17 四度目の誓い


 


 冷たく澄んだ空気が頬を撫で、シオンは閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げた。とたんに青い闇が視界を占拠し、空中にぽんと放り出されたような、足元の地面がいきなり硝子張りの床に変わったような、何とも表現しがたい浮遊感が全身を押し包む。一瞬だけパニックを起こしかけたが、すぐに靴の裏を受け止める透明な大地に気づき、シオンは納得の表情を浮かべて小さく息を吐き出した。これは夢か、と。
 銀の粉雪があとからあとから降りしきり、目に見えない大地を通り抜けて闇の底へと消えていく。見慣れるほど多くはなかったが、この世界に呼び招かれてから何度も目にし、そのたびに言い知れない懐かしさと切なさを覚えた光景だった。まばゆいばかりの光に目を細め、慎重な動作であたりを見回すと、シオンはブーツに包まれた足を静かに踏み出してみた。確かな感触が靴裏に伝わり、まるで水滴に揺らされた湖面のように波紋を広げる。
 その輝きを視線で追いかけ、シオンは小さな驚きに碧色の瞳を見開いた。いつの間に現れたのか、数歩分しか離れていない場所に華奢な人影がたたずみ、白い顔を仰のかせて銀の光を見つめていたからだ。
 まず目に入ったのは青く輝く長い髪だった。
 空よりも海よりも晴れやかな青がまっすぐに流れ落ち、水色から藍色へと移ろう優美な衣装を彩っている。ここ数ヶ月でさまざまな色合いの髪を目にしてきたが、それは黒髪、金髪、銀髪、茶髪、赤毛といった常識的な色ばかりで、透きとおるような青い髪の人間になど遭遇したことはなかった。その髪と同じ色をした長い睫毛も、光を受けてほのかに浮かび上がる白い肌も、襟元から覗く細い首も、不思議と性別を感じさせない清冽な美を湛え、ひんやりとした硝子細工のごとき透明感をかもし出している。
 シオンの鼓動が大きく跳ね上がった。
「……ほたる?」
 そんなはずはない、と頭の片隅で理解しながら、シオンはずいぶん前に別れた友人の名を呟いた。亜麻色の髪に薄茶の瞳、男とは思えないほど繊細な容貌、そして名前にふさわしい儚さをあわせ持った少年の姿は、半年以上が経った今でも記憶の中にはっきりと刻み込まれている。一見して同じところなどないはずなのに、世界中の青という青をまとってたたずむ佳人と、月篠高等学校のブレザーを着込んだ友人の姿が重なって見え、シオンは困惑したように長い睫毛を瞬かせた。
 その気配に気づいたのか、青の佳人がひどくゆっくりした動作で振り返り、すぐ傍に立っているシオンをまっすぐに見つめた。
 あらわになった両目の色彩は、一点の曇りもなく澄み渡った空の色をしていた。透明な青の中に光が入り込み、それを淡い水色のようにも、はっとするほど鮮やかな紺碧のようにも、わずかに紫がかった瑠璃色のようにも見せている。髪の色がひややかに輝く青水晶なら、瞳の色は内部に移ろう光を閉じ込めた青い灯篭(とうろう)だ。
 常に視界のどこかに映っている色だが、これほどまでに美しいと感じる『青』を見たのは初めてだった。
 その青がひたりとシオンを捉え、どこまでも優しい笑みに細められた。形のよい唇がわずかに開き、心地よい静寂の中に凛とした声を響かせる。
「蛍、か」
「……え?」
「それが君の時代に現れた、機械仕掛けの沃野に生きる『僕』の名前なんだね」
 まるで独り言のように呟き、青い衣装を揺らしながらシオンに向き直る。その上を青水晶の髪がさらさらと流れ、銀の光を映しこんで清浄な輝きを散らした。
 一幅の絵画のような光景を見やり、シオンはああ、と胸中に呟きを漏らした。口元をほんの少しだけほころばせる笑い方も、高くはないのに透明感のある声も、落ちかかってくる髪を指先ではらいのける仕草も、シオンが見知っている友人のそれによく似ていたからだ。
 そんなシオンの内心を知ってか知らずか、青の佳人は穏やかな微笑を浮かべたまま首を傾げた。息を呑むほど鮮麗な瞳が深い色に輝く。
「よくここまで来られたね」
「え?」
「ここは世界の狭間。餓えた荒野と機械仕掛けの沃野の境界。……『鍵』の役目を負うただ一人の人間を除いて、どちらの界の住人であろうと足を踏み入れることのできない世界」
 銀色の光が音もなく降り注ぎ、歌うように綴られていく言葉に彩りを添えた。
