剣の騎士


 
 

 紫苑は軽く仰のき、頭上に広がる光景を視界におさめてみた。
 そこには青い空ではなく、木漏れ日がちらちらと揺れる緑の木々が広がり、限りなく優しく吹く風が梢の歌を奏でていた。遠くに聞こえる水音は噴水で、時折それに混じる高い響きは鳥の鳴き声、腰かけた下にあるのは柔らかな草の感触だ。まるでどこかの自然公園のようだが、紫苑は知っていた。
 ここが自然公園でも、豪邸の庭園でもなく、私立高校の敷地内であることを。
 私立月篠(しきしの)高等学校。都内の一等地に構えられ、豊かな自然環境と国内屈指の進学率を誇る、名門と誉れ高い伝統ある学校である。幼稚園から大学まで備えたいわゆるエスカレータ式だが、幼等部、小等部、中等部、高等部、大学という呼び方はされない。創立者の意向により、「一つ一つが付属であるという意識を持たせるのはよくない」ということで、それぞれが幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学という呼ばれ方をしていた。高等学校からの編入生である紫苑が、さしたる疎外感もなくこの学校に馴染めたのはそういう校風のためもあるだろう。
 その自然溢れる校庭に座り込みつつ、紫苑は頭上に固定していた視線を戻し、心から困惑したように碧の瞳をまたたかせた。
「……あの、ね?」
 その声には、表情に負けず劣らず困惑が込められていた。それも仕方がないことだと言えるだろう。今、座ったままの彼の周囲には人によって壁が作られ、真摯な瞳と熱意のこもった声に囲まれてしまっているのだから。
「お願いします、水瀬先輩!!」
「本当に頼みます。水瀬先輩にまで見捨てられたら、俺たちはこれからどうしたらいいっていうんですか!?」
「いやだから、あのね?」
 紫苑を取り囲んで拳を握り、あるいは悲壮な表情を作って熱意を訴えているのは、月篠高校の演劇部に在籍する面々だった。
 月篠の演劇部は、言ってしまえば弱小の一言に尽きる。設備は整い、舞台も広々として、他校の演劇部などはしきりに羨ましがるのだが、何故か部としての規模は一向に大きくならかった。あらゆる面でのエキスパートを養成することを目的とし、華道、茶道、習字、音楽、空手、弓道、柔道、さらにはフェンシングやアイススケートまで習うことのできる月篠では、逆に普通の部には人数が集まりにくくなるのかもしれない。
 だがどの部活でも、人数や規模の大小に関わらず、それこそ部の存続をかけて戦わなければならない日があった。
 年に一度の決戦の日。
 彩月祭(あやつきさい)と呼ばれる幼稚園から大学まで合同の祭り、ようするに全校総出の学園祭である。
 この日はそれぞれのクラス、または部活が数ヶ月前から準備していた出し物を披露し、祭りの終了時に客の投票によって順位を決めるのが慣わしだった。十位以内に入ったところには賞品が出るし、最下位にはそれ相応の罰ゲームが待っている。ちなみに、先年の最下位は何を隠そうこの演劇部で、一位を取った生徒会の意向によって「屋上からバンジージャンプ」を本気で決行させられたのである。
 その彩月祭が三ヵ月後に迫ったこの日、演劇部は起死回生をかけて希望の星を口説くことにしたのだ。
 それが、中学まで国際的にも有名な劇団に所属し、何度か大きな賞を取ったこともある、三年生の水瀬紫苑だった。
「お願いします、俺たちに力を貸して下さい!!」
「頼みますよ、紫苑さんっ!!」
「水瀬先輩! 愛してますからっ!!」
「……いや、愛してくれなくていいから」
 かなり本気で、紫苑は視線を逸らしつつぼそっと呟いた。これが可愛い女子生徒の集団ならともかく、どういうわけか皆たくましい体格の男子生徒なのだ。大部分が一、二年生であるのに、三年生の紫苑が小さく見えるほどである。昨年最下位を取ってしまったのは、女子部員がそれこそ一人もいないため、可憐なヒロイン役をも彼らが努めることになっただめだろう。
 紫苑が演劇部への手助けを躊躇っているのは、何も彼らがむさ苦しいから、ではない。
「あのね。僕も劇は好きだし、助けてあげたいのは山々なんだけど……」
「だけど!?」
「僕、今年は生徒会を手伝わなきゃならないんだよ」
