自分もやってみようか、と思ったのは、単なる気まぐれだった。




休日のやわらかな午後


 


 戦の事後処理から軍務省への報告、部下に対する指示などをすべて済ませ、セスティアルが第一位階の騎士としての激務から解放された時には、すでに遠征先から帰還して十日以上が経過していた。
 まとまった睡眠時間が取れるのはかなり嬉しかったが、主君たるカイゼルが今だ書類整理に腐心している現在、降って湧いた休暇を無条件に歓迎する気にはなれない。久しぶりに味わう手持ち無沙汰な感覚に苦笑し、セスティアルはライザード家の広い廊下を歩きながら大きく伸びをした。どこか子供っぽい仕草に合わせて、背の半ばまで伸ばされた黒髪がさらさらと肩を滑り落ちていく。それをかき上げる指先はすんなりと細く、騎士服に包まれた手足はしなやかに長く、昼の陽射しに透ける肌は深雪のように白い。今年で十九になったばかりの年若い魔術師は、うーん、と小さく呟いて首を傾げた。
「……仕事が終わると暇、っていうのも少し嫌ですね。だから若いのに枯れてるって言われるのかも」
 絶世の美少女にしか見えない面差しに苦笑を浮かべて、セスティアルはいつの間にか止まっていた歩みを再開した。厨房に行ってお茶でももらおうと思ったのだ。ついでにカイゼルへの差し入れも見繕ってもらおうか、と考え、頭の中に主君が好みそうな菓子類を並べていく。もっとも、甘味を好まないカイゼルが口にしてくれそうな菓子など、セスティアルの頭脳を持ってしても数個しか思いつかなかったが。
「――――すみません、お茶を一杯いただけませんか?」
 取り留めのない思考を持て余しつつ、セスティアルは小さな扉から厨房の中を覗き込んだ。家主であるカイゼルの食事や、客人に出すための料理を作る大きな厨房ではなく、使用人たちがお茶や菓子、軽いつまみなどを作るために使う小さな賄い所だ。そこへ突然現れた美貌の魔術師に、笑いさざめきながら手を動かしていた女官たちは声もなく凍りついた。まだ若い娘の手からするりと木のヘラが抜け、乾いた音を立てながら流しへ転がり落ちていく。その音の余韻が異様に尾を引く沈黙の中、セスティアルは困ったように微笑して後ろ手に扉を閉めた。
「あの」
「……はいぃっ!?」
 セスティアルの笑みを間近で見てしまった娘が、一瞬で頬を真っ赤に染めながら素っ頓狂な声を上げた。その語尾が裏返っていたのには気づかないふりをして、セスティアルは困惑気味に首をひねりながら女官たちに歩み寄った。
「何かを作っていたんですか? ……すみません、だとしたらお邪魔でしたね」
「いっ、いいえ! いいえっ!! そんなこと……っ!!」
 栗色の髪の娘が大きく首を振れば、年配の女官も力いっぱい頷いて言い添えた。
「邪魔なんてことありませんよ、ええありませんとも! ただちょっと、レイターみずからこんな場所にいらっしゃるとは思えなくて、ねぇっ?」
 女官の言葉に、周囲の娘たちもこくこくと首を縦に振った。大袈裟な反応に首を傾げながらも、セスティアルは青みがかった銀の瞳を細めて淡く微笑する。
「……そうですか? 何にせよ、お邪魔じゃなかったのならよかった。それで、何を作っていたんです?」
