12 継いでゆく者


 


「……おい、どうした? 大丈夫か?」
 肩のあたりに軽い振動を感じ、シオンは我に返ったように両目を瞬かせた。毛氈の上から腰を浮かせ、シオンの肩に手をかけた体勢のまま、カズイが困惑と安堵のない交ぜになった表情で首を傾げている。青い光に照らされたその顔は、薄闇の中で微笑していた黒衣の男に驚くほど似ていた。夢の続きを見ているのかといぶかってしまうほどに。
 自分でも無意識のうちにこめかみを押さえ、シオンはひどく緩慢な動作で首を横に振った。
「……あ、いえ。なんでもないです。ちょっと、ぼんやり……」
「ぼんやりぃ?」
 とたんにカズイの手が肩から離れ、形のよい眉が急角度に跳ね上がった。一気に険悪さを増した騎士の様子に、シオンは自分の漏らした台詞が失言であったことに気づく。働きの鈍かった思考が完全に覚醒した。
「あ、ちが……違うんですっ! あの、特に意味もなくぼんやりしてたわけじゃなくて……っ」
「意味がなかったわけじゃなく、意味があって? 俺の会話中に? いきなりぼんやりし始めたと?」
「ちちち違いますっ! そうじゃないんです!!」
 等身大の首振り人形と化しつつ、シオンは照明の効果以上に蒼白な顔で叫び声をあげた。
「そうじゃなくて、あの……っ!」
 いきなり幻覚が見えたんです、と続けようとして、シオンは何かに気づいたように言葉を切った。
 視界を占拠していた夢の光景も、うるさいほど騒いでいた心臓の鼓動も、確かに感じた胸が締めつけられるほどの切なさも、今はすべてが幻であったように遠のいてしまっていた。だからこそ適当な言葉で説明することができず、シオンはおたおたと視線をさまよわせて首をすくめる。
 カイゼルとセスティアルがそろって『犬』と評した顔に、カズイは元から乏しかった怒気が急速にしぼんでいくのを感じた。自分が罪のない子犬をいじめる極悪人になったように思え、いやそりゃ違うだろ、と呻くような声を漏らす。勢いよく顔を上げたシオンを見下ろし、青の毛氈のうえに座りなおすと、カズイはどっと疲労が押し寄せてきた表情で溜息を吐いた。
「……冗談だ」
「は? ……え?」
「だから軽い冗談だよ、冗談。頼むからそう素直に慌てるなよ、まるで俺がいじめてるみたいだろ」
 バレたら団長に殺されちまう、という真情のこもった呟きは、シオンに届く前に夜風の中へと消えていった。薄茶の髪をさらりと揺らし、シオンは不思議そうな表情で目の前の騎士を見上げる。
「……ヒューガ卿?」
「いや、何でもない。……そーだよな、考えてみりゃ、これくらい素直じゃなけりゃ団長の侍従が務まるわけないもんな」
 最後の部分は完全にひとり言だったが、シオンはそんなことないですっ、と慌しい動作で首を振った。カズイはそれを見やって小さく笑う。
 セスティアルが言ったとおり、カズイ・レン・ヒューガという名の青年は基本的に素直な人間だった。第一位階の騎士たちに彼の印象を尋ねれば、少なくとも六人は「いい奴だ」と答え、微笑ましい子供を見るような表情を作ってくれるだろう。精神的な子供っぽさは抜けないが、一度わだかまりが解ければすぐに壁を取り払い、昔からの友人のように接してくれる好青年。それが多くの人間の抱いているカズイの印象だった。
「まあいいさ。とりあえず、これで俺がお前に……『ジン・ヒューガ』って奴を知らないか、って聞いた理由がわかっただろ? 取り乱してたとは言え、あの時は何の説明もしなくて悪かったな」
「……いえ、そんな」
 シオンもつられたように笑みを浮かべた。最初は不機嫌さを隠そうともしない様子に困惑したが、今では逆に裏表のない感情表現が心地よい。
「僕の方こそ、満足に受け答えもできなくて……」
 だから素直な気持ちで頭を下げ、シオンは万感の思いをこめて言葉を続けた。
「すみませんでした。こうやって、ヒューガ卿とお話をする機会が持てて、嬉しいです」
「あ、いや……」
 照れたように視線をそらし、カズイは乱暴な手つきで自分の髪をかき回した。降りしきる青い光を受け、明るい色彩の茶髪がどこか幻想的な輝きを散らす。
「お前が謝ることじゃないだろ。冷静になって考えてみれば、いくらお前が異世界から来た人間だって言っても、三百年の昔の人間を知ってるわけがないんだしな。……祖先の『仲間』かもしれない人間に初めて会ったせいか、あの時はちょっとばかし動転してたみたいだ」