 だからごめん、と申し訳なさそうに呟く紫苑に、男子生徒たちは絶望の表情を作った。
「生徒会……っ!!」
「くそっ、先を越されたっ……」
「ずりぃ、あんなに顔がいいんだから紫苑さんまで取らなくてもいいじゃないか!!」
 月篠高校生徒会。それは普通の高校のように、特別な行事の時だけ目立つ存在であったり、または予算決めなどで複数の部活から恨まれる存在であるわけではなかった。
 簡単に言ってしまえば、それは生徒の中の『王子たち』が所属している『城』である。つまり、全校生徒の輝けるアイドルだ。
 生徒会を取り仕切る生徒会長と副会長の双子の兄弟は、紫苑のクラスメートであり親友であった。その関係上、今年は帰宅部の紫苑は生徒会を手伝うことになっている。
(……でも確かに、生徒会は僕が手伝う必要はないんじゃないかな)
 そう紫苑は思い、小さく苦笑を誘われた。生徒会で目立っているのは会長と副会長のみだが、彼らには年子の兄弟が下に二人いる。非常に珍しいことに、三年生に長男と次男の双子、二年生と一年生にそれぞれ年子の三男と四男が在籍する、四人兄弟が紫苑の親友なのである。あの良くも悪くも目立ちすぎる四人は、紫苑が手伝うまでもなく生徒会を一位に導くだろう。
 そう思うと、このまま演劇部をすげなくふってしまうのは悪いような気がした。
「ええと、でも、僕にできることなら出来る限り手伝うよ? 演技指導とか、僕でよければだけど……」
「――――本当かっ!?」
 つい気の毒になって言ってしまってから、紫苑は微妙に後悔した。演劇部の部長である同年代の少年が、まさに紫苑の手を取らんばかりに迫ってきたのだ。それも目にきらきらと星を浮かべて。紫苑でなくとも顔が引きつろうというものだろう。
「諸君、今の言葉を聞いたか! 母を女優に持つ若き天才水瀬紫苑が、ここで俺たちに演技を見せてくれるそうだ!」
「……言ってないから、一言も!!」
 紫苑の悲痛な絶叫を完全に無視して、おぉっという歓喜の声がその場に爆発した。月篠生の特徴の一つとして、異常なまでのノリの良さ、というものが上げられる。上がりに上がったテンションの前では、良識派の正論など濁流の前の木の葉ほどの価値もない。今までの学校生活でそれを思い知っていたはずだが、まだまだ認識が甘かったようだ。
「はいはい諸君、リクエスト!」
「じゃあホメロスのイーリアス!!」
「アーサー王!」
「新撰組、新撰組!!」
 部長がパンパン、と勝手に手を叩きながらリクエストを募り、他の部員たちがこれまた勝手に主張し始めた。どれも殺陣の入った戦乱ものなのは、紫苑の華奢で貴公子然とした容姿にそぐわないからこそ、その差を見てみたいと思った故だろう。その中で部長が選んだのは、一年生の部員が慎ましく言った「剣の騎士」だった。
 これは一般的に存在する話ではなく、もう十年以上前に月篠の演劇部が作ったオリジナル劇である。
「……ということで、頼んだぞ、水瀬!!」
「岸野……」
 げんなりと部長の名を呼びながらも、紫苑は諦めたように草の上に立ち上がった。こうなってははぐらかすことは不可能であり、解放されるには早く要求を叶えてしまうに限る。軽くズボンに付着した草を払い、軽く碧の瞳を伏せて溜息をついた。
「わかったよ、もう」
 その口調は本当に仕方なさそうなものだったが、期待に満ちた少年たちの眼差しを受け、紫苑の表情もふわりと和らいだ。結局のところ、紫苑は周囲に対して甘いのであろう。
 パチパチパチ、という拍手の音を照れくさそうに聞きながら、紫苑は木漏れ日が円を描くように降り注ぐ草の上に進み出て、一つ息を吸い込んだ。
 次の瞬間には、もう紫苑の表情が変わっていた。
「――――王よ」
 部員たちは軽く目を見張った。響いた声が実に張りのある、普段の柔らかな声音からは想像も出来ないものだったからだ。
 紫苑はゆったりと不可視のマントを払う仕草をして、その場に静かに膝を折った。伏せられた瞳は玉座に坐す王を見つめていて、その手は腰に下げられた剣の柄に添えられている。そう錯覚できるほど、紫苑の動作は滑らかで自然だった。
「ああ、王よ。我らは貴方の剣。貴方の手。貴方の耳。貴方のために地を駆ける足」
