15 作り物の世界


 


 そこは漆黒に閉ざされた空間だった。
 光源と呼べるものがほとんど存在しない中、透明感のある闇が四方をかこみ、その表面に星屑を思わせるさざなみを立てている。よく目を凝らしてみれば、それが漆黒の水晶を敷きつめ、極限まで磨きあげた美しい壁だということに気づくだろう。床も、天井も、テーブルも、椅子も、すべてが星屑の光を宿した漆黒をまとい、広々とした室内を幻想的な色彩に沈めていた。
 静寂だけが落ちかかるそこに、闇に溶け込むようにしてたたずむ三つの人影があった。
 黒水晶自体が輝きをまとっているとはいえ、視界を確保するのに十分な明かりがあるとは言いがたい。そうであるにも関わらず、三人は半の不自由も感じていないように体を落ち着け、思い思いの格好で揺らめく闇を見つめていた。
「……他の連中はどうした」
 ややあって、腹の底にずしりと響く低い声が静寂を震わせた。壁にもたれかかり、たくましい両腕を胸の前で組み合わせたまま、すでに初老と言って差し支えない年齢の男が言葉を続ける。
「できれば全員集めろ、とのことだったが、逃げたのか?」
「逃げたわけじゃなく、すっぽかしたんだろう」
 苦いものの混じった男の声に、逆を向いて椅子に腰かけた男が薄く笑った。
「他の奴らはオレと違って不真面目だからな。今ごろはどこかの酒場で女でも見繕っているんじゃねぇか?」
「そういうお前はどうなんだ?」
 白いものの混じり始めた眉をきつく寄せ、男は背もたれに顎を乗せている青年を呆れたように見やった。その視線を受けて青年が目を細める。
 それはぞっとするほど深い漆黒の瞳だった。その目を縁どる長い睫毛といい、彫刻のように滑らかな肌といい、短く切り散らされた暗い色の髪といい、さぞ女に好かれるだろうと思わせる色香をたっぷりと漂わせている。特に玄人の女性に喜ばれる類の美貌だ。
 白い喉をのけぞらせて小さく笑い、青年は渋面を作ったままの男に軽く手を伸ばした。そのまま馴れ馴れしい仕草でたくましい肩を叩く。
「そう怒るなよ、親父さん。血が頭に上りすぎるとポックリいっちまうぜ? 『勅命』を果たす前に死んじまったら笑い話にもなりゃしねぇだろ。なぁ」
「そうか。ならばこれ以上私に苦労をかけぬよう、ここを『率いる者』の称号はお前が継いでくれると言うのか? それは何ともありがたい話だ、何なら私から我が君に申し上げるが」
「うげ、やぶ蛇」
 悪戯めいた表情でぺろりと舌を出し、青年はくつろいだ風情で椅子の背もたれに頬杖をついた。
 まるで反省の見られない仕草だったが、この青年にそれを期待しても無駄だと知っているらしく、男は肩をすくめただけで彼から視線を外した。硝子玉のように淡い色の瞳が漆黒のテーブルを見やる。
「ローズワルド」
「……あ」
 男の呼びかけに答えたのは、何とも残念そうな響きを乗せた高い声だった。
「やだ、失敗。……あーもう、これだけ翅が取れちゃった。ここまで綺麗にいってたのに」
「何だよ、めずらしくおとなしいと思ったらそんなん作ってたのか。嬢(じょう)」
 楽しげに覗きこんでくる青年を軽くにらみ、片手で豊かに広がる漆黒の髪をかき上げたのは、どこかあどけない愛らしさすら感じさせる細身の女性だった。ローズワルドは古語で『赤い蝶』を意味する言葉だが、彼女の名乗りを聞いた人間はたいてい首を傾げ、どうしてそんな物騒な名前をつけたのかと興味津々で尋ねてくる。あるいは似合わない名前だと嫌そうな表情で吐き捨てる。それほどその『音』にこめられた意味は忌まわしく、可愛らしい女性の容姿にふさわしくないものだった。
「もう、これでお終いだったのに。これをとるの、大変だったのよ? 綺麗な黒い翅をしたのがなかなかいなくて」
 くっきりとした赤い唇をとがらせ、女性は手の中にあるモノを青年と男に向かって突き出した。
 それは片方の翅を失い、体の部分を細いピンで貫かれ、二度と空を飛ぶことができなくなった黒い蝶だった。よく見れば、漆黒のテーブル上に硝子で作られた箱が置かれ、その中に色とりどりの蝶たちが几帳面に留められている。この黒い子で最後だったのに、ともう一度呟き、女性は溜息をつきながら漆黒の蝶に指を這わせた。
 慈しむように指先で撫で、そのままためらいの見られない動作でソレを握りつぶす。原型をとどめないように指を動かし、ぐしゃぐしゃという嫌な音を室内に響かせると、女性はようやく満足したように白く細い手を開いた。
 黒い翅の残骸が音もなく宙を舞い、漆黒の床に到達する前に弾けて消える。
