13 剣舞


 
 

 黒一色を身にまとった影が舞い、手にした剣をすさまじい速度で横向きに振るった。それは刃を潰した訓練用の剣だったが、目で捉えられないほどの速さで宙を駆け抜け、ひどく重い音を立てて相手の剣とぶつかりあう。金属と金属がこすれあい、微細な火花と耳障りな音を散らした。
 黒衣の騎士はわずかに眉を上げ、相手の剣を弾きながら背後に飛びすさった。相手は思いきり体勢を崩したが、両手に握った武器を取り落とすことなく、二、三歩よろめいただけで剣を構え直してみせる。それを見やって黒衣の騎士は薄く笑った。
「少しは使えるか。名は?」
「……カティ。カティ・リーズ、です」
 滴り落ちる汗を片手でぬぐい、カティは黒ずくめの上官に驚嘆の混じった目を向けた。
 一時間以上前から広い鍛練場を駆け、己より上背のある男たちと一騎打ちを演じ、そのすべてを地に沈めてみせたにも関わらず、上官の表情は今剣を握ったばかりのように涼しげだった。風の中に切り散らされた黒髪がなびき、どちらかというと小柄な肩をかすめていく。さして長身というわけでも、たくましい体躯の持ち主というわけでもないのに、その手から繰り出される一撃一撃は信じがたいほど重かった。痺れる両手を叱咤し、カティは剣の柄を握り直して感嘆の息を吐く。
 改めて認識するまでもないことだが、やはり普通の騎士とは次元の異なる存在だった。『至高の剣』と呼ばれる最高位の剣士、ディライト・ヴェル・シルファは。
「カティ・リーズか」
 カティの腕前が気に入ったのか、ヴェルは喉の奥で低く笑い声を立てた。
「気に入った」
 そのまま自然な動作で剣を掲げ、黒衣の騎士は土に穴をうがつほど強く地面を蹴った。
「――――っ」
 カティはとっさに剣を振り上げ、叩き下ろされた刃を頭上で受け止めた。あまりの重さに刀身が軋み、腕の筋肉がぎしぎしと悲鳴を上げる。
 ヴェルの戦い方には一切の無駄がなかった。普通、体格で劣る人間は力で戦うことを避け、速度や身のこなしで相手を圧倒するものだが、ヴェルの動作にはそうした消極性がまるで存在しない。受けた方が早いと判断すればどんな剣でも受け、避けるべきだと思えばどれほど早い一撃でも避けてみせる。
 カティは改めて畏敬の念を覚えたが、彼とて防戦一方に追い込まれているわけではなかった。身を沈めて相手の剣に空を切らせ、片手を軸にしながら足払いをかける。それを飛びのいてかわし、ヴェルがほとんど音もなく着地したところへ、カティが追いすがるようにして剣先を一閃させた。速度も力も十分に乗った一撃だったが、ヴェルは無造作な手つきで剣を薙ぎ、カティの振るった剣先を横に弾いてみせた。
 カティは大きく薄紫の瞳を見張った。いくら第一位階の騎士とはいえ、後ろ向きに飛びすさり、片足で着地した直後に相手の剣を弾き返すなど、よほど柔軟な筋肉と動体視力の持ち主でなければ不可能な芸当だ。ディライトの名は飾りではないということだろう。
 驚愕による一瞬の隙を見逃さず、ヴェルは片足を軸にして体を反転させ、カティの背後に回りながら剣を振り下ろした。カティはとっさに体をひねり、背を狙った一撃を剣の腹でふせぐが、その動きと引き換えに思い切り体勢を崩してしまう。
 そこで勝負は決まった。
「……参り、ました」
 目の前に突きつけられた切っ先を見つめ、カティは地面に膝をつきながら剣を手放した。刃を潰した剣が地面に転がり、カランという奇妙に乾いた音が響く。それを見やって小さく笑うと、ヴェルは軽やかな動作で掲げていた剣を引き、肩で息をしているカティに漆黒の双眸を向けた。
「まだ荒い。が、そこに転がっているやつらよりは大分マシだ」
「……」
「鍛練を怠るなよ。気が向けばまた相手をしてやる」
「……はい」
 それは何よりも名誉な言葉だったが、共通語が不自由なカティは最低限の答えしか返せなかった。どこか悔しそうな表情で目を伏せ、地面に落ちた剣を拾い上げるカティに、ヴェルは温もりも冷たさもふくまれていない無機質な笑みを向ける。相手の技量以外には何の興味もないのか、そのまま無言で踵を返し、慌てて立ち上がる騎士たちに一瞥もくれずに歩き去っていった。
 遠ざかっていく背に薄紫の瞳を向け、カティは無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。
「……お前、すごいな」
 そこでふいに肩をたたかれ、褐色の肌をした少年は驚いたように振り返った。
「あの『ディライト』とあそこまで戦えるなんてな。なかなかできることじゃないぜ、その若さで」
「まだ十位階の騎士だろう? ちょっと信じられないよな、その強さ」
「きっと昇進が早まるぜ。何ていったってディライトの目にとまったんだから」