「あ、の、街の方でいいラグランがたくさん手に入ったんですっ!」
 先ほど木ベラを落としたそばかすのある少女が、頬を紅潮させながら薄紅の果実を指差した。青銀の眼差しをそちらに向けると、拳ほどの大きさの果実が籠の中につまれ、窓から差し込む薄日につやつやと柔らかい輝きを放っている。娘の言葉通り、瑞々しく良い香りのする果実だった。
「それで、せっかくだからこれを使ってケーキでも作ろうかとっ」
「あの、ご主人様や当直の騎士さま方でも食べられるような、甘みを抑えたものも作れるんですよ!」
「パイでも良かったんですけど、ちょっと苦めというか、大人っぽい味つけのケーキならご主人様も食べて下さるかと思いまして……っ」
 少女の言葉がきっかけとなったのか、女官たちは両手を胸の前で組み、滅多に近づくことの出来ない主君の腹心へにじり寄った。ケーキを作るために集まったのは、お目付け役の女官を除けばほとんどが若い娘ばかりなのだ。淑女のように振舞おうという思いよりも、間近でその美貌を鑑賞したいという欲求が勝ったようだった。
 その一つ一つに笑顔を向けながら、セスティアルは誰にも真似できない優雅な動作で手を伸ばし、籠に積まれた果実を一つ取り上げた。
「我が君でも食べて下さるようなケーキ作りですか。おもしろそうですね」
「あ、でしたらっ!!」
 セスティアルの言葉を受けて、栗色の髪の少女は何かを思いついたようにポンと手を打ち、ラグランを手に取った黒髪の魔術師を勢い込んで見上げた。
「セスティアル様もいっしょに作っていかれたらどうでしょう! あの、僭越ながらわたくしたちがお教えいたしますっ」
「……え」
「そうですよっ! いっしょに作っていきませんか、セスティアル様!! もう、急いで片づけなければならないお仕事は終わったんですよねっ?」
 木ベラを両手で握り締め、そばかすの浮いた顔の少女も大きく頷いた。思いがけず近くで接することのできた美貌の騎士を、こんなわずかな時間で逃がしてなるものか、という執念にも似た表情が女たちの顔を過ぎっていく。お目付け役である年配の女官だけは顔色を変え、「これ」とはしゃいでいる娘たちをたしなめたが、その程度の制止で盛り上がっている空気を霧散させることはできなかった。
「……あの、だめですか、セスティアル様っ?」
「…………そう、ですね」
 詰め寄ってくる女性たちにセスティアルが頷いたのは、ほとんど条件反射に近しい動作だった。本来なら、帝国最大の魔術師レイターであり、第一位階の騎士であり、カイゼルの腹心と見なされる武人のセスティアルが、厨房で女官と共に料理をすることなどありえない。セスティアルも身分ある男性の例に漏れず、武器以外の刃物を握ったことも、戦闘以外で火気を扱ったこともなかった。だからこの時、女官たちの勧めに従って自分もやってみようか、と思ってしまったのは、恐らく単なる気まぐれだったのだろう。
「それじゃあ、私にもケーキの作り方を教えて下さいますか?」
 穏やかなセスティアルの声に答えたのは、にぎやかに弾けた女官たちの歓声だった。




