4 崩壊の兆し



 

 夜の闇が両手を広げてのしかかり、世界から昼の名残を駆逐し始めると、建物のいたるところに灯(ひ)がともされ、不夜城スティルヴィーアの威容を暗がりの中に浮かび上がらせていく。
 熱を感じさせない光を受け、長い黒髪にさざなみにも似た輝きを散らしながら、セスティアルは皇宮の正面玄関の近くで足を止めた。その動きにあわせて紫のマントが空気をはらみ、武人の正装である黒の騎士服をふわりと撫でる。
「……おや」
 青みがかった銀の瞳を瞬かせ、セスティアルは正面玄関の傍に作られた待合室に視線を投げた。
 普通、皇帝ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアに目通りを願う者は待合室に通され、そこで従者と共に名前が呼ばれるのを待つ決まりになっていた。貴族としての位が高いほど待合室の質も上がり、もてなしのためにつけられる侍従や女官の数も増える。セスティアル自身は貴族階級の出ではないが、最高位の魔術師『レイター』の称号が効果を発揮し、謁見を申し込む際は限りなく個室に近い部屋に通されることが多かった。
 セスティアルが目をとめたのは、その中でも大貴族の当主専用になっている豪奢な個室だった。
 女官の一人がうやうやしく扉を開け、中でくつろいでいる貴族の若者に茶や菓子を差し出している。それだけならばよくある光景の一つだったが、カップを受け取っている貴族が親しい同僚であることに気づき、セスティアルは少しばかり考え込んでから待合室の扉に足を向けた。すべるような足取りで扉に近づき、開け放されたままになっているそれに手をかける。
「……カズイ。エレアライル。めずらしいですね、こんなところで」
 声をかけながら扉の中をのぞきこむと、女官に言葉をかけていた二人が弾かれたように顔をあげた。
「……セス?」
「セスティアル様っ!」
 目を丸くする茶髪の青年の横で、栗色の髪をした少女がぱっと顔を輝かせた。
 セスティアルと同じ第一位階の騎士であり、大貴族ヒューガ家の当主でもあるカズイ・レン・ヒューガと、数年前からその副官の地位につき、類稀な魔力と事務能力によって上司を支えているエレアライル・フィンローネ。セスティアルにとっても顔なじみである二人は、ごく自然な動作で立ち上がり、扉越しにのぞきこんでいる同僚の魔術師を室内に差し招いた。
 特に断る理由もなく、セスティアルはお邪魔します、と微笑して豪奢な待合室に足を踏み入れた。間近で見た美貌に仰天したのか、まだ若い女官が銀製の盆を両手で抱きしめ、何事かを呟きながら逃げるように退室していく。
 それを見やって小さく苦笑し、椅子を引いて座りなおすと、カズイは気安い動作で自分の向かいにある椅子を指し示した。真夏の空を思わせる瞳が笑みに細められる。
「お前も皇宮に来てたんだな。数時間前からここにいるってのに全然気づかなかった」
「今日は謁見を申し込みにきたわけではありませんからね。カズイたちこそ、こんなところでどうしたんですか?」
 失礼します、と断ってから椅子に腰かけ、不思議そうな表情で首を傾げるセスティアルに、カズイは貴族らしからぬ仕草でぐしゃりと髪をかき回した。
「俺たちは単なるあいさつだ。皇宮から舞踏会の招待状が届いたからそのお礼と、恒例の皇帝陛下に対するご機嫌伺い。……って言っても、こんだけ待たされるなら明日に回してもよかったな。他にもやることはたくさんあるってのに」
「カズイちゃん、そんなこと言わないの。舞踏会の衣装についてあれこれ言われるのが嫌で、これ幸いと皇宮に逃げ出してきたんだから」
「わざわざ言うな、そういうことを!」
「だってカズイちゃん、衣装合わせとか嫌いでしょ。着飾ればそこそこ格好いいのに。本当にそこそこ格好いいのに!」 
「そこそこってお前なっ!!」
 じゃれあいとしか思えない青年と少女の会話に、セスティアルはくすくすと上品な笑い声を響かせた。
「相変わらず仲がいいですね、二人とも。式を挙げる際はぜひ呼んで下さい。友人として心の底から祝福させていただきますから」
「え、そんなセスティアル様、式だなんて……」