 立ちすくんでいる少年を取り囲み、同僚の騎士たちは口々にカティの武勇を褒め称えた。全員が明るい笑みを浮かべていたが、鋭敏なカティはそこにひそむ嫉妬と侮蔑を感じ取ってしまい、口の中でそっと溜息を押し殺す。
 カティは元戦闘用の奴隷だった。彼の生まれ故郷である外縁大陸では、五歳を過ぎた奴隷の子に剣を与え、歩兵として中央大陸に『出荷』する産業が当たり前のように成立している。幼いころから戦うためだけに生き、実戦の中で剣技と体術を磨き上げ、眉一つ動かさずに相手を屠ってみせる生粋の戦闘人形。カティがそうである以上、普通の下位騎士より強いのは『当然』のことなのに、憧れの的であるディライトが彼を賞賛したのが気に食わないのだろう。
 カティは周囲から向けられる侮蔑に慣れていたが、それを笑顔の下に押し込め、あくまで友好的に接してくる相手となると話は別だ。困惑したように首を傾げ、無言で空々しい賛辞を聞き流すことしかできなくなる。偽りの好意などカティの世界には存在しなかったのだから。
 何も言わないカティにとまどったのか、同僚たちは特に意味もなく視線を交わしあい、曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめた。そこには隠し切れない怒りの色が垣間見える。せっかく褒めてやったのにその態度は何だよ、と。
「……じゃ、まあ、汗の始末はしっかりしろよ。せっかくディライトに褒めてもらったんだ、風邪を引いて訓練に出られません、なんてことにならないようにな」
「そうそう、そうなったら昇進にも響くぜ。お前だって早く上位騎士になりたいんだろ?」
「ま、お前ならそんなヘマしないだろうけどな」
 嫌味の滲んだ言葉を残し、同僚たちはそれぞれの速度でカティから離れていった。中には親しげにカティの肩を叩いていく者もいたが、その瞳にはひどく陰惨な嫉妬の炎が揺れている。
「……ありがとう」
 ぎこちなさの抜けない笑みを作り、汗を流しにいく同僚たちを見送ると、カティは急に疲労が襲ってきた風情で天を仰いだ。何かをこらえるように眉を寄せ、薄紫の瞳をぎゅっと閉じる。
 脳裏に浮かび上がったのは碧の双眸だった。帝国で最も美しいとされるシティン湖のような、青と緑が交じりあう泉のような、一片の冷たさも感じさせない柔らかな色彩。涙が出るほど優しいそれを思い出し、カティはかたく強張っていた表情をほころばせた。
「友達」
 小さな呟きが風の中に溶けていく。
「シオン、友達」
 それはまるで宝物のような言葉だった。友達、という短い響きを噛み締めるように呟き、カティは薄く開いた紫の瞳で晴れた空を見上げる。その表情がほのかな微笑に彩られた。
「……アポロ」
 カティの小さな呟きが届いたのか、空を滑るように駆けていた鷹が高度を落とし、差し伸べた少年騎士の腕にふわりと着地した。猛禽類独特の鋭い瞳がカティを捉え、ご苦労様、と言わんばかりに小さく細められる。まだ羽が生えそろったばかりの若い鷹だが、アポロはカティとシオンの忠実な友達だった。二人のためならそのくちばしを武器に変え、軍馬にまたがった騎士の大軍に突っ込んでいくことも厭わないだろう。
 指先で羽のつけ根をくすぐってやると、アポロはどこか鷹揚な仕草で畳んだ翼をふるわせた。そのまま黒味の強いくちばしを空に向け、何かを教えようとするように短く鳴き声をあげる。
「……シオン? シオン、来てる?」
 綺麗な色の瞳を軽く見張り、カティは首を伸ばすようにして人気のなくなった鍛錬場に視線を放った。アポロの『言葉』が理解できたわけではないが、カティをはじめとする外縁大陸の住人は、中央大陸に住まう人々よりずっと自然に近しい生活を営んでいる。動物たちの発する『魔力』の波紋を読み取り、おぼろげながらその時の体調や独自の合図を感知できるほどに。
「――――カティ!!」
 それが正しかったことを示すように、高くも低くもない柔らかな声がその場に響きわたった。声のした方に首をめぐらせ、カティは心から嬉しそうに薄紫の瞳をなごませる。丈の短い白のマントをまとい、薄茶色の髪をなびかせながら走り寄ってきたのは、カティとアポロが共通して心を砕く大切な少年だった。
「シオン」
 カティの笑みに迎えられ、シオンは肩で息をしながらにっこりと微笑した。
「ごめん、アポロが先に飛んでいっちゃって……今は休憩中だよね?」
「そう。大丈夫。シオン、なに?」
「あ、えぇとね」
 カティに向かって腕を差し伸べ、そこにとまっていたアポロを自分の手に移らせると、シオンはきょろきょろと忙しない動作で視線をさまよわせた。全身を包む安堵と安らぎを自覚しながら、カティが不思議そうな表情で首を傾げる。
「シオン?」
「カティに報告したいことがあって来たんだけど……とりあえず、座ろうか。訓練の後に立ちっぱなしじゃ疲れちゃうだろうし……」
