とある侍従の異世界日記





 10月2日

 今日、仕事を終えてカイゼル様の元を辞し、部屋に帰ってくると、文机の上に懐かしい革鞄が置いてあった。多分掃除に入った女中さんが置いていったんだと思う。
 中から出てきたのは真新しいノートと筆記用具、こっちの世界では役に立たない電子辞書、中学生の時から使ってる定期入れだった。中でもノートが見つかったのはすごく嬉しい。シェラルフィールドでの勉強も楽しいけど、やっぱりノートの紙はすべすべしていてとても書きやすいし、シャーペンは芯さえ入っていればインクをつける必要もないんだから、こっちの世界の羊皮紙や羽ペンに慣れた身にはほとんど奇跡だ。
 ということで、今日から時間が許す限り日記をつけていきたいと思う。いつか元の世界に帰った時、「日本語が書けない!?」と叫んで愕然とすることがないように、こちらの世界では使う機会のない日本語で。



 10月3日

 今日はカイゼル様のお供でトランジスタに視察に行く。何だか幸先悪いような気がするけど、着いてからも色々と忙しくなりそうなので、今日の日記はこれだけで。

 

 10月4日

 日記を書こう、と決意した途端、それを見計らったようにすさまじい事件が起こった。これはつまり僕の運がいいということなんだろうか。詳しく考えると少しばかりへこみそうなので、自分はとてもすばらしい強運の持ち主なんだ、と思い込むことにする。「自己暗示じゃないか」という自分の内なる声には目をつむって。
 順を追って書くと、僕は昨日、カイゼル様のお供をしてトランジスタのジェリーレティアを訪れた。少し前に反乱を鎮圧したあの外壁都市だ。カズイ・レン・ヒューガ卿の後任として総督の地位につき、部下を率いてトランジスタの再建に取りかかっているのはグラウド・クロスファディ卿。見上げるほど大きな人だけど、「シオン坊」と気さくに話しかけてくれるいい人で、カイゼル様やセスティアル様からの信頼も厚い。
 視察の名目でグラウド卿のもとを訪れ、このジェリーレティアを『こちら側』の本拠地にするための相談をした後、カイゼル様と僕、それに護衛としてついてきた騎士の人たちは部屋で休むことになった。
「どうせ団長が休んで下さるのは明け方近くだろうけどな」
 とグラウド卿が笑っていたけど、確かにカイゼル様は中々早くお休みになってくれない。ワーカホリック、というわけじゃなく、仕事を辛いものとか大変なものとか思っていらっしゃらないみたいだ。さすが騎士団長にして大貴族の当主であるカイゼル様だと思う。
 でも、この日ばかりはお叱りを覚悟で「早くお休みになって下さい!」、もしくは「今日だけは寝ないでお仕事をなさって下さい!!」と進言するべきだった。あの情景を思い出すと今でもガクガクと膝が笑ってしまう。
 明け方近く、ベッドで丸まってうとうとしていた僕は、何かを叩きつけるようなすさまじい音で目を覚ました。僕はカイゼル様の侍従なので、主君の部屋に隣接した小部屋で寝ている。そのおかげで音の出所がすぐにわかった。カイゼル様のお部屋だ。
 それに気づいてからはもう無我夢中だった。ベッドから飛び起き、裸足に部屋履きをつっかけただけの姿で部屋を飛び出した。
「カイゼル様!!」
 時間帯も考えずに大声で叫び、必死でドアをノックしているのに返事が返らなかった。血の気が引く、というのはああいう状態を言うんだろう。気がつけば返事も待たずにドアを押し開け、無礼にも主君が眠っている寝室に無断で踏み込んでしまった。つまりはそれくらい動転していたのだ。
 そして僕は地獄を見た。
 今は比較的落ち着いているけど、あの時は真剣に卒倒するかと思った。
「………カイゼル、様?」
 そう呼びかけた僕を無視し、カイゼル様はひどく冷ややかな表情でうっすらと笑った。足元に『首のない人間の死体』がいくつも転がっている状況で、それでもなお冷然と笑っておられたカイゼル様はまさに闘神のようだった。あまりの格好よさに惚れ惚れしたのを覚えている。いや、現実逃避とかではなく。
 カイゼル様はまさに年中行事のようにお命を狙われているが、今回もそれの一種だったんだと思う。セスティアル様が同行していないのを幸いと取ったのか、お屋敷よりもバタバタしているジェリーレティアの方がやりやすいと思ったのか、刺客の集団が卑怯にもお休みになったカイゼル様を襲撃したらしい。神をも恐れぬ所業、いやボウフラほどの知性も持ち合わせていない愚行だ。カイゼル様に刃を向けるなんてゴキブリがその手に剣を携えて世界統一を目論むくらい無謀で笑い話にもならない愚の骨頂な………じゃなくて。
 えぇと、どうやらその刺客たちはあっけなくカイゼル様に返り討ちにされて、首が胴体とさよならするハメになったようだ。どこにも頭が転がっていなかったから、多分炎の魔術か何かで蒸発させておしまいになったんだと思う。今思い出しても正視に耐えない……というかとても正視できない状態だったけど、カイゼル様はその死体たちを見下ろしてひどく冷ややかに笑っておられた。
 そして微笑を口の端に湛えたまま、僕の主君はまるで厳かな託宣を下すように仰られたのだ。
「―――この塵屑が」
 そう、それはまさに神が下々の者に下す絶対の御言葉のようだった。
「ふざけるなよ、存在価値のない矮小な屑が。テメエらごときゴミが俺の部屋に上がりこむ資格を有してるとでもぬかすつもりか? その腐った内臓をゆっくりと削り取って蛆虫と豚の餌にしてやろうか? あ?」
 ………カイゼル様、常に悠然としていらっしゃる口調が信じられないくらい激しく乱れ遊ばしておられます!! という内心の絶叫も空しく、僕はカイゼル様が死体を足蹴にしてグシャ、と踏み潰すのを黙ってみているしかなかった。あの瞬間、僕という一個人は涙が出るほど無力だった。本当に視界が滲んだんだけど。
 どうやら、カイゼル様は意外なことにひどく寝起きが悪いらしい。いつも朝のお茶を届けにいく時には起きておられて、自分で支度まですませてしまっているから気づかなかったけど、眠っている段階で誰かに叩き起こされたりすると大魔王が降臨なさるようだ。つまり自然起床以外は駄目だということだろう。
 その後、カイゼル様は非情に忌々しそうな表情で舌打ちなさり、「ゴミの血ごときで部屋履きが汚れちまっただろうが」と吐き捨てていらっしゃった。ついうっかり世を儚みたくなったが、ここで立ちすくんでいるようではカイゼル様の侍従は務まらない。
 急いでお着替えの準備をし、カイゼル様が身を清めるために湯浴みをなさるのを手伝ったのだった。



