11 黎明を招く輝きを


 


 少年に向かって軽く顎をしゃくり、紫のマントをまとった騎士は石造りの四阿へ足を向けた。
 シオンの知っている『あずまや』は、四本の柱の上に三角の屋根が葺かれ、その内部にベンチやテーブルが置かれている休憩所だが、目の前に建っているそれは彼の記憶にあるものよりずっと大きかった。四角く平らな屋根、精緻な細工のほどこされた柱、四隅にかざられた小花の美しさなど、「さすがは皇宮の庭園」と納得させるだけの壮麗さに満ちている。ゆっくりと感嘆の息を吐き、シオンは慎重な動作で石造りのベンチに腰を下ろした。
 身分の高い貴族たちがくつろぐ場所だけあって、ベンチの上に敷かれているのは鮮やかな青の毛氈(もうせん)だった。体が沈み込むような柔らかさといい、わずかな濃淡で表現した模様といい、いたるところに名工の手になる質の良さが滲み出ている。シオンは落ち着かない様子で身じろぎしたが、カズイは何の感慨もふくまれていない顔でその上に座り込み、むっつりと押し黙ったまま両腕を組み合わせた。
 とたんにその場の空気が重くなる。内心でどうしよう、という困惑しきった呟きを漏らし、シオンは向かい側に座る騎士に碧色の双眸を向けた。
「……あの、ヒューガ卿」
「なんだ」
 無理やり引っ張ってきておいて「なんだ」は酷いだろう、と思わなくもなかったが、シオンはよくも悪くも素直すぎる性格をしていた。特に意味もなくすみませんっ、という謝罪の言葉を返し、困ったような表情で小さく首を傾げる。
「その、僕にお話、というのは」
「ああ、話な」
「はい。あの、何かヒューガ卿のお気に障ることでも……」
 シオンはカズイに対して好意を持ち始めていたが、カズイは相変わらずシオンを信用できない相手だと思っている。そう信じ込んでいるシオンにとって、この状況はまさしく『まな板の上の鯉』に等しかった。相手が怒っているならその理由を聞き、誠心誠意謝罪して許してもらわなくてはならない。内心でそう決意をかため、両手の拳をぐっと握り締めると、シオンはどんな言葉も受け止める覚悟で背筋を伸ばした。
 そんなシオンの思いを知ってか知らずか、カズイはばつが悪そうな表情で青い瞳をそらした。片手でガシガシと茶色の髪をかき回し、明後日の方向を見たままで口を開く。
「セスがな」
「……え?」
「セスだよ、セスティアル。知ってるだろ? ……そいつが、話があるから『青の苑』に来てくれって言い出してな」
「はぁ」
 いきなり関係ないことを話し始めたカズイに、シオンは虚をつかれた表情で瞳を瞬かせた。首をひねる少年に構わず、カズイは庭園を睨みつけるようにしながら言葉を続ける。
「なのに呼び出した張本人がどこにもいないから、文句のひとつでも言ってやろうと思ってあの辺をうろうろしてたんだよ。そうしたら声が聞こえて、何かと思えばお前がフォーネルたちと揉めてるだろ。かなり驚いたぞ、普通に」
「……」
「どうせフォーネルたちの方が絡んできたんだろ? あいつら団長のことをすさまじく嫌ってやがるから」
「……はい」
 シオンがためらいがちに頷くと、カズイはやっぱりな、と呟いて小さく嘆息した。
「まあなんつーか、お前が『ライザード卿は恐ろしい方です』って言い切ったのを聞いた時は、なに恩知らずなこと言ってやがるんだこのガキ、と思ったんだけどな。その後、お前あいつらに反撃しただろ? 結構きつい言い方で」
 そこでようやく視線を戻し、カズイは目を見張っている少年をまっすぐに見下ろした。
「お前、顔に似合わず言うことはずばっと言うんだな。おどおどしてて気の小さそうなやつだと思ってたんだが、その辺は少し意外だった」
「……え」
 カズイの意図を察することができず、シオンは困惑の表情で眼前の騎士を見上げた。それを見やってカズイも顔をしかめる。自分でも何を言っているのかわからない、というように。
「だからな。つまり……なんだ」
 カズイは苛立ったように前髪をかき上げ、ひどく低い声でぼそぼそと呟いた。複雑な表情を浮かべたまま、シオンは黙って相手の言葉を待つ。
「……少なくとも、お前が団長に抱いてる忠誠心に嘘はないんだな、とか。貴族たちに食ってかかるほど団長を慕ってるんだな、とか。その辺は俺も認めないわけじゃない、っていう気分になったっつーか、だな」
「……ヒューガ卿?」
「だからつまり……」
 非常に言いづらそうな様子で言葉を切り、カズイはあー、という意味を成さない呻き声を上げながら視線を泳がせた。
 シオンはそこで碧の瞳を見張った。間違っても口には出せないが、その瞬間、目の前の青年が『上手く言葉が見つけられなくて苛立つ小さな子供』に見えたのだ。
 悪い人じゃないんですけどね、という魔術師の言葉が耳元によみがえり、シオンは自分でも気づかないうちにカズイの整った顔を凝視した。明るい茶色の前髪が落ちかかる中、切れ長の双眸が忙しなく宙をさまよっている。それは晴れやかで曇りのない青空の色をしていた。その色だけで相手の善良さを信じられるほどの、あるいは全身が清々しい清涼感に包まれるほどの、明るく澄み渡る裏表のない色彩。
 その『青』が睨むような強さでシオンを見つめた。
「……つまり、な」
 諦めたように小さく息を吐き、カズイは覚悟を決めたように居住まいを正した。奇妙な迫力に押されつつ、シオンは必死の思いで強い眼差しを受け止める。
「あの、ヒューガ卿……」
「この前は」