「報告?」
 その言葉を聴いた瞬間、カティはひどく不安げな仕草で年の近い友人を見つめた。
「まさか、シオン、クビ? 侍従?」
 とたんにずざぁっ、というにぎやかな音を立ててシオンが体勢を崩し、その腕にとまっていたアポロが驚いたように宙へ舞い上がった。すんでのところで踏みとどまったため、地面に顔から突っ込むという醜態はさらさずにすんだが、シオンは何とも情けない顔を作って褐色の肌の少年を見やる。アポロが羽音と共にその肩へ戻ってきた。
「……えっとね、カティ」
「うん?」
「えーと、何ていうか……僕ってそんなに際どいリストラ要員みたいに見えたりする? むしろ、クビになったのを嬉しそうな顔で報告しに来たとしたら、それってかなり危ないマゾな気がするんだけど……」
「りすとら? まぞ?」
「――って違う違う! なんでもない!! そうじゃなくて……っ」
 シオンは慌てた様子で首を振った。リストラにしろマゾにしろ、共通語が不自由な友人に教える単語としては少々問題がありすぎる。シオンの新しい『師匠』なら目を輝かせて食いついてくるかもしれないが。
 そこでようやく会話の脱線に気づき、シオンは首をひねっている友人を促して立ち木の傍に寄った。見事な鷹を肩にとまらせたまま、木の幹に背をもたれさせてすこんと座り込む。ほてった体にひんやりした感触が心地よく染みた。
「とりあえず、僕はクビにはなってないから大丈夫。……もっと、ちゃんと嬉しい報告だから」
「クビ、大丈夫?」
「うん」
 カティに向かって頷きつつ、シオンは何でこんなに心配されてるんだろう、と遠くを見つめる表情になった。侍従の仕事にも大分慣れたと思っていたが、やはり傍から見ると少々頼りなく思えるのかもしれない。
「……もっとがんばって仕事しなきゃだめかな……」
「シオン?」
「いや、なんでもない。……そうじゃなくて、嬉しい報告があるんだ。ふたつ」
 気を取り直したようにシオンが笑うと、カティもようやく不安顔を引っ込めて微笑を浮かべた。シオンの隣に腰を下ろし、アポロに優しい眼差しを向けながら口を開く。
「シオン嬉しいと、おれも嬉しい。なに?」
 当たり前のように告げられた言葉を受け、シオンは胸のうちがじんわりと暖かくなるのを感じた。ありがとう、と何よりの思いを込めて呟き、碧の瞳を嬉しそうに細める。
「ひとつはね、昨日、青の苑でカズイ・レン・ヒューガ卿に会ったんだ」
「……喧嘩?」
 カティの瞳がわずかに曇る。してないしてないっ、と忙しなく両手を振り、シオンはどこまでも心配性な友人に困ったような苦笑を向けた。
 シオンは決しておしゃべり好きな少年ではなかったが、カティにはあらゆる出来事を包み隠さず話し、ささやかな馬鹿話で笑ったり困惑顔で相談し合ったりしていた。当然、シオンとカズイの間にあった一種の確執もよく知っている。友人が第一位階の騎士にいじめられたのではないか、という不安を両目に浮かべ、心配そうな表情で覗き込んでくるカティに、シオンはもう一度首を横に振ってみせた。
「喧嘩したわけじゃなくて、その逆だよ。仲直り」
「仲直り? シオン、ヒューガ卿と?」
「うん。ちゃんと仲直りできたよ。これでもう大丈夫」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 カティの表情がぱっと明るくなった。先ほどの言葉通り、カティはシオンが喜べば自分のことのように喜び、シオンが悲しめば自分の不幸以上に沈鬱な顔を作る。シオンはその優しさが嬉しかった。自分がカティにとって『特別な存在』だとは思いもせずに。
「心配してくれてありがとう、カティ。それからね」
 自分の価値に驚くほど鈍感なシオンは、カティに劣らぬほど嬉しそうな顔で明るく笑った。
「もうひとつの報告なんだけど……カティ、エディオ・グレイ・レヴィアース卿が先日訪ねて来られたのは知ってる?」
「知ってる。軍師様、戻ってきた。砦から」
「うん。その軍師様がね……」
 シオンの『報告』を聞いているうちに、カティの両目が純粋な驚きに見開かれ、その表面に興奮の感情がさざなみとなって走った。アポロだけは退屈そうに地面へ降り立ち、人間の友人たちの傍を行ったり来たりしている。やがてそれにも飽きたのか、バサリと音を立てて美しい翼を広げ、雲ひとつない真っ青な空へと舞い上がっていった。呼ばれるまでは自分の『庭』で羽を伸ばしているつもりなのだろう。
 それを一瞬だけ視線で追い、すぐに隣に座っているシオンへ瞳を戻すと、カティは眩しい何かを仰ぎ見るようにふわりと笑った。






    


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