「というか誰と誰が式げふっ!?」
 訝しげな顔で首をひねった瞬間、頬を染めたエレアの肘が鳩尾に叩き込まれ、カズイは世にも奇妙なうめき声を上げながら体を折った。ひどく情けない格好の上司にべー、と舌を出し、エレアは輝くような笑顔で美貌の魔術師に向き直る。
「それで、セスティアル様はどうなさったんですか? 団長はいらっしゃらないみたいですけど……」
「我が君はお屋敷でフィオラ様とシェラナ様とお会いになっていますよ。……私がここに来たのは、我が君と軍師殿に頼まれた『お使い』のためです」
「お使い?」
「ええ、お使い。根回し、と言った方が正しいかもしれませんが」
「……何かあったのか?」
 どこか悪戯めいたセスティアルの言葉に、よろよろと復活した騎士が形のよい眉をひそめた。その表情にあるのはどこまでも純粋な心配の色だ。ことあるごとに全力で蹴り飛ばされても、同僚たちから愛のあるいじめの対象にされても、カズイの根底にある忠誠心や友情は微塵も揺るがないらしい。
 友人の素直さを微笑ましく思いつつ、セスティアルは安心させるように首を左右に振ってみせた。
「今のところは何も。……ただ、これからの状況次第で『何か』が起こる可能性もないとは言えないでしょう? エダは考えつくすべての状況に対抗策を練っておきたいらしいので、そのためにいろいろと根回しをしてるんですよ。舞踏会の前にディジー・アレンの方にも出向くつもりです」
「……ディジー・アレンに出向くって、お前がか!?」
「って、自由都市のっ?」
 ぎょっとしたように声を張り上げたカズイと、淡い琥珀色の瞳を丸くしたエレアに、セスティアルは苦笑を浮かべながら細い指を口元に当てた。消音の結界が張ってあるとはいえ、スティルヴィーアにはセスティアルと同じ『レイター』の称号を持つ魔術師が二人もいる。いくら用心してもし過ぎるということはなかった。
「……悪い」
「いえ。いくらなんでも『盗み聞き』されたら気づきますから、そこまで声をひそめなくても大丈夫ですけど」
 銀青の瞳をやわらかく細め、セスティアルはテーブルの上に置かれた茶菓子に指を伸ばした。いただいてもいいですか、とささやくように問いかけ、頷きが返ったのを確認してから砂糖菓子を口に寄せる。
「ディジー・アレンに出向くと言っても、一人で戦をしかけに行くわけじゃありません。自由都市は戦士の都市です。いくら私でも一人では勝てませんしね」
「それくらいはわかってる。その辺は俺よりお前やエダの方がよっぽど上手く立ち回れる、ってこともな。……けど、あそこと帝国との仲は最悪だろ。はっきり言って」
 自由都市ディジー・アレンは、エルカベル帝国の中で唯一、帝都から派遣された総督によって治められていない自治都市だった。もともとは犯罪者や外縁大陸からの流れ者、主人のもとを脱走した奴隷などが一箇所に集まり、身を寄せ合うようにして生活する共同体に過ぎなかったが、今から七百年以上の昔の皇暦八〇〇〇年、前王朝を打倒したジェシス・ロウ・ジス・レヴァーテニアによって自治を認められ、以来特別に税を免除された場所として独自の地位を築くに至っている。
 詳しい記録は残っていないが、ディジー・アレンの前身だった傭兵団がジェシスに協力を誓い、前王朝コルトラーンを打ち破るにあたって多大なる功績を残したらしい。皇室の盟友とも言える存在だったディジー・アレンと、ジェシスによって樹立されたエルカベル帝国の間に亀裂が生まれたのは、第三十代皇帝グレイアの治世が半ばを過ぎたころだった。
 どれほど堅固な仕組みに支えられた王朝であろうと、三百年以上の時が流れればいたるところに綻びが目立つようになる。折りしも数十年ぶりと言われる大規模な飢饉に見舞われ、農民や奴隷による反乱が相次ぐようになったエルカベル帝国は、自治を守っていた自由都市にも税を課すことを決定した。その要求が突っぱねられ、帝国からの使者が手荒い歓迎によって追い払われて以来、ディジー・アレンとエルカベルの仲は急速に冷えていったという。
 そして皇暦八四二九年、地方都市連合が自由都市ディジー・アレンを盟主として担ぎ上げ、即位してまもない黎明帝シェルダートに反旗を翻したとき、両者の間に横たわる溝は修復不可能なほど決定的なものになった。
「確かに、自由都市と帝国が仲直りするのは時期的に見ても不可能でしょうね。ここ数年は大人しくしていたようですが、最近になってまた動きが目立つようになってきたと言いますし」
「のほほんとした顔で言うなよ。そこに帝国のレイターが出向いていく、なんていったら普通に大問題だぞ。お前にその気がなくたって問答無用で攻撃されるかもしれないだろうが」
「そうですよ、セスティアル様! 山下の街コーラリアでも、最近になってディジー・アレンの人間と揉め事が起こってるみたいですし……いくらセスティアル様でも危険すぎます」
 そろって渋面を作る二人に向き直り、月明かりのような双眸を小さくすがめると、セスティアルはなだめるように稀有な美貌をほころばせた。
「心配して下さるのは嬉しいですが、大丈夫ですよ、二人とも。何も正面から乗り込んでいって『帝国のレイターです、こんにちは』と名乗るわけじゃありません。……それに」
 そこで一度言葉を切り、セスティアルは誇らしげな表情で浮かべた笑みを深くした。
「私は帝国のレイターではなく、我が君のレイターですから。我が君の望まないことはしませんし、我が君が不利になるような失敗は犯しません。絶対に」
 ひどく静かなその言葉には、あらゆる不安も、心配も、危惧も、すべて包み込んで霧散させてしまう深い響きがあった。揺るがない笑みを目の当たりにし、カズイはすべてを諦めた表情で椅子の背もたれに体重をかける。華奢な作りの椅子がその勢いに耐えかねてギシリと軋んだ。
「……わかったよ。けど、無理はするなよ? お前は無茶はしなくても無理はするやつなんだから」
「肝に銘じておきます。私としても、今はまだディジー・アレンを刺激するつもりはありません。帝国と自由都市の仲が修復不可能なまでにこじれている、そこに私たちのつけこむ隙があるんですから」
「……」
 できるなら詳しい話を聞き出したかったのだろうが、カズイとエレアは沈黙を守ったままちらりと視線を見交わした。ここが皇宮の待合室であることと、セスティアルが外見に似合わず頑固であることを思い出したのだろう。
 やれやれと言わんばかりに嘆息し、置きっぱなしになっていたティーカップを取り上げると、カズイは真面目な表情で先ほどの言葉を繰り返した。くれぐれも無理はするなよ、と。
「大丈夫ですよ、カズイ。……でも、ありがとうございます」
 真情のこもった友人の言葉に、セスティアルが日差しのけむるような笑みを返した瞬間、待合室の扉を叩く控えめな音が空気を震わせた。次いでヴァルロに仕える侍従の声が響き、謁見の順番が回ってきたことをカズイたちに告げる。
「――――カズイ・レン・ヒューガ卿。エレアライル・フィンローネ殿。お待たせいたしましました。陛下がお会いになられます。『四聖玉の間』へお越し下さい」
「ああ、わかった。すぐに行く」
 エレアを促しながら立ち上がり、カズイは脇に置かれていた紫のマントに手を伸ばした。手慣れた動作でそれを羽織りつつ、同じく立ち上がって同僚に首を傾げてみせる。
「お前はもう帰るのか? もうその『お使い』は終わったんだろ」
「ええ。帰って我が君に報告しなくてはなりませんし、今日は朝から外出し通しでしたから。いい加減帰って休むことにします」
「そうか。悪かったな、引き止めちまったみたいで」
「いえ。二人と話ができて楽しかったですよ」
 和やかに会話する二人をよそに、エレアはカズイの手から銀製のブローチを奪い、ほら動かないの、と言いながら丁寧にマントを留めてやっている。微笑ましい様子に笑みを滲ませ、セスティアルは二人に軽く一礼してから踵を返した。
 燭台の明かりがゆらゆらと揺らめき、セスティアルの長い黒髪に星屑を思わせる煌きを散らす。風もないのに光が揺れ、豪奢な室内に濃く淡く影を投げかける様は、どこか音もなく忍び寄る崩壊の兆しにも似ていて。セスティアルはふっと息を吐き出し、透かし彫りのなされた扉の取っ手に手をかけた。






    


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