 シオンの呼びかけを強引にさえぎり、カズイは鮮やかな青の双眸をわずかに細めた。不器用な話し方しかできない子供のように、照れ隠しにも似た無愛想さを湛えて。
「この前は、悪かった」
 その言葉の意味がすぐに理解できず、シオンは一瞬の間を置いて両目を瞬かせた。
「……え?」
「だから、この前は悪かったって言ってるんだよ。……特殊な身の上話を作って団長に取り入ろうとしてるとか、信用したわけじゃないとか、よく知りもしないでひどいこと言っただろ、俺」
「え? あ……えっと」
「あの後団長にも怒られたしな。これ以上ガキみたいなことしたら蹴り殺すぞ、とか。……俺も、あれははっきり言って八つ当たりだったと思ってる。悪かったな」
「そんな……」
 シオンは慌てたように腰を浮かせ、頭を下げた騎士に驚愕の視線を向けた。意味もなく両手をばたつかせる少年に、カズイは肺を空にする勢いで溜息を吐く。そこで思い切り口ごもるなよ、と。
「そんな、じゃないだろ。許すとか許さないとか、別にいいですよとか気にしないで下さいとか、もっと他に言うべきことがあるだろうが」
「いや、えっと……」
「だからそこで口ごもるなよ、頼むから!」
 カズイの拳が毛氈の上に振り下ろされ、夜の静寂の中に鈍い音を響かせた。
「それとも何か!? お前は俺が団長に蹴り殺されてもいいっていうのか!? むしろ蹴り殺されちまえ清々するぜとか、そういう了見なのかっ!?」
「え、えぇっ!?」
「違うだろ!? 俺が団長に殺されたらお前だって嫌だろ!? 目覚め悪いだろっ!?」
「はい!!」
「だったら許せ!! 今すぐ許せ!! ほらっ!!」
「はいっ!!」
 両手を上げて降参の意を示しつつ、シオンはカズイに向かって何度も頷いた。カズイのすさまじい迫力に押し切られたのだが、もとよりシオンの中に「許さない」という選択肢があるはずもない。シオンはカズイに対して不思議なほど好意を持ち始めていたのだから。
 シオンを迫力で押し切った張本人は、相手が勢いよく頷いたのを確認し、安堵の気配を漂わせながら表情を和らげた。よし、という満足そうな呟きが空気を揺らしていく。
 それだけで場に満ちる空気が柔らかくなった。どれだけ精神に子供っぽい面があろうと、わけあって身に帯びている魔力が微弱であろうと、カズイはまとう空気一つで周囲を支配してのける大貴族なのだ。どこかカイゼルに通じる空気を感じ取り、シオンもつられたように強張っていた表情をゆるめる。
「……あの、ヒューガ卿」
「なんだ?」
「それじゃあ、僕のことを信用して下さるんですか? ……異世界から来た、ということも。カイゼル様に対して忠誠を誓っていることも」
「……ああ」
 ほんのわずかな沈黙をはさみ、カズイはふぅ、と細長く息を吐き出した。
「お前が団長に忠誠を誓ってるのは間違いないみたいだしな。……異世界から来た、ってのも、団長やセスがああ言うんだ。多分間違いはないんだろ」
 それはシオンの言葉を肯定する台詞だったが、カズイの表情には何とも表現しがたい複雑さがあった。注意深い動作でそれをうかがい、シオンは以前から気になっていたことを口に出してみる。
「……ヒューガ卿。あの、お聞きしてもよろしいですか?」
「なにをだ?」
「前にジェリーレティアでお会いした時、ヒューガ卿は『ジン・ヒューガ』という名前を口になさいましたよね? 僕のいた世界に、そういう名前の人はいなかったか、とも」
「ああ」
 今さら誤魔化しても仕方がないと思ったのか、カズイはシオンが拍子抜けするほど簡単に頷いてみせた。青い瞳が何かを懐かしむようにすがめられる。
 いくぶん冷たさを増した風が吹きぬけ、よく似た色合いの髪をさらりと揺らしていった。
「俺の先祖だ。……と言っても、そこまで大昔の人間じゃないけどな。ほんの三百年ほど前、エルカベル帝国の『黎明帝』シェルダート・レア・ジス・レヴァーテニアに仕えた騎士団長。一平卒から騎士団長にまで上りつめ、皇帝から貴族の位を与えられたヒューガ家の祖。それがジン・ヒューガだ」
 シオンは小さく目を見張り、歴史書でしか目にしたことのない名前を繰り返した。
「騎士団長……黎明帝? あの、滅びに瀕した帝国を立て直した少年帝と、命を引き換えにエルカベル帝国を救った『闘神』の……ですか?」
「そうだ。なんだ、ちゃんと勉強してるじゃないか」
 カズイが初めて『微笑』と呼べるだけの表情を作った。決して童顔というわけではないが、そういった表情をすると実際の年齢より幼く見える。実年齢は二十五歳のはずだが、二十一、二歳と言っても誰一人として疑わないに違いない。
「その先祖……ジン・ヒューガはな。お前と同じなんだ」
「同じ?」
「ああ。黎明帝に仕えることになるずっと前は、こことはまったく違う世界で暮らしていた異邦人だと。……ジン・ヒューガは、折に触れてそう公言していたらしい」
 違う世界で暮らしていた異邦人、と。その言葉を聞いた瞬間、激しい音を立てて心臓が飛びはね、体中の血液が逆流するような感覚に襲われた。碧色の瞳を大きく見張り、シオンは自分でも無意識のまま青の毛氈を握り締める。
「え……」
 ドクンドクンと、鼓動がうるさいほどに存在を主張し始める。視界を満たしていた青い光が急速に薄れ、代わりに銀色の光を散りばめた深い闇が迫ってくる。耳元に響き渡る低い声。ひどく印象的な黄金の光。悲しげに揺れる深青の双眸。シオンの意識を占拠したのは、『トランジスタ包囲戦』の際、ジェリーレティアの要塞で見た切ない夢の光景だった。




