1 見習い侍従の修行風景


 


「……皇暦八四二九年、地方都市連合が自由都市ディジー・アレンを指導者として一致団結し、即位して間もない黎明帝シェルダートに反旗を翻した。当初は取るに足らない地方の反乱だとされていたが、それから約一月後、帝国の討伐軍二万がわずか半数の叛徒(はんと)によって壊滅させられ、反乱軍の勢力は軽視しえないほどに増大することとなった。……ではなぜ、結成されたばかりの反乱軍が正規の軍人を相手取り、二倍近の兵力差にも関わらず撃破することができたのか。ちゃんと答えは用意できてるかい、シオン?」
 普段より厳しさを増した軍師の声に、シオンは真剣な表情を作って椅子に座りなおした。
「理由はいくつか挙げられると思います」
「言ってごらん」
「はい。……まず第一に、反乱軍を取るに足らないものと見なしていた帝国の油断です。敵の二倍の兵力を有しておきながら、反乱軍の巧妙な動きに翻弄され、自由都市の庭とも言えるレガ山脈へと誘い込まれるなど、帝国軍はあらゆる面で敵に先手を取られているとしか言いようがありません。その油断が数の有利を覆した第一の要因だと考えられます」
 そこで一度言葉を切り、シオンは向かい合わせに座っているエディオに視線を向けた。彼の表情は非常に読みにくい部類に入るが、どことなく満足げな様子から鑑みるに、正解から大きく外れているわけではないらしい。
 内心で小さく安堵の息を吐き、シオンは考えを整理しながら言葉を続けた。
「第二に、引き際を誤った帝国側の驕りです。最大の敗因は、霧の深い山中に引きずり込まれ、仕かけられていた罠に騎兵の大半を封じられたためと言われていますが、そうなる前に進軍をやめて敵の出方を探ることもできたはずです。敵のに誘い込まれたということに気づいて、じっくりと腰を据えて探っていれば、レイターを擁する帝国軍がみすみす罠にかかるはずがありませんから」
「確かに」
「第三に、帝国側にあった内部のゴタゴタ……いわゆる権力争いも原因の一つだと思います。シェルダート帝の父である前皇帝と、兄であるラディシア皇太子が相次いで亡くなってから、黎明帝が即位するまで色々な騒動があったようですし。その混乱のさなかに台頭してきたジン・ヒューガをめぐっても、騎士団や門閥家の中で悶着があったと聞きます。……断言することはできませんが、騎士団内での足の引っ張り合いも敗因の一つだと言っていいんじゃないでしょうか」
 今までに学んできた知識を思い起こしつつ、シオンは師匠に対する回答をそう締めくくった。
 エディオ・グレイ・レヴィアースに弟子入りし、正式に軍師補佐の称号を与えられてから、こうして毎日『授業』を受けるのがシオンの日課になっていた。今日のようにライザード邸の一室を借りる場合もあるし、皇宮スティルヴィーアにある書庫まで足を運ぶ場合もある。
 そのどちらにせよ、シオンは師匠であるエディオと向かい合い、与えられる問いに答えを返していく時間が好きだった。ただ単純に知識を詰め込んでいくより、自分の頭で考えることを優先させる授業形式のためかもしれない。そのぶん授業は厳しいものにならざるを得なかったが、実際に起こったいくつもの事実に触れ、その背景や人々の思惑を考える行為は楽しかった。時には侍従の仕事以上の充実感を覚えるほどだ。
 大人しく反応を待っているシオンを見つめ、肉づきの薄い唇に笑みを滲ませると、エディオは両腕を組み合わせながら鷹揚に頷いた。
「なるほど、きちんと勉強してきたようだね。目のつけどころも、考え方も悪くない」
「……ありがとうございます」
 強張っていた肩から力を抜き、シオンは弾力のある椅子の背もたれに寄りかかった。エディオは決して取っつきにくい人間ではないが、ひとたび教師として授業に臨むと、生徒に一切の妥協を許さない恐怖の鬼教師と化す。一度で及第点をもらえるのは非常にめずらしいことだった。
「君が言ったとおり、この時の帝国側には『負けるはずがない』という油断と驕りがあった。あれこれと理由をつけて、当時第一位階まで上りつめていたジン・ヒューガを帝都に残したのもそれのあらわれだね。……わかっていると思うけど、これは考えうる限り最悪の部類に入る敗北の仕方だ。勝てるはずの戦いを溝(どぶ)に捨てるなんて馬鹿以外の何物でもないんだから」