「君は確かに『鍵』だけれど、こうして僕に会いに来た人間は久しぶりだ。僕たちはこの世界にひっそりと溶け込み、ただ自分勝手な贖罪の行く末を見守るだけの存在だから」
「……僕たち?」
「そう。……それとも、君の生きていた世界では違った? 『僕』は一人で君の前に現れたの?」
 相手の言わんとしているところを悟り、シオンは緩慢な仕草で首を横に振った。夢の中の出来事だからか、相手の台詞に対する違和感も、『僕』という言葉に対する疑問も、抽象的な言い回しに対する訝しさも感じることはない。ただひどく懐かしい四人の姿を思い浮かべ、胸のうちにじんわりとした暖かさがこみ上げてきた。
「兄弟たちと……雫(しずく)と、嵐(らん)と、律(りつ)と一緒にいたよ。羨ましくなるくらい仲がよくて、いつも一緒で、兄弟のことを大切にしてた」
 ごく自然に敬語ではない言葉が滑り出たのは、目の前の佳人と友人である蛍が重なって見えたためだろう。真情のこもったシオンの言葉を受け、青をまとう佳人はひどく嬉しそうに瞳を和ませた。
「よかった。……僕たちが世界を二つにわけたのは、結局のところ四人が一緒にいるためだったから」
「……え?」
「大切な存在と共にあるために、僕たちは君たちを……『鍵』の役目を負うかわいそうな愛し子たちを、これから何度でも犠牲にする決断を下した」
「……」
「僕たちは、僕たちを愛してくれた世界のためなら死んでもかまわなかった。死なら喜んで甘受できた。でも、世界のために他の三人と引き離されることだけは嫌だった。――――それだけはどうしても許せなかったんだ」
 許されざる罪を告白するような、断罪の言葉こそを待つような表情を作り、友人によく似た人物はシオンに片手を差し伸べた。白い指先の上に光が揺れ、青い闇の中に痛いほどまぶしい色彩を刻みつける。
 どこか懐かしい美貌がやんわりと微笑した。
「許してくれなくても、憎んでもいい。勝手なことを言うなと、恨みの言葉をぶつけてくれても構わない」
「……」
「だけどどうか、君を呼び招いた者を導いてほしい。君を心から必要としている、かの強靭な『焔』とこの世界のために」
「……カイゼル様、を?」
 不思議そうな表情で首をひねったシオンに、青の佳人はそうだよ、と耳に心地よい声で呟いた。
「覇者に『鍵』はただ一人。君が導くのは、君を呼び、君を招き、君と出会うべくして出会った唯一の覇者」
「……それは」
「もし君が別の人間に膝を折り、その人を覇者にすべく力を尽くしたとしても、『鍵』は唯一の主のもとになければ何の意味もなさない。黎明帝シェルダートに忠誠を誓ったジンのように、獅子帝ルーベを愛したカノンのように、銀狼帝ヴォルフの友となったシキのように」
 旧友の名を挙げるようにすらすらと告げ、青の佳人は淡く深く移ろう瞳でシオンを見やった。そのあまりにも澄みわたった色彩に、魂を鷲づかみにされるような美しさに、シオンは呼吸すら忘れて青い闇の中に立ちすくむ。
 白い指先がそっとシオンの肩に触れ、かすめるようにしてからすぐに離れていった。
「だからどうか、君を呼び招いた覇者に光をもたらしてほしい。……身勝手すぎる思いではあるけれど、僕たちはここで、君を襲う痛みと苦しみが少しでも軽くなるように祈っているから」
「……そんな」
 その言葉があまりにも悲しげだったためか、切ない笑みが友人の姿と重なったためか。シオンは無意識のうちに首を振り、目の前に立つ佳人へ真摯な眼差しを向けた。そんな顔をしないでほしい、と。
「そんなこと、ないよ」
「……え?」
「身勝手なんかじゃないよ。よくはわからないけど……」
 意識はどこかぼんやりとかすんでいたが、頭の中の冴えた部分ではとうに佳人の正体に思い至っていた。世界を二つに分けたという言葉と、その身にまとわせたこの世のものとは思えない青と、先ほどから繰り返される『僕たち』という言葉と。そこから導き出される名前はたった一つだけだからだ。
「四玉の……青玉の、王様」
「……」
「今の状況は全部、貴方たちが悪いわけじゃないと思う。そういう風に生まれたっていうだけで……強すぎる魔力を持っていたっていうだけで、そんなに大きな罪を背負わなきゃならないのはおかしい。だって貴方は、そんなに」
 そこで一度言葉を切り、シオンは『青玉の王』に真摯な眼差しを向けた。整った顔が痛ましげにゆがむ。
「そんなに苦しんで、今でもすべてを償おうとしてるのに」
「……君は」
 青い瞳をかすかに細め、青玉の王は貴い宝物を見るような表情で淡く笑った。