「今度捕まえにいくの手伝ってね、リングレット? 私ひとりで歩きまわるの飽きちゃったし」
「オレでよろしければお手伝いするけどな、嬢。二十過ぎて虫捕りってのもどこかむなしくないか?」
「いいのっ、私がほしいんだから、リングレットは黙って手伝ってくれればいいのっ!」
「あーはいはい」
 勝手な言い分に適当な頷きを返し、青年は無言でこちらを見ている男に視線を戻した。リングレット、すなわち『黒き闇』を意味する名の青年は、自分たちのまとめ役である男に笑みをふくんだ顔を向ける。
「……って感じに和んでるけど、今日はこうやって和やかに会話するために集まったんじゃないよな? ま、この面子じゃどうがんばっても『お父様』と『わがままな末娘』と『頼りがいのあるお兄さん』にしかならねぇけど」
「頼りがいのあるお兄さん? リングレットが? え、嘘、本気で言ってるのっ?」
 信じられなーいっ、と叫ぶローズワルドの頭を片手で押さえ、リングレットは闇よりもなお深い色の目を細めてみせた。そのまま壁にもたれている男を見やり、世間話でもするような口調で言葉を続ける。
「そろそろオレらにも仕事が来んだろ?」
「そうだ」
 短く断言した男を見上げ、髪をかき回してくる手を何とかどかすと、ローズワルドは十代半ばの少女にしか見えない顔を輝かせた。琥珀色の瞳が宝石のようにきらきらと煌く。
「久しぶりね、私たちがお仕事するの。……そういえば、もう『楔』のあの子はお仕事をもらったんでしょ? いいなぁ、私もそっち系の仕事がしたかったのに」
「まだ開始されたわけではないが、な。あれの仕事は我らのそれとは異なる種のものだ、羨んでも仕方がない」
「わかってるけど……」
 やや不満げなローズワルドを乱暴に撫でてやり、リングレットは無邪気な少年を思わせる表情でにこりと笑った。だがその瞳だけは微塵も笑っていない。冷たく、鋭く、強靭でありながら、どこか錆びて朽ちかけた剣を思わせる危うい瞳だった。
「じゃあとりあえず、『焔』をやるのは親父さんに任せるよ。オレらにはちぃっとばかし荷が勝ちすぎる」
「面倒ごとが嫌なだけではないのか?」
「いやいや、若者が年長者を立ててこそ序列が守られるんだって。――その代わり、オレは『月』の……一番強い銀のやつ。それをやるよ」
「勝てるのか?」
「さてね。でもまあ、楽しそうな相手なのは確かだろ? だいたい、同じバラすなら醜いやつより綺麗な人間の方がいいに決まってる。その点あの銀月なら問題なしだからな、時間はかかっても楽しめそうだ」
 ひどく楽しげなリングレットを横目に、ローズワルドは猫のような仕草でんーっ、と伸びをしてみせた。
「私は誰でもいいなぁ。『月』はすごく綺麗だから遊びたいけど、リングレットがやるっていうなら私はいい。……『焔』はちょっと、光が強くて私には眩しすぎるし。問題の『鍵』は……私たちが手を出しちゃ駄目なのよね?」
「ああ」
 それに答えたのは初老の男だった。薄い色彩の瞳を鋭くすがめ、小さく首を傾げた女性と、口元に薄く笑みを湛えた青年を交互に見やる。
「忘れるな。我はこのエルカベル帝国の影。皇室の暗部。表舞台の『剣』である騎士団とは一線を画す、ただ皇位の正当なる継承者のためだけに生きて死ぬ鋼の残骸。……我が君がそれを望むのであれば、たとえ四玉の王の御意に逆らうことになろうと、覇者の導き手である『鍵』さえ消さねばならぬ。だがその方法はあくまで我が君が決めること」
「わかってるって。そもそも、本当に四玉の王の御意とやらで『鍵』が遣わされ、例の『焔』殿を導こうとしてるのかどうか、それすらちゃんとわかってねぇんだしな」
「私だって、我が君が望まないことはひとつだってしないわ。しても仕方ないじゃない? 私たちはそのために生きてるんだから」
「そうそう。……つーか、親父さんこそ」
 そこでふいに何かを思いついた顔になり、リングレットは椅子の背もたれに頬杖をついたまま両目を細めた。
「あの『焔』に勝てるのか? 己の敵を焼き尽くしながら歴史を作る、あの太陽並みに強引な光に」
「関係ない」
 からかうような言葉に答え、冷たく輝く鋼にも似た声が空気を震わせた。
「何であれ、我が君の命があればすべてを賭して戦い、その結果、私よりかの『焔』が優れていれば彼が勝つ。その逆ならば私が勝つ。必勝の心構えなど子供の絵空事だ。――そのようなこと、知らぬお前ではあるまいに」
「まあな。いくら正面からいくわけじゃないとはいえ、オレだってあの『月』に楽々勝てたら苦労はねぇし。その前に『表』の奴らが戦争でぼろ負けすっかもしれねぇしな」