「はい」
「それに気づけたのはよかったよ。一つの事象について考える時は、時代背景から人々の心理、当事者の状況など、あらゆる側面から多角的に捉えなきゃならない。――――まずはひたすら考えて考えて考え抜くこと。もちろん直感の類も大切だけど、それは実戦の中で磨かれていくものだからね。今はひたすら勉強あるのみ」
「はい、師匠」
 どこまでも生真面目に頷く弟子を見やり、エディオは紫の瞳を細めてよろしい、と呟いた。そのまま開きっぱなしになっている本に手を触れ、栞代わりのメモを挟み込みながら静かに閉じる。
「次もこのあたりを重点的にやるから、明日までに軽く予習をしておくようにね。詳しくは授業中にやるからいいけど、さすがに予習なしじゃちょっときついだろう?」
「はい。……あ、じゃあいくつか本を借りていっても構いませんか?」
「もちろん。君の速度なら明日までに三冊ってところかな」
 まあ私なら十冊は軽いけどね、と朗らかな表情で言い切り、エディオは脇に積んである本から無造作に三冊を引き抜いた。パラパラとページをめくって内容を確かめ、満足そうに頷きながらシオンの前へと押しやる。一晩で読むには明らかに厚すぎる本ばかりだったが、シオンは嬉しそうな表情でそれを受け取り、年代を感じさせる古ぼけた装丁に視線を落とした。
 エディオの用いる勉強方法はひどく単純で、八四二九年に起こった『ディジー・アレンの反乱』を記憶させる際、反乱が起きたのは何年か、何年にどこが起こしたか、何年にどこが何を起こしたか、という簡単な質問を何度も繰り返し、それに答えていく過程で自然に学習内容を反復させるというものだった。八四二九年に、八四二九年に地方都市連合が、八四二九年に地方都市連合がディジー・アレンの反乱を、という順序で答えていくことにより、その問題を解き終わる頃には必要な情報が長期記憶に移行されている。
 非常に効率的な方法だと言えたが、それだけで終わらないのがエディオのエディオたる所以だった。その方法で必要な知識を覚えさせたあと、それを用いなければ解くことのできない問題を出し、エディオが満足する答えを用意できるまではカイゼルのもとに帰さないのである。予定時間をすぎればすぎるほどカイゼルの機嫌が降下していくのだから、侍従であるシオンにとってはまさしく死活問題だった。
 今日はちゃんと終わってよかった、と口の中で呟き、渡された本を胸の前に抱えなおすと、シオンは向かい合わせに座っている師匠にぺこりと頭を下げた。
「今日もありがとうございました、師匠。また明日もよろしくお願いいたします」
「ああ、今日もお疲れさま」
 にっこりと笑って椅子を引き、エディオはシオンを促してその場に立ち上がった。散乱している羽ペンや紙の束を無造作にまとめ、手伝おうと手を伸ばしたシオンに悪戯めいた視線を向ける。
「そういえばシオン、君はこれからカイザーのところに行くんだろう?」
「はい。もうじき昼食の時間ですし、今日は午後からフィオラ様とシェラナ様がいらっしゃいますから」
 そのための準備もしなきゃならないんです、と小さく微笑したシオンに、エディオはわざとらしい動作で濃い紫の瞳を見開いた。
「王子と姫が? ……ふぅん、それは知らなかったな。多分カイザーが意図的に教えてくれなかったんだろうけど」
「……いえ、そんなことは」
 控えめに否定するシオンに構わず、今年で二十九歳になる軍師は悪童を思わせる表情でくすりと笑った。困惑気味にたたずむ弟子を見やり、芝居がかった動作で顔の横に指を立ててみせる。
「それじゃあ私もあいさつしないといけないね。親友の子どもたちにあいさつするのは人間として当然のつとめだし、人間関係を円滑にするためにも外せない礼儀というものだ。シオンもそう思うだろう?」
「……あ、えっと」
「ん? 何だい? 何か言いたいことがあるなら我慢は禁物だよ、遠慮なく言いたいことを言い合ってこそ良好な師弟関係は保たれるんだからね。さあ言ってごらん、遠慮せずにどどーんと」