「君はとても優しいね、覇者に選ばれた導きの鍵。……餓えた美しき荒野は、君の持つその優しさこそを求めたのかもしれない」
「え?」
「だから僕たちは祈ろう。君の未来に祝福があるように。道の途中でどれほど傷ついても、耐えがたいほどの悲しみに襲われても、最後には光の中で笑っていられるように。……導きの鍵よ、君の名前を教えてくれる?」
「……名前?」
「そう、鍵という呼び名ではない、君自身のの名前を」
 銀の光が音もなくさんざめき、青い闇が少しずつその深さを失い始めた。おそらく目覚めの時が近いのだろう。急速にあいまいになっていく意識を自覚し、それを何とかつなぎとめようと努力しながら、シオンは目の前で笑っている佳人に小さな笑みを見せた。桜の花が舞い散る中、はじめて蛍に出会った時のように。
「シオン、だよ。シオン・ミズセ」
「シオンか。綺麗な名前だね。……秋に咲く、淡い紫色の花の名前だ」
 紫苑、という名前の意味をさらりと口にし、青玉の王は衣擦れの音を立てながら細い腕を持ち上げた。細い指を自分の胸に押し当て、祈りを捧げるようにしながら静かにささやく。
「さようなら、シオン。君ならきっと、この世界に『無』ではなく平穏をもたらしてくれると信じているよ」
 どこまでも澄みきったその声を合図に、シオンを取り巻くすべてが明確な形を失った。まどろむような心地よさに目を閉じかけ、だがすぐにはっとした表情で瞼を押し上げると、シオンは輪郭を薄れさせていく青玉の王に視線を投げた。待って、と。
「王様、貴方の名前は? 蛍じゃない、貴方のちゃんとした名前は……」
「あるよ。兄弟と番人以外、呼ぶ者がいなくなって久しい名だけれど」
 幼子を見る表情で穏やかに笑い、青玉の王は完璧な形を誇る唇を開いた。
「僕の名前はレイリ。四玉の王の一翼にして、始まりと終わりと見届ける者。……そして世界に拒まれた、永遠の迷い子」




 まっさきに視界へ飛び込んできたのは、やや離れた位置で揺らめく燭台の灯だった。
 熱を感じさせない光がゆらゆらと揺れ、枯葉色で統一された室内を静かに照らし出している。屋敷内の部屋はどこも豪奢な作りをしているが、主であるカイゼルの執務室だけは例外で、落ち着いた内装と調度品がどこまでも重厚な雰囲気を演出していた。仕事をするのに豪華絢爛な調度がいるか、というカイゼルの実利主義が反映された結果だろう。寝起きの頭でそこまで考え、こみ上げてきたあくびをかみ殺すと、シオンはゆっくりした動作で机の上に突っ伏していた顔を上げた。
「あれ……」
 僕なにをしてたんだっけ、と覚醒しきっていない声で呟き、シオンは枯葉色の室内に視線をさまよわせた。首を傾げながら瞼を閉じれば、一瞬前まで目の前にあった『青』が鮮やかによみがえってくる。あまりにも不可思議で、泣きたくなるほど切なくて、どうしようもないほど懐かしい夢だった。覚えていられてよかったと思うほどに。
「……レイリ」
 最後に聞いた名前を口の端に乗せ、記憶の中から零れてしまっていないかを確かめてみる。しっかりと覚えていたことに安堵し、口元をゆるませて息を吐き出すと、シオンはまとわりついてくる眠気をはらうために小さく伸びをした。
 その瞬間のことだった。
「で、ようやく起きたと思ったらお前は何を百面相してるんだ、シオン?」
 すぐ横から圧倒的な美声が響きわたり、夢の名残にひたっていたシオンの意識に冷水を浴びせかけたのは。
 あっという間にしつこかった眠気が吹き飛ばされ、シオンはうわっ、という間の抜けた声を上げて背筋を伸ばした。椅子の上で飛び上がった、と言った方が正しいかもしれない。その拍子に片方の肘がぶつかり、机の上に積んであった書類の束を突き崩したが、シオンはそれにも気づかない様子でギシギシと首をめぐらせた。
「……カ」
「あ?」
「カ、カ、カ……」
「蚊? 蚊が何だ、蚊が」
「……カイゼル様っ!?」
「だから何だ」
 心から呆れた口調で低く呟き、カイゼルはちらりと床に目を向けながら指を動かした。とたんに室内の空気が震え、にわかに巻き起こったつむじ風が落ちた書類を拾い上げる。元あった机の上にきちんとおさまり、羊皮紙らしく黄ばんだ顔でシオンを見上げると、書類の束たちは魔力の残滓とたわむれるようにゆらゆらと揺れた。
 うわぁすみませんっ、と素っ頓狂な声を上げて書類を押さえ、シオンは黒檀の執務机に頬杖をついている主君を見やった。同時に眠る前の記憶が勢いよく舞い戻り、ざぁっと音を立ててシオンの顔から血の気が引く。
