8 英雄たちの恋模様 1





 どこかほほえましい気分にひたりつつ、シオンはあらためて傍らに立つ双子に視線をむけた。
 深い紺色のマントをまとったフィオラは、父であるカイゼルとよく似たデザインの、ずっしりとした光沢のある黒繻子の上着に、銀線の入った細いズボンをあわせていた。その横にたたずむシェラナは、流れるようなラインの青いドレスに、ふんわりとした白い薄紗をかさね、結いあげた巻き髪にみずみずしい生花をさしている。一般的な男子同様、花の種類にはさしてくわしくないシオンだが、それでもその花の品種くらいは耳にしたことがあった。楽園の青、と呼ばれる貴婦人たちに人気の花だ。
 なんとも涼しげなドレスの青と、幾重にも重なる花びらの空色が、シェラナの瞳の色によく似合っていた。
「……お二人とも、よくお似合いです」
 万感の思いをこめてそう告げると、フィオラが口の端に笑みをのぼらせ、ありがとう、と気負いのない仕草で顎をひいた。母親のおもざしを色濃く受け継ぐ少年だが、落ちついた色合いの衣装ともあいまって、今は仕草のひとつひとつに父親の血を感じさせる。それとは対照的に、シェラナは白い頬を赤く染め、はにかんだように淡い微笑を浮かべてみせた。
「シオンもかっこいい。……ええと、父上様と同じくらい」
「えぇ!?」
 最大級、などという言葉では片づけられないシェラナの賛辞に、思わず素っ頓狂な声がもれた。だが、愛らしい少女の言葉が嬉しくないはずもなく、シオンは照れのにじんだ表情で笑みを返す。
「そんなことはないと思いますが、ありがとうございます。……その、嬉しいです」
「うん」
 えへへ、と互いにほほえみあう二人に視線をやり、フィオラが大人びた態度で肩をすくめた。やれやれ、という台詞が聞こえてきそうな様子だが、シオンにはその仕草の意味が今ひとつわからない。きょとんとした表情で首をかしげ、フィオラの方へと首をめぐらせた。
「フィオラ様?」
「ううん、なんでもない。それよりシオン、次の曲が始まるよ」
「え?」
「ほら、いいから早く。遠慮しないでいいよ。僕はここで待ってるから」
 とろけそうに柔らかいが、その実有無を言わさぬ笑顔を浮かべ、フィオラはシェラナの背を前に押しやった。そこでようやく、目の前の少年がなにを言わんとしているかさとり、シオンはうろたえたように碧の瞳をさまよわせる。
 だがそれも、頬を真っ赤に染め上げながら、きらきらした瞳でこちらを見ている少女に気づいたとたん、こんなところでうろたえている場合ではない、という奇妙な使命感にとってかわった。
 基本的に、シオンは主君の子であるふたりを心から大切に思っている。こんな表現は不敬にあたるかもしれないが、うちのかわいい小さなシェラナ様とフィオラ様、という意識が胸中から抜けきらないのだ。特に、ひたむきな好意をよせてくれるこの少女の願いなら、多少の無理をしてでもすべて叶えてやりたかった。
 片方の手を胸元に押しあて、流れるように丁寧な動作で腰を折る。そのままもう一方の手を差し出し、今浮かべられる精一杯の笑顔をシェラナに向けた。
「申し訳ございません。せっかくの舞踏会なんですし、最初にお誘いするべきでした」
「……」
「シェラナ様。よろしければ、僕と一曲踊ってはいただけませんか」
 その瞬間、シェラナの顔がぱっと輝いた。
 ひどく嬉しそうに目を細め、シオンの手に自分のそれを重ねる。まだ年若い少女らしく、色の白いほっそりした手だが、その皮膚はところどころ硬くなっていた。ごく普通の令嬢のものとは違う、剣をにぎって戦うことを知っている手だ。闘神と呼ばれる存在の娘にふさわしい手のひらだった。
 やや上目づかいにシオンを見上げ、シェラナはひどく恥ずかしそうに、だが幾分大人びた表情でうなずきを返した。
「私でよければ、よろこんで」
「ありがとうございす」
 その手を壊れ物をあつかうように包み込み、シオンは他の貴族たちに混ざって広間へと進み出た。
 『薔薇の間』を満たしているのは、先ほどの重厚で深みのある音楽とは異なる、音符のひとつひとつが跳ねまわるようなそれだった。主だった大貴族の当主たちが踊り終えた今、広間の中央にいるのは年の若い貴族の子弟や令嬢ばかりで、シオンやシェラナが混ざってもさほど違和感はない。侍従として身についた癖で、壁際に下がったカイゼルの姿を確認しつつ、シオンは音楽にあわせて静かに足を踏み出した。
 シェラナのまとう薄紗がひるがえり、一拍遅れてドレスの裾がするりと流れる。
 門閥家であるライザード、シェインディア両家の娘だけあって、シェラナの踊りは堂に入ったものだった。シオンのそばにぴたりと寄り添い、よどみない動きでステップを踏んでいく。それをリードしなければならないシオンも、セレニアがつきっきりで指導してくれたおかげで、本人が危惧していたよりはずいぶんとなめらかに動くことができた。
「シオン」
 くるり、くるりと軽快に回りながら、シェラナが内緒話をするようにささやいた。
「あのね、シオン」
「はい?」
「さそってくれてありがとね。シオンと踊れてうれしい」
 シェラナの好意の表現は直球だ。嬉しい、という思いを全身で表現しつつ、空色の瞳を細めて柔らかく笑う。それがなんともくすぐったく、シオンは目元を染めながら微笑した。
「光栄です。シェラナ様」
「シオンは、舞踏会に出るの嫌じゃなかった?」
「とんでもありません。こういう場ははじめてですし、もちろん緊張もしましたが……というか実は今も緊張してたりしますが、すごく貴重な体験をさせていただいたと思ってます。それに」
「それに?」
「シェラナ様と踊れて、僕も嬉しいですから」
 わずかな気恥ずかしさを感じつつ、自分の中の素直な気持ちをつたえると、シェラナは浮かべた笑みをさらに大きくした。音楽にあわせて足を運び、重ねた手のひらに力をこめながら、ありがとう、とてらいのない言葉を口にする。
「シオン、私ね」
「はい」
「シオンのこと、大好き」
 それはなんの含みも裏もない、純粋な思いだけで作られた言葉だった。
 まっすぐに向けられる輝くような笑顔に、シオンは虚をつかれた思いで目を見開いた。かげりのない空色の瞳の中、どこまでも優しい貴婦人の面影と、忠誠をささげた主君のそれを見出し、胸がつまるような表現しがたい感覚に襲われる。
 だが、それは決して不快なものではなく、シオンの胸の奥をやんわりとあたためてくれた。
「……ありがとうございます、シェラナ様」
 小さな声でそう告げれば、うん、とあどけない仕草でうなずき、シェラナはもう一度嬉しそうにほほえんだ。
 それがひどく嬉しかった。シェラナはいつだって揺るぎない好意をみせてくれるし、シオンもこの十を超えたばかりの主君の娘を大切に思っている。その思いはどちらも純粋で、ただ優しく幸せな気持ちをもたらしてくれる。
 今はまだ、その事実だけで十分だった。




 時おり嬉しそうに笑いながら、軽快な音楽に合わせて足を運ぶシオンとシェラナに、フィオラはくすぐったくてたまらない、といった風情で小さく笑った。
 フィオラはまだ十一になったばかりの少年だ。男女の繊細な感情の機微などわからないし、自分以外の誰かを全力で愛した経験もない。だからフィオラは、妹がシオンに抱いているものが恋愛感情なのか、正直なところよくわからなかった。それはシェラナ自身も同様だろう。
 今でこそカイゼルの愛人という立場におさまり、女主人としてシェインディア家を切り盛りしている母は、かつてはごく普通の貴族令嬢として、別の大貴族の当主に嫁ぐことが決まっていたという。あの優しく穏やかなセレニアに、さだめられていた多くのものを捨てさせ、当時から敵の多かったカイゼルの手をとらせたもの、それがおそらくは人に愛と呼ばれる感情だ。きれいなだけでも、幸せなだけでもない、時にはすべてを傷つける刃になるような、強すぎて制御することが難しい心の産物だ。
 シェラナの抱いているそれが恋愛感情だとすれば、いつか彼女も自分の心ゆえにどうしようもなく傷つき、晴れ渡った空のような笑顔をくもらせる時がくるかもしれない。妹を心から愛しているフィオラにとって、それはあまり歓迎できない可能性のひとつだったが、だからといってふたりを引き離したいとは微塵も思わなかった。
 フィオラはシオンが大好きだからだ。
 最初に抱いたのは、優しい人柄に対する親愛の情と、父の侍従という立場に対する好奇心だった。あの父が、一見すると弱々しい、ごく普通の少年を取り立て、侍従として傍に置くなど、真夏に降る大雪並みにありえない出来事だったからだ。大好きな父をとられた、という不満は感じなかったが、それでもカイゼルに信頼されている様子を目にし、ほんのわずかにうらやましいと思った。
 だがそれも、こちらに向けられる碧の瞳が本当に優しかったから、仕草のひとつひとつに隠しようのない好意を感じとれたから、シオンに対する反発へと育つことなくきれいに昇華されてしまった。
「……だからシオンが、僕の義弟になってくれたら嬉しいんだけどな」
 いつかなってくれるかなぁ、と子どもらしい口調でつぶやき、フィオラは踊り続ける主君の侍従と妹に視線をやった。
 最初こそ広間の隅でつつましく踊っていたふたりだが、いつの間にか流れるような動作で中央に移動し、それなりに周囲の注目を集めてしまっている。カイゼルやセレニアのような華はなくても、その立ち振る舞いから滲み出る空気には、ごく自然に見るものの視線をさらう不思議な力があった。
 ふふ、と嬉しそうな笑い声をもらし、フィオラは広間の一角に顔を向けた。
 その瞬間、無言でこちらを見つめている父の瞳と視線がかちあい、空色の両目が小さく見開かれる。
 腕を組んで悠然とたたずむカイゼルが、シオンとシェラナの方へ軽く顎をしゃくり、唇の端でごくわずかに微笑してみせた。これが見たかったんだろう、という父の声なき声が聞こえてくるようで、フィオラは感謝の言葉の代わりにぴょこんと頭を下げる。
 やはりフィオラは、父であるカイゼルが大好きだった。
 湧き上がってきたあたたかい思いをかみしめ、父の名に恥じないように背筋を伸ばす。優雅にステップを踏むふたりを見つめながら、今日は本当にいい日だと胸中で笑った。
 予感とも呼べない曖昧な部分で、じわりと不安を感じさせるなにかの正体に、この時はどうしても気づくことができなかった。




    


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