに、フォーネルの表情がどす黒い怒りで染め上げられた。
「つけあがるなよ、平民風情が」
「つけあがるとは? 何を仰っておられるのかわかりませんが」
「ふざけるな、無礼者!!」
 フォーネルの怒号はひどく恐ろしいものだったが、シオンは奥歯を噛み締め、碧の瞳にぐっと力を込めた。目線だけは逸らすものか、といわんばかりの態度に、フォーネルの形相がさらに醜くゆがんでいく。
「フォ、フォーネル卿……!」
 その横で額の汗をぬぐっていたドーランが、無様なまでに狼狽した表情を浮かべ、おたおたと傍らのフォーネルを振り仰いだ。小刻みに震える指がシオンの背後に向けられている。それに気づいたフォーネルが視線を転じた瞬間、苦々しいものを込めた声がその場に響き渡った。
「――――何をしてるんだ? こんなところで」
 それは聞き覚えのある男性の声だった。弾かれたように振り返り、眉を寄せて佇んでいる青年を見やると、シオンは間の抜けた表情で大きく目を見張った。
 思い出したように夜風が吹きぬけ、紫色のマントと茶色の髪をそよがせていく。
「カズイ・レン・ヒューガ卿……?」






    


inserted by FC2 system