 10月5日

 今日はジェリーレティアからエリダに帰る日だ。
 死体はあの後すぐに騎士たちによって運び出され、魔術によって『処理』されたらしい。本当に削り出して蛆虫と豚の餌にしたわけじゃない、と信じたい。……本当に餌になってたら豚がかわいそうだと思う。結構切実に。
 昨日の騒ぎを知ったグラウド卿は、警備の不手際をカイゼル様に詫びた後、背後に控えていた僕の肩をポン、と叩いてくれた。
「大変だったろ、シオン坊」
 という言葉がすごく胸に染みた。やっぱりグラウド卿はいい人だ。
 カイゼル様はというと、どこまでも平然とした表情で部下の騎士たちに指示を与えていらっしゃった。昨日の凄絶な表情が嘘のようだが、よく見ればどことなく騎士たちの腰が引けている。きっと無残にひしゃげた死体の『処理』を任された人たちだろう。
 実は僕も人のことを言えないほど怯えていたけど、カイゼル様がこちらを向いて「シオン」と呼んで下さった瞬間、恐怖や狼狽は遥か彼方にすっ飛んでいってしまった。ただカイゼル様に呼ばれたことが嬉しいのだから、グラウド卿に「犬みたいだな」と言われるのも仕方がないことなのかもしれない。
 何はともあれ、これから馬で帝都エリダに帰還する。カティやセスティアル様、シェインディア家のシェラナ様やフィオラ様に会えるのはすごく嬉しい。もうあそこが僕の『帰る場所』になりつつあるんだと思う。



 10月6日

 さすがにたった二泊の視察は辛かった。僕の乗馬技術に問題があるせいだろうけど、行き帰りだけで「これ以上仕事が出来ない」と思うくらいに疲れてしまう。
 それでも置き去りにされなかったということは、カイゼル様がわざわざ僕に合わせてスピードをゆるめて下さった、ということだろう。やっぱりカイゼル様には感謝してもし切れない。少しずつでいいから馬術も練習していきたいと思う。
 今日はすごく疲れたので、今後の決意表明だけで。