 コンコン、と一定の間隔で響いたノックの音に、カイゼルは書類へ落としていた視線を持ち上げた。
「セスか」
 木作りの扉一枚程度では、向こうに立つ人物の気配を完全にさえぎることはできない。慣れ親しんだ鮮やかな気配に薄く微笑し、署名し終えた書類を脇に押しのけながら「入れ」と許可を出す。
「失礼いたします、我が君」
 うやうやしい動作で扉を押し開け、黒髪の魔術師がするりと執務室の中に入り込んできた。いつも通りの騎士服姿ではなく、袖口をボタンで留める形になった白いシャツをまとい、背の半ばまである黒髪を首の後ろでくくって、右手に銀製の大きな盆を乗せている。一礼してから扉を閉めると、セスティアルは黒檀の執務机に歩み寄りながらにこりと笑みを浮かべた。
「少し休憩なさいませんか? 厨房の方でお茶と菓子をいただいてきたんですが」
「そうだな。急ぎの書類は今のでちょうど終わったところだ、休憩しても……」
 別にいいだろう、と続けようとして、カイゼルは目の前に置かれた銀製の盆に深青の瞳を落とし、何とも表現しがたい表情で沈黙した。
「先ほどお茶をもらおうと厨房へ行ったんですが、そこで女官たちが菓子を作っておりまして。教えてくれるというので、僭越ながら私が作らせていただきました。よろしければ召し上がって下さい、我が君」
 カイゼルの沈黙の意味をどう取ったのか、セスティアルは淡く微笑しながら陶器の皿を取り上げると、丁寧な動作で主君の前に差し出した。そのままティーポットに白い手を伸ばし、縁に蔦と葉の模様が描かれたカップに茶を注ぐ。コポコポ…というかすかな水音を聞きながら、カイゼルは深い青の双眸をすがめて眼前の皿を見下ろした。
「――――セス」
「はい?」
「『これ』は、お前が作ったのか」
「はい、僭越ながら」
「………」
 きつく眉を寄せたカイゼルの視線の先では、奇妙なほどに黒々とした物体が皿の上にわだかまっていた。
 扇形に見えなくもない『それ』からどろりと滴り、皿を侵食するように汚しているのはソースの類だろうか。黒に近い紫色のそれには何か赤いものがまぶされ、なぜか所々団子状にかたまり、ただでさえ毒々しい色合いをさらに奇怪なものに見せている。食物というより、軍馬の蹄で無残に潰された人間の頭部のようだ。間違っても口に入れ、咀嚼した後飲み込みたい物体ではない。
 カイゼルの洞察力と観察眼を持ってしても、それがいわゆる『ケーキ』であると認識することはできなかった。新しい種類の菓子なのか、と顔をしかめたまま、カイゼルはことさらゆっくりと横に置かれたフォークを手に取り、扇形になっているそれの先端部分をすくい取った。
 ぼたぼたとソースが滴り落ちるそれを持ち上げ、静かに口へと運ぶ。
 広々とした室内に、凍りついたような沈黙が降りた。
「…………――――セス」
「はい」
 まとめ損ねた後れ毛を片手で払って、セスティアルは優雅に首を傾けた。対するカイゼルは完全な無表情だ。あらゆる感情が抜け落ちたような面持ちのまま、ぎしぎしと音がしそうな動作で首をめぐらせ、隣に立った誰よりも忠実な魔術師を見上げる。聞く者が聞いたら戦慄するほど静かな声が、凍りついた室内の静寂を揺らしていった。
「セス。あえて聞くが、お前の主君は誰だ?」
「……はい? それはもちろん、我が君カイゼル・ジェスティ・ライザード様ですが」
「そうか。で、これはお前の遠回しな殺意表明か?」
「は?」
 セスティアルはきょとんと青銀色の瞳を見開いた。とぼけるわけでも、はぐらかそうとしているわけでもなく、ただ純粋にカイゼルが言っている意味がわからない、と言わんばかりの不思議そうな表情で。カイゼルはしばらく彫像のように動かなかったが、やがてどこかぎこちなくフォークを皿に戻すと、横に追いやられていた書類を一枚抜き取ってセスティアルに突きつけた。
「セス、これを侍従長のロイに渡して来い」
「はい? ……はい、我が君。今からですか?」
「ああ、今すぐだ」
 終始無表情な主君に訝しげな表情を閃かせたが、セスティアルは従順に書類を受け取って頭を下げた。ちらりとそれに視線を落とし、さらに不思議そうな表情で瞳を瞬かせる。今すぐ侍従長であるローインに渡さねばならないような、重大極まる書類には見えなかったからだ。だが、たとえ訝しく思ってもカイゼルの命令に否やがあるはずもなく、セスティアルは舞うような足取りで扉に向かって歩き出した。
「ああ、我が君。ケーキと茶器はどうしましょう?」
「――――そのままでいい」
「御意」
 完結な返答にふわりと笑みを返して、セスティアルは扉の前で静かに腰を折り、後ほどまた伺う旨を丁寧に告げてから扉を開いた。
 書類を大切そうに丸めて胸に抱えながら、そう言えば味の感想を聞くのを忘れていましたね、と暢気に呟いたセスティアルは、彼の去った室内で主君の取った行動を目にすることはなかった。それは幸いなことだっただろう。もしセスティアルが目撃していたら、愕然と目を見開いて治癒の魔術をかけようとしたに違いないからだ。
「…………これが、ケーキだと……?」
 顔を右手に埋め、もう一方の腕で机に突っ伏しそうになる上体を支えながら、カイゼルは低く呻くようにして呟いたのである。
「どこの世界に、こんな刺激臭と苦味と辛さを持ったケーキがあるんだ……」
 

 セスティアルが一体どんな方法でケーキを作ったのか、それを近くで見て知っているはずの女官たちは、その問いに対してただ青ざめて首を振るだけであったという。






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