「……」
「お前はジン・ヒューガについて知らないんだろ?」
「……はい」
 シオンは小さく頷いたが、薄闇の中にたたずんでいた黒衣の男と、悲しげな表情でそれを見つめていた少年を思い出し、何となく釈然としない思いで両目をすがめた。あの男がカズイの言うジン・ヒューガなのだろうか、と。
 改めて思い返すまでもなく、夢の中にいた男は目の前に座っている騎士とよく似ていた。実の兄弟だと言われても納得してしまうに違いない。あの男がカズイの祖先であり、三百年前に戦死したジン・ヒューガであるなら、直系の子孫のである彼に似ているのは当然だと言えた。
「どうかしたか?」
「……え? あ」
 だが、その『ジン・ヒューガ』が夢に出てくる理由がどうしてもわからず、シオンは曖昧な表情で微笑してみせた。
「どう……というわけじゃないんですが。ただ……」
「ただ?」
 シオンが何か考え込んでいると思ったのか、カズイは生真面目な表情で首をひねった。シオンはその『顔』をじっと見つめる。
 黒衣の男によく似た青年騎士。視界の縁で揺れる青い灯火。それを受けて淡い水色に染まる柱。四阿の外に広がる海の底のような庭園。シオンの瞳はそれらの光景を捉えていたが、同時に銀色の光が降り注ぐ深い闇をも映し出し、遠い過去に失われたはずの姿を確かに見つめていた。夜空色の瞳をした少年がこちらを見やり、黄金色の髪を煌かせながら何かを呟く。それが単なる幻に過ぎなくても、シオン自身が感じた思いではなかったとしても、胸をつく切ないまでの感情に嘘はなかった。
 少年の姿を追うように目を細め、シオンは意識しないままに口を開く。
「どうして僕や、黎明帝に仕えたジン・ヒューガが、もといた世界からこのシェラルフィールドに呼ばれたのかはわかりませんが……」
 異世界から召喚されたジン・ヒューガが、唯一の主君に忠誠を誓い、そのために戦乱の中で命を落としたというなら。
「意味もなく呼ばれたのでも、単なる事故でもなく、きっと」
 その志を継ぐためにシオンが呼ばれ、カイゼルという名の青年に出会い、侍従として生きる道を得たというなら。
「きっとここで何かを成すために、この世界に呼ばれたんだと思います」
 それがそのまま、説明もなくこの世界に召喚された理由になると思った。
「僕も。……黎明帝のために命を賭して戦った、ジン・ヒューガも」
 静かにささやいたシオンを見つめ、カズイは驚いたように青の双眸を丸くした。彼がまだ幼かった頃、心ない貴族たちに言われた言葉が耳元によみがえる。ジン・ヒューガは魔術を消し去る術を持つ異邦人だったと言うが、実際はとんでもない嘘で皇帝を惑わし、妖しげな術を用いて周囲を謀る狂人だったのではないか、と。
 その表情をどう取ったのか、シオンは正気に返ったように目を見張り、あ、という慌てた声と共に両手をばたつかせた。
「いえあの、だからどうだって話なんですけど……! その、僕はジン・ヒューガっていう名前を知りませんけど、彼がこの世界に来たのには何か意味があったんじゃないかって……あああでもそれって僕が言うことじゃありませんよねすみません……っ」
 数秒前の凛とした姿が嘘のように取り乱し、シオンは眼前の騎士に向かって勢いよく頭を下げた。カズイは軽く青の瞳を見開く。
「いや……」
 そのままくしゃりと前髪をかき上げ、ベンチの背もたれに体重を預けると、カズイはこみ上げてくる衝動のまま喉の奥で低く笑った。祖先の正体に対する不安、周囲の中傷に反論することができなかった悔しさ、自分の血筋に感じる不信感など、今までくすぶっていた思いがあっさりと解けて消えていくのを自覚する。たとえ信頼できる仲間の騎士でも、誰より大切だと断言できる副官の少女でも、これほど簡単にカズイの鬱屈を消し去ることはできなかっただろう。
 異世界から招かれたシオン・ミズセだからこそ、短い言葉でカズイの中の『血』に訴えかけることができたのだ。
「そうだよな」
「……え?」
「何かきっと、意味があるから来たんだよな。……そう考えるとすっきりするな、色々と」
「え? えっと……」
「いや、なんでもない、気にするな」