「あああ、あの、カイゼル様……」
「何だ」
「あの、ひょっとして」
「あ?」
「その、僕、仕事中に、居眠りとか……」
「してたな、今の今まで」
 できればそれも夢であってほしい、という願いも空しく、低く通りのよい声がシオンの問いかけを一蹴した。ひどくあっさりした声音だったが、そこにふくまれている破壊力は計り知れない。
「すすすすみません……っ!!」
 真っ青な顔で悲痛に叫び、シオンはコメツキバッタもかくや、というすばやい動作で主君に頭を下げた。ただでさえ、今日は「十五分で戻って来い」という言いつけを忘れてカティと話しこんでしまい、カイゼル自ら鍛錬場にまで足を運ばせるという失態を演じているのだ。それに加えて夜の仕事でも居眠りをするなど、某第一位階の騎士のように壁際まで蹴り飛ばされても文句は言えない所業である。もっとも、岩をも蹴り砕く一撃が炸裂するのは『ある程度頑丈な体の持ち主』に対してだけで、カイゼルがシオンやセスティアルに手を上げたことは一度もなかったが。
「本当にすみません、あの、疲れるわけじゃなかったはずんなんですけど、気がついたら寝てたというか、意識が途切れてたというか……っ!」
「そうだな、俺の声にも反応しないほど熟睡してたな」
「えぇぇっ!?」
 カイゼルの声でも起きなかった、という事実に衝撃を受け、椅子に座ったままよろりとよろめく侍従の少年に、カイゼルは彼らしく傲岸な仕草で唇の端を持ち上げてみせた。
「まあ、そんなことはどうでもいいが」
「そんなこと……」
 再び衝撃を受けるシオンをさらりと無視し、カイゼルは世間話をするような口調のままで言葉を続けた。深青の瞳がどこか楽しげな光を宿し、燭台の灯を反射して鋭く煌く。
 倒すべき敵とまみえた時のように。
「レイリ、というのは誰だ?」
「え?」
「聞いたことのない名だが、夢に見るほど気になる相手でもできたのか? そんな暇と甲斐性があるとは思えんが」
「あ、いえ、えっと……っ」
 思いがけない言葉に目を見張ったが、すぐに先ほどの独り言を聞かれていたのだと気づき、シオンはそうじゃありませんっ、と首を振りながらカイゼルに向き直った。主君に対して隠し事をする、という選択肢が脳裏をよぎることはない。シオンはカイゼルの侍従であり、彼のために異界より招かれた来訪者であり、魂のすべてをかけて主に仕える存在なのだから。
「……僕が知っている人の名前ではなくて、レイリ、というのは夢の中に出てきた人の名前です」
「夢?」
「はい。ただの夢かもしれないんですけど、四玉の……青玉の王様に、会いました。その人の名前がレイリ、だと」
「ほぅ?」
 深青の瞳に興味の色をよぎらせ、カイゼルは真剣な表情で背筋を伸ばしているシオンに眼差しを向けた。顔色を変えて問い詰めることも、ただの夢だと一笑に付すこともせず、ただ淡々とした口調で話の続きを促す。それで、と。
「その『青玉の王』とは何を話した? ただ会っただけか」
「いえ。この世界で、『鍵』の役目を果たしてほしい、と言われました。……『鍵』っていうのが何なのかは、まだ僕にもよくわからないんですが」
「『鍵』の役目、か。他には?」
「それだけと思います。……多分」
 完璧に覚えてるわけじゃないんですけど、と自信なさげに呟くシオンを見やり、喉の奥低く笑い声を立てると、カイゼルは棚の上の置物を取るような動作で片手を伸ばした。そのままシオンの髪をくしゃりと撫で、ついでとばかりにその頭を軽く押しやる。目の前に鎮座している書類に向かって。
「そうか。だったらしっかり役目を果たせ」
「え?」
「さっきまでぐっすり寝てたんだ、今日の分は今日のうちに終わらせろよ、シオン」
「……あっ、はい!!」
 物を扱うような適当極まる手つきだったが、それでもその動作はどこか優しかった。柔らかな思いに目を細め、羊皮紙と羽ペンに手を伸ばすと、シオンは脳裏に浮かんだ佳人に向かって大丈夫だよ、とささやく。
(他の人に、忠誠を誓ったりはしないから)
 たとえこの先に何があろうと、どれだけの痛みがこの身を襲おうと。
(僕が膝をつくのは、この世界でただ一人)
 カイゼル・ジェスティ・ライザード様だけだから、と。






  


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