「そうしたらどうするの? 大軍対大軍の戦争は、私たちにはあんまり関係ないでしょ? ……私とリングレットは、だけど」
 蝶の入った硝子の箱を隅に追いやり、ローズワルドは幼い子供のようにテーブル上へ身を伏せた。そのまま両足をぶらつかせ、上目遣いにまとめ役である男を見つめる。
「ねぇ。爺(じい)はあの『焔』のこと気に入ってるんでしょ?」
「……ふむ。否定はせぬが」
「じゃあよかったね、自分の手でやれて」
 テーブル上で腕を組み、その上に形のよい顎を乗せると、ローズワルドはいっそ無邪気に響く声で言い切ってみせた。その横でリングレットがだよなぁ、と言い添える。
「オレらの仕事は『表』の補佐、って形で行われるモンだが、親父さんなら堂々と正面から斬りかかってくこともできるんだろ? 『焔』が気に入ってるならそれってかなり幸運だよなぁ」
「ねぇ」
 暗がりをものともせずに視線を合わせ、ローズワルドとリングレットは影のない表情で笑みを交し合った。仲のよい兄妹のようにも、心から愛し合う恋人同士のようにも、長い年月を連れ添った夫婦のようにも見える、どこかひんやりと乾いた仕草で。
「――――そうだな」
 厳しく引き締まった顔をわずかにゆるめ、男はかろうじて苦笑と言えるだけの表情を作った。彼らの中には、「気に入っている相手を殺したくない」という概念は存在しない。「誰かに殺されるくらいならせめて自分で」とすら考えない。ただ気に入っている相手を思う存分いたぶり、逃げ場のないところまで追いつめ、その体に振り上げた剣を突き立てるという、何よりも甘美で楽しい遊びを他の誰かに奪われたくないだけなのだ。
 そんな風に作られた青年と女性を見つめ、男は硝子玉のように無機質な瞳をそっと和ませた。愚かで可愛らしい人形たち。自分たちが人形であることを知りながら、ひどく不思議そうな表情で「なぜそれがいけないのか」と問い返してくる、あまりにも賢くて哀れな闇の中の魔物。
 それを『率いる者』である男は、自分自身が間違いなくその仲間であることを知っていた。
「とりあえずは、まだだ。まだ我らが動く時ではない。勘づかれては元も子もないからな。……もっとも」
 男の口元からほのかな苦笑が薄れて消えた。
「かの『月』ならば、もう我々の動きに気づいているやもしれんがな」
「そうこなくっちゃな。それくらいでなきゃやりがいがねぇってもんだ」
 ローズワルドの黒髪に指を絡めてもてあそびつつ、リングレットは男の言葉を引きつぐ形で軽く呟いた。やめてよっ、と叫ぶローズワルドを片手で押しのけ、星屑の輝きに満ちた闇へと視線を転じる。
 漆黒の双眸に朽ちた剣の光が宿った。
「親父さん、崩壊の合図は?」
「まずは白き夜に。その後、『焔』たちがどう動くかにもよるが、恐らく夏を迎える頃にはすべての『舞台』が整っていよう」
「そっからがオレらの出番ってわけか」
「そうなるな」
「楽しみねっ」
 きゃらきゃらと高い笑い声を響かせ、ローズワルドは横に置いてある硝子の箱に手を滑らせた。この無垢で純粋な女性にとって、『焔』も、『月』も、王より遣わされた覇業の『鍵』も、透明な箱に入れられた蝶たちと同等の価値しか持たないのだろう。
 それは悲しみさえ掻き立てる認識だったが、男の胸中に危惧の念が湧き上がってくることはなかった。
「楽しみにするのは構わぬ。が、くれぐれも先走ったことはしないように気をつけよ。私は直にここを離れねばならぬだからな」
「わかってますってば」
「年寄りを心配させるようなことはしねぇよ。崩壊の始まる、白き夜までは」
 二人の返答に軽く頷き、男は青年に倣うようにして漆黒の闇に視線を放った。
 三人のまとう魔力を受け、磨きあげられた漆黒の壁に星屑の煌きが走る。消え去る寸前の断末魔のような、砕けて踏みにじられた硝子のような光に、男が羽織っているマントが鮮やかな色彩を浮かび上がらせた。
 それを無骨な手で軽く撫で、一瞬だけ色素の薄い両目を閉ざすと、男はそれ以上口を開くことなく二人の部下に背を向けた。リングレットとローズワルドはそれを咎めない。ただ口元に明るい笑みを浮かべ、ぴたりと息の合った動作でその背に手を振ってみせた。
 闇色の空気が動くのを感じながら、影を率いる男は胸のうちでひっそりと思う。
 たとえこの行動が、貴き四玉の王の御意に逆らうものであったとしても、と。






    


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