 軽く笑って手を振ってみせ、カズイは何かを探すように夜空を見上げた。中天に差しかかろうとしている月に目をやり、よし、と呟いて身軽に立ち上がる。
「それじゃ、そろそろ屋敷に帰った方がいいな。これ以上遅くなったら団長に叱られないか? お前」
「えっ……あ」
 今気づいた、と言わんばかりに顔色をなくし、シオンは絶望的な表情で煌々と照っている月を仰いだ。カズイは指先で頬を掻き、申し訳なさそうな表情で視線を泳がせる。
「……あー、なんだ。あれだ、もし団長に『何してたんだ』って聞かれたら、青の苑で俺に捕まってたって言ってもいいぜ」
 それは非常に頼もしい台詞だったが、視線は相変わらずあらぬ方向をさまよい、形のよい眉は内心の葛藤をしめすようにひそめられていた。その顔には上司に対する恐怖がありありと浮かべられ、端正に整った造作をまるで『母親の叱責を恐れる幼い子供』のように見せている。それでも前言を撤回したりはせず、カズイは実に雄々しい表情で軽く笑ってみせた。
「遠慮するなよ。本当のことなんだからな」
「……あ、はい」
 カズイの笑みは若干引きつっていたが、シオンは相手の不器用な気遣いが嬉しかった。碧色の瞳を細めてふわりと笑う。
「ありがとうございます。もし叱られたら、そうさせていただきます」
「ああ」
 カズイもぎこちなく笑い返し、シオンを促して四阿の外に出た。
 冷たく澄明な光が四方から押し寄せ、シオンの白いマントを水色へ、カズイの紫のマントを青紫色へと照らし出した。それを慣れた様子で翻し、カズイは『正苑』の入り口に向かって顎をしゃくる。
「俺はまだこっちに用事があるんだが、お前はまっすぐ屋敷に帰るだろ?」
「はい。そこまで離れてもいませんから」
「だな。じゃあ気をつけて帰れよ」
「はい」
 カズイの言葉に頷きを返しつつ、シオンは口元を淡い笑みにほころばせた。わだかまりが解けたら手のひらを返すかもしれませんよ、というセスティアルの言葉は真実だったらしく、以前は何とも近寄りがたかったカズイの雰囲気が、今は親しみやすい『近所のお兄さん』を思わせるものに変化している。
 シオンはその変化が何より嬉しかった。
「ヒューガ卿も、次にお目にかかれますまでどうぞお健やかに。――――本当に、今日はどうもありがとうございました」
 改めて礼を取った少年に、カズイは気にするなよ、と笑いながら軽く片手をあげた。
「じゃあな、団長とセスと……ヴェルはいらないか。とりあえず、よろしく言っといてくれ」
「はい」
「……ああ、そうだ」
 正苑に向かって踵を返しかけ、カズイは茶色の髪をかき上げながらシオンを見返った。青空を宿した瞳が快活に笑う。
「お前、シオンっていうんだったな」
「あ、はい」
「よく考えてみたら、お前って俺以外の第一位階の騎士は名前で呼んでるだろ? セスとかリチェルとかグラウドとか」
 シオンは軽く両目を見開き、突然名前の話を始めた騎士に驚きの視線を向けた。
「はい……恐れ多いことですが、セスティアル様たちのことはお名前で呼ばせていただいています」
「だよな。じゃあ俺のことも名前でいい」
「え?」
「いつまでも俺だけ『ヒューガ卿』じゃ、まるで俺とお前が和解してないみたいに見えるだろ。次に会った時は名前で呼べよな」
 言いたいことを言って満足したのか、カズイはシオンの返事も聞かずに背を向け、正苑へ続く青い小路を歩き出した。
「じゃあな、シオン」
 ひんやりした夜風が吹きぬけ、歩き去っていく青年のマントを大きくふくらませた。シオンはその軌跡を目で追っていたが、ややあって一瞬の自失から立ち直り、えっと、という間の抜けた呟きを漏らしながら首を傾げる。
 次の瞬間、青い光がほんのわずかに明度を増し、砕け散った硝子を思わせる輝きで周囲の風景を彩った。
「名前を、呼んでくれたのは……」
 澄んだ風が薄茶色の髪を揺らしていく。
「僕がカイゼル様の部下だって、認めてくれた証……なのかな?」
 それに答える声はなかったが、ただ吹きすぎていく風だけが柔らかくゆるみ、英雄の志を継ぐ『鍵』を抱きしめていった。






    


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