「……シェディ」
 銀色の光を体中にまとわせ、黒装束の男はひどく大切そうにその名を呼んだ。周囲に広がるのは深い闇だったが、惜しみなく降り注ぐ銀の粉雪がそれを青く透かし、圧しかかる暗がりを淡い明るさで彩っている。そのせいか、マント以外は漆黒で統一された装いにも関わらず、男の姿は不思議なほどの存在感を持って周囲から浮かび上がっていた。
「シェディ。我が皇帝、我が君。覇者の王冠を戴く王」
 男の手がそっと伸ばされ、太陽光を思わせる黄金の髪を撫でた。それは光に照らされた稲穂のように、地平線を埋め尽くす光の海のように、圧倒的な美しさを持って人に『希望』をもたらす色彩だった。
 その輝きを肩の上に踊らせ、シェディ、と呼ばれた少年は苛立ったように首を振った。きつく噛み締められた唇が言葉を作るが、それはかすかな吐息に紛れるようにして霧散してしまう。そんな少年を優しく見つめ、闇よりなお暗い色の瞳を細めると、黒装束の男は一言一言を噛み締めるように言葉を続けた。
「俺が、お前を選んだ。お前だけが俺の主、唯一無二の皇帝だ」
 それはどれだけ時が流れようとも、何度歴史が繰り返されようとも、永遠に覆ることもない誓いの言葉だった。
「だから俺はここに帰る。何があっても、もしも元いた場所に帰れるとしても……たとえ死んだとしても。俺はお前の傍らに帰る。頼むからそれを忘れないでくれ、シェディ」
 少年は何かをこらえるようにうつむいていたが、やがて静かに顔を上げ、望んで死地に赴こうとしている男の顔を見つめた。少年の瞳は周囲の闇と同じ、どこまでも青く透きとおる夜空の色をしている。夜明けの光が夜の名残を押しのけ、世界を真っ白な輝きに沈める寸前の色彩。男はこの色を守りたかったのだ。髪と相まって『光』を連想させる、落日の帝国をまっすぐに見据えたその瞳を。黎明を招く輝きを。
 守るために自分は来たのだと、頑ななまでの強さで信じていた。
「――――この命がお前と、お前の意思を継ぐ者を守るように」
 いつの日か必ず、彼が命がけで守ったこの帝国も滅びるだろう。数百年に渡って続いた血統も、この少年が残すだろう多くの制度も、いずれ矛盾と腐敗の果てに葬られる時が来るだろう。それをごく自然に受け入れながら、男はまるで祈るように笑ってみせた。それでも、と。
「俺の次に招かれる『鍵』が、お前の願いを継ぐ者を導くように」
 誓いと願いが果たされるまで。
「この願いだけは、薄れることなくお前の傍にあるように」
 重すぎる責務を負ったこの少年が、長い道の途中で孤独に押しつぶされてしまわないように。泣くことだけは忘れないように。どうか、幸せに。俺が祈るのはそれだけだから、という男の言葉は、ささやくような声量だったにも関わらず、不思議ななほどの大きさを持って闇の中に響いていった。
「……」
 引き結ばれていた唇をほころばせ、少年はすぅっと細く息を吸い込んだ。震える吐息が言葉を作り、青く透きとおる闇を柔らかく揺らしていく。
「――――ジン」
 光を思わせる少年が、悲しげに、寂しげに、悔しげに、そして何よりも愛しげに。呟いたその名前こそ、かつて異界より渡り来た覇業の鍵、ジン・ヒューガに呼びかけるものだった。






    


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