「……いえ、すみません。何でもありません」
 シオンにとって主君であるカイゼルは絶対だが、それは別の意味で師匠であるエディオも逆らいがたい人物だった。何が出てくるかわからないびっくり箱を抱えている心境、と表現すれば一番近いかもしれない。どこまでも従順な弟子を見下ろし、人の良さそうな表情で小さく笑うと、エディオはシオンの肩を押して部屋の扉に足を向けた。
 ライザードの屋敷で授業を行う場合、大抵はウィルザスの管理している書庫を借りることになっている。隣の小部屋で待機しているウィルザスに声をかけ、のんびりとした答えが返るのを確認してから、エディオはシオンと共に重厚な木の扉を押し開けた。
 屋敷からそう離れているわけではないが、ライザード家の書庫は独立した塔の中に作られている。石造りの階段の足をかけたとたん、等間隔に作られた窓からそよ風が吹き込み、シオンの薄茶色の髪とエディオの黒髪を優しく揺らしていった。
 落ちかかってきた前髪をはらい、エディオは気持ちよさそうな表情で瞳を細めた。
「うーん、今日もいい天気だねぇ」
「はい。最近は暖かくなってきましたし、普段は半袖でちょうどいいくらいですよね」
「確かに。君の友達……アポロだったかな? 彼にとっても過ごしやすい季節になったみたいだね」
 ほら、というエディオの声に眼差しを転じ、シオンは湖沼のような碧の瞳を柔らかく和ませた。水彩絵の具のように淡い空の下、一羽の鷹が翼を広げ、塔から出てきたシオンのもとに音もなく舞い降りてくる。革を巻いた右腕を差し出し、慣れた仕草で種族の違う友を迎え入れると、シオンは羽のつけ根を撫でてやりながら穏やかに微笑した。
「お待たせ、アポロ。待たせてごめんね」
 親しみのこもったシオンの声に、アポロと呼ばれた若い鷹は鳴き声を上げながら羽を震わせた。人間の言葉に直すなら気にするな、といったところだろう。
 当然のように心を通わせる一人と一羽を見やり、黒髪の軍師は訳知り顔でうんうんと頷いてみせた。
「屋敷の中ならともかく、アポロを書庫に連れていくわけには行かないしねぇ。貴重な本がアポロの羽まみれになってたりしたら、書庫の管理人を自任している爺やが卒倒するかもしれないし」
 まあアポロは賢い子から平気だろうけど、となだめるように呟き、エディオはどことなく不満げな様子の鷹に紫の目を向けた。
 アポロは自らをシオンの護衛と認識しているらしく、建物の中に入っていけない時はこうして周囲を旋回し、友人が目の届く範囲に戻ってくるのを辛抱強く待っている。カティや第一位階の騎士にはよく懐いているが、知らない人間には射抜くような視線を向け、いつでも飛びかかれるように体勢を整えているほどだ。
 いつからこんなに過保護になったんだっけ、と苦笑まじりにささやき、シオンはアポロを乗せた右腕を左の肩に近づけた。意を汲んだアポロが肩に飛び乗り、何度か体勢を変えて据わりのいい位置に落ち着く。その様子をほほえましそうに見つめ、軽く声を上げて伸びをすると、エディオは一人と一羽を促してライザードの屋敷へと足を向けた。
「それじゃあ、頼もしい護衛殿も一緒にカイザーのところへ行くとしようか。これは希望的観測だけど、王子と姫がセレンお手製のお菓子を土産に持ってきてくれるかもしれないし。アポロだけをのけ者にしたらあまりにもかわいそうだからね」
「はい」
 師匠の物言いに小さく笑い、シオンはアポロを肩に乗せて広い庭園を歩き出した。再び清々しい匂いのする風が吹きぬけ、庭師によって整えられた色とりどりの花をそよがせていく。誘われるようにして見上げた空は青く、太陽の光をいっぱいに湛えてひどく綺麗に煌いていた。
「……今日も平和だね、アポロ」
 肩に乗った友に優しく語りかけ、シオンは師匠に置いていかれないように足を速めた。この平和がずっと続けばいいと、心の奥で痛いほどに願いながら。






    


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