 10月11日

 特に何事もない毎日が続いたので、気がつけば少し間が空いてしまった。
 日記そのものはまだ一週間分も書いていないけど、僕としてはもう十分すぎるほどすごいことを記録してる気がする。これを元の世界の友人に見せたらどんな反応をするだろう。……きっと可哀想な人を見る目で見つめられ、精神科の病院に行くように勧められると思う。
 今日も今日とてすごい事件があった。いや、事件というのは正しくないかもしれない。僕はただ賄い所にお邪魔し、そこで偶然顔を合わせたセスティアル様と一緒に軽食を作っただけなのだから。
「セスティアル様が料理をなさるんですか?」
 と聞いた僕に対し、セスティアル様はびっくりするほど綺麗に笑いながら答えて下さった。
「以前女官たちに教わって菓子を作ったことがあるんですよ」
「お菓子ですか?」
「ええ。それが意外と面白くて。シオンは料理をするんですか?」
 思えば、あの時頷いてしまったのが悪夢の始まりだったのかもしれない。
「それじゃあ何か軽いものでも作りますか? ちょうど仕事が一段落ついたので、シオンさえ嫌じゃなければ一緒に」
 ……その誘いがとてもとても嬉しかったから、僕は何のためらいもなく頷いてしまったのだ。それが何を示すのかも知らずに。
「じゃあ『ヴィスチェ』でも作りましょうか」
 そう言ってセスティアル様は準備に取りかかった。
 ヴィスチェというのは、人参や玉ねぎ、丸芋をみじん切りにし、細かく刻んだ肉を加え、軽く炒めた後ミルクと和えるだけの簡単な料理だ。僕もこっちの世界に来てから作ったことがある。
 だから初め、僕はセスティアル様が何をしているのかわからなかった。
 後で知ったのだけど、セスティアル様の中に『みじん切り』という概念は存在しないらしい。挽いたのと大差ないほど細かくなっている以上、刃物ではなく別の道具を使って刻んだのだと思ったそうだ。
 つまり、セスティアル様は野菜と肉を重ね、何の躊躇もなくそれをすり潰し始めたのだ。すり鉢も使わず、擂り粉木(すりこぎ)だけを使って問答無用にごりごりと。
 唖然として声も出ない僕を尻目に、セスティアル様はすでに原型を留めていない『かつては野菜と肉だったもの』を取り上げ、いっそ豪快な手つきで鍋の中に放り込んだ。そしてドバドバと塩、醤油に似た調味料、胡椒などをぶち込み、火にかけて丹念にかき回していく。やはり後で聞いてみると、「しょっぱい系の味だからどれも同じじゃないんですか?」いう不思議そうな答えが返ってきた。なぜあの時「違います!」と叫べなかったのか、僕は今でも自分の無力が悔しくて仕方ない。
「どれくらいしたらミルクを加えればいいんでしょうね?」
 というセスティアル様の声で我に返った時、すでに鍋の中身はワンダーランドだった。強火すぎて醤油と水の混合液が蒸発してしまったらしく、鍋の底に奇妙な色合いの『元野菜・元肉』の塊が鎮座している。いや、こびりついている。それをガシガシと木ベラでこそげ取り、「水分がなくなったからそろそろでしょうか」という呟きと漏らしてミルクを流しこむと、セスティアル様は優雅に首をかしげて仰られた。
「何だか色合いがよくありませんよね」
「………え」
「こう、前に見た時はもう少し白っぽくて綺麗な色の料理だったんですが。なんで茶色くなっちゃうんでしょう?」
 それは貴方が何のためらいもなく醤油みたいな調味料をぶち込んだからです、とは言えなかった。醤油云々を論じる前に根本的なところが間違っている気がしたからだ。
 セスティアル様は微妙な色合いが気になったのか、その中にチーズの塊やヨーグルトらしきもの、さらには傍に置いてあった白胡麻などを容赦なく投入し始めた。恐らく『白っぽいもの』というだけでターゲットになったのだろう。彼らだって好きで白っぽく生まれてきたわけじゃないはずなのに。
 ここまでくると「食材に何か恨みでもあるんだろうか」と不安になってくるが、セスティアル様の表情は至極まともだった。料理とはこういうものだ、と心の底から信じていらっしゃるらしく、ボコンボコンと不穏な音を立てている鍋を見下ろし、どこまでも満足そうな表情で僕に微笑みかけて下さった。
「仕上げに入れる香草はこれ全部でいいと思いますか、シオン?」
 ……申し訳ありません、何も答えられなかった無力な僕を許して下さい。
 その後、セスティアル様は完成した『ヴィスチェ』をカイゼル様にも食べていただこうと仰ったんだけど、「お願いですからそれだけは!!」という僕の涙ながらの説得がきいたのか、不思議そうに首をかしげながらもお裾わけは断念して下さった。カイゼル様、こんな僕でも少しはお役に立てたでしょうか。
 僕はというと、使用人の誰かがカイゼル様に知らせて下さったらしく、恐怖のヴィスチェを食べる前に執務室へ避難することができた。さらにセスティアル様にも「食べるな」という命令が下ったらしい。……カイゼル様だって、何よりの腹心であるセスティアル様をこんな形で失いたくはないだろう。とてもすばらしいご命令だったと思う。
 結局、僕はヴィスチェの行く末を確かめることはできなかったけど、翌日、第一位階の騎士であるカズイ・レン・ヒューガ卿が病に倒れたという噂を聞いた。
 ……この件とは無関係の病であると僕は信じてる。









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