5 少年侍従の小さな受難





「1で男性が外側に、女性が内側に足を出して。2でそこを軸に体を反転させて。3で出していた足を元に戻して」
「……」
「視線を足元に落とさないように気をつけてね。なるべく相手役の女性と進行方向を見るように」
 柔らかな声音は耳に心地よかったが、指示されたとおりにステップを踏むだけで精一杯なシオンに、相手の言葉へ返答するだけの余裕は皆無だった。
 シオンと女性がくるくると回るたび、長いマントとドレスの裾が揺れ、光沢のある石づくりの床をすべっていく。その様子は溜息をさそうほど優雅だったが、先ほどから相手のドレスを踏んだらどうしよう、という意識に慄(おのの)いているシオンにとって、長く作られた薄絹の裾は恐怖の対象以外の何物でもなかった。
 シオンの内心を知ってか知らずか、女性は若葉色の瞳を優しく和ませ、必死な様子の少年侍従にふわりと微笑みかけた。
「疲れてしまったかしら、シオン? 大丈夫?」
「あ、いえ、大丈夫です! すみません、返事もせずに……」
「そう?」
 ふふ、と鈴の鳴るような笑い声を立てる貴婦人に、足を止めたシオンは思わず耳まで赤くなった。
 カイゼルがシオンの教師役に選んだのは、彼の事実上の妻であり、双子の母親でもあるセレニア・ルイス・シェインディアだった。大貴族であるシェインディア家の広間を貸し切り、他でもない女主人自らに手ほどきしてもらうという破格の待遇に、シオンは申し訳なさといたたまれなさを感じて頭を抱える。そもそも舞踏会に出られるような身分ですらないのに、と。
 ひたすら恐縮しているシオンを見やり、ひどく優美な仕草で首を傾げると、セレニアは薄い手袋に包まれた手を頬に当てた。
「シオンはいつまで経っても変わらないのね。カイザー様のもとに一年もいれば、誰でも多少はあの方の性格に感化されるでしょうに」
「え? あ、えと……」
「だって私もそうだったもの」
 カイザー様に会って変わったのは、と悪戯めいた表情で笑い、セレニアは広間の隅に視線を転じながら片手を振った。とたんに響いていた音楽が消え、広間に穏やかな静寂が舞い降りてくる。
 衣擦れの音すら際立つシンとした空気に、シオンは奇妙なまでの気恥ずかしさを感じて頬を染めた。今日のセレニアは、薄絹が体の線にそって流れ落ち、後ろに向かって大きく裾を引く形の、淡い緑色に染め上げられた室内用のドレスを着ている。肩にはおった蜘蛛の巣を思わせるショールと、同じ材質で作られた繊細な手袋とがあいまって、薄い色合いで統一された装いをさらに軽やかなものに見せていた。長い白金色の髪をゆったりした形に結い、花を模した翡翠の飾りを挿している様子を見て、セレニアが今年で二十六になると思う者はいないだろう。
 目のやり場に困るかも、という内心の呟きを押し殺しつつ、シオンは大分長くなった髪を揺らして首を傾げた。
「変わられた……んですか? シェインディア夫人が?」
「ええ。昔はもっと大人しくて、自分の意思がないような女だったの。カイザー様がお嫌いな人間の典型だったのかしら」
 ぎこちない態度で問いかけたシオンに、セレニアは指先を口元に当ててくすりと笑った。花がほころぶような笑みを受け、シオンは意味もなくどぎまぎしながら視線をさまよわせる。
「そんな風には見えませんが……」
「そうかしら。そう言ってもらえると嬉しいわ」
 ありがとう、と透きとおった声でささやき、セレニアはシオンを促して露台(バルコニー)に続く硝子戸へ足を向けた。
 ほっそりした手が戸を押し開くと、春のにおいを含んだ清々しい風が吹き込み、踊りの練習で汗ばんだ肌を控えめに撫でていった。かすかな風がほてった顔を冷やしていく感触に、シオンは安堵の息を吐き出して碧の瞳を和ませる。
 まだ春の足音が聞こえてきたばかりの時分だが、庭園のいたるところに小さな花が咲き零れ、シェインディア家の敷地内を優しい色合いで飾り立てていた。丸みを帯びた形に刈り込まれた木々にも、瀟洒なアーチにからみつく蔓薔薇にも、さりげなく配置された石のベンチにも、セレニアの人柄をうかがわせる柔らかな雰囲気がにじみ出ている。手すりの傍に歩み寄り、身を乗り出すようにして庭園を見下ろすシオンに、セレニアは包み込むような表情で瞳を細めた。
「シオン、舞踏会は初めて?」
「はい。カイゼル様に拾っていただいたのが去年の春ですし、その前は……そういう華やかな場とは縁のない生活でしたから」
「そう。それでは緊張してしまうわね」
 頬にかかった後れ毛を指先ではらい、シオンの横に並んだセレニアは整えられた庭園に視線を向けた。
「舞踏会はね、毎年春の初めに開催されるの。皇室と貴族の親睦を深めるためっていう理由があるそうだけど、今ではほとんど慣習化してしまっているわね。貴婦人たちのドレス発表会って言った方が正しいくらいに」
「はぁ……」
「カイザー様のところにも招待状が届いていたでしょう? 主だった貴族のところには必ず招待状が届くから、そういう人たちはたとえ軍人でも貴族の招待客として参加しなければならないの。当然、騎士団長のカイザー様も、軍師のエダも、レイターのセスティアル様も、他の第一位階の方々もね」
「あ、そう言えばそうですよね。でも、それだと当日の警備が手薄になるんじゃ……」
「ええ。当日に皇宮を警備するのは基本的に位階の低い騎士たちになるわ。もちろん、治安が維持されているうちは警戒しなければならない『外敵』なんて存在しないのだけど」
 そこで一度言葉を切り、セレニアは微笑とも苦笑ともつかないあいまいな表情を浮かべた。若葉色の瞳がどこか物憂げに伏せられる。
「最近は何かと物騒だから、少し心配なの。だからシオン、できるだけカイザー様の傍にいるようにしてね」
「え……」
「お願い、シオン。できる限りでいいの、カイザー様の傍から離れないでいて」
 必死な響きさえ感じさせるセレニアの言葉に、シオンはわずかなとまどいを感じて瞳を瞬かせた。セレニアの心配は不快なものではなかったが、だからといってすんなりと頷き、カイゼルの傍にいると約束するわけにはいかなかったからだ。
「それは……もちろん、僕はカイゼル様の身の回りのお世話をする侍従ですから、勝手にカイゼル様のお傍を離れたりはしないつもりです。でも、何か問題が起こった時、カイゼル様に迷惑をかけるようなことは……」
 セレニアの言うとおり、カイゼルの傍にいれば何が起こっても安全だろうが、シオンはあの強靭な主君の足手まといになるつもりはなかった。シオンの中の忠誠心は、いつだってカイゼルの手をわずらわせないことと、カイゼルの心を平安に保つことに重きを置いている。実行できているかどうかは別としても、シオンはできうる限りカイゼルの役に立つ存在でありたかった。
 まじめな表情で言い切ったシオンに、セレニアは虚をつかれた面持ちで若葉色の瞳を丸くした。やがてその瞳がやんわりと細められ、けむるような美貌が笑みを形作る。
「違うわ、シオン」
「え?」
「カイザー様に守ってもらえ、って言っているんじゃないの。私はね、シオンの手でカイザー様をお助けして、って頼んでいるのよ」
「え……は?」
 人間の常として、想像もしていなかった言葉を告げられると思考回路が職務を放棄してしまう。軍師にその才能を認められ、弟子として鍛えられているとは思えない無防備な様子に、セレニアは母性を感じさせる仕草で手を伸ばした。シオンの手に自分のそれを重ね、祈りを捧げるようにそっと握りしめる。
「カイザー様はシオンを頼みにしていらっしゃるわ。シオンがカイザー様の役に立とうと努力しているのを知っていて、それを誰よりも心強く思っていらっしゃるもの」
「……」
「カイザー様はね、シオンのことをあいつは使える、って言ってらっしゃったのよ。カイザー様にとって、それは他人に向ける最高の褒め言葉だわ。……だからお願い。カイザー様のお傍にいて、カイザー様をお助けしてね、シオン。それはきっと、貴方にしかできないことだから」
 セレニアの言葉を助けようとするように、広い庭園から肌に心地よい風が吹きぬけ、淡い白金と薄い茶色の髪を乱していった。
 体温が急激に上昇するのを感じつつ、シオンは風に巻き上げられた髪を指先ではらい、無礼にならない程度の恭しさで握られた方の手を引き抜いた。隠しようのない照れに頬を染めながら、恥ずかしさを凌駕する誇らしさに小さく笑みを浮かべる。
 自分でも現金なものだと思ったが、カイゼルやセレニアに少しでも頼られていると思うと、この場でだらしなく笑み崩れてしまいたいくらい嬉しかった。
「……もったいないお言葉です、シェインディア夫人」
 碧の瞳に強い光を湛え、シオンは姫君に忠誠を誓う騎士のように頭を垂れた。
「僕に何ができるかはわかりませんが、可能な限りご期待に添えるように努力いたします」
「ええ。……ええ、ありがとう。シオン」
 顔を上げたシオンの目に映ったのは、ぬぐいきれない不安を抱えているようにも、目の前に存在する希望を信じているように見える、不思議な透明感を滲ませた貴婦人の微笑だった。
 シオンが何かを言うより先に、セレニアは硝子戸の向こうへと視線を向け、先ほどと同じ動作で細い腕を一振りした。一瞬の半分ほどの間を置き、止まっていた音楽が再び存在を主張し始める。
 どことなく軽快でありながら優雅な曲は、シオンの感覚で言うところのワルツに近かった。鍵盤楽器や管楽器の音が高く低くからみあい、四分の三拍子で綴られる美しい舞曲を奏でていく。空気を揺らす音色に耳を傾け、満足げな様子で一つ頷くと、セレニアはドレスの裾を揺らしてきょとんとしているシオンに向き直った。
「……それじゃあ、休憩はこのくらいにして。練習を再開しましょうか」
「う……はい。よろしくお願いします」
 思わずうめき声を上げてしまった少年に笑いかけ、セレニアは薄い手袋に包まれた手をシオンに向けて差し出した。吹き過ぎていった柔らかい風に、セレニアのまとった白のショールが音もなく翻る。
 淡い色合いの双眸が少女めいた笑みを形作った。
「それでは改めて。大変でしょうけど、また一曲お相手して下さいましね。シオン・ミズセ?」
「喜んで。セレニア・ルイス・シェインディア夫人」
 教え込まれた礼儀作法を最大限に活かし、シオンはどこまでも丁寧に差し伸べられた手を取った。さりげなく外の風からかばう位置に立ち、主君の愛人である夫人を硝子戸から広間へといざなう。
 少年侍従の小さな受難は、どうやら舞踏会が閉会するまで終わらないようだった。






    


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