 剣の騎士は、王を守る十三本の剣が擬人化し、王を狙う敵と戦う活劇だ。剣が人となった十三人の騎士たちは、王を命がけで守って一人一人倒れていき、ついにはたった一人になってしまう。紫苑が演じているのは、王が幼馴染の姫君から貰った短剣が人へ変わった、十三人の騎士の最後の一人である。
「貴方の傍にあったことは幸せ、何にも変え難い私の喜び。ああ王よ、我らが剣から人へと変わった理由、それはこの歓喜のためであったのでしょう」
 紫苑の声は朗々として、ただの演劇とは思えないだけの迫力と荘厳さがあった。真摯に上げられた湖水のような瞳は、月篠の緑に溢れた校庭ではなく、荒れ果てた王城の玉座を見据えているのだろう。
 弱虫と周囲から罵られていた王は、最後にその短剣の騎士だけを連れて敵陣に乗り込み、ついに自分を狙っていた他国の王を打ち倒すことに成功する。けれど短剣の騎士もついに力尽き、王へ別れを告げてからただの剣へと戻っていってしまうのだ。
「私は貴方をお守りするためにありました。そのためにならどんな苦難も甘受し、この命さえ投げ出せましょう。願い叶った今、私は何者よりも幸福にございますれば」
 この演劇が上演された時、話の筋はともかく台詞が古風で、高校で演じるにはやや面白みに欠けるとも言われていた。だが、紫苑の伸びやかで涼しげな声音で告げられると、垣間見える至上の忠誠心とも相まって、何よりこの場にふさわしい言葉として響いていくに聞こえる。部員たちはうっとりとしてその演技に見入った。
 紫苑の瞳、口調、言葉。そのすべてが、本当にここにはいない誰かに忠誠を捧げているようで。
 今にもこの場から消え去って、その誰かの元へ駆けていってしまうのではないか、と錯覚させるほどだった。
「我が王よ、どうか悲しまれますな。私はこの一瞬、まさにこの一瞬のために人へと変じたのです。……どうぞ、それだけはお忘れなく」
 永久に健やかにあられませ、と柔らかくささやき、紫苑は跪いたままゆっくりと頭を下げた。
 束の間、それが演技であることを忘れて見入っていた部員たちは、我に返ったように何度か瞳を瞬かせた。ほんの一瞬だけ、紫苑のほっそりした線を描く輪郭が薄れ、空気に溶け込んでしまうような幻覚に捕らわれたからだ。だが、紫苑の姿は変わらずその場にあり、それが単なる幻覚に過ぎないことを告げていた。
 再び紫苑が顔を上げた時には、漂っていた厳格な空気はあっさりと霧散し、いつも通りの優しく柔らかな表情がそこにあった。さら、と薄茶色の髪を揺らしながら、困惑美味に瞳を瞬かせて立ち上がる。
「……えっと、もっと? ここまででいいのかな?」
「…………最っ高だよ水瀬っ!!」
 一拍置いて轟いた叫び声に、紫苑はぎょっとして後ずさった。だがその手をガシッと掴んだ部長の岸野は、紫苑が後ずさった分だけ歩を詰めてすばやく追いすがる。他の部員たちも胸の前で手を組み、瞳をきらひらと輝かせながら紫苑を見つめていた。
 軽く失神したくなるような壮絶な光景だった。
「えっ……えぇえ?」
「本当に、水瀬は生まれてくる時代を間違えたと思うな。戦乱の時代にでも生まれてれば、今みたいに国王に忠誠を誓って参謀にでもなっただろうに!」
「すごいっすね、先輩!」
「紫苑さん、かっこいい!!」
 すさまじいまでのその賛辞に、紫苑は顔を軽く引きつらせながら苦笑を浮かべた。
「そんな……無理だよ。第一、僕みたいに軟弱なのが戦乱の世界で生きていけるわけないし」
 きっとすぐに死んじゃうよ、と冗談めかして呟きながら、だが紫苑は何かがおかしいような気がして眉を寄せた。
 何もおかしくはない。
 これが普通の、当たり前の日常だ。
 だが演技から現実の世界に立ち戻る時、常ならぬ違和感を覚えた気がしたのは何故だろうか。
「水瀬?」
「……ん、何でもないよ?」
 岸野の訝しげな声に首を振りながら、紫苑は軽く頭上に瞳を向けてみた。
 きらきらと輝く木漏れ日の、その中で。
 嬉しそうに低く笑う声が聞こえた気がしたのは、きっと幻聴だと自分に言い聞かせながら。


 この日。
 紫苑がただの高校生として生き、忠誠というものを演技の中でしか知らなかった日常の、最後の日。
 ただ降り注ぐ光